落語・講談・浪曲 日本演芸なんでもござれ

自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

【Day5】慶安太平記 神田松之丞 2019年1月14日

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男は、両手を組んで頭を垂れている。 

 

現実の風景

開演前、私はロビーで待つ人々の表情を眺めていた。エレベータの扉が開き、流れ込むように人々があうるすぽっとのロビーへとやってきた。そして、壁に並べられた一人の講談師の写真を撮影している。ロビーの脇に置かれたテーブルを挟んで、静かに語り合う人々の姿がある。窓際では、ぼんやりと窓の向こうの景色を眺めたり、スマートフォンを操作する人々がいる。

これまでの四日間、慶安太平記を聴き続けた人々は、どんな思いで今日という日を迎えたのだろう。そして、最後の一日に臨む人の顔をどうしても想像できなかった私は、単純な興味から、会場にいる人々の顔を目を合わせないようにして眺めていた。

様々な表情がそこにはあった。年齢も様々だった。講談師の写真を見つけるなり、「撮っておかなければ」という使命感に突き動かされた表情、今日で終わってしまうのか、という寂しそうな表情、友人と楽しく話しながら券を切ってもらう人の表情、とても真剣な表情で、「今見ているものは、とても凄いものなんだ」と信じて疑わない表情、母親に手を引かれ、純粋な眼で「松之丞って凄いね」と微笑む表情、「パパも連れてくれば良かったね」と子供に向かって微笑む表情、一人の講談師をずっと見てきた人の「ここまで来たんだね」という成長を喜ぶ表情、一体どんな最後が待っているのだろうという期待の表情、静かに心の奥底に物語を留めようとして瞳を閉じ、これまでの物語を反芻するかのような表情、なんだか有名な講談師らしいね、そうね、その名の通りね、と語り合う男女の表情。

 

そうか、神田松之丞は、この人達の全ての目と表情を見ているんだ。

 

五日間、同じ場所で、同じ時刻に、同じ席に座り、一人の男に纏わる話を、一人の講談師から聞く。そして、物語の世界に誘われて、それぞれに何かを見て、何かを得て、現実へと戻っていく。

その場でしか語られないこと、その場にしかないものが確実に存在していた。300人近い客と、一人の講談師と、それを支える大勢のスタッフ。全てが【慶安太平記】という物語を軸に回っていたのだ。

私は、ロビーにいた人々の表情を見ることが出来て、とても幸せだった。想像できなかったことを目にすることが出来て良かった。そして、その表情の全てが【神田松之丞という講談師】を愛する表情だったことが、何よりも嬉しかった。物販に並ぶ人の声が聞こえ「これでもう三冊目なんですよ」と言いながら、Pen+を買う人の姿も見たし、恐らくPen+の人なのだろう男性の、嬉しそうな「ありがとうございます」という表情も見た。

あの日、あの場所で、誰もが素敵な表情をしていた。語り合う者もいれば、噛み締めるように最後の日を迎えた者もいた。どんなに生活や境遇が違っていたとしても、一人の講談師を見るぞ、という気持ちは同じだった。

そして、それほどまでに人々を魅了する神田松之丞という講談師を羨ましく思った。こんなに様々な表情を、自らの芸で魅了していることの素晴らしさ。きっと、神田松之丞自身も想像していなかったに違いない。否、それは分からない。もしかしたら、想像していたのかも知れない。自らの講談で、人々を魅了する今を、本当は我々が魅了されるずっと前から、想像し続けていたのかも知れない。

とするならば、今、その想像は現実のものとなったのだ。大きな大きな神田松之丞の野望は達成されたのだ。では、今宵はどんな物語が語られるのか。慶安太平記を四日間聞き続けてきた者達は、由井正雪の野望の最後を今宵、目撃することになる。同時に、神田松之丞の未来を、目撃することになるのだ。

 

第十六話『丸橋と伊豆守』

丸橋忠弥の浅はかさと、松平伊豆守(知恵伊豆)の思慮深さの対比を、語りのリズムと声色で松之丞は表現していた。丸橋の愚かさの表現にコミカルさは無く、不意の油断を突かれて狼狽する人間らしい姿を感じた。同時に、ほんの些細な変化、違和感を見逃さない知恵伊豆の視線が、ゆっくりとした語りと相まって知性のある人物であることを物語っていた。

策略が露見すれば、全てが台無しになるという緊張感が物語全体に張り詰めていた。それは連続読みによって、正雪がこの第十六話まで、どのような行動をしてきたかを誰もが知っているからだと思った。丸橋と知恵伊豆との対面の場面では、まるで丸橋になったかのような緊張感を私は抱いた。

日常生活においても、何か良からぬことを考えている者の姿は表情や行動に出やすい。私にも身に覚えがある。弟に黙って冷蔵庫のアイスを食べた後、弟から「兄さん、僕のアイスを食べなかった?」と聞かれた時、私は「パピコ食べてないよ」と思わず言ってしまった経験がある。泣く泣く弟にハーゲンダッツを買うことになった。

私が正雪の仲間だったら、すぐに策略は露見するだろう。無論、仲間にすら入れてもらえないと思うが。

知恵伊豆からの問い詰めを何とかやり過ごした丸橋が、緊張の糸が解れたのか、妻に幕府転覆の策略をべらべらと話す場面には、ふつふつと丸橋に対して怒りが湧いてきたし、「なんでこんな奴を仲間になんかするんだ!」と正雪に対して思った。丸橋の妻は良く出来た妻で、昔の話を引き合いに出して丸橋を咎める。この場面における丸橋の愚か者ぶりには、これまでの連続読みも相まって、殆ど怒りしか感じなかった。正雪が予見した通り、幕府転覆という野望が崩れるとすれば、まず丸橋からであろうということが、説得力を持って理解できる。そんな丸橋の愚かさと、周囲の人間の思慮深さの対比が見事な一席だった。

 

第十七話『奥村八郎右衛門の裏切り』

連続読みの醍醐味、ここに極まれりというような、連続読みだからこそ、強烈な印象を放つ一席だと私は思った。なぜなら、この話で正雪の野望の全てが露見するからである。

冒頭は落語の『笠碁』のようだと思った。丸橋と奥村が囲碁をし、丸橋は「待ったなしでやろう!」と言うのだが、最終的に「待った!」と言いだして、奥村と口論になる。そこからは落語のようにはいかず、丸橋が奥村の額を傷つけ、柴田だったと思うのだが、仲裁に入る。この時も丸橋の愚かさが際立っていたが、何よりも奥村の怒りの感情が見事で、尊厳を傷つけられた武士の怒りを、松之丞は表情と声で見事に表現していた。その怒りを抑え込む様子などが非常に現実味があり、顔を傷つけられるということが、どれほど恥であるかを松之丞は声と、語りで表現していたように思う。

そして、奥村が抑え込んだ怒りが、後半、見事な伏線となって爆発する。

幕府転覆の前夜、家族に別れを告げようか迷う奥村。家の前まで来て帰ろうとするところで、女中に呼び止められて、するすると中に入ってしまう場面があったと思うのだが、その場面に「いよいよか・・・」と胸がとても苦しくなった。

これまでずっと隠され続けてきた野望が、どの瞬間に露見するのか、得も言われぬ緊張感が漂い始める。ゆっくりと、じっくりと、松之丞の語りは、その炎の火力を徐々に徐々に強めて行くかのようだった。

額の傷を見つけた奥村の父の動揺。ぐっと怒りを堪えていた奥村が「転んだだけです」というような誤魔化しをするのだが、奥村の父がその言葉を信じず、奥村の兄を呼びつけ、奥村の兄も奥村を信じない。このヒリつくような言葉の交差。思わず心の中で「言うな、言うな」と呟くのだが、次第に事はヒートアップし、奥村は縄で縛りつけられる。奥村を見つめる奥村の父と兄の表情が、胸に苦しい。家族という関係性の中で、自らの大きな野望を言うまいとする奥村と、額に傷を付けられ、武士の尊厳を踏みにじられた我が子を思う父と、弟を思う兄の気持ちがぶつかり合う。段々と声のトーンも力を増していく。この辺りの語りの抑揚の凄まじさに、ドクドクと心臓の鼓動が早まって行くのを私は感じた。

そして、奥村は遂に感情を爆発させる。「大事の前の小事なのです!」というようなことを言った時の、「ああ、遂に言ってしまったか・・・」という衝撃が、胸にずしりとのしかかってきた。奥村の言葉に戸惑う父と兄の表情。そして、そこから全てを話す奥村の「どうしていいのか分からない」というような、戸惑いの語り、家族の前で野望を隠していた罪悪感、混乱と悲しみの表情を浮かべながら語る奥村の姿に、私は「仕方がないのかも知れない」と思った。それほどに、家族の関係性というものは、お互いに隠し事の無い関係だったのかも知れないと思ったからだ。

まるで、積み上げてきた城が一瞬で音を立てずに崩れて行くかのように、奥村の言葉以降は、全てが知恵伊豆に知れ渡ることとなる。大きな失望と同時に、奥村を攻め切れない家族との関係性に胸が詰まる。神の前で唯一恥の無いものは、人の心の真なのかも知れないと思った一席だった。

 

 第十八話『正雪の最期』

大きな失望と、奥村が野望を吐露した場面の後で、待っているのは正雪の最期である。実の師を他人に殺害させ、殺めた他人を殺害した正雪。丸橋忠弥に出会い、秦式部に出会い、戸村丹三郎に出会い、伝達、佐原重兵衛、牧野兵庫、柴田三郎兵衛、加藤市右衛門に出会った正雪。その正雪が、資金集めのために鉄誠道人。全ての野望は、最初に出会った丸橋に端を発して瓦解していく。

正雪は、こうなることすらも見据えていたのではないか。と思うほどに、最期はジタバタと暴れ狂うことなく、ただ静かに自らの立場を理解し、運命を理解したかのように文字をしたため、自害する。この潔さの中に、正雪の言いようの無い魂の意志が込められているように思ったのだ。

あと一歩というところまで来て、全てが無に帰す悲しみがどれほどのものか、私は想像することしか出来ない。岡潔の言葉を借りるとすれば、「ケアレス・ミスの無い論文に、たまに一つミスがあれば、それは致命的な欠陥となって、全てが思い違いをしているかのような気にすらなる」というものがあるが、正雪はこのミスを最初から見抜きながら、行動をしていたのではないかと思うのだ。

それは、丸橋に出会った時から薄々と感じており、柴田と加藤を仲間にした辺りで徐々に形を成し始め、鉄誠道人を金の為に殺害した辺りで、正雪は「自らの野望は果たされない」と心のどこかで確信したのではないか、と私は想像する。その後の伊豆守の暗殺失敗も含めて、先行きに立ち込めた暗雲を、正雪は見ていたのだと思う。

どれだけの才能や力があっても、それだけでは未知を見ることは出来ない。だが、正雪は自らの行動を眼前に捉えながら、その未知を一瞬、見てしまったのではないかと思うのである。それは正雪の心に残った唯一の良心が、「この野望は果たされない」と正雪に思わせたのだと私は思ってしまうのだ。

『第十四話 鉄誠道人』と『第十五話 旗揚げ前夜』までの間で、私は正雪に何かしらの心の変化があったのではないかと想像するのだ。『第十五話 旗揚げ前夜』以降、第十八話まで正雪は登場しないが、鉄誠道人を殺した事に対して、正雪は何の罪悪感も抱かなかったのだろうか。私は抱いたと思うのだ。あまりにも残忍過ぎる自分の行いを、正雪の中のもう一人の自分が咎めた瞬間があったのではないか、と想像するのである。

それは、決して物語として語られることはない。だが、心のどこかで正雪は「あの時、鉄誠道人を殺めたことは間違いだった」と悔い改めたのではないか。むしろ、私はそんな風に思っていて欲しいという願望がある。正雪の心の変化があったからこそ、最期は潔く自害したのではないかと思うのだ。本当に残忍な人間であれば、血の一滴すら尽きるまで戦っていただろうと私は思うのである。

さて、随分と野暮なことを書いてしまったが、由井正雪の最期は、静かな鮮血と、次々と落ちていく頭と、狂わんばかりに刀を振り上げ、振り下ろす坊主の姿が強烈に印象に残った。まるで、北野武の映画を見ているかのようだった。行動は派手に見えるが、そこに漂う透き通るような静寂を私は感じた。言葉で言い表すことは難しい。凄惨ともスプラッターとも違う。静寂の生々しさというべきか、死の無音というべきか。最期を迎えた正雪一行の死は、あまりにも潔く、清らかにさえ思えた。

正雪の最後の言葉は、聞いた者の心に深く刻み込まれている。「良き夢であった」というようなことを聞くと、夢に生き、その夢のために、あらゆる知恵を発揮した正雪という男の、言いようのない表情が見えた。その表情は、これまで一度も見たことが無いほどに、澄んでいるように思えた。

 

第十九話『一味の最期』

松平伊豆守の面前で、酷い仕打ちを受ける正雪一味の姿が描かれる。正雪の一味だけではなく、その家族にまで拷問が行われることの惨たらしさ。幼い子ですらも苦しめられる場面には胸が苦しくなる。そこへ自首のためにやってきた佐原重兵衛が伊豆守に放つ言葉には、『正義もまた悪なり、悪もまた正義なり』というような、人間の心の在り方を問うような強い意志が感じられた。

由井正雪という一人の男に魅せられ、その野望に加わった一味達が傷つけられる場面。そして、その思いの強さをひしひしと感じる前半から、最後は磔にされた丸橋忠弥の面前で、首を切って自害する柴田三郎兵衛、そして槍で突かれ絶命する加藤市郎右衛門が後半に描かれる。第十二話・第十三話で描かれた三人の関係性が、痛烈に胸に響いてくる場面だ。野望崩壊のきっかけを作った丸橋であるが、この場面で彼に対する怒りは消え、むしろ人間らしい姿に胸を打たれた。

いかに当時の浪人達が幕府に不満を抱えていたのか、その不満を行動へと移す代表であった由井正雪。何か大きなことが企てられる時には、それ相応の理由があるのだということが分かった。そして、どうすれば由井正雪の臨む未来は誰も傷つけることなく訪れたのだろう。全ては起こった出来事から推測することしか出来ないが、当時は由井正雪の行動こそが、唯一の手段だったのかも知れない。

全てが綺麗さっぱりと片づけられる。そして、由井正雪とその一味の最後の死が、幕府を突き動かしたのだと、松之丞は語る。くしくも、正雪とその一味の死によって、幕府は正雪が思い描いた未来へと進んでいくのである。

一人の男の死が、幕府を変えたのだという事実があることが、私は救いになっていると思う。同時に、他の方法は無かったのだろうかと考えてしまうが、それを思いついたところで、どうすることも出来ない。現在は過去のあらゆる事実によって成り立っているのだ。そして、未来も現実と過去の積み重ねによって成り立つ。

ここに、慶安太平記の全5夜、19席が幕を閉じた。

 

 総括 語り継がれていく偉業

終演後、私は再びロビーに立ち、五日間の通し公演を聴き終えた観客の表情を見ていた。皆一様にとても満足そうな表情をしていた。何か打たれた鐘のようにジーンとしている者もいれば、仲間と語り合う者もいた。皆一様に笑顔である。「凄かったね」とか「パパに見せたかったね」という親子もいれば、静かに会場を去っていく者もいる。物販に並んで、松之丞さんからサインをもらいながら、何かを話しかけている人もいる。千差万別。十人十色。300人が300人それぞれに、思い思いの表情をしていた。それを見るのも楽しかった。

五日間を終えて、私は神田松之丞という一人の男の、偉業を目撃したのだと改めて思った。全体を通して言えば、『戸村丹三郎』、『宇都谷峠』、『鉄誠道人』、『奥村八郎右衛門』、『正雪の最期』が特に印象的な演目だった。中でも『戸村丹三郎』は私としては凄まじい演目になった。恐らく、このままいけば2019年のベストになるかも知れない(気が早すぎる)

私自身も、このレポを書き終えて、改めて自分の表情はどうか、と見てみたのだが、相変わらずのんきな狸面で、締まりのないゆるゆるの帯みたいな表情である。

これから、何十年と講談界を牽引し続け、実力と名声を欲しいままにしていくであろう神田松之丞。そんな現役最高峰の若手講談師を見ることが出来て、とても満足だった。出来ることなら、もう少しゆっくりしたペースで連続物を聴いてみたいのだが(笑)

この記事もようやく【Day5】を書くことが出来た。神田松之丞さんが読んでいるかは分からないけれども、野暮と思いながらも感想を書いた。公開しているが、後悔はしていない。

これからも、私は演芸を書き続けるだろうと思う。自分のモチベーションの続く限りであるが。出来ることならば、この記事の写真のように、長くモチベーションが続くことを祈るばかりである。そして、美人の多い落語会に誘われたいものである(唐突に何を言っているんでしょうね)

それでは、素敵な演芸との出会いがありますように。祈りつつ。

 

 エピローグ 想像の風景・結

男は、語り終えた、と思った。前夜祭を含めて11日間、俺は語り切ったのだ、と思った。言いようの無い感情が、俺の中に沸き起こっている、と男は思った。同時に、俺の思いは届いたのか、と男は自らに問うた。会場の300人に届いたのか、と男は自らに問うた。

届いた、と客席の男は言った。確かにそれは、届いた、と客席の男は言った。そうか、と舞台に座し、釈台を前にした男は言った。そして、嬉しそうに微笑んだ。

今宵、一つの物語を俺は語り終えた。物語は終わったが、俺の現実は続いていく。俺はまだまだ、この世界に生きている。そして、俺は講談師として、これからも生き続けて行く。俺の目指す遥か高みへと、俺は生涯をかけて歩み続ける。

釈台をぽんっと軽く、男は叩いた。ぽんっぽんっと二度叩いた。それから、三度、四度、五度と叩いた。俺は生涯で、何度、張り扇で釈台を叩くのだろう。俺は生涯で、どれだけの物語を語ることが出来るのだろう。俺は生涯で、どれほどの人に、講談の魅力を伝えられるのだろう。

そんなことは分からない。分からないからこそ、挑むのだ、と男は思った。目が覚めて、生きて、座布団に上に座し、釈台を前にし、張り扇を叩けば、俺は語るのだ。物語を語るのだ。そして、目の前のお客様のために、全身全霊で物語を語るのだ、と。

そうだ。俺がずっと描き続けてきたこと。俺がずっと繰り返し、繰り返し続けてきたことを、これからも変わらずに、俺は続けるのだ。俺は、講談師なのだ。

客席の男は、舞台に座す一人の講談師に向かって声を掛ける。

「待ってました!」

その言葉に応えるかのように、講談師は張り扇を握り、ゆっくりと振り上げた。

振り下ろした張り扇が、釈台にぶつかった刹那。

乾いた音ともに、全てが霧散する。

一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、未来が見えた。

老齢なる講談師が、大勢の人々を魅了する姿が。

そして、講談の明るい未来が。

今宵、一つの物語が幕を閉じ、

今宵、一つの人生が幕を開け、

今日から再び

物語は始まるのだ。

生きている限り

存在する

言火は

永遠の

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落語が生まれた日~2019年1月29日 ニーヌ Spooncast.net~

 「さよならテレビ」と落語

https://www.spooncast.net/jp/cast/157712?utm_source=spoonshare&utm_campaign=157712&utm_medium=cast

 

落語はドキュメンタリーなのかどうか

 

 ただあたくしは、そのお取次ぎをするだけのことでございます

 

存在音痴

  

何億年も先の事でも

人生は一度きり、肉体は一つ。出会える人の数、話し合える人の数、仲良くなれる人の数、心許せる人の数、それらは有限。もしも地球上のあらゆる人達と仲良くなることが出来たら、その人それぞれの悩みを知って、一緒に解決のための力になることが出来たら、どんなに幸せなことだろうと思うのだけど、パソコンの前で私は、文字を打って、誰かが読むだろうと思って、文章を紡ぐことしか出来ない。否、私には文字を打って、文章を紡ぐことが、名の知れない誰かと繋がるために出来る唯一の手段なのだ。誰かと顔を合わせて話すことが苦手だから、何かを考え始めると、いつも言いそびれてしまうから、言いそびれないように、言い残しの無いように、そして、意味の伝わらないことを言ってしまわないように、こうやって私は文章を紡いでいる。

もしも遥か数億年先に、誰かが私の文章を発見して喜んでくれたら、それを私が知ることは無いけれど嬉しい。絶対に嬉しい。間違いなく私は、今を生きている。誰にも邪魔されることなく、私自身の考えを、誰かに向かって、名の知れない、読んでくれる人達に向かって書いている。それが、たとえ肉体が朽ち果てたとしても、読んでくれる人がいるのだとしたら、私は何度でも、その人の中で生まれるだろうし、朽ち果てないだろうし、生き続けていくだろうと思うのだ。だから、私の文章を読んだ人の中には、既に私は生きているのだと思うことにしている。本当に本当に小さな影響を私は読んでくれた人に与えているのではないかと、そんなことをおこがましくも思ってしまうのだ。

文章には、そして、物語には、数億年先に生きる人々にも影響を与えることの出来る、とてつもない力を持ったものが存在する。それは、古典、と呼ばれる。日本で言えば、夏目漱石芥川龍之介菊池寛森鴎外など、日本の純文学を端正な文章で築き上げた偉人たちの存在がある。海外に目を向ければ、ドイツ文学ではトーマス・マンヘルマン・ヘッセ、フランス文学ではバルザックサガンラテンアメリカ文学ではガルシア・マルケスが、未だに強烈な光を放って存在し続けている。

物語の多くはフィクション、つまり虚構の世界が主である。なぜ虚構の世界が生まれるのかと言えば、これは想像することしか出来ないが、私は日常生活の中における理想が大きな影響を及ぼしているのではないかと思うのだ。

例えば、こんな話がある。

 

 桂文楽 『心眼』に纏わる話

落語には心眼という演目がある。三遊亭圓朝の末弟子、三遊亭圓丸のために圓朝がこさえた話だと桂文楽は言っている。圓朝は目の不自由な圓丸から「師匠!こんな悔しいことがあったんですよ!」と言う話を聞き、作り上げたのが心眼だという。

この話を聞いた時に、私は三遊亭圓朝の表情を見た。狭い畳敷きの部屋で、背の低い机に紙を置き、蝋燭の灯の中で、眼をカッと見開いて筆を走らせる圓朝の姿を私は見た。その表情の奥底には、自分の大切な弟子を傷つけられたことに対する思い、そして、大切な弟子を傷つけた者達に対する、言いようの無い炎のような感情が籠っているように思えた。

だから、心眼という演目に対して、私は三遊亭圓朝の並々ならぬ意志を感じてしまうのだ。「眼が見えるから何だってんだ。眼が見えていたって、何も見えていないような奴等ばかりじゃねぇか!」という思いを感じてしまうのである。

なぜそう感じてしまうのかと言うと、それは『心眼』という物語に原因がある。目の不自由な主人公が、目が不自由であることを弟に罵られ、悲しみから薬師様にお参りに行き、目が見えるようになるが実は夢であったという内容なのだが、最後のオチに対して、私は目の不自由な人を罵った者達に向けた、強烈な皮肉の言葉だと思ったのだ。

三遊亭圓朝という人に会ったことはない。どんな人かも分からない。それでも、想像することは出来る。私は、物語を作ることによって、人々の本当の気持ちを浮き彫りにするような、物語という彫刻刀で人間を彫る彫り師のような人物なのではないかと想像した。

『心眼』、『真景累ヶ淵』、『牡丹灯籠』など、様々な角度から人間を描き、現代に至るまで語り継がれるほどの物語を作り上げた三遊亭圓朝は、きっと誰よりも人間の、時代の風潮を感じ取ることの出来る、鋭敏な感性を持った人だったのではないかと想像するのだ。

 

落語の祖 安楽庵 策伝

京都に行った折、立ち寄った店でたまたま見聞きしたのだが、落語の祖と呼ばれる策伝という人物の寺で、誓願寺という寺がある。最初に行ったときは「え?こんなところにあるの?」という不思議なところにあるお寺で、中に入ると策伝の絵が描かれた扇子を買うことが出来る。京都には他にも白扇堂などの有名なお店があるので、もしも近くをお通りの際には、是非立ち寄って頂きたい。

さて、落語の祖として知られる安楽庵 策伝は、自らの説法に笑いの要素を取り入れたことで有名になったという。今で言えば瀬戸内寂聴のようなものだろうか。笑いを取り入れ、『醒酔笑』という本も執筆した策伝が、落語の始まりだと言われている。

この『醒酔笑』という本には、現代の子ほめなどに由来すると言われる話が数多く含められているようである。私は実際に読んだことが無いので分からないが、お寺の人の話を聞く限りでは、どうやらそのようであるらしい。

そして、この『醒酔笑』という本は全てがオリジナルではないようである。色々な本から引用したり、策伝がどこかで聞いた話を面白可笑しくして一冊に纏めたのだという。

このようなことから鑑みるに、策伝が和尚という立場で、人に教え諭す説法を唱える人物であったことから、落語の基礎は、聞いた者に人生を楽しく生きるための教えを授けるものだったのではないか。と私は想像するのである。

もちろん、最初は『教え諭すもの』であった策伝の説法は、時代の流れによって形を変え、『教え諭すもの』から、『ただ何となく面白い話』に変わったのではないかと思うのである。話す方に「教え諭してやるぞ!」という強い意志が無くなり、「こんな面白い話があるんだけど、あなたはどう思う?」というふんわりとした意志になったと書けばご理解いただけるだろうか。

 

語り手の愛 『手紙無筆』

そして、これほどまでに物語が語り継がれるようになったのは、話す人間に愛があったからではないかと思うのである。例えば、話す人間が「字も書けない馬鹿いるんだぜ、信じられないだろ。この前、字の書けない阿保に出会ってさ。手紙も読めないんだぜ!阿保だよな!笑えるよな!その時思った話をこれから」という言葉を、悪意に満ちた軽蔑の表情で語った後に『手紙無筆』をやったとしたら、気持ちが悪くて聞けたものではない。

そこに愛があれば、「この前、文字を読むことが出来ない人に会いまして、大変苦労をしたのですが、実はあたくしも、最初は文字が読めなくて苦労しましたし、色んな人に迷惑をかけてしまったんですよ。そんなことを思い出しましてね。こんな話を作ってみました」と言い、その後に『手紙無筆』をやったとしたら、私は喜んで聞くだろうし、笑いながら涙してしまうだろう。

今でこそ、我々は普通に読み書きが出来るが、『手紙無筆』が生まれた時代は、多くの人々が字が読めなかったし、文字を書くことが出来なかっただろうと私は想像する。そんな人が『手紙無筆』を聴いたら、自分の心の中に共通する『字が書けない』という思いに対して、劣等感を抱くことなく、むしろ「そっか、読めなくてもいいんだ」という気持ちになるだろうと思うのだ。

落語は『人間の業の肯定』とも言われているし、『世情の粗』とも言われている。私はあらゆる人間の救済の物語だと思うのだ。どんな物語にも、誰かの心を救うだけの力がある。そして、その大きな原動力は笑いなのだ。

 

ブラック企業の社長?はたまた偉大な実業家?『化け物使い』と『かんしゃく』

落語の中には、非常に人使いの粗い人間が出てくる。古典の『化け物使い』では、自分の身の回りの世話を使用人に任せ、とにかく小言を連発する隠居が出てくる。しまいには化け物にまで事細かに注文をした挙げ句、最後は化け物に暇を出されてしまう。

この物語を聞くと、私は人を扱うことの大切さがぼんやりと分かるような気がするのだ。小言ばかり言って使用人をこき使う隠居にむかっ腹が立つし、「こんな人じゃ誰も寄り付かないよ・・・」という気持ちになるのである。現代で言えば、ブラック企業の社長のように、自分の利益や欲を最優先し、社員をとにかくこき使うというのが、『化け物使い』に出てくる隠居である。

反対に、『化け物使い』より新しい話で、三井財閥の一族で、実業家・劇作家の益田 太郎冠者という人が三遊亭 圓左という落語家のために作った『かんしゃく』という話がある。こちらは、冒頭はとにかく小言連発で癇癪持ちの嫌な男が出てて、若い妻がそれに耐えられず実家に逃げ込む。実家にいた妻の父親から助言され、その助言通りに妻は物事を実行する。すると、癇癪持ちの男は怒ることができず「これでは儂が怒ることが出来ぬではないか!」と満面の笑みで言うのである。

この話を聞くと、『化け物使い』とは正反対の、大事を成す人物の姿を私は感じるのである。何か大きな物事を成そうという人間ほど、物事に神経質で敏感で、些細なことが気に障る性格なのかも知れないと思うし、そういう小さな部分を一つ一つ見逃さない人間だかこそ、立派になるのだという説得力が『かんしゃく』という話にはあるような気がするのだ。

『化け物使い』では小言を言い過ぎて人間にも化け物にも逃げられた隠居、『かんしゃく』では、小言を言う男の言動に立ち向かう妻の姿が描かれる。どちらにも小言を言う男は登場するのだが、その人生観、性格はまるで違うように感じられるのだ。

両方の演目は、橘家圓太郎師匠がやっておられるので、機会があれば是非聞いて欲しいお話だ。

 

結局、落語はドキュメンタリーなのか 写実か理想か

なぜ、ここまでそんなことを書いてきたかというと、題目にあるニーヌさんという方のSpooncastの中で『「さよならテレビ」と落語』という内容の話題があるのだが、その中で『落語はドキュメンタリーかどうか』というニーヌさんの問いを聴いたからである。

私は、最初にこの言葉を聞いた時は、『落語はドキュメンタリーじゃない』と思っていた。というのは、冒頭に書いた『心眼』のように、誰かの実体験を元にしてフィクションとして作り上げられた物語が、落語だと思っていたからである。

そして、安楽庵策伝のことを書いている時も、落語は実体験を元にして作り上げた理想の世界なのだと思っていた。

ところが、書いていくうちに、その気持ちが揺らいだ。『手紙無筆』や『化け物使い』、『かんしゃく』を書いているうちに、「あれ?これ実体験もあるのかも」と思い始めたのである。

結局のところ、私は『落語はドキュメンタリーであり、ドキュメンタリーでない』という結論に至った。というのは、落語は膨大な数があるため、その全てを一括りには出来ないと思ったからである。要するに演目によってドキュメンタリーと、ドキュメンタリーで無い物が分けられると思ったのだ。

感覚としては、落語はドキュメンタリーで無いものの方が多いように思う。というのは、『心眼』や『手紙無筆』のように、何か心を傷つけられたり、コンプレックスを解消するようなものとして、物語が生まれたのではないかと思うからである。

他にも『天災』や『百年目』のような『教え諭す系』の物語には、どこか理想の人間の在り方を示すような、策伝のような説法に近い雰囲気を感じ、作り物感を抱くのである。反対に『猫と金魚』や『猫の皿』、『井戸の茶碗』には、どこかドキュメンタリーのような、現実の世界で起こったことのような雰囲気があり、写実感を抱く。だから、一概に言うことは難しくなってしまった(笑)

もっと『だし昆布』とか『安兵衛狐』とか『狸札』のような、分かりやすい虚構の物語で溢れていたら、ズバッと『落語はドキュメンタリーじゃない!』と言えるのだが、どうにも断定することが出来ない。むしろ、そうやって断定することが出来ないからこそ、分からないからこそ、落語は面白いのではないかと思う。人によって感じ方も違うだろうから、「私は『だし昆布』は実際の出来事だと思います!」という人がいても不思議じゃない。「儂はね、狸が札に化けたところを見たことがあるんじゃ」という人がいてもおかしくない。それは、それで良いのだと私は思う。(林家きく麿師匠の『だし昆布』を聴いたことが無かったらすみません)

落語がドキュメンタリーかどうか、自分で考えてみることはとても面白いことだったし、自分が何を虚構と思い、何を写実だと考えているかを知ることが出来てとても良かった。ここに書いたのは一例であるが、落語好きな方々と様々な演目について、『ドキュメンタリー仕分け』をしてみるのも面白いかも知れない。文七元結は実際の出来事か否か、紺屋高尾や紙入れは虚構か否か。落語好きにはたまらない噺のネタになるのではないか。話し合って思いをぶつけあうことで、また一つ落語の楽しみが増えるだろう。

 

総括 全てはあなたの意のままに 

今回、ニーヌさんのラジオを聴いて、この記事を書いている時に、私は自分の思っていた着地点に着地せずに、結局曖昧になる方向に進んだことを嬉しく思った。落語は、簡単に言い切ることは出来ない。落語に限らず、私が面白いと感じる物事の何一つとして、言い切れるものはないのだと思った。文菊師匠だって、伸べえさんだって、松之丞さんだって、どんな人でも、言葉で言い切ることの出来る人間は、この世界に誰一人としていないんじゃないかと思う。

そして、言い切らなくていいのだと思った。人生に紋切り型無し。どんなに言葉を費やしても語りつくすことの出来ない魅力が、人間にはあるのだと私は思う。

結局、いつも通りの曖昧な考えに辿り着いてしまうので、私の記事を読んだ人は消化不良を起こすかも知れない。「ここまで苦労して読んだのに、結局、どっちとも言えないのかよ」とお嘆きかも知れない。それはどうかご容赦願いたい。

最後に、ニーヌさんの真っすぐな言葉にかなり感動してしまったことをお伝えしたい。私としては『存在音痴』という言葉に、かなり痺れてしまった。物凄い言語感覚だと思ったし、その後に語られたことも、ちょっと自分のように感じてしまって驚いてしまったのである。

ニーヌさんの仰られたような『存在音痴』であったことを、私が実感したのは中学の終わりまでである。小学校の時に圧倒的な場違い感。これは、前記事でも少し書いたのだが、私は『人が当たり前に出来ることが出来なかった人間』だった。もしかすると、自覚していないだけで、今もそうなのかも知れないが、当時の私は『人が当たり前に出来ることが出来ない自分』にかなり憤っていた。それを救ってくれたのは本だった。私は虚構に救われたのだ。もちろん、当時は虚構を読んでいるという気持ちで本を読んでいなかった。たとえ虚構であったとしても、それは実感を伴って私の胸に響いてきたのだ。今でも、たまにそんな読書体験をすることがある。その度に、私はまるで他人の人生を一度体験し終えたかのような、そんな気持ちになるのである。

中学校を卒業してからは、読んだ本の影響もあってか『私は私。それだけで良し』という考えに支配されていた。もっと言えば、かなり人を見下す傾向にあった。『私の考えこそが絶対であり、それ以外はみんな駄目』だと大学生の終わりくらいまで思っていた。丁度、大学生の終わり頃に「世の中には自分より優れた人間しかいない。なんて私はちっぽけなんだろう」と思い始めた。再び本を読み始めた結果、『生きている。それだけで何もかも素晴らしい』という考えに至り、今では『なんでもおっけー』な性格になった。それが良いか悪いかは分からないが、今のところ変わる気配はない。

そんな私が、ニーヌさんに何を言えるのか分からない。それでも、言葉は出てくる。ニーヌさんの日常生活も、性格も知らないのにこんなことを言うのは、かなりおこがましいのだけれど、人間、生きているから色んな恥もかけるし、色んな失敗も出来る。死んでしまったら何も味わえなくなってしまう。ただ存在していることが苦手だと思う気持ち、そんな自分を周囲に発見されたくないと思う気持ち。私はそれがとても人間らしくて素敵なことだと思う。自分を変えたいと思うならば、きっとどこかのタイミングでそれはやってくるだろうし、自分を変えたいと思っていなくても、いずれどこからか何かはやってくると私は思うのである。

なんだか説法臭くなってしまったのだけれど、要するに岡潔の言葉を借りるとすれば「すみれはすみれのように咲く」のである。小津安二郎の言葉を借りるとすれば「豆腐屋ですから、豆腐しか作れません」という姿勢で良いのだと思う。人にはそれぞれに任があって、そこから逸脱した行いというのは、不思議としないものであるというのが、私の実感としてある。

いずれにせよ、多くの演芸に触れ、多くの演芸に感動し、多くの演芸に笑ったり、泣いたりしている、そんなニーヌさんの心はとても清らかで美しいと思うのだ。

これは、そんな名の知れぬ一介の演芸ブロガーの、長い長い言葉による、思いである。読み飛ばしていただいても構わない。でも、一つだけ。あなたのラジオに感動したことだけはお伝えしたかった。

それでは、また。皆さんが素敵な演芸と出会えることを祈りつつ。次回。

親と子と光と影とさよならと~「山口ちはる」プロデュース さよなら光くん、さよなら影さん~2019年1月28日

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カマンベールチーズを五等分

 

さよならとは、もう会えないという時に使う言葉です

 

どうして?どうしてもう会えないの?

 

きっと、大丈夫 

 みんなと同じように出来ない、私

まだ幼かった頃の記憶である。私は図工の時間が嫌いで嫌いで仕方が無かった。なぜなら、周りの人よりも不器用で、折り紙を折ることが出来なかったし、相手に分かるような絵を描けなかったし、粘土を使ったり、彫刻刀を使ったり、筆や、鉛筆を使って何かを生み出すことが、とてつもなく苦手だったからだ。

どうして、周りの人達と同じように出来ないんだろう、といつも思っていた。算数の時もそうだった。先生から「はい、じゃあ森野くん。この問題の答えを言ってください」と聞かれ、教室の全員の前で発表させられることがあって、これは確実に覚えていることなのだけれど、私は自分の答えに自信が無かったから、思わず「間違っているかもしれないけど、みんな笑わないでね」と言ってから、先生から問われた問題の答えを言った。

途端、爆笑が起こった。

私の答えは間違っていたし、それは明らかに私が悪いのだと思った。私には問題を解く力が無く、私には考える力が無く、周りの人が大笑いするような、そんな恥ずかしい答えを言ってしまったのだと思った。同時に、悔しさがこみ上げてきた。ちゃんと言ったじゃないか。間違っていても、笑わないでくれって言ったじゃないか!と。

私は泣いた。今すぐにでも教室を出て行きたい気持ちになった。恥ずかしさと悔しさが同時に押し寄せてきて、そこから先のことはあまり覚えていない。ただ机に顔を押し付けて、私は泣いていたのだと思う。

そこからの私は、図書室に籠り、本を読むようになった。今でも敬愛する那須正幹先生に出会ったのはその時である。私の小学校時代のバイブルは那須正幹先生の『ヨースケくん 小学生はいかに生きるべきか』である。この本には本当に救われたし、この本の主人公、ヨースケくんが正に、私そのものだと思っていた。

みんなと同じように出来ない自分、同じ教育を受けているのに、みんなと同じ力の無い自分、私はそれを自覚していた。だからこそ、『ヨースケくん』が私の心の支えになっていた。同時に『憎まれっ子世に憚る』という言葉も知って、それ以来は、みんなと同じように出来ない自分に劣等感を抱きつつも、自分の個性を大切に生きようと決めたのである。

そんなこともあって、今回、清水みさとさんが急遽代演になったということで知った『さよなら光くん、さよなら影さん』の上記写真を見て、「あ、見てみたいな」と思った次第である。清水みさとさんは、以前『ありがたみをわかりながら死ね』で、強烈な存在感を放っていたこともあって、今回二度目の鑑賞になった。

結論から先に言うと、大号泣の傑作だった。それでは、その詳細を。

 

 下北沢 小劇場 楽園へ

改築工事の進む下北沢駅を降りると、様々な服装に身を包んだお洒落な人々と擦れ違う。まさにサウンド・オブ・下北沢という感じの、お洒落で、ハイセンスで、色んな人達の個性が誰にも邪魔されることなく伸びているような、そんな雰囲気がある。センスの熱帯雨林とでも呼ぶべきだろうか。そこには様々な草花が、まだ名前すら与えられていない草花が生きているような、そんな雰囲気。

チケットを購入し、開場時刻になって入場。着座。楽園という名にふさわしいかどうかは分からないが、こぢんまりとしたスペースである。丁度小さな小屋を思い浮かべて頂ければよいだろうと思う。ネット上に写真があるかも知れないので、そちらをご覧いただけるとイメージしやすいと思う。

場内にはエリック・クラプトンの『チェンジ・ザ・ワールド』や、イーグルスの「テイク・イット・イージ』などが流れていた。まだ演者が出る前の舞台を眺めるのも面白い。壁には黒板のようなものが四方に掛けられてあり、そこにはチョークで書いたと思われる数式や記号が書かれている。

舞台の中央には木製の長方形のテーブルがあり、その上には人が入れそうな大きな段ボールと、紙飛行機のような模型が置かれてある。舞台の隅には椅子や、小さな机に鍋や食器が置かれている。恐らくは何かの建物の一室だということが分かった。

照明が落ち、暗闇が訪れボワアアンとした音楽が流れ、演劇が始まった。

 

光という少年、そしてパパとおばあちゃん

冒頭はステラとパパの会話から、光という少年とその周辺に纏わる話である。ステラについては詳しい説明は無いが、どうやら近所の人である様子。部屋中に謎を散りばめたり、星を眺めてブツブツ言ったり、知識が渋滞を起こしているような人物が光くんなのだという印象を受けた。学校に行っても、友達に馬鹿にされたりする。テストをしていても、頭の中が数字で埋め尽くされ、混乱して問題を解くことが出来ない。色んな障害に悩まされる光くん。優れた才能を持っていることは分かるのだけれど、それが周囲に理解されず、家族だけが光くんを認めているというような印象を受けた。

光くんには母親がいない。パパはうやむやに母親の存在をはぐらかしたまま、どこかにいなくなってしまう。パパがどこか遠くに行ってしまったことに気づいた光くんの動揺が切ない。

光くんを演じる小林光さんの膨大な台詞と、博識ゆえの早口、そして若干の舌の縺れる感じ。ズバ抜けた知識量を誇りながら、それを上手く表現することの出来ない主人公を見事に演じていた。そして、脇を固めるおばあちゃん役の池田由生さん。この人の声の感じ、発せられる言葉の感じが絶妙に温かくて良かった。パパを演じる縄田かのんさんは、パパというセリフが出てくるまで「ん?この人は何役なんだ?」と思っていたのだけれど、パパというセリフが出て以降は、男らしさを感じる素敵な演技だった。

家を一歩出て学校に行けば、友人達(ニコルズ、ジョン、ドリスタン)にいじめられ、女子たち(キャリー、ナンシー、バーバラ)に守られる光くん。唯一の支えであったパパがどこかに行ってしまったことで、その支えを失った光くんは、パパを探す旅に出る。この辺りの光くんの決意は素晴らしいと思う。かつて『母を訪ねて三千里』というアニメがあったけれど、ここには明確に「パパとさよならしたくない!」という強い意志を持った光くんの姿があった。『523A3470』というパパの伝言、そしておばあちゃんとの会話から、パパの居場所であろう場所へと向かう光くん。

 

ギズバンハイロード駅へ、そして影さんとの出会い

パパに会うために歩き始めた光くんは、街行く人々に声を掛けられずに戸惑う。ようやく声を掛けても満足の行く答えは得られない。駅員に見つかり、逃げ出す道中で、影さんという女性と出会う。

この辺りで影さんと出会うことが後々の大きな伏線になってくるとは、この時は思いもしなかった。おばあちゃんやパパに愛されている光くん。パパとママが喧嘩をし、パパとママから愛されていないと感じる影さん。この光くんと影さんの対比。愛してくれるパパの元へとまっしぐらな光くんと、喧嘩をして別れてしまった両親を探す影さん。二人は同じ目的を持って出会うのだが、その境遇はあまりにも違っていた。

途中、謎の嘘つき狼に出会ったり、警察から逃げたりして、駅を何とか乗り継いで目的の場所に付くと、そこにはオカマの変なおばちゃんがいて、がっかりする光くんと影さん。

何と言っても素晴らしいのは、影さんを演じる清水みさとさんの表情、そして仕草である。『ありがたみをわかりながら死ね』を見た時にも感じたのだが、過去に辛い経験をしながらも、一所懸命に生きている人を演じさせたら天下一品、右に出る者無しの風貌と、戸惑いにきょろきょろと辺りを彷徨う眼。声を発することが出来ず、スケッチブックで相手に意志を伝えるというコミュニケーション方法を持つ影さん。服装も黒に統一されていて、まさに影。私は心の中で「完璧・・・」と呟いてしまった。

それから二人は、パパがアラスカにいるのだと思って、アラスカを目指して冒険の旅に出る。

 

アラスカへの道中、そしてクジラ

アラスカ行きを決意した光くんと影さん。駅を乗り継いでいた時に出会った嘘つき狼の助言に従い、カワウソさんの船に乗るのだが、まんまと騙されて、アラスカ行きではないことを告げられる。ところが、光くんと影さんを騙した嘘つき狼もカワウソさんに騙され、船に乗せられる。そこから、三人?の船旅が始まる。

船旅では、イルカに出会ったり、カモメに出会ったりする。嘘つき狼が時折「うっそー!」と大声をあげながらも船はゆっくりと進んでいく。

途中で、春と冬の喧嘩に巻き込まれる。これは会場も巻き込まれて、「冬の次は?」というところで、春からマイクを向けられたり、地下アイドルのライブばりのテンションで会場参加型のライブが繰り広げられ、それに対抗するように冬が、演歌を歌ってくるという、謎のイベントが発生する。

ここで演者に対して思ったことを書く。嘘つき狼を演じた渡邊力さんは、元気溌剌で冒険には持って来いの明るいキャラクターと、張りのある素敵な声を持っている。表情も明るくて、まさに嘘つき狼にぴったりの役だと思った。春を演じた槇野レオナさんは、とにかく眼力の凄まじさと表情の恐ろしさが素晴らしかった。目の奥に狂気を湛えた感じで、普段は普通に生活をしているけれど、キレたら刃物沙汰になるのではないかと思うほどの、狂気を感じる演技だった。冬を演じられた鈴木芳奈さんは肌も白いし、雪女感があるし、どちらかと言えば深津絵里っぽくて、表情も豊かで素敵だった。カワウソを演じられた嶋崎迅平さんは、コミカルなキャラクターが秀逸で、物語のコミカルさを見事に担っているように思われた。変なおばちゃん役の原武之さんは、身長も高く肩幅も広く、顔も大きくて、オカマ感が見事に表現されていて素晴らしかった。

春と冬の喧嘩から、突然目の前に巨大な鯨が現れる。この辺りの演出もとても壮大というか、ダイナミックで迫力があった。影さんの手から離れ、光くんは鯨に飲み込まれてしまうのだった。

道中、パパから渡された『23の事柄』が随所で挟まれる。これが名言の連発で、光くんの大きな心の支えになっている。『踊る大捜査線』で言えば、和久平八郎さんの『和久ノート』的な役割をする。これが素晴らしくて、出来ることなら脚本が欲しいくらいである(笑)

 

 鯨の中と外

鯨の中で光くんは、アレキサンダー大王?と人魚に出会う。実はアレキサンダー大王は光くんのパパで、鯨に飲み込まれていたことが分かる。

鯨の外では、光くんを心配するおばあちゃんや、変なおばさん、そしてステラと影さん、春と冬、キツネと雷様と嘘つき狼さんと風さんが、光くんを心配している。

ステラと影さんが二人きりになって、クジラに向かって叫ぶ場面があるのだが、この場面で、ステラを演じた亜矢乃さんの言葉が、ビリビリと体に電撃が走るほどに力強かった。なんとなく、ステラは光くんのお母さんなのかな、とこの辺りで察せられた。それほどに声、表情、そして全身でステラは叫んでいた。それを見ていた影さんの何とも言えない表情、そして声にならない叫びで「友達を返して!」と叫ぶ姿に思わず胸が詰まる。

何とか鯨の中から脱出することが出来たパパと光くん。感動の再会である。誰もが光くんとの再会と、パパの出会いを祝福する中で、影さんは唐突にどこかに消えて行ってしまう。

この場面が衝撃だった。影さんが姿を消す場面になった瞬間、

 

 

あ あ

 

あ あ あ

 

それまでの影さんの境遇、影さんがパパとママとどういう関係にあったのか、影さんはどんな思いで、船に乗ったのか、どんな思いで、ステラが鯨に向かって叫んでいるのを見ていたのか、そして、影さんの声にならない叫び。ありとあらゆる影さんに対する思いが一気に込み上げてきて、私の眼からはとめどなく涙が溢れ始めた。

そして、いなくなった影さんを発見した光くん。「どうしていなくなっちゃうの?」みたいなことを聞く光さんに対して、影さんは身を竦め、苦しそうな表情でスケッチブックを一枚一枚めくる。「あなたには待っている人がいるから」、とか「あなたには帰る場所があるから」、「私には待ってくれる人がいない」、「私には帰る場所が無い」みたいな文字が現れ、それを光くんが読み上げる度に、涙が溢れてしまった。

そうだ、そうだ、影さんは、パパとママが自分のことを嫌っていると思っているんだ。この物語にはまだ、影さんのパパとママは出てきていないんだ。周りから愛され、心配されている光くんを見て、羨ましかったのだろうか、悲しかったのだろうか、どんな気持ちだったのだろうか。考えれば考えるほど、涙が止まらなかった。

そして、全ての思いがまるで溢れ出すかのように、影さんは初めて光くんに向かって声を発する。

この声、間、そして全身から振り絞られるようにして発せられた音。清水みさとさんの声は、天性の声だと思う。ありとあらゆる言葉と感情を含んだ声が、その響きが、私の鼓膜を震わせ、そして心を震わせた。それをどう表現していいか分からない。あの声と、間と、そして全身の仕草、そして表情。全てが、語られることの無いものを語っていた。この辺りで、もはや私は真っすぐに物語を見ることが出来なくなった。目が涙で溢れ、影さんへの思いが溢れて止まらない。

最後、影さんは振り絞るように言葉を出して、「あなたなら、きっと、大丈夫」みたいなことを言うのだが、もう、もう、もう。涙。

 

 影さんとの別れ、それから

電車にも乗れるようになった、船に乗ったり、鯨から脱出したり、様々な成長を遂げた光くん。そして、そこに存在しない影さん。光くんが学校に行けば、光くんの不在を心配していたニコルズやドリスタンやジョン、微妙に勘違いをするバーバラや、正義感の強いキャリー、勉強熱心なナンシー。最初の場面とは大きく成長した光くんの姿が描かれる。テストの時間になって、頭の中に数字が溢れても、嘘つき狼の「うっそー!」で数字を掻き消し、見事、悩みを解決した光くん。

家に帰ればおばあちゃんがいて、パパがいる。温かい家族がいる。途中、影さんが再び出てくる。そして「きっと、大丈夫」と光くんと一緒にいって、「さよなら光くん」と影さんが言うと、「さよなら影さん」と光くんが言う。

最後は、屋根の上で家族三人が、星を見る場面で終わる。

 

 総括 親と子と光と影とさよならと

この演劇を見終えて、これは家族の物語なのだと私は思った。他の人とは違う個性を持った光くんを、一所懸命に愛するパパとおばあちゃん。そして、家族という枠の中には入っていないけれど、それでも光くんを大切に思うステラ。様々なことに巻き込まれながらも、たくさんの人達の愛を受けて成長する光くんの姿を見ていると、親と子の理想の姿がそこにあると思った。

同時に、影さんの存在も忘れてはならない。親から愛されることなく、光くんの傍でずっと光くんの成長を見ていた影さん。ここには、親と子の釦の掛け違いによって生まれた悲しい姿があるように思えた。

まさに、光と影の対比のように思えた。親と子の何気ない関係の中で、そこには愛される者の物語と、愛されなかった者の物語があるのだ。この物語では、影さんのその後については語られることはない。それだけに、私は影さんに幸せになって欲しいと思った。だが、結論は出ることがない。結論が出ないからこそ、この物語は広がりを見せるのだと思う。

私自身は、幼少期の悔しさや恥ずかしさを乗り越え、今ではすっかり他人のことなど気にしない人間になったが、色々な出来事を乗り越えたからこそ、今があるのだと思う。両親には物凄く愛されたと思うし、愛され過ぎたと思ってもいる。同時に、もしも自分に家族がいたら、光くんのように愛してあげたいと強く思った。

どんな境遇に生まれ、どんな障害を抱えて生まれたとしても、周りの人が一所懸命に愛してあげれば、気にかけてあげれば、きっと立派な存在になるのだ。この物語のパパのように、いつも息子を気にかけるパパでありたい。そんな日が来るかは分からないけど。

今はまだ親としての立場で感想を述べることは想像することしか出来ないのだけど、両親の愛を受けて、周りからのたくさんの支えと愛があるからこそ、今があるのだ。何気ない毎日を、生きて行くために、そして、誰もが支え合って、愛し合って生きて行くために、この物語は強く存在しているのだと思う。

井伏鱒二は「さよならだけが人生だ」と言った。ならば、さよならの来るその日まで、精いっぱいに生きようではないか。精一杯誰かを愛し、誰かに愛される人生を生きようじゃないか。

きっと、大丈夫。あなたなら、生きていける。

そんな思いを胸に抱き、ぱんぱんに腫れあがった目を擦りながら、私は楽園を後にするのだった。

Is This BL?~2019年1月25日 歌舞伎座ギャラリー 古今亭文菊~

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人気には敵わないね

 

私(そんなことない、そんなことない、そんなことない、そんなことない)

 

ズキュウウウウン 

男が男に惚れる瞬間

どこからが恋で、どこからが愛になるのか、私はその境界線が分からない。どちらかと言えば、愛の方が恋よりも深くて濃そうだ、という感覚がある。私は恋と愛には濃度の違いみたいなものがある、というぼんやりとした感覚で、人に対して恋をしたり、愛してしまう人間のようだ、ということが、最近になって良く分かった。

美しい人を見て、「あ、綺麗だな」と思うのは、恋であると思う。それは、淡いピンク、まだ紅のような深みと濃さの無い、薄い桜色のようなものである。そこにはまだ、私と美人との間に繋がりがなく、一方的なもの。それが、恋。

美しい人と話をして、一緒にお酒を飲んだり、どこかに買い物にいったり、自分の駄目なところや素敵な部分を褒められたりすると、「あ、この人に理解されているんだ。私もこの人を理解してあげたいな」と思うのは、愛であると思う。そこには、私と美人との意思の疎通があるし、お互いがお互いの素性を何となく理解している。両者の間に確かな繋がりがあるもの。それが愛。

そんな、ぼんやりした境界線を、ずっと心の滑走路に引いていた。今までは。

Twitterを眺めていた時、たまたま東京かわら版2月号の表紙の画像が飛び込んできた。これがいけなかった。実にいけなかった。表紙には文菊師匠。文菊師匠、ぶんぎくししょう。

 

ぶぶぶ、ぶんぎくししょー!!!???

 

思わず二度見、三度見。調べると、文菊師匠が『愛』についてインタビューを受けているという。画像の美しさと内容のチラ聞きだけで、私の心が締め付けられた。

苦しい。息が出来ない。ずっと胸の奥がきゅっと締め付けられたようにくすぐったくて、悶える。人と話をしたり、パソコンに向かって文字を書いていても、ずっと胸の奥に温かい何かがある。頭の中では文菊師匠のお姿、愛、お姿、愛が交互にチラついて全く集中できない。常に上の空で、海の中を泳ぐクラゲのようにフワフワしている。

無力だ。私は文菊師匠の前では戦闘力ゼロだ。モンスターハンターで言えば、裸でミラボレアスを退治しにいくようなものだと思いながら、心を落ち着けるために、文菊師匠に頂いたサインを眺め、ちゃお缶を眺め、喬太郎師匠の手拭いを眺めた。

木馬亭での忘年会で、佐藤貴美江師匠のボヘミアン姿を見た時は、殆ど過呼吸になったのではないかと思うほど、胸を撃ち抜かれてしまい、友人から「美人と言えば?」と聴かれた時には間髪入れずに「佐藤貴美江」と答え、「誰?」という表情にさせていたのだが、友人から「好きな人いる?」と問われたら、「男なら古今亭文菊、女なら佐藤貴美江」と答えて、「男なら?」と怪訝な顔をされてしまいそうである。

そうか、これが惚れるということか、と気づく。心が忽になってしまう。何をしても文菊師匠の姿が浮かぶ。文字を打っていても、飯を食べていても、向かいのホームを見ても、路地裏の窓を見ても、そんなところにいるはずもないのに。

ずっと女性に対してだけ抱く感情だと思っていた恋と愛を、まさか男である文菊師匠に抱くとは思わなかった。これは、恋だ。濃くなりたいと強烈に願ってしまうほどの恋だ。そうだ、恋には濃くなろうとする強い欲求があるのだ。愛が色を深める速度と、恋が色を深める速度には差があって、恋の方がその速度は速いのだと思う。これはあくまでも私の体感として、である。

とにかく、いてもたってもいられずに、私は歌舞伎座ギャラリーを目指していた。

 

歌舞伎座ギャラリーへ

東京かわら版2月号が販売されるということと、文菊師匠が『淀五郎』をやるというので、駆け足シューマッハで到着。

チケットを切って入場し、着座。物凄く女性率が高い。おまけに美人揃いで、前から後ろまでずらりと美人、佳人、麗人が勢ぞろいである。体感的に、初めて落語に触れるという方も多い様子。美人が多い落語会は良い落語会です(勝手に言い切る)

そうか、私は男も女もどっちもいけるのか、と思ったが、男に関しては古今亭文菊師匠とチバユウスケさん限定である。この二人には惚れている。間違いなく惚れている。

開場時刻になって、前座さんが登場。

 

林家彦星『道具屋』

林家正雀師匠門下の彦星さん。とても真面目できっちりとした落語をやる落語家さんだ。私が言うのもおこがましいが、確実に成長されていて、口調も滑らか。もっともっと話に磨きがかかってくると、どんな落語家さんになるのか楽しみ。

 

古今亭文菊『紙入れ』

結構高めの舞台に上られる。歌舞伎座ギャラリーの舞台は写真で何度か見たことがあって、かなり背景が派手である。普段の落語会に慣れている方からすれば、派手過ぎて想像の邪魔になってしまいかねないほど極彩色だ。そこに座った文菊師匠も、やはり普段とは違ってカラフルな印象を受ける。

マクラについては全容を避けるが、だんだんとお人柄が感じられるような内容をお話になられるようになった気がする。美しい声と間で発せられる言葉には、思わず「そうよね、文菊師匠の言う通りよね」と思ってしまう、盲目な男が一人。恋は盲目である。相手の全てを許してしまう。私が文菊師匠の女将さんだったら、文菊師匠をとことん駄目にしちゃうな。。。と思いつつ、そんなことあるはずもないのに、夫婦生活を想像しつつ、演目へ。

この話は簡単に言えば「不倫をするけどバレない」という内容である。女将さんの色気たっぷりな表情と声、新吉のウブで真面目な心、何も知らない強面の旦那、と三者三様の表情と声が素敵な演目である。この話を聞く度に私は、「ああ、新吉になりたいなぁ」と、禁断の蜜の味に手を出してしまいそうな自分を認める。

絶品の紙入れを堪能して、仲入り。

 

古今亭文菊『淀五郎』

ネタ出し、お待ちかねの演目。講談ファンの方には馴染みのお話で、簡単に言えば「沢村淀五郎という役者の挫折と再起」の物語である。

これが、ものすごく丁寧だった。冒頭からありありと絵が浮かんでくる。さらに、とても文菊師匠らしい言葉運びと、演出が随所で光っている。ここは詳しくは書かないが、是非一度見て体感して欲しい部分だ。

恐らくは、雲助師匠か馬石師匠から習ったのではないかと思う。淀五郎に皮肉を言う團蔵の姿に円菊師匠の姿を重ねてしまってうるっとくる。「お前は駄目なんだよ、虫けら以下だ」と言われ続け、厳しい修行を耐えてきた文菊師匠。この辺りは東京かわら版2月号に文菊師匠の言葉で語られている。涙無しでは読めない。文菊ファンのみならず、女性を愛する男性諸氏には是非とも読んで頂きたい。

中村仲蔵が出てきて、淀五郎に教え諭す場面も感動的だ。ここは講談も落語も感動できる部分だった。特に淀五郎の真面目さが気持ちいい。『甲府ぃ』や『二番煎じ』を聴いていても思うのだが、文菊師匠は人物描写がズバ抜けて上手いと思う。才能があるけど皮肉家の市川團蔵、苦労しながらも工夫で名を上げた中村仲蔵、与えられた役に浮足立つ淀五郎。一つ一つの人物描写がくっきりと浮かびあがってくる。

後半も見事なリズムで、涙と笑いが押し寄せてくる。見終わった後で、恐らく初めてのお客様であろう「若いのに、とてもお上手ね」という声が聞こえてきた。それほどに、見事な『淀五郎』だった。

 

 総括 古今亭文菊師匠への恋心

昨日から文菊師匠には随分と心を搔き乱されてきた(勝手に私が乱されただけだけど)のだけど、思いっきり搔き乱されてぐちゃぐちゃのまま、会場を後にした。東京かわら版も購入した。写真も最高であるし、内容も最高である。文菊師匠のファンならばマストバイの一冊である。

胸の苦しみもようやく落ち着いたようである。相も変わらず、文菊師匠は文菊師匠で生きているし、私は私で生きている。

話は変わるのだが、Twitterで言葉遣いについて色々と言われ、モヤモヤを書き出している方のツイートを見た。花まるさんという方で、『たらちね』について触れていた。

私は思う。【土壌から咲いた花の美しさに目を奪われることと同じように、人生経験で培われた言葉遣いという土壌から咲く花、すなわち言葉にもまた、私は目を奪われる。紫陽花は土壌が変わると色を変えるが、その美しさは損なわれない。紫陽花は紫陽花として咲く。大丈夫、清女は美しい。あなたはあなたで美しい】のだ、と。

その人が、その人であるからこそ、美しさは輝くと思う。岡潔ではないが、すみれはすみれで咲く。だから、何も心配することは無いと思う。あなたはあなたで咲けば良いのだ。

そんなわけで、今日もさらりと書く。長文とは一体どこから長文になるのか分からないが、大体400字詰め原稿を10枚以内で納めたら、短編ということでお読みいただいても引かれないのではないか。短く書くことによって、削ぎ落し過ぎてしまうかも知れないが、それもまた修練である。

それでは、あなたの素敵な演芸との出会いを願いつつ、また、次回。

【Day4】慶安太平記 神田松之丞 2019年1月13日

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男は、こちらを見ながら右手の人差し指で何かを示している

 

四度、想像の風景

師の背を見た、と男は思った。師の意志が籠る物語を俺は読んだのだ、と男は思った。否、この物語に関わった全ての者達の意志が籠った物語を、俺は読んだのだ、と男は思った。一夜、また一夜と語り、照明の落ちた闇の向こうで、俺の声に耳を傾け、俺の言葉から物語を想像し、物語の中で生きる人間に思いを馳せたのだ。

俺に出来る精一杯で、物語を読むしかない、と男は思う。大きな物語の起伏のない、地味な物語を、これから俺は語る。それは、ダレ場と呼ばれ、聴衆を惹き付けるための力量が問われる。俺に、それを語るだけの力量はまだ無いかも知れない。それでも、俺に出来る精一杯で語るしかない。

 

さあ、語るぞ。

 

男は張り扇を握りしめ、釈台を叩く。今宵は静かに、そして残酷な物語が一席。ここから物語は、大きく最後に向かって進み始めていく。

 

第十二話『柴田三郎兵衛』

本当のダレ場は今日だ、というようなことを言ってから、松之丞は語り始めた。物語に大きな展開の無い、会話で魅せる一席。

柴田三郎兵衛は、第三話目に加藤市右衛門と共に物語に登場する。それほど深く描写をされることの無かった両名が、十二話、十三話で登場することで、この物語の深みに繋がってくるのだということを、松之丞は語っていたように思う。

丸橋が仲間になった正雪に対して、疑惑の念を覚えながらも、正雪と出会う場面が印象深い。それぞれの思惑が内に秘められたかのような、松之丞のゆったりとした語りが印象に残った。

また、土産の魚を義兄弟の間で取り交わす場面も印象深い。お互いにお互いの心を解いていくかのような、厳かな雰囲気があった。

私の集中力の途切れもあってか、断片的にしか覚えていないのが悔しいが、またどこかでこの物語に出会った時に、再び考えてみたいと思う。

 

 第十三話『加藤市右衛門』

ここまでの話があまりにも物語の展開が大きく、非常に興味を持って聴いていたのだが、私も集中力が途切れてしまい、断片的にしか覚えていない。

慶安の時代は浪人達で溢れかえっていたのだということが、何となく察せられた。幕府に対して不満を抱く者達が多かったのだろう。十二話と十三話では、歴史的な背景、当時の雰囲気のようなものが、何となく伝わってくる一席だった。

 

 第十四話『鉄誠道人』

前半二席で不甲斐ない集中力を発揮してしまった自分を取り戻すため、仲入りで集中力を取り戻す。各所で噂になっている十四話が、一体どのようなものであるか、前情報を一切入れずに聞いた。

冒頭、全身が真っ白だという願人坊主・鉄誠道人が、正雪一行と出会う場面が印象深い。幕府転覆のために資金を必要としていた正雪が、自らの体を自虐して小銭を集める鉄誠道人に出会うのだが、この時の鉄誠道人は、どこか心が擦れた男という印象があった。

生まれながらに皮膚が他の人達と異なっていたことによって、両親に捨てられ、周りから蔑まれながらも、その状況を逆手にとって金を集め、自分の欲を満たす鉄誠道人の姿は、人物描写がリアルかつ、松之丞の語りも絶品だった。まるで「どうだ、俺は不幸だろ?そう思うなら金をくれよ!」という、人の善意に付け込むような鉄誠道人の声、そして表情、言葉。正雪が目を付け、酒の席で話を聞いた途端に、正直に自分の抱えているコンプレックスによって、どのような目にあってきたかを語る鉄誠道人。とても素直で、生きるために止むを得ず手段だったのかも知れないな、と鉄誠道人に対して同情の心が湧いた。

こんな話がある。五体不満足という著書で有名な乙武洋一さんという方がいる。この方の生まれた時のエピソードである。

赤子として生まれた乙武さんを医師が見た時、それはまるで芋虫のように見えたという。医師は、生まれてすぐに母親にこの芋虫のような赤子を見せると、気が違ってしまう恐れがあると考え、しばらくの間、母親に会わせずにいた。産後のホルモンバランスが落ち着き、いよいよ対面という時になっても、医師は母親の気が振れてしまわないか心配していた。

手と足がほぼ無い状態の芋虫のような乙武さんを見た時、乙武さんの母親は芋虫のような赤子である乙武さんに向かって、こう言ったという。

 

「まぁ!なんてカワイイ子なの!」

 

それから、乙武さんはすくすくと成長した。小学校に上がると、心無い周りの友人から「やい!手無し!、足無し!」などと罵声を浴びせられたという。それでも、乙武さんは全然悔しくもなんともなかったという。なぜなら、家に帰ると乙武さんの母親がいつも、「あなたは素晴らしい子よ。なんでも出来るわ!」と言ってくれたからだった。

 

上記の話を聞いた時に、鉄誠道人もまた、両親に捨てられることが無ければ、別の道を歩んでいたのだろうなと思い、鉄誠道人の境遇が可哀そうでならなかった。ところが、正雪はそんな鉄誠道人に対して、金儲けの仕方を教える。この正雪の案に、見事に魅せられ、信用する鉄誠道人の純粋さが胸に苦しい。

騙されていく過程における、鉄誠道人と正雪の描き分けが実に見事だった。松之丞は言葉の間、声、表情、リズム、全てで二人の感情を対比させ、浮き彫りにしていく。正雪の金儲けのトリックに魅せられ、眼を輝かせる鉄誠道人。その眼を見ながら、心の奥底で静かな闇を覗く正雪。二人の思惑の差がゾクゾクするほど表情に現れていた。

金儲けの仕掛けが実行段階に移ると、続々と集まってくる人々の罪の無い意識にさえ醜さを感じてしまう。「自らの悪を取り除くために、一人の坊主の死に様に金を払う」という、行為そのものの浅ましさ、醜さが、言葉にならない残酷性を表現しているように思えた。

あまり深く書くことは物語の面白味を奪いかねないため、詳細は書かないが、金儲けの仕掛けが実行される場面は、あまりにも様々な人間の思惑、感情、本性が渦巻いており、見ているこちらまで苦しくなってくる。特に鉄誠道人が可哀想でならなかった。自らの理想の人生を思い描きながらも、その夢が叶うことなく消えて行く絶望感を想像して息が出来なくなってしまう。自分なら絶対に参加したくないイベントに強制的に参加させられ、周りの人々の熱狂が強くなればなるほど、心が冷めて行くというか、この場にいたくない!という気持ちが強くなってくるほどの強烈な物語だった。

仕掛けが終わった後の正雪の表情、鉄誠道人の姿、狂乱の聴衆達。まるで、カルト宗教の大きなイベントを見ているかのような、カリスマのありとあらゆる策謀が発揮された場面は、ある種の爽快感すらある。人がどうやって魅了されていくのかを目の当たりにしたかのような恐怖と興奮が同時に押し寄せてきた。

噂に違わぬ究極の一席で、残酷さでは慶安太平記の中では随一と呼ぶべき話である。いずれ、多くの人々がこの物語に出会うと思うのだが、語らずにはいられないほどの残酷な景色と、人の本性の醜さ、浅ましさ、欲望が渦巻く一席であり、これは絶対に聴いて欲しいと思う。

今の神田松之丞という講談師が描く中で、これほどまでに力の入った物語は恐らく他に無いかも知れない。さらに言えば、今見ておいた方が良い一席である。力が漲っており、迫力が籠っており、まるで野外ライブで激しい音楽を聴いたかのような、強烈な爽快感とともに、胸に気持ち悪さが残る話である。

 

第十五話『旗揚げ前夜』

強烈に印象を残した前話の後で、静かな殺意が実行に移されていく。前話を起点として、一気に正雪の野望が実行へと移されて行くのだが、その一歩として静かな幕開けである。

私の記憶違いかも知れないが、ここで銃を放ったのは正雪だったように思う。打ち損じて逃げ出し、伊豆守と相貌が似ている柳生が「追わなくてよい、相当の手練れじゃ、逃げる道も作っておるだろう」みたいなことを言って、逃がす場面があったように思う。この辺りの描写が印象に残っていて、打ち損じた正雪もさることながら、柳生の落ち着きぶりが、松之丞のゆっくりとした語りから、静かな迫力を感じた。

暗殺失敗に地団駄を踏む正雪の姿もさることながら、徳川家光が死去し、「時は来た!」と感じた正雪の喜びは凄まじかっただろうと思う。

幕府転覆に向けて、それぞれの代表を読み上げて行く場面が最後にあり、丸橋の名が無いというところで、一夜が終わった。

最後の日に向けて、暗雲が立ち込める一席だった。

 

 総括 革命前夜

前半二席をぼんやり聞き、当時の時代背景、浪人たちが溢れかえって不満がたまっていたのだ、というところから、金儲けをして幕府転覆の資金を得る正雪のカリスマ性、そして最後の運命のいたずら。どれももどかしくもありながら、一つ間違っていたら大きく運命が異なっていく展開になっただろうという、物語の惜しさが際立った一夜だった。松之丞の語りも、鉄誠道人を最高の頂点として、激しいバンドの名曲を聴いているかのような爽快感があったし、旗揚げ前夜での静かに実行されていく革命が、物語が終盤に近付いてきたのだということを感じさせた。

連続読みで読むことによって、それまでの経緯や思惑、それぞれの関係性などが立ち上がってきて、それがリンクした瞬間の面白さは極めてハッとする部分が多い。考えてみれば、正雪は『鉄誠道人』で初めて、一度仲間にした男を踏み台にして殺すのである。もしも、違った方向で資金を集めていれば、正雪の運命は変わっていたのかも知れない。そして、第十四話以降、鉄誠道人の呪いもあるのかも知れないが、物語は意外なところから、大きく展開していくのである。

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手と手を合わせるような温度で~2019年1月20日 ナツノカモ低温劇団 「ていおん!!」~

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才能って放っとかれないよね。

 

ありがとうございます。

 

ナイジェリア

 

心に残って忘れられない低温やけど

きっかけは一つのツイートだった。とある方の呟きで『文章書くの好きなひと低温劇団ライブ行ってレビューしてくんないかな(行けないので…)』とツイートしているのをたまたま目にして、「ん?変な名前の劇団だな」と思って調べてみると、サンキュータツオさんが出るという。動画の『コミュニケーション教室』を見て期待が高まる。

初めてやってきた『プーク人形劇場』。なんだかディズニーのイッツ・ア・スモール・ワールドみたいな空気感である。

開場時刻になって、チケットと台本を購入し入場。場内は何だか映画に出てきそうな、ファンタジー感がそこはかとなく感じられる。淡いローファイポップのようなBGMが流れ、続々とお客様が入場。若い女性、お綺麗な女性が多い印象。私のような新参者は、それだけでも胸が高鳴る。

ナツノカモ低温劇団がどういうもので、演者についても何も知らないという状態で参加したのだが、前情報も出演者のことも何も知らなくても、全く問題の無い会だった。

普段は寄席演芸に親しんでおり、落語・講談・浪曲に親しんでいるが、コントだけの回に行くのは初めてである。普段、青年団さんや、チャーリーカンパニーさんのコントを寄席で見ている私にとっては、とても新鮮な会である。

低温と銘打たれていたため、笑福亭たまさんで言えば『微笑落語会』みたいな会なのかなと思いきや、これがとにかく面白かった。全部で8本あったのだが、それぞれの感想を書いていこう。

 

01『明日の手術』

このコントを見終えた時、私は笑福亭羽光さんを思い出した。最近、渋谷らくごの創作大賞となった『ペラペラ王国』や、もう一つ羽光さんの面白いネタがあって、その二つと『明日の手術』が共通していたのは、【入れ子構造】である点である。内容は台本を買って頂いた方だけに分かると思うのだが、台本を読むだけでも面白い。次々と、まるでマトリョーシカのように、話の空間の位置がズレていく感じが面白い。その空間のズレに謎を一つ混ぜ込んで、その謎を最終的な着地点にするのも気持ち良かった。色んな人が一人のために一所懸命になっているのも面白いし、明日の手術を受けさせようとする大人達の無邪気さや可愛らしさが感じられてとてもほっこりした。低温劇団とは、こんなちょっと笑えるようなコントなのかな、と思ったのだが、次のコントが凄かった。

 

02『ノットヒーローインタビュー』

全8本のコント中、私はこのコントが一番面白かった。設定も面白いのだが、完全に振り切れた山下役のおさむさんが最高に面白かった。さらっと発せられるおさむさんの言葉と、その言葉に何の罪の意識も感じていないおさむさんがとにかく底抜けに面白くて、おさむさんという芸人さんは全く知らなかったのだけれど、おさむさんのナツノカモさんによる、おさむさんのためのコントだったような、もはや演目と演者がぴったりと合致したようなコントで、台本を読み返して光景を思い出すだけで、もはや大笑いしてしまうほどの、強烈な面白さだった。これは、是非台本を買って読んで頂きたい。ツッコミどころ満載で、現代っ子感が素晴らしかったし、現実ではありえない場面におさむさんとしまだだーよさんが、その存在だけで強烈な説得力を持っていた。

会場も爆笑に次ぐ爆笑で、私は終始笑ってしまった。こんな面白いコントが世の中にあったんだ!という衝撃のコントである。

たった二人しか登場しないのに、おさむさんの強烈なキャラ、インパクトのあるワードを声のトーンと間で説得力を持たせ、超ワガママで絶対日常生活では関わりたくない奴なのに、誰にも真似できない愛嬌と、ペットを愛する気持ちだけで人生を渡り切ってしまうような、物凄い人間の魅力が溢れたコントだった。

終わった後の強烈な解放感というか、笑いすぎたことによる体の心地の良い疲労感が最高だった。出来ることならば、同じようなキャラ設定で、おさむさんの演じるコントを見てみたい。落語でも、講談でも、浪曲でも、演劇でも、能でも、狂言でも、一切表現することの出来ない、コントだからこそ、おさむさんとしまだだーよさんだったからこそ表現できた究極のコントだったと思う。

二本目のコントを見た段階で、私は「これ、全然低温じゃないじゃん!むしろ高温じゃん!」と腹の痛みと頬骨の痛みに耐えながら、騙された心地よさに酔いしれた。ああ、最高、ああ、最高、

 

ああ!!最高だったぜ!

 

03「恩返し-バス停にて」

衝撃爆笑のコントの後で、ガンガンに温まった会場。その後さらに放たれた三つ目のコント。これも最高だった。何より、設定が面白い。内容は台本を読んで頂きたいのだが、とにかく狸役のやすさん、ナツノカモさん、小林すっとこどっこいさん、シルキーライン広田さんが最高である。恩返しされる側のサンキュータツオさんのツッコミもさることながら、微妙に知恵の回らない狸四匹の愛嬌がとても面白い。狸が化けたという説得力が存在だけで半端じゃないやすさん、なぜか田舎っぽい方言が混じるナツノカモさん、狸の中では真面目な小林すっとこどっこいさん、恩返しする立場なのにめちゃくちゃ態度がデカイ広田さん、そして恩返しを頑なに拒み続けるサンキュータツオさん。この不思議な設定が妙なリアリティがある。何よりも『狸』を選択したところに、日頃落語に親しんでいる私にとっては、完璧な選択だ!と思ったのである。

恐らく人間の心の情緒には、狸は化けるもの、狸には狸のコミュニティがあるもの、という無意識の共通認識みたいなものがあって、それがこのコントに説得力を持たせていたのではないかと思う。何よりも狸代表としてサンキューさんに近づいたやすさんの存在感が半端じゃなかった。やすさんが「私、狸なんですよ」と言うことの強烈な説得力。あれはビジュアルがそうさせるのだろうか。とにかく演者さんが適役で、ナツノカモさんの人の素質を見抜く力というか、人とコントの登場人物を結び付ける才能が凄まじい。全8本を体験して、どれもが「この役にはこの人しかいない!」という配役なのである。

色んな情報が次々に出てくるのだけど、サンキューさんのツッコミも相まって綺麗に整理されているし、狸同士の関係性や、狸達の個性がとても面白かった。何よりもシルキーライン広田さんの演じる狸を許容する狸達の懐の深さが、見ていて心地よかったし、温かかった。

最後は、温かいオチだった。色んなことが一つの運命を持っていたかのような、素敵なオチだった。恩返しの意外な着地点、是非台本で見てほしい。

 

04『娘さんをください』

ここで初めて登場のインコさんの強烈な存在感と、言語感覚がズバ抜けた小林すっとこどっこいさんの二人が激突するコント。これも凄く面白かった。何よりも小林すっとこどっこいさんが、他の誰も恐らくやらないであろう言葉攻めで、「娘さんを頂く」ために色んな言葉を定義していく。その定義に翻弄されるインコさんの姿も面白かったし、言葉を追加することによって、「ああ、確かに、そういう風に言えるな」というような、数学的な状況理解というか、記号としての理解が面白くて、知的な二人の会話がとても面白かった。

台本を見てもめちゃくちゃ面白い。娘を貰う方の男と、娘をあげる事に抵抗する父親の言語認識のズレが徐々に合わさって行く感じもさることながら、互いの認識がズレる「こっち」、「そっち」の部分がめちゃくちゃ面白くて、思い出す度に笑ってしまうのだが、日常生活においても、言葉の認識のズレというものは発生するし、それが色々な問題を起こすのだけど、ここには何か確かな温かさがあって、小林すっとこどっこいさんが演じる男が次々に言葉を付加していく気持ちが素敵だし、それを頭ごなしに否定せずに、理解しようとする父親の真面目さが気持ち良くて、言い争っているのだけど、言い争っていないというか、お互いがお互いを理解し合いながら、最終的にハッピーエンドに着地するっていう、その気持ち良さが最高だった。

恐らく男女の言い争いとかも、ふとした言葉の思い違いとかだったりするのかな、と思うのだが、ここには期待値とか暫定とか、数学の記号的な要素が入ってきて、言葉以上のもので意思疎通を図る感じが、いままで見たことが無かったというか、現実的にありうる場面でありながらも、特殊な場面が出来上がっていて、秀逸な作品だと思った。

私も言ってみたい。「君は僕の暫定彼女だよ」と。恐らく思いっきりビンタされると思うが(笑)

 

 05「婚活パーティーにやって来ました」

前回の公演でやった『コミュニケーション教室』に類似したコント。動画で『コミュニケーション教室』を見た時にも感じたのだが、『言語による他者との接触』がとことん追求された哲学的なコントだと私は思った。

というのも、電車に乗っていると、ごく稀に大声で駅名を叫んだり、何か突拍子もない言葉を発する人に出会うことがある。私はあの人たちは『別次元の言語世界に生きている人』という思いがあって、普通だとされている言語感覚とは異なる感覚を持った一部の天才だという認識がある。

誰の何の話だか忘れてしまったのだが、とある女性の父親がある物語の七話目だかなんだかに登場する人物の言葉が気になるのだ、と、しきりに発する状態になった。女性は父親がボケたと思っていた。女性の父親は時々思い出したように「あの話の七話目で、〇〇が言うセリフはなんじゃったっけかなぁ」みたいなことを言う。父が亡くなった後で、女性は父の言葉を思い出し、気になってその話を調べると、そこには「もう死にたい。生きていたくない」という言葉が書かれていて、その時初めて女性は「あれはボケていたんじゃないんだ。私の理解を超えていたんだ」みたいなことに、気づいた、という話を目にしたことがある。

今回のコントも、そういう普通だと思われている言語感覚が見事に段階を経て崩されていく。一人目は、ある特定の果物の話に異常に興味のある女性が登場し、それがちょっと怖いし、二人目は日常の中に突然、異物が混入してくるような恐ろしさがあって怖いし、最後の三人目は全く理解できない言語世界に生きていて怖い。それでも、面白いと思うのは、客席で見ている私と同じ言語感覚を持った主人公が、「無理だ!」とか「理解できない!」と吐露する。そこに「あ、仲間がいた」というような安堵感を覚えて笑ってしまうのかも知れない。

考えてみれば、女性との会話は、まるで行先の分からない船に乗せられて引きずられるような感覚がある。「え?その話必要?」とか「え?なんでそういうことを突然話すの?」とか、「ん?まったく私の話を理解してなくない?」とか「ん?そういう意味でとらえるの?」みたいな、疑問だらけの引っかかりみたいなものを感じるというか、脈絡の無さに困惑するというか、鈍行列車に乗っていたら新幹線に突然乗せられたというような感覚があって、もちろん、そういう女性にしか会っていない私も悪いのかも知れないが、このコントには、そういう他者とのコミュニケーションにおける戸惑いが多く含まれていて、かなり興味深かった。

最後のおさむさんのからっとしたセリフが面白くて、最高だった。ちなみに実際の婚活で「全く異次元の言語感覚を持つ人」に私は出会ったことがない。日常生活では多々ありますが。考えてみれば、お互いに何となく理解しあえているのって、奇跡なのかもしれない。

 

06「夢風船」

ああ、これが低温劇団なんだな、と思うようなコントだった。大きな笑いも無ければ、殊更に笑わせに行こうという欲も無い。ただぼんやりと不思議な空間が立ち上がって、その中に包まれてほんわか笑える感じ。私はこれが一番「低温ネタ」っぽいと思った。

最初は「あれ、これは登場人物が全員死んでいるのかな」と思ったのだが、登場する人物の言葉から「夢」であることが分かる。内容は台本を見て欲しいのだが、何とも言えない不思議な設定である。特別な意味が込められているようにも思えないし、なぜ風船なのか、なぜ夢なのかも分からないのだが、風船という物体が想起させる浮遊感、他者との微妙な隔たり、そして色。様々なものに夢という設定が説得力を与え、何だか分からないが面白いのである。

誰が言ったか忘れてしまったのだけど『人生は虫が見ている夢に過ぎない』みたいな名言があって、その言葉が何となくしっくり来るコントだった。何というか、人と人とが触れ合う曖昧さ、意志疎通の曖昧さがぼんやり滲み出てくるコントで、自分は相手と触れ合っていると思っているのだけど、実際は小さな小さな膜があって、現実的には触れていないみたいな、どこかで聞いた話を思い出すコントだった。

ムンクの『接吻』では、男女の境界線の消滅が、あの絵の素晴らしさを表現していると思うのだけど、現実は絵のように境界線が無くなることはなくて、一生混じり合うことのない儚さみたいなものがある。言語も体も、触れ合うことしか出来ない寂しさというか、悲しさみたいなものがあって、私はこのコントの『風船』からそれを感じた。

風船を介して、互いに触れ合うことなく会話しあう老夫婦が登場するのだけど、その距離感と浮遊感が、何だか寂しくもあるけれど、人間同士の意思疎通の儚さみたいなものを表現しているように思った。凄く哲学的な部分があるような、素敵なコントだった。

 

07「書きながら、一度も読み返すことなく、登場人物や結末も一切決めず、始めから終わりまで一気に書き上げたコント」(別題:混沌家族)

アンドレ・ブルトンサルバドール・ダリが表現した『シュルレアリスム』のようなコントでありながら、ジャクソン・ポロックのような『アクション・ペインティング感』もあるコントだった。どちらかと言えばデヴィッド・リンチのショートコントを見ているような、超現実の面白さがあって、特にシルキーラインのお二人の表現力と、その表現力に翻弄されるナツノカモさんが面白かったし、後半に出てくる異常オジサンのサンキュータツオさんの話も面白かった。

もしもシュルレアリスムが何か知りたい人には巖谷 國士先生の著書『シュルレアリスムとは何か』をオススメしたい。巷ではシュールリアリズムとか、シュールと混同されがちであるが、私は巖谷 國士先生の著作に基づいてシュルレアリスムと表記している。これが一番正しい用法だと思うので、是非オススメしたい。

勢いと混沌がところどころで爆発しながら、「あれ?これもまた夢の空間?」みたいな超現実感があるし、サンキューさんの発する言葉も、意味は分からないのだけど面白くて、その意味の分からなさを楽しむような、物凄い作品である。

これも台本を見て頂きたい。もしも台本がお手元に無い方は、貸します。というか、どこかで絶対手に入れて欲しい。そうすれば、恐らく私の記事も何となく理解できるはずである。

シュルレアリスム好きにはたまらないコント。味わってほしいねぇ。

 

 08『親子酒』

最後のネタにふさわしい題材のコント。インコさんの存在感と言葉のトーンもさることながら、そのインコさんと会話をする小林すっとこどっこいさんも素晴らしい。前記した『娘さんをください』でも共通しているのだが、『インコさん&小林すっとこどっこいさん』を合わせてナツノカモさんが作・演出となると、もはや無敵?と思えるような素晴らしい会話が繰り広げられていく。

これも台本を是非読んで頂きたいし、インコさんと小林すっとこどっこいさんが作り出す間と空間が素晴らしくて、これは是非生で見て頂きたいと思った。

最初は、ちょっといじけた父親と、やさぐれた息子の話だと思っていたのだけれど、後半のワードから、がらっと空間が変わるというか、それまでの認識が変わって、思い出したのは柳家喬太郎師匠の『孫、帰る』だった。その衝撃さもさることながら、そこから泣きそうになるギリギリのラインを攻めながら、笑いを巻き起こしていく感じが、凄く感情の揺れが気持ち良くて、「ああ、良いなぁ。良いなぁ」と思った。この「良いなぁ」は殆ど情緒である。

インコさんの所作とか声も凄く良かった。何とも言えないのだけれど、あの感じの役にピッタリだったし、不思議な緊張と緩和があって、ただただ最高だった。

凄く素敵な言葉に笑いが付加されて面白かった。温かくて、最後はほっこりする素敵なコントだった。

 

総括 手と手を合わせるような温度で

一つのツイートをきっかけに行動するのも悪くないと思った。今回、たまたまナツノカモ低温劇団を知り、その公演に参加することが出来て良かった。願わくば、この劇団を見るきっかけになったとある方に喜んで頂けたら幸いである。

ナツノカモ低温劇団。今回、初めて見たのだけれど、この才能は放っておいちゃ駄目だ。きっと落語・講談・浪曲が大好きな人にも、そして、ちょっと人とは違う自分に戸惑っている人とか、中心から外れてしまって寂しさを感じているような人にも、きっと温かく寄り添ってくれるような、そんな素敵な温度を持ったコントが、プーク人形劇場にはあった。

笑いというのは、どこまでも温かくて、人間味があって、素敵に美しいものだと思う。笑顔の女性がこの世界で何よりも素敵であることと同じように、笑いのある世界、笑いのある劇場があることは素敵だ。

思うに、私は中心から外れたコントだとしても、それはまた別の誰かの中心になるんじゃないだろうかと思う。そもそも中心にあるコントってどんなものなのだろう。どんな規則があったって、どんなルールがあったって、それが絶対の中心だと言えるものは無いんじゃないだろうか。例えば、神田松之丞さんは講談の中心だろうか?私は「そうでもあり、そうでもない」と答える。聴く人それぞれに、中心は存在するのだ。ある人にとっては宝井琴柳先生が講談の中心かも知れないし、ある人にとっては神田蘭先生が講談の中心かも知れない。何が正しくて正しくないなんてことは無い。確かな温度と情熱があれば、それはきっと誰かの中心で燃えるようなものなのである。

手と手を合わせるような温度で、相手の体温をじっと感じるみたいに、温かい気持ちが私の心の中に残った。とてもとても心地の良い空間だった。

演者の皆さん、作・演出のナツノカモさん。そして、この公演があることを教えてくれて、心の片隅で私を思い浮かべてくれたとある方。全てに感謝したい。

次も行きたい。だって美人がいっぱいいるんだもの(ジョーク)

文章を書くことが好きで、美人が好きなMORINOでした。

台本読んで想像して笑うのが楽しくて楽しくて仕方がないぞー!

【Day3】慶安太平記 神田松之丞 2019年1月12日 

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男は何かを見つけ、こちらに語ろうとしている。

 

三度、想像の風景

まず、言葉を見つけなければならなかった。客席に座る男は、そう思った。

目の前で語られた出来事を語るための言葉。単語は主語に形を変え、述語によって受け継がれ、動詞によって動きを始め、助詞を従え、修飾語によって脚色され、目の前には無い物語が、確かな実像を結んで立ち上がってくる。人の歩み、人の声、人の表情、人の思惑、人の欺瞞、人の動作、人の生、人の死。客席の男は言葉を探し、自らの言葉で脳に敷き写し、目の前で物語を語り続ける一人の講談師を活写しなければならなかった。目には見えぬものを言葉にし、眼前に立ち上がらせるために、言葉を見つけなければならなかった。そして、ようやくそれらしい言葉が見つかる。

舞台に座し、釈台を前にして語る講談師の眼は、鈍い輝きを放ち続けている。目には見えぬものを見ている。目には見えぬが、会場の300人にその光景を見せようとしている。否、否、否、と客席の男は思った。舞台に座し、言葉を紡ぎ、張り扇で釈台を叩きながら、講談師は物語を見ている。自らの言葉で語りながら、慶安の時代を見ている。確かに、見えていた。それは決して目に見えぬものではなく、確かに、眼前に、在り在りと浮かび上がっていた。事実はそこにあった。講談師の言葉は、全て事実だった。言葉は現実を超えた。誘われた、と客席の男は思った。そうだ、会場の300人が誘われていた。講談師の言葉が発せられたと同時に、講談師の姿は消え、そこに由井正雪が、怪力僧・伝達が、知恵伊豆に阻まれた高坂陣内が、存在していたのだ。悔し紛れに、「鰯の網に鯨がかかったと思いやがれ!」と吐き捨てた、知恵伊豆に向かって憎々しい表情を浮かべた男を見たのだ。それまで、一度も見たことのない筈の光景を、300人が、講談師が、同時に見ていたのだ。

これは想像の物語か?と客席の男は自らに問うた。これは想像の世界か?とさらに問うた。二度、三度、四度、五度。何度も自らに問う度に、客席の男は同じ結論に至った。

これは、現実だ、と。

三度、張り扇が振り下ろされる。釈台にぶつかった瞬間に音は弾けていく。舞台に座す講談師は、驚いたように何かを見つけた。何かを発見した。それは、自らが物語を語る中で出会った、新しい世界だろうか。否、と客席の男は思った。導かれているのだ。慶安の物語によって、自らの語りによって、そして、それを同時刻、同場所、同位置に存在する者達によって。

空間はまどろみ、再び無人の客席。今宵、三度目の物語が形を成す。

 

第八話 『箱根の惨劇』

高坂陣内との出会いによって、それまでの性格が破綻した怪力僧・伝達。語り始めた松之丞の生み出す伝達は、目の前で繰り広げられた様々な物事によって、精神を擦り減らし、自らの役目を無事終えた伝達の自暴自棄な姿を見事に描いていた。ここに、高坂陣内に強烈な影響を受けた伝達の人間らしさが表れていると思う。

前記事で書いた『戸村丹三郎』の性格の変換は、『戸村丹三郎という人間の本性』を起点として、性格が変わったように思うが、『箱根の惨劇』での伝達の性格の変換は紛れもなく前話『宇都谷峠』に登場した高坂陣内の影響であると私は考える。『人間の本性による性格の変換』と『他者の影響による性格の変換』の対比が存在していると私は思った。これは人間の人生における性格の変換にもぴたりと当てはまる。『戸村丹三郎』では、酒や女遊びに明け暮れながらも、憧れの対象に好意を抱き、周囲に対する態度を変え、自らの性格を変える。ここには自己中心的な、主体的・内面的な性格の変換があるのに対して、『宇都谷峠』・『箱根の惨劇』では、一人の謎の男(甚兵衛・後の高坂陣内)との出会いや経験に振り回された男(伝達)が性格を変える。ここには他者からの影響、受動的・外部からの性格の変換がある。この『性格が変わる』という部分を考えることも、講談の魅力かも知れない。私はどうしても「なぜ性格が変わったのか?」という部分を考えてしまう。そこが面白いと思うからだ。人間は単純な生き物ではない。そう簡単に一つのブレない性格を有した存在ではないと思っているからこそ、第六話~第八話は、人間の性格に迫った面白味があるように思った。同時に、一話の中で性格を変える戸村丹三郎と、一話を経て性格を変える伝達。この二つが物語の中で連なっているという事実も、連続読みだからこそ発見できた面白みだと私は思った。

さて、話を『箱根の惨劇』に戻そう。豪放磊落な伝達の荒々しい姿を、松之丞は勢いと威勢たっぷりに物語っている。護摩の灰との決闘場面も実に面白かった。目の前で松の木が撓り、三人(数は曖昧)の男が伝達に押し潰される描写も面白い。なぜその力を前話で発揮しなかったのか、という疑問は残ったが、それもやはり高坂陣内との出会いがあったのかも知れない。人は他者と出会うことによって、想像もしない力を手にすることがありえるのだ。

数々の悪行を目の当たりにし、自らも人を殺めるような人間へと変貌を遂げた伝達の元に、正雪一行が出会うのも納得がいく。類は友を呼ぶ。丸橋忠弥、秦式部、戸村丹三郎、そして怪力僧・伝達。それぞれに生い立ちも生き様も違えど、心の奥底に通底する濁り、淀み、内に秘めた野望が引き寄せ合った結果、由井正雪を中心に一つの集団が生まれ、群れを成し、力を得る。

松之丞の表情は、基礎を正雪として形作られているように思った。そこから様々な性格を持った人物が声色・表情・得意技を変えて登場してくる。この人物描写を一話一話、丁寧に語ることによって、由井正雪という人物が浮き上がると同時に、波紋のように周囲の人間達に伝達し、同時に浮かび上がってくる。

また、話の配列が絶妙である。正しく聴く者を引き付けるための、完璧な配列だと私は思う。正雪の野望誕生から、無鉄砲な丸橋、詐欺師紛いの秦式部、自己中心の戸村丹三郎、そして意図せずして仏道から俗世間へと道を変えた伝達。

秦式部までは、正雪の登場場面が多く、それだけ正雪の姿も浮き彫りになっていたが、戸村丹三郎から伝達までは最後、または後半に登場してくる。正雪の登場の仕方にも物語に深みを増す工夫がなされているように思う。人生における一つの教訓のような出会い方だ。出会うべくして出会っている。善も悪も、陰も陽も、まるで太陽と月のように、光と影のように、物語は一日のように移り変わっていく。

この話には、強烈な他者によって変貌を遂げた一人の男の、人生の分岐点が描かれているように思えた。荒れ放題、ありあまる力を使い放題の、鬱屈した行き場の無い衝動。確か、力が余って竹を割る場面があったと思うが、行き場の無い力・不満に対して方向性を与える正雪の賢さには、驚嘆するばかりである。

人は自らでは抑えきれない衝動を抱いた時、それを自己で処理するか、他者で処理するかという二択を迫られるのかも知れない。この物語において、衝動を抑えきれなかった伝達は他者を殺し、その事実によって悪の道へと歩みを進めることになるのである。

 

 第九話 『佐原重兵衛』

冒頭、夜桜を愛でる場面があった。松之丞は上を向き、愛おしそうに夜桜を見ている。正雪の人間らしい一面が見られる素敵な場面だ。人を騙し、人を殺め、人を手駒にする男であっても、夜の中で月の光に照らされた桜を愛でる気持ちがあるという事実が、正雪という人間の魅力を惹き立てている。松之丞の語りも、リズムも、それまでの人を騙そうというような気持ちは感じられない。目の前にある美しい風景を、ただ美しいと感じている一人の男の存在を語っていた。そこには、幕府転覆を企む男の燃えるような野望は無いように私には思えた。同時に、正雪は夜桜のような存在でもあるのかも知れない、と思った。

日光を浴び、春の風に花びらを舞い上がらせる桜。多くの人々が桜の木の下で日の光を浴びながら酒を飲み、親しい仲間と言葉を交わす。そこには、紛れもない陽の気配が漂っている。青空に映える桜の薄く滲むような淡い赤が、酒によって上気した人間の表情を思い起こさせる。

対して、夜の闇の中で月の光に照らされた桜には、音も無く静かに燃える炎を感じさせる。夜桜には微塵も淀みは無く、静かに、ただ凛としていながら、物言わぬ熱を持った生命の輝きがあるように私は思った。日の光を浴びることなく、冷たい月光を浴びながら、それでも何一つ欠けることの無い輝きを放つ桜を、正雪が愛でるということが、正雪そのもの、慶安太平記そのものを象徴しているように感じられた。

だから、直後の槍の不意打ちには、正雪という人間の生命が絶たれてしまう危うさを私は抱いた。思わず心の中で「危ない!」と叫んでしまうほどだった。善と悪に境は無いのかも知れないと思っている自分がいたのかも知れない。悪行を重ねる正雪に心惹かれてしまうのは、夜桜を愛でるという行為だけに留まらない、人間としての良さを発見しているからなのだろう。松之丞の語りは、悪を単なる悪として描き終えてはいないと私は思う。悪を悪だと言うことは簡単だが、それでは聴く者に嫌悪感しか抱かせることが出来ないと思う。悪とされる人間にも、善の心がある。同時に、善とされる人間にも、悪の心がある。善悪の境は無く、陰陽は一体であるというような語りを、松之丞はしているように思う。それは、人の感じ方の程度の問題であるから、一概に断定することは出来ない。だが、私は槍で突かれた後の正雪の態度に、はっきりと陰陽は一体である、というような印象を抱いた。

槍の不意打ちを受けた正雪は、一切動じない。それは、正雪の確固たる意志を表現しているように感じられた。こんなところで死ぬような運命には無い、という自信。そして、自らに槍を向けた人間には、何かしらの思惑があったであろう、という推察。松之丞は冷静に、ゆっくりと、正雪の言葉を紡ぐ。ここに、一人の男の揺るぎない思いの強さを私は感じた。

松之丞の語る正雪は、どんな出来事が起こっても幕府転覆という大きな野望のために、全身全霊で行動する。自分を信じ、周囲を冷静に眺めながら、自らに槍を向けた人間さえも仲間に取り込む。それだけ、人を魅了する魅力が籠った語りと表情を、松之丞は冷静に語っている。人の心の奥底をくすぐるような、感情と気迫の籠った声。それは決して威勢よく啖呵を切るような稚拙なトーンではなく、むしろ、短刀をゆっくりと首元に近づけられているかのような、静かな気迫。映画『スタンド・バイ・ミー』でエースに銃を向けるゴードンのような、無言の気迫を松之丞の語りから感じた。本当に怒る者は、怒鳴り散らさずに、静かに淡々と語るのだというリアリティが、発せられる語りの随所で光っていた。

 

 第十話 『牧野兵庫(上)』

冒頭の正雪と牧野の出会いは実に印象的だった。袖擦り合うも多生の縁というが、正雪と出会った牧野は、その後の人生を大きく一変させる。甚兵衛と出会った伝達が様々な出来事に巻き込まれて正雪の仲間になるのに対し、ここでは唐突に正雪と出会った牧野が仲間になる。正雪が意図して牧野に出会ったのか、それとも偶然に出会ったのかは分からないが、前半の松之丞の語りは、それまでの染み出すような憎悪や苛立ちというものは感じられず、むしろ人と人が出会う偶然の奇妙さを、さらりとしていながらも鮮やかに描き出しているように思えた。

牧野が大病を患い、正雪が看病に訪れる場面も印象的である。一体、正雪という男は牧野という人物の何を見抜いたのか。私は、前半の松之丞の語りから、牧野の純粋さ、真面目さ、人間としての優しさを正雪は見抜いたのではないか、と思った。もしも牧野が短気な人間であれば、正雪との出会いでは「何しやがるんだ!こんちくしょう!」と怒鳴っていたかも知れない。僅か数語、語り口、表情で牧野兵庫という人物の誠実さを描いた松之丞には驚嘆する。正雪が牧野を仲間にする理由が、何となく冒頭の出会いの場面から私には推察された。

看病に訪れる正雪には、その後の企みを感じさせるような感情は感じられなかった。むしろ、誠実な牧野に対して誠実な看病で接する正雪の姿が描かれていた。

後半、牧野は仕官となる。その為に、正雪の憎き相手、徳川頼宜の前で砲術を披露することになるのだが、その牧野の姿を見て、正雪は笑っているように思えた。それは、牧野が頼宜の側近になり、自らの野望が達成されるという期待の笑みではないように私には思えた。むしろ、純粋に牧野の仕官を喜んでいる正雪の姿が、松之丞の語りから感じられたのである。自らの野望以上に、牧野の仕官を喜んでいるように正雪が感じたのは、牧野に対する正雪の誠実な姿を見ていたからかも知れない。牧野を看病する正雪の姿に、一切の偽善が無かったからこそ、正雪の野望を打ち明けられた牧野は感銘し、正雪の仲間になったのだと思う。正雪の行動に微塵の浅ましさも感じられないという部分もさることながら、松之丞の語りに浅ましい性格を持った正雪が描かれなかったからこそ、この話には清々しさがあると私は思った。

牧野の放った大砲が見事に目的を達成するとき、一つの達成を迎えた正雪の優しい表情が見えた。もしかしたら、自分には叶わなかった夢を叶えた牧野の姿に、自分が歩むことの出来なかった一つの人生を正雪は見たのかも知れない。松之丞の語りから、私は蒼天の下、遠く離れた的に見事に砲弾を命中させた牧野の喜び、頼宜の感心、そして正雪の牧野に対する喜び、そしてさらに、その奥に存在する大きな目的を見つめているような、様々な表情を見た。

 

第十一話 『牧野兵庫(下)』

晴れて頼宜の側近となった牧野兵庫の逞しい姿が描かれる。牧野兵庫という人間の性格の変換も、前話と合わせて強烈に印象に残った。

冒頭は、頼宜の側近として活躍を見せる牧野の姿が描かれる。私はこの部分で戸村丹三郎を思い出した。憧れの存在の傍で、精いっぱい活躍をしながらも否定され、挫折感から怒りを抱いた戸村丹三郎に対して、牧野兵庫は精いっぱいの努力が認められ、みるみる内に出世していく。この対比も面白い。酒と女に明け暮れた自己中な戸村と、誠実で大胆な牧野。連続読みで体験することによって、それまでに聞いた話に深みが増すととともに、新しい話にも深みが増す。慶安太平記という物語の、話がそれぞれに呼応している感じが何とも面白い。

特に、B日程で挟み込まれたという『大蛇退治』は、牧野という人間を大きく変えた出来事だと私は思う。頼宜の命を救うという、これまでに無いほどの主君への行動。大蛇を切る牧野の心が、この瞬間に変わったのだと私は思った。それまでは頼宜に褒められて嬉しい思いを抱いていた牧野が、頼宜の命を守る存在である自分を自覚、或いは、そういう存在だと自らを思い込むきっかけとして、大蛇退治が存在していると思った。大雨の中、真っ二つに切られて絶命した大蛇を睨む牧野の眼光の鋭さが、松之丞の表情と相まって印象に残っている。前話から大蛇退治まで、正雪と出会った頃の誠実な牧野の、誠実さの方向性が頼宜へと定まった瞬間に胸が震えた。同時に、ここからの牧野の語りを松之丞は変えている。

完全に自らの方向性を定めた牧野は、頼宜の絶対的な信頼を勝ち得、頼宜に「牧野は傍においてはなりません」というようなことを言ってきた男を、殺害する。

その殺害を実行する牧野の声、表情の残忍さが鮮やかである。前記事でも書いたが、人間の性格がダイナミックに変わっていく。物語の前半と後半とで、陽から陰へと変わりゆく起伏がとても大きい。牧野が槍で上記の男を殺害する場面は、誠実さを野心へと変えた男の残酷さがはっきりと浮かび上がっていた。

どんなに誠実な人間であっても、立場や環境によって性格が一変してしまうのだということを感じた。ここまでの物語で繰り返しになってしまうかも知れないが、登場する人物が様々に性格を変えて行く。その性格の変換が私はそれぞれにきちんと理由があるように思えて、非常に興味深く、実に面白く聴いた。

松之丞の語りも、性格の変換を見事に描き切っていた。正雪と出会った頃は、真面目で優しい表情をしていた牧野が、自分の失脚を頼宜に嘆願した忠臣を殺害する時には、濁りの無い怒りの眼で、槍を突き刺すのである。ゾクゾクするような人間の心変わり、表情の変換、そして声のトーンの高低。光から影へと移り行く様が、人間本来の本性を暴いているかのようで、胸が震えた。

 

総括 人間の本性、その光と影

芥川龍之介の『蜘蛛の糸』では、現世での善行によって神から垂らされた蜘蛛の糸に縋りついた男が、地獄から這い上がろうとするが、他者に対する罵詈雑言によって、その糸が切れ、地獄に再び落ちる。子供心に、人間の心の浅ましさを感じた物語であるが、慶安太平記を十一話まで聞いて、物語に通底する人間の本性のようなものを、何度も繰り返し、形を変えながら聞いているように私は思った。

蜘蛛の糸』の主人公のように、善いとされる行いをする人間であっても、他者に対して悪言を垂れる。一人の人間の中に善悪が混在しているということが、非常に現実感を伴って感じられる。慶安太平記では、より多くの判例というか、人が善から悪へと傾いているようで、実はその悪も善であるというような、二項対立の性質ではなく、全ては二つで一つなのだ、ということを私は物語から感じた。

300人が揃い、一人の講談師の語る物語を聴きながら、それぞれに感じることはあるだろうと思うが、私はここまで書いて、上記のように思ったのである。善悪は二つで一つ。そして、唯一、由井正雪の野望は未だどうなるのか分からない。丸橋忠弥、秦式部、戸村丹三郎、伝達、佐原重兵衛、牧野兵庫。それぞれにそれぞれの善から悪を描き、最終的に由井正雪の下で幕府転覆の夢を抱き、行動している。

ついに、頼宜の傍に付く者も現れた。第四夜では、一体どのように由井正雪、そして由井正雪の下に集った人間達が行動をするのだろうか。

物語は何度も何度も大きな起伏を描きながら、最後へと向かっていく。B日程中日。一つの真理と、由井正雪の野望達成に向けた道が見えたところで、今宵はお開き。

さて、慶安太平記。これからどうなっていくのだろうか。