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自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

ノブレス・オブリージュの肖像~4月17日 はなし亭~

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女性というのは覚悟と本気の生き物かも知れませんよ、苦沙弥先生

 

これェ、要らないんだけど―――どうする?

  浮く足 泳ぐ足

 今日はずっと3cmくらい地上から足が浮いていたのではないかと思う。それくらいに私はフワフワしていたから、見る人が見たらクラゲと見間違えたであろう。ランチの時なぞはあらんかぎりの富を使って食べたり接吻をしながら札束で汗を拭いていた。医学用語ではこれを『食うチュウ富裕』と呼ぶ。「かぁちゃん、やってっか?」でお馴染みケーシー高峰先生に愛をこめて。

 さて、誘われてきたのはノアの箱舟ならぬ、落語家の箱舟、本所BIG SHIP。毎度お馴染みの1Fロビー受付の紳士に「らくごは、よんかいですー」と案内され、いざ4階へ。

 ずらっとご常連の方々が列を成し、文菊師匠とこみち師匠の受付でご挨拶を済ませて入場。やはり地域密着型なのであろうか、ご年配の方々が多い。私のようなワコウド(?)は少ない様子。美人が多いので心地よく、また、1000円という破格のお値段なので、行ける人は絶対に行った方が良い。

 

 ネタ卸し、その一生の思い出について

 渋谷らくごにおける『しゃべっちゃいなよ』や、独演会などで『ネタ卸し』と銘打って演じられる落語のネタは、演者のみならず観客にとっても一生の思い出になる。それは、積み重ねられた稽古の結果が、世界で初めて大勢のお客様の前に披露されるからである。言わば赤子の誕生と言っても過言ではない。赤子の成長を事あるごとに他の会などで見ることが出来る体験は筆舌に尽くしがたい。以前にも書いたかも知れないが、私にとっては『しゃべっちゃいなよ』で彦いち師匠が掛けた『つばさ』がとても印象深い。その後、多くの寄席で『つばさ』を見た時の嬉しさが、私をネタ卸しの虜にさせてしまった。

 大好きな落語家の、ネタ卸しの瞬間に立ち会う。それは初恋にも似ている。初めて恋をすると、相手のことを知りたいという思いが心を埋め尽くす。読者にもそんな経験が無いだろうか。相手の一挙一動を見逃すまいと、必死になって見てしまう気持ち。どうにか喜んでほしくて、優しい言葉ばかりかけてしまう気持ち。相手の事を考えれば考えるほど、何も手に付かなくなってしまった経験が読者にも無いだろうか。無いか。そうか、それならば良い。うむ、分からなくとも良い。私には、大好きな落語家がネタ卸しをするということは、初恋そのものなのである。言わば、無条件に、あの人はどんな風に語るのだろうと気になってしまうのである。

 だから、毎回、私はネタ卸しの会が楽しみでならないのだ。

 

 古今亭菊之丞 鮑のし

 マクラで会場が湧く。そこからは素敵な女将さんと甚兵衛さんの会話が続く演目へ。ちょっと抜けている人を語っても見事な菊之丞師匠。女将さんの気立ての良さ、しっかりしてる様子がお見事で、甚兵衛さんの人は良さそうなのに抜けてる感じが面白い。そんな甚兵衛さんに助言する大工の棟梁のカッコ良さたるや!毎回ネタ卸しとは思えない完成度かつ、テンポ良く物語が進んでいく気持ち良さ。

 志ん生師匠や馬生師匠が主に演じてきた演目を、とても和やかな雰囲気で演じた菊之丞師匠。会場の空気が非常に温かく、前回よりも人が増えた様子だった。

 

 柳亭こみち 酢豆腐

 聞けることが嬉しい日常のマクラから演目へ。落語が好きで好きで堪らないこみち師匠が話しているのを聞いていると、なんだかこっちまで心がウキウキしてしまう。似た演目で『ちりとてちん』というものがあるけれど、酢豆腐は簡単に言えば『江戸っ子たちが酒の肴を話し合っているところに、若旦那がやってきたので、腐った豆腐を食わせる』という話である。こみち師匠の溌溂とした声と、表情と個性が豊かな登場人物達、中でも後半の若旦那の個性が際立っていて面白い。また、若旦那のキテレツっぷりも冴えわたっていて、生来の優しさが滲み出ているせいか、若旦那が腐った豆腐を食べる場面にはついつい「あ、なんかちょっと若旦那が可哀想だな・・・」と思ってしまうくらいに愛らしい若旦那だった。この辺りは好みの分かれるところかも知れない。知ったかぶりが過ぎて鼻に付く高慢な若旦那が登場したり、『ちりとてちん』ではお世辞が言えないイヤーな男が出てきたりするのだが、こみち師匠の若旦那は呆けに呆けている感じがどうにも憎めない。それがこみち師匠の性格と相まっているかは分からないが、とても素敵な一席だった。

 

 古今亭文菊 お直し

 袖から現れて数秒後に大きな拍手が起こる。拍手が起こった瞬間に、中腰で登場した文菊師匠は、さらに膝を落とし、「はいっ」と口を動かして優しい眼差しをする。一瞬膝を落として拍手に応える文菊師匠の姿に、私は水面に浮かぶ釣り道具のポリカンウキを思い出す。水面に浮かんでいるポリカンウキがくいっと沈んでいく様に近いものを、文菊師匠が袖から登場し、観客の拍手への返答として膝を落とす所作に感じるのである。だからあれはきっと大間のマグロが引っかかったに違いなく、観客はあの膝落しで無意識の内に「あ!餌に魚が食いついたぞ!」という興奮を抱いているに違いない。そうだ、きっとそうだ、そうに違いない。

 大間のマグロが釣れた後、まな板の上に乗せられたマグロを食すが如く、ふわりと着座し、箸ならぬ、扇子をゆっくりと置いて結界を作ったあと、深くお辞儀をする文菊師匠。さあ、食べるぞっ、とばかりに扇子を右手に持って脇に置く。結界を解いて、顔を上げて観客の顔を見渡した時、文菊師匠の心中にはどんな思いがあるのだろうか。嬉しさ、と一言では言い表すことの出来ない様々な思いが、まるで四方八方から吹く凪のように、混じり合って一つになっているのではないだろうか。

 世間的なマクラを振ることなく、本筋に沿ったマクラに入った文菊師匠。亡き圓菊師匠の所作も披露しながら、物語にスッと観客を引き込む。グッと張り詰めた空気感の中で、淡々と話し始めた文菊師匠の言葉に、迷いはなく、淀みも無い。本当にこの人は、一体どれだけの稽古を積み重ねて来たのだろうと毎回思う。

 お直し、と語り始めたいのだが、この演目を語るとき、私はどうにも言葉に窮する。そこには、言葉では言い表すことの出来ない様々な感情があるからである。当然、他の話ももちろんそうなのだが、こと『お直し』という演目は、私自身もどう言葉を費やせば伝わるか、ということを考えるのが難しい。一番簡単なのは、文菊師匠の『お直し』を見ることなのだが、それだけではどうにも不親切であるから、ここはひとつ、全体の詳細は語らず、物語中の一つの所作に焦点を絞って書きたいと思う。

 

 女の覚悟

 文菊師匠の『お直し』を見て、鳥肌が立った場面がある。それは、盛りを過ぎた花魁が、かつて客引きだった亭主の提案で『ケコロ』をやることになり、化粧をする場面である。言うまでもなく、文菊師匠の演じる女性は天下一品の色気があるが、この時の所作には鳥肌が立ち、ゾクッと全身に電流が走った。年配の女性はふふっと笑っていたが、それはきっと「あら、化粧の仕草が上手ね」という笑いだと思うのだが、私は笑うことが出来なかった。

 一つ説明を省いた。『ケコロ』とは『最下級の私娼』を意味する言葉である。かつては全盛を誇った花魁が、客引きの亭主にケコロになることを提案され、最初は嫌々ながらも覚悟を決める。この覚悟に、私は花魁の気持ちを痛いほど感じてしまったのだ。

 周りから羨望の眼差しで見られ、お呼びがかかれば殿方を魅了し、大金を稼いで暮らしていた頃に、温かい言葉をかけてくれた男。やがて盛りを過ぎ、誰からも見向きされることなく、取り持ち役のやり手になる。やがて男と夫婦になるが、男は博打で金を使い果たし、どうにも生きていくことが出来なくなる。そんなときに、最後の手段として、娼婦となり、愛する亭主とは別の亭主に抱かれて金を稼がなければならなくなる。この境遇を、素直に受け入れることが果たして出来るだろうか。私が女だったら絶対に出来ない。ケコロになれ!という亭主など捨ててどこかへ行く。だが、『お直し』の花魁はそういう行動には出ない。そこには、花魁が亭主に対して抱く愛があるからでは無いだろうか。

 愛する亭主の言葉に覚悟を決め、花魁は鏡の前で化粧をする。その所作の奥にある、女の覚悟。何百、何千もの夜に、自らを彩り、着飾り、男を魅了し続けてきた女の覚悟。女は化粧をする度に、一体何を思っているのだろう。大勢の花魁の中で頂点に立つために、女が磨き続けてきた、自分を美しく魅せるための術。文菊師匠の、化粧の所作を見た時、私の胸を襲ってきたのは、そんな女性の一世一代の覚悟だった。つくづく、女性には敵わないという気持ちで私の心は一杯である。

 男というのは、本当に愚かなもので、女性の覚悟にとんと気が付かない。『お直し』の亭主のように、花魁が化粧をした後の様子を見ても「はぁ~、綺麗になったなぁ。お前がいると掃き溜めに鶴だ!」なんてことを言うだけで、花魁の覚悟には全く気が付かない。私は無性に亭主に対して腹立たしさを覚えた。

 なんで花魁の覚悟に気づかないんだ!?

 お前のために体を張っているんだぞ!

 と、頭の中で声がする。だが、花魁は亭主に「そうかい?」みたいなことを言いながら、お金を持っていそうな客まで選別する。とことん、女性には敵わない。綺麗な化粧をしても、それが他の男を魅了し、抱かれるというのであれば、男ならば黙っていてはいけないのだ。それなのに、物語の亭主は意気揚々と客を捕まえてくる。その底抜けの間抜けさが、もしかすると花魁を魅了したのかも知れないと思う。思うし、羨ましいし、嫉妬する。もしもそんな男性が好きだという女性がいるのならば、声を大にして言いたい。あなたは騙されているんだぁ~~~~~(抑えきれない嫉妬心を溢れさせて)

 さて、そんな女性の覚悟に関して、こんなお話を一つ。

 

 尾崎一雄の『暢気眼鏡』に見る女性像

 尾崎一雄先生の著書『暢気眼鏡』には、困窮した貧乏暮らしの中で、自らの金歯を抜き、目の前に差し出して、ドラ焼きを買いに行こう!と亭主に相談する女性が出てくる。亭主は女房の気持ちを察しつつも、馬鹿な真似をして、もう片方は勝手に取るなよ!と言いつつ、女房が抜いた金歯を質に入れ米を買うのだが、いざ、二人で飯を食う段になって、女房の歯が抜けていたので飯が上手く食えなかった。という話がある。

 是非読んで欲しいので、敢えて詳細は語らないが、ここにも、亭主へのまっすぐな女房の思いがあると私は思う。金が無くて、貧乏で生活に困って、自らの金歯を抜く女房。歯を抜く場面は語られない。語られないからこそ、金歯を抜いた女房の気持ちが痛いほど想像できて、「ドラ焼き買いに行こう」という言葉以上の感情が沸き起こってくる。なんて愛らしい女房なのかと思う気持ちもあるし、さぞ痛かったろうにと抱きしめてあげたい気持ちも沸き起こる。女性は、私が思っている以上に、覚悟と本気で生きているのかも知れない。

 『お直し』の女房もまた、自分の誇りをかけて、愛する亭主のために化粧をし、男を魅了する。やがて、亭主は女房にやきもちを焼き、「こんな商売は止めだ!」というようなことを言う。ここで、女房の気持ちが爆発する。

 これも、語りたいのだが、敢えて、ここは敢えて、語ることは止めておこう。

 全てはまず、一度、あなたに見てほしい。話はその時にしようではないか。

 お直し。これにて了。

 

 総括 高貴さの宿命

 人はそれぞれの環境によって、成すべき事柄が異なってくるようである。高貴な者は、高貴な者であるが故に、果たさなければならない義務というものが発生する。開高健氏いわく『位高ければ、務め多し』である。

 文菊師匠は、その品格故に、その品に伴うあらゆる義務を強制されているのかも知れない。それは、観客が無意識の内に求める、『凄いものを見せてくれる』という期待に、応えなければならない、という義務である。否、義務という言葉は不適切であろう。だが、文菊師匠は文菊師匠であるがゆえに、文菊師匠としての任を与えられていると思うのだ。

 そして、文菊師匠は常に、観客の想像を超えて進化し続けている。もはや他の追随を許さない宿命を背負っていると言っても過言ではないと思う。

 そんなことを伺うことは出来ないけれど、私はただただ文菊師匠には敬服する。あんなに素晴らしいネタを、毎回、3か月のペースで卸しているし、そこに一つの言葉の淀みも無いのだから、これは殆ど神業に近い。

 正に、ノブレス・オブリージュの肖像を落語として見ているような、文菊師匠だけが有する高貴さに目を奪われ、心が震え、鳥肌が立った一夜であった。

 そして再び、『お直し』を見た時に、後半に抱いた気持ちを改めて書くことにしよう。そう、これもまた一つ、ネタ卸しの楽しみとして取っておこうではないか。

 さて、この『お直し』がどんな風に形を変え、進化していくのか。前回の『百年目』同様、先が楽しみで楽しみで仕方がない。

 そうそう、これは5代目古今亭志ん生師匠の十八番のネタでもある。古今亭のお家芸にふさわしい。物凄い思いが籠った一席だった。

 次回は7月11日木曜日である。休んででも行って欲しい。そんな素敵な会だ。

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もう駄目だ。独裁は止まらない~4月14日 シブラク 17時回~

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BIG CHANGE is GOOD(?)

  どうした、森野

 人々が殺し合いに注いできた情熱を洋服とセックスに注ぎ込むような街、

 渋谷で、

 私、先祖が殺し合いに注いできた情熱を落語に注いでいる。

 何の生産性も無いし、敵はむしろ自分なんだけど、

 ただ笑うためにユーロライブに行って、ユーロビートを一切聞かずに、

 着物来た四人の話を聞いてる。

 これって、江戸城無血開城並みの平和な空気がある。

 慶喜もびっくりのやつね。

 ま、近くのホテルじゃ血が流れてるのかも知れないけど、

 私はただ口から息を出して、篠原ともえみたいな笑い声を発しながら、

 血を流すどころか涙流して笑ってるわけ。

 ラーメン屋じゃ汗流してる人がいるわけ。

 どこか異国のアルバイトさんがドラクエのレベルアップした時の音階で、

 「高菜ラーメン一丁~」とか言ってるわけ。

 ま、私から言わせれば『いっちょう』と言えば

 『いっちょうけんめい』なんだけどね。

 何回ユーロライブに来ても、ああ、いいなって思うのは、やっぱり雰囲気。

 大人の上質な空間っていう感じがね。

 私も大人になったなーっつって、

 森繁久彌じゃないけど「1回どう?」みたいなことを

 さらっと言えそうな空間っていうかね。

 アダルトな雰囲気があるのよ。

 カンパニー松尾とかがカメラ持って待機してる感じのね。

 シミケンとはぁちゅうが一緒に座席に座りながら、

 今晩のオカズはうどんかな?みたいなことを考えてる空間がね、あるわけですよ。

 でも時々、そりゃ先祖には申し訳ないなーっとは思いますよ。

 だって、欲望の多い街で落語聞いてるんだから。

 お前の行き場の無い性欲を落語で消化するなよって思われても仕方ないわけですよ。俺たちが殺し合いに注いできた情熱を落語に注いでんじゃねーぞっていう、先祖からのお叱りを受けても、反論すら沸き起こってこないわけ。

 でも、そんなことは微塵も頭を過らない。

 乗っちゃったメリーゴーランドは回るしか無いわけで

 一度乗ったらどれだけ速度が速まっても振り落とされないようにしなきゃならない。

 カメラ回したら、カメラは止められないわけ。

 文菊師匠が何かやるって言ったらさ。

 それはもうブンギク感激~って感じで、亡き西城秀樹にYMCAのサインを送るみたいに、

 私は文菊師匠に心の中でピースサインを送ってしまうわけ。

 シド&ナンシー、ボニーとクライドも敵わないくらいのピースをね。

 でもね、文菊師匠に出会う度に、

 人生ゲームで言えば「フリダシに戻る」みたいな感覚になる。

 文菊師匠に会う度にダンジョンで強烈な敵に一撃食らわされるトルネコみたいに。

 渋谷らくごで何回フリダシに戻り、レベルゼロスタートしてるか分からない。

 会いたくないと思うんだけど、会わないと禁断症状が起こる。

 私にとってコカインや麻薬よりも凄い中毒性のある文菊師匠。

 きっと渋谷という街のどこかでは、非合法な麻薬が売買されてるのかも知れないけど

 ユーロライブという場所に集まった落語好きな人々は

 合法的に、体全身に

 落語家という名の麻薬をぶち込んでいるのだということが

 今日、改めて分かってしまった。

 

 春風亭昇市 お見立て

 DNAの2割に佐藤浩市が入っている昇市さん。

 ということは、三國連太郎と石原とし子のDNAが一割入っていても

 おかしくないのだけど、

 喋ってみると全然浩市入ってなくて、どこいった浩市って感じで、

 生霊でもいいから降りてきてナイフベロベロしてくれ、とか思いつつ、

 顔と声のギャップが凄まじくて、

 最初に抱いた佐藤浩市のイメージは千里くらい離れて亡国のイージスなんだけど、

 さらっと青春とか妖怪と言うくだりは『新選組!』って感じで

 どことなくニヒルな浩市が浮かんでは消える雲みたいだった。

 ずっと見ていたら、これ浩市じゃなくて寛一郎の方じゃね?

 心が叫びたがってるやつじゃね?と思い始めたんだけど、

 田舎侍の感じが、ナイフベロベロの浩市っぽいんだけど、

 佐藤浩市いしいそうたろうの絶妙な中間、

 雲の絶え間を貫く光みたいな表情が素晴らしかった。

 出来れば次は、ナイフを持ってきてほしい。一回やってほしい。

 どうした、森野。

 

 古今亭志ん五 お菊の皿

 妖怪ウォッチに出てきそうな、年老いたジバニャン風の志ん五師匠。

 なんか野良猫を見てる感覚になる。よしよーしって頭撫でたい感じ。

 絶対にちゃおちゅーるとか与えたら食いついてくる愛らしさの志ん五師匠。

 志ん橋師匠ってそんなに声低かったっけ?と思いつつ、

 志ん五師匠の演じる志ん橋師匠の無邪気な発言が超かわいい。

 実際、志ん橋師匠って高座で見るとぬらりひょんっていうか、

 大きな使い古されたしゃもじみたいな人で、

 一龍斎貞水先生と宝井琴柳先生を足して二で割って落語家にしたのが

 志ん橋師匠だと思っているのだけど、

 志ん五師匠は滲み出る野良猫感、それもでっぷりと肥えて気だるそうに

 街を歩いて、たまに歩行者をちらっと見たかと思うと

 ぷいっとどこかに消えて行ってしまうような、

 そんな愛らしさがある。

 ネタに入ってからも、どこか和やかな雰囲気があって

 どことなくマッコリ飲んでる感じに近い心持ちになる。

 あの朗らかさって、やっぱり人柄なのかな。

 とても朗らかだったので、次は焼いたサンマとかを上げたい。

 きっとかぶりつくと思う。

 どうした、森野。

 

 瀧川鯉八 にきび

 この一席をやるときの鯉八さんって、変態催眠術師だな、と思う。

 独演会の時にネタ卸ししてた一席で、

 それはそれは、催眠音声!?ばりの快感を呼び覚ましてたし、

 聞いてる女子も「ゾクゾクゾク~」みたいな感覚を間違いなく抱いてるだろうし、

 年配の、それこそ年を重ねた婦人であればあるほど、

 「あら~もう~いやだわぁ~」みたいな色っぽい笑い声が起こって、

 鯉八さん、マジ、ありがとやーす。

 と心の中で仏壇に手を合わせるくらいの感謝をしてるんだけど、

 実際、噺に出てくるバアちゃん、絶対エロいよね。

 自分の快感のために、息子の顔面を犠牲にするって、相当、ヤバいよね。

 というか、ニキビの快感を滔々と説明するバアちゃん、マジでヤバイ。

 私のバアちゃんがそうだったら、正直引くし。

 あ、こいつもしかして、何人かの男性経験の後に、今のジジイとくっついたんだな、

 とか、ジジイ、魂抜かれたんだな、このバアさんに。とか

 いろいろ思ってしまうわけなんだけど、結局、女性って年を重ねて行くごとに

 エロくやらしくなっていくよねっ☆

 若い女子小学生には絶対聴かせちゃダメだと思うけど、

 問答無用でグレーゾーンに突っ込んでいく鯉八さん、カッコいいっす。

 正直、にきびという演目は、物凄いエロいし、ネタとして高座に掛けるのは

 物凄い勇気がいると思うの。高座に出ていきなり「パンティー」とか

 言うくらいの勇気があると思うの。

 鯉八さんはその辺りの空気を生み出すのが上手くて、マクラからマジックが

 始まってるわけですよ。許されるならやっちゃうでしょ?みたいな

 毎回聴く度に、私は鯉八さんに思う。

 もう駄目だ。独裁は止まらない。

 どうした、森野。

 

 古今亭文菊 三方一両損

 私、ここだけはふざけられないと思うので、真面目に書きます。

 いつもの中腰で登場の文菊師匠。座布団に座るまでの所作で完璧に空間の雰囲気を変えてしまう魔法。まるで天界から降りてきた天女の如く、先ほどまでの現代的な悦楽の世界を見事に断ち切り、一瞬にして江戸の色気で空間を塗り替える。左官屋であれば久住有生さんのような、百年後にも感動させるであろう完璧な所作。それは、五郎丸で言うルーティンであり、リズムを整えるための準備でもある。島田紳助氏が語る『語りのリズムは歩行の速度』という言葉にもあるように、文菊師匠は自らの身体から語りのリズムを作り出している。

 一声を発すればたちまち場は江戸へと移り変わり、唇が焦げ付くような怒涛の啖呵まで抑揚とともに淡々と言葉が語られる。言葉の緩急、高低は自由自在で、首元の鳥籠に棲むカナリアは今日も七色の声を発し、聞く者の耳と心を捉え、鮮やかに財布を届ける男の場面を描き出す。錦絵のような人と人との有様、そして見えないがガチガチと火打石のようにぶつかり合う人情。表情の変化と声色の変化をまざまざと見せつけられながら、笑うのではなく、思わず笑ってしまう芸の神髄を見る。

 今日の文菊師匠の声の張り具合は、寄席で見た時よりも一段と強く感じられた。これでもか!これでもか!と奮起するような、焼印の如き古典落語をバシーン、バシーンと心に押され、私の心は鐘の如くジーン、ジーンと響いてなる。何度、否、何億回見ても進化の止まらない文菊師匠。やや声の張りは控えめであったような気もするが、それでもどこかしなやかに、強靭な声と所作で見るものの心を爽快な気持ちにさせてくれた。

 出来ることならば、日曜日の夜の定番として、文菊師匠の啖呵を聞きたい。啖呵部分だけ繰り返し聞きたい。いずれ、大工調べを聞くことが出来るかも知れないと思うと、その日が待ち遠しくて仕方がない。三方一両損だと割かし短い啖呵であるため、わが心の啖呵欲は満たされず、大体家に帰って志ん朝師匠の大工調べを聞いて心を落ち着かせる次第である。

 常連さんにも初心者にも、完璧な落語を見せた文菊師匠。もう駄目だ。私の心は文菊師匠に独裁されてしまっている。もう独裁は止まらないのだ。それでもいい。文菊師匠であればどんな裁きでも受ける。

 

 総括 大きな変化を恐れずに(?)

 さて、冒頭はいつもと違う趣向で書いてみた。

 公開したが後悔はしていない。半生を反省しない。

 出来ることならば、いつも通りの文章を書きたいとも望むが、それだけではどうにも、マンネリ化して読まれないのではないか、という危惧がある。

 だから、つい下手を打って新しいことに挑戦してみるのだが、

 それもいかがなものだろうか、と書いてみてわかる。

 文菊師匠が古典にひたすら打ち込んでいるように、私は私の性格に即して

 自分の思う文章を書き続ければよいのではないか、と思ったりもする。

 時々、こうやって趣向の違う文章を書いて幅を広げようとはするのだが、

 それは自分の体操として用いるだけにしようかな、と思った。

 面白い文章が書きたいと望む反面、突拍子も無い文体はどうにも

 心が反発してしまい、書いていてあまり面白く無い。

 心に即して文章を書く。

 それが課題であったりする。

 いずれにせよ、物事はいきなり大きく変わることはない。

 文菊師匠が突然『にきび』をやって、鯉八さんが『紙入れ』を

 やることはない。遠い将来を考えても、想像できない。

 それでも、大きな変化を恐れずに書きたいものだ。

 って、自分語りになってるけれど、

 今日のシブラクも、最高でしたね。

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ロングショットで見てみれば~4月13日 早稲田松竹 クストリッツァ~

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Life is a tragedy when seen in close-up,

but a comedy in long-shot.

人生はクローズアップで見れば悲劇だが

ロングショットで見れば喜劇だ

  高田馬場の十六文キック

 高田馬場にある早稲田松竹エミール・クストリッツァ監督の『ジプシーのとき』と『アンダーグラウンド』を見た。どちらも素晴らしい映画であることは一度見たことがあるので知っていたが、映画館で見るとまた違ったものを見れるだろうと思ったので見た。結果、とんでもなく素晴らしかったので、この記事を書く次第である。

 死ぬまでに一度は見なければならない映画というものが人には与えられており、それは小津安二郎監督の『東京物語』であり、川島雄三監督の『幕末太陽傳』であり、黒澤明監督の『七人の侍』でもあるのだが、もう一つ、エミール・クストリッツァ監督の『アンダーグラウンド』がある。私はどうしても『アンダーグラウンド』を見ると、かの有名なマコンドという都市を創造したコロンビアの作家、ガブリエル・ガルシア=マルケスを想起する。マルケスの生み出した偉大なる傑作『百年の孤独』は、本が好きで、物語を読むことが好きな人間であれば、死ぬまでに一度は読まなければならない作品であるが、両作品には人間が生きて行くことの根源的な力、魂の隆起がある。音楽で言えばラテン音楽そのもの。魂が底からせり上がってくるかのような、泥臭く、分厚く、野性的な雰囲気を醸し出しているのが、『アンダーグラウンド』という映画であり、『百年の孤独』という作品だと私は信じている。

 ハイロウズの『映画』という曲のような気持ちで、私は高田馬場にやってきた。随分と前から気になっており、楽しみにしていた映画の公開が始まったのである。人気は無いが好きな映画である。否、人気はあるのだが、現在の日本における知名度が無い映画である。ん?

 寄席演芸に日頃浸かっているせいか、映画好きな客層の面を見るのは興味深い。朝10時前、早稲田松竹の前には列が出来ていた。収容人数は153席。寄席と比較すると小さく感じられる。チケットは発券機の前に美人が立っており、美人にお金を渡すと発見機にお金を入れてくれ、出てきたチケットを受け取るというシステムであるらしく、混雑の緩和という点で非常に良い。発券機が一台しか無いというのも非常に良い。今日では複数台の発券機の前で、タッチパネルを操作し、自分の座りたい席を選ぶという流れが大型の映画館では当たり前なのだが、小さな映画館であるからこそ、座席は自由席で、発券機の前には美人が立っているという、その様式美に心惹かれる。考えてみれば、寄席の木戸口は一つしかない。人口増加によって迅速な客対応が求められる世の中において、木戸口一つというのは時代に逆らっているようにも見えるが、そこには何百年という歴史の経過があっても、決して朽ちることの無い永遠の様式があると思う。一目で映画館の良さに心打たれつつ、入場する。

 

 早稲田松竹 いざ着座

 半券を切ってもらい、パンフレット(600円)を購入して入場する。二本立てで1300円という破格の値段であるから、さぞ劣悪な環境かと思いきや、映画館の中は至って普通である。中央のスクリーンに向かって僅かに傾斜している座席が目に入った。ユーロライブや一般的な映画館の傾斜を想像していると、少しばかり差異を感じるほどの傾斜である。ほぼ平坦と言っても過言ではない。詳しくは画像を調べて見て頂きたいのだが、最前列に座ると首を痛めるのではないか、と思うほど平坦である。

 映画館の特徴かも知れないが、見やすい位置、音響を感じやすい位置がある。私は初めて行く場所は見やすい位置を事前に調べる質である。うっかり見づらい席に座って首を痛めたくはない。見やすい位置に座して、開演の時刻を待つ。

 映画館に行ったのは思い起こせばいつだっただろうか。今は昔の恋人と二人っきりで電車に乗って映画を見に行き、かなりアダルトな内容に帰りの電車で照れくさくて何も言えなかった頃以来であろうか。否、そんなに昔ではない。ポップコーンを買って席に着こうとしたが、手を滑らせてポップコーンをぶち撒けてしまったあの日以来であろうか。否、思い出したくもない。とにかく、いつぶりであったか思い出せない程、私は映画館に来るのが久しぶりであった。

 今は自分を満足させうるに足る収入を得、時間さえあれば寄席演芸やその他芸術鑑賞とやらに時間を費やし、こうして趣味で文章を書く身になったが、ほとほと贅沢というのものは『し過ぎる』ということが無い。どれほど贅沢をしようとも、まだ見たりない、まだ感じたりない、まだ慊りない、という気持ちになるのだから、これに無理やり賞を与えるとするならば、演芸症とでも呼ぶできであろうか。愚鈍な豚を太らせるのが金と芸によって生まれる贅沢である。否、当の豚は自らが肥えていることにさえ気付かず、それが贅沢であることすら自覚がない。否、豚というのには些か語弊があるかも知れぬ。千と千尋の神隠しでは無いが、自らの欲望に忠実になり過ぎたが故に、豚に姿を変えてしまわぬように注意したいと思う。

 映画館の客層はと言えば、40代~60代が多い印象である。いずれも映画に魅了され、人生の映画ベスト10を既に決めているような表情をしている。日常とは別の非日常に心惹かれ、映画でしか見ることの出来ない、人々の心の輝きを求め、また自らも映画そのものが持つ強烈な力について、否応なしに考えてしまうような、どちらかと言えば頑固な顔つき。また、映像美や映像の切り取られ方にも興味を抱くかのような、カメラマンのような顔つきの人々までいる様子である。

 場内が暗転し、諸注意の映像が流れた後、いよいよ本日の一本目が始まった。

 

 ジプシーのとき

 アコーディオン弾きのジプシーとして生まれた一人の青年の物語であり、生きることの力強さがユーモアと共に強烈な魅力を放つ一作。何と言っても主役のペルハンを演じたダヴォール・ドゥイモヴィッチの演技が素晴らしい。彼の表情が終盤に向けてどんどんと狂気に荒んでいく様は見ごたえがある。冒頭では愛するアズラの事を思う青臭い青年で、アズラと結婚することが叶わず教会で首を吊る場面は滑稽でありながら、青春が無残に砕け散った青年の自暴自棄な状態を見事に表現している。

 片足が不自由な妹ダニラと共にペルハンは富豪のアーメドに連れられイタリアの病院に行く。そこでペルハンは治療のためダニラと別れアーメドとともに金を稼ぐことになるのだが、金を稼ぐ手法が汚く、ペルハンは反発する。結局、ペルハンは権力をアーメドから与えられ、結果を出し、金を稼ぐ。この辺りでペルハンの表情にかつての青臭さは無くなり、狡猾ささえ滲むような擦り切れた表情に変わる。ファッション的にも毛糸の帽子とモフモフの服を着ていた前半から、シュッとしたスーツを身に付けるようになり、煙草も吸い始める。まるで田舎者がゴッド・ファーザーに出てくるアル・パチーノになったかのような変わりようである。この変身っぷりに私は共感する。私自身も、田舎から都会へと出てきた身であり、かつての田舎臭い服は全て捨て去り、都会的なセンスに感化され、ある程度都会的な服を身に付けるようになったと自負しているが、郷に入れば郷に従い、郷そのものの様式に取り込まれたペルハンの姿に、そんな私の自負と似た思いを感じたのである。

 都会で過ごした人間が故郷に戻ると感じる差というものを、私は感じることがある。ペルハンはかつて育った故郷に戻るのだが、そこは変わり映えのしない風景が広がっている。誰が結婚し、誰が仕事を辞め、誰がどこで何をしているなど、景色や暮らしは変わらねど、人と人との関係性だけが進んでいく故郷。ペルハンは思い人であるアズラの家へ行くのだが、そこには妊娠したアズラがベッドに横たわっている。他の男と寝たのだな!と激高するペルハン。孕んだ子を流すことを目的に、ペルハンはアズラと結婚式を開く。およそ人道的とは思えない行為に及んでしまうペルハンの思考が恐ろしい。純粋な愛を持ち、教会で自ら命を落とそうとした青年が、時を経て汚い金稼ぎに手を染め、愛を傾けていた女の身籠った子を堕胎させようとまでするのだから、ペルハンの置かれた環境がいかに彼の精神を荒ませてしまったのか。これは敢えて書いていないので、是非、映画で見て欲しい。

 何が人の心を変えてしまうのか、人によって理由は様々であろう。環境が人を変えるのだろうか。出会った人間が人を変えるのだろうか。私はそうは思わない。詰まる所、人の心を変えるのは、その心を持った自分自身だけであると思う。しかし、判断力とでも呼ぼうか、考える力とでも呼ぼうか、社会において我々が出会う事柄や人々というものに対して、人は正しい処理の仕方というものを持たない。自らの心を指針として、この場所に長く存在することは正か否か、この人間と付き合うのは正か否か、ここで金銭を払うのは正か否か、多くの選択を迫られるが、何が正しく、何が間違いであったかというのは、時が過ぎて見なければ分からないことばかりである。同時に、時が過ぎたところで、あれは正しい選択であったと判断するだけの精神が保たれているか、これも疑問である。人によっては判断する力さえ持たない人間もいる。この映画の主人公ペルハンも、どこかで判断力を失い、どこかで酔い、どこかで自らの心を制御できなくなっていたのではないだろうか。彼の持つ特別な才能について考えるとき、私は彼がより良い世界に羽ばたくことの出来なかった環境を恨んだりはしない。これは映画である。一つの人生は、物語の中で終演を迎える。しかしながら、最後の場面には皮肉めいた人間の根源的なズル賢さを感じる。何がズルくて、何が悪くて、何が良いかということも、当に私には分からなくなっている。否、分かろうとしていない節がある。私は自分の正義を誰かに振りかざすような、そんな優れた人間ではない。今はこんなことを書いているが、いずれ、私にも誰かに道を諭し、これぞ人間の道であるというような、尊い教えを論ずるときが来るのであろうか。どうにも分からない。それでも、どうやらこれが正しい道であるらしい、というところだけは、どうにか発見したいと思っているのだが。

 一つの映画が終わった後、私は自分の人生を思う。ペルハンのように生きたりはしないが、ペルハンが妹を思う気持ちや、愛する人を思う気持ち、そして復讐をする気持ちは、私の心には確かに存在している。それは映像と声と共鳴し合って私の心を震わせた。美しい映像、美しい音楽、そして、人間の生きる力が籠った物語。是非、見てほしい。必ず、あなたは何かを感じ、そして自らの生き方について考えるだろうから。

 

 アンダーグラウンド

 盛大な葬式と言っても良いかも知れない。冒頭のブラスバンドの演奏から、終盤に至るまで、とにかくお祭り騒ぎのような場面が続く。さらに言えば、人生は全てが劇であるというような、どうしようもない暇つぶしであるというような、そんな雰囲気さえ感じる物語である。この映画の魅力を語るとキリが無いのだが、どうせみんな死ぬのだから、その時が来るまでドンチャン騒ごうぜ。という感じもある。

 人はそれぞれに何かを信じて暮らしているし、自分の譲れないラインを他人には絶対に越えて欲しくない生き物である。友を信じ、憎き恋敵に殺意を覚え、地下で武器を作り続けるクロ。クロの親友であり、物語において非常に重要な役割を持つ男マルコ。この映画は二人の盛大なコントと言っても良いかも知れない。そして、二人の関係に花を添えるナタリアの存在。このナタリアがとにかく魔性の女で、物凄い美人であるのだが、こういう魅力的な美人に知性のある男は騙されるのだ、という部分を見事に描いていて、私は物凄くマルコに共感する。

 戦争の最中、地下帝国で暮らすクロ。そんなクロを騙しながら生きるマルコとナタリア。やがて一匹の動物によって生活は崩壊し、あらゆる嘘が明るみになるのだが、随所に滑稽な場面が挟まれ、劇中劇のようなものも登場し、全ては虚構の世界なのだが、虚構の中にも虚構が存在するというような、虚構のマトリョーシカ構造が面白く、粋な言葉も差し挟まれる。幾つかの連続した小噺が続いているような映画である。色んな人が亡くなったり、色んなものが生まれたりする。そこには一つの人生が様々に交差する様子があり、過酷な環境下にあっても、野心を絶やさないクロと、持ち前の知性を発揮してのし上がっていくマルコと、二人に振り回されて精神を病むナタリアなど、三者三様の思いが、様々な観点から見ることが出来る。何度見ても面白い映画であることに間違いはないだろう。

 この記事の冒頭に引用したが、チャップリンの言葉は人生及び、あらゆる映画に通底する思いを見事に切り取っていると思う。『アンダーグラウンド』という映画もまた、一つ一つは悲劇かも知れないが、最終的に喜劇へと転換させる大きなユーモア、人間の生きるために必要な粋な部分が凝縮されていると私は思う。

 戦争という過酷な状況の中で、自らの使命や自らの信じるもの、すなわち心の拠り所を見出しながら、自らの尊厳と誇りに従って生きて行くことの素晴らしさをクロの生き様に託すとともに、そのクロを利用して生きて行くマルコの賢さ。地下ではクロが野心を燃やし、地上ではマルコがクロを利用して生きて行くという天と地での描き方が、実に見事に人間の精神そのものを表現しているようにも感じられる。そして、その二人の大きな原動力になっているのは、魅力的な、あまりにも魅力的な、魔性の女ナタリアであると私は思う。つくづく、男にとって女性というものは、天使にも悪魔にもなる女神なのだと思わされる。女性の立場から見たナタリア像というものを知りたいのだが、いかんせん、ナタリアに私自身も心惹かれてしまっているから、正常な判断は出来ない。

 あらゆる場面に見どころがあるのだが、やはり私は最後の場面を推したい。最期の場面に移るまでの静寂、そして幕開けまで、こんなにハッとさせられる場面は無いだろう。同時に、最後の場面で語られる言葉、人々の会話、全てがまるで天国のような賑わいを見せながら、金言めいていて素晴らしい。いずれ私も、あの場所へ行くのだろうか。その時はお祭り騒ぎをしたいものである。と考えてしまうような、とても素晴らしい場面であるから、この場面で席を立ってはならないと思う。

 

 総括 人生は悲劇が連続した喜劇或いは喜劇が連続した悲劇

 映画館を出ると、いつもとは光の射し方が違って見える。普段と何も変わらない景色のはずなのに、それがどこか違って見えるのは、物語の世界に没頭し、ひたすら映画そのものの世界に浸っていたからであろうか。私は確かに映画を見ていた。座席に座して見ていた筈である。それでも、この胸に残る思いは一体何であろうか。私の見た景色は一体何だったのであろうか。そして、今私が見て、存在している世界は、一体だれが私に見せる映画なのであろうか。この地球そのものは、何か大きな暗い箱に詰め込まれた、誰かの宝物であるのだろうか。

 最近、ブラックホールの姿を捉えた写真が話題になり、コラージュであろうが、それを猫の目であるとするような画像を見た。この広大な、膨張を続ける宇宙空間の外で、猫が我々を見ているのだとしたら、そこには一体何の理由があるのであろうか。もちろん、それが分かったところでどうすることも出来ないのだが、そのコラージュ画像の滑稽な様が、私には妙な思いを起こさせたのだった。

 生きているのだから楽しみたいと思う心は必然であろう。進んで悲惨な状況に行きたいと望む人間は限りなく少ないのではないだろうか。否、もっと言えば、悲惨や過酷という概念すら持たない人間がこの世界には存在している。紛争地帯に行くカメラマンや密林に暮らす民族と生活を共にするジャーナリストなど、およそ私の生活環境からは考えられない人生を送っている人々がいる。これは詰まる所、心が環境に適応しているからこそ起こる気持ちであると思う。私のような温室育ちのメロンのような甘々の夕張くんにとって、灼熱の砂漠はどう考えても過酷である。反対に、砂漠に棲むサソリやらラクダは、北極のような極寒の地では生きて行くことが出来ない。自然には、その環境に適した生物が生まれ、生活をする。案外、生きるヒントというのは自然の中にあるやも知れない。誰が言ったか忘れたのだが、『山で学ぶことは、社会の中においても役に立つが、社会で学んだことは、山の中では殆ど役に立たない』という言葉にもあるように、自然というのはあまりにも学ぶものがあり、社会に還元することは出来ても、社会から自然に還元することは思いのほか少ないようである。

 だが、映画はどうであろう。何か人の創作物というのものは、相互に影響を与えることが出来るのではないだろうか。『映画で学ぶことは、社会の中において役に立ち、社会で学んだことは、映画に役立てることができる』と言えるだろう。一つ言えることは、創作において、役に立たないものは何一つ無いということである。無論、役に立たない部分を作ってしまうことがあることも否定できないが。

 今回、『ジプシーのとき』、『アンダーグラウンド』の二作を見て、改めて思うことは、人生は悲劇が連続した喜劇或いは喜劇が連続した悲劇ということである。何もかもが二項対立ということではない。二つで一つであるというような、まさしく太陰太極図であるというような意識が私の中にはある。それは観測者の立ち位置によって変わるものであるかも知れない。ブラックホールも、この宇宙空間も、対極には真っ白な宇宙というものがどこかに存在しているのかも知れない。ホワイトホールというものもあるらしいから、もしかすると的を得ているのかも知れない。

 とにもかくにも、こうやって長々と文章を書いたが、一度見てみることをオススメする。死ぬまでに一度は見なければならない映画である。断言する。これはきっと見た者に何か強烈な力を与えてくれる映画である。もちろん、全ての映画は見たものに強烈な力を与えてくれるものである。だが、その力を受け取るためには、見る者の心も整っていなければならない。もしも心の整っていない人が見たら、また一つ大きな荷物を背負ってしまうかも知れない。心の整っている人が見ても、心の平衡が崩れてしまうかも知れない。心の天秤が大きく傾くか傾かないかは、見る者次第である。

 だが、私は言いたい。こんなに素晴らしい映画はあまり見たことが無い。出来ることならガルシア=マルケスクストリッツァと語り合いたいくらいである。人間ってどうしようもないけど、愛すべき存在だよね、ということを、色んな物語とともに、色んな話とともに語り合いたい。

 幸い、まだエミール・クストリッツァは存命である。ガルシア=マルケスは亡き人であるが、彼のことだから風に乗ってやってくるか、或いはベランダにこっそり現れてくれるやも知れない。人は想像し、それを信じる時、想像は殆ど実体を持つ。あらゆる想像は、想像者の信じる度合いによって濃さを増すと言っても良いであろう。

 あなたは何を想像し、何を信じるだろう。ただ一つ言えることは、あなたの想像し、信じた世界は、あなただけの、唯一無二の世界である。言ってしまえば既にあなたは、あなた自身の世界を、あなただけの世界を想像しているのである。

 果たしてそれは、ロングショットで見てみれば、悲劇であろうか喜劇であろうか。それを決めるのは全て、あなた次第だ。

 

 

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金言宣言~古いお話を一席~

キングコング

 

King Kong

 

金言 金口

 

King Konk

 

琴言 困苦

 

  アイワーズ

 私は語り手である。あらゆるものの、なにもかも全ての。景色を見れば言葉が咲き、人に会えば話が咲き、一人でぼんやり想像を咲かせて、時間を割いて、思い出を探って、潜って、泳いで、浮上。人生、今宵も目的地。

 時に酔いどれの詩人となり、時に物語の語り手となり、時に演芸の海を泳ぐ航海士となり、時に夜の船頭となり、時に酒の注がれた器に飛び込んで、一人だらだらと溺れて行く。幾百もの形を成し、幾千もの時に流れ、幾万もの静と動を繰り返しながら、臆することなく挑戦し続ける人生の頂きには、絶景と望外の思いが待ち構えている。これぞ不可思議な無量大数

 垂れ流される言葉に心が動かされることはない。自分に理解できるものだけを理解するのに飽きて、自分に理解できないものを理解するときの快感に苛まれ、何が善悪、何が成否などと考えながら、結局、答えなど無いというどんつきにぶち当たり、どうにもその壁が壊せなくて腹立たしい。言葉なんぞはとうに、ありきたりなものに、陳腐なものになってしまったのか。陳腐なサンプルにシンプルをすこぶる感じるのだが、それでも、圧倒的に君を動かす言葉が書きたいので、私は文字を書いている次第である。すなわち、書き始めた時点で私の目的は既に達成されている。私の言葉が書かれ、それを君が読み、君が「こんな言葉の連なりは初めて見た」となれば、それこそが私の勝利であって、私が文字を書き始めれば、どこかにその初めての言葉の連なりは出現するであろうし、それは猫がゾウと一緒に横断歩道を渡るような、極めて稀有な現象であるから、出来ることならば膨大なテキストの中から、私が言おうとする意味と意志を見出して頂きたい。私の意図を外れ、言わずとしていることを言わず、言わずとしていないことを言わず、言わずはI wasで愛はずっとワーズ、すなわちwordsであるから、I wasは愛ワーズであり、Iはwordsなのである。つまり、私は単純に複数の言葉である。

 複数の言葉を用いて語ることで、私は私を出現させている。文字を書き、演芸を語り、随所に芸そのものとは別の、実感を記すことによって、私はその時、読んだ人間の脳内に出現する。それは、良い形であれ、悪い形であれ出現するから、読みたくない、と思ったものは即座に読むことを止めねばならず、それでも読むということは、嫌が応でも私を、脳内に出現させてしまうことになる。影響なぞこれっぽちも無いと思うだろうか。果たしてどうかな、金言宣言。

 

 人馬継立

 人が古典落語を見て、その時代の風情を信じるとき、殆どその人はその時代にいる。否、存在し続けている。何かを信じるとき、そこには他者の介入など必要としないほどの力が存在している。私はよく、神社仏閣などに行き、手洗い場で手を洗っていると、見知らぬ老婆から「あんた、それ駄目よ~ダメダメ、全然ダメ~」と人非人扱いするかのような目と言葉で心を傷つけられる。杓子の使い方が違うだの、礼の作法が違うだのと、老婆はとかく口を挟んでくる。このとき、恐らく互いにはっきりと「神に呪われろ」と思い合ったに違いない。私は私で、「あんたの言う作法とやらが一体どれだけ高尚かは知らないが、俺は一切そんな作法なぞ信用していないぞ」という気持ちが沸き起こるのだが、それとは反対に、「正しい作法とは何か」と考える心が、殆ど同時に起こる。それは現状に対する不満・怒りと、未来においての回避策を即座に練るという、心のはたらき故である。だから私が偉いのは(偉そう)、心では「なんだこのクソババア」という気持ちと「正しい作法が出来ない自分がみっともないな」という気持ちが、同時に誕生するところである。それが喉元を過ぎて言葉になると、「あっ、すみません」になるのだから、私の言葉を発する能力というのは、殆どゼロである。ぜっろーである。

 さて、老婆の方はどうであろうか。これは想像することしか出来ない。推測するに、老婆の脳内、あるいは身体には、神を前にして身を清める作法が、完璧に備わっているのであろう。そして、老婆は殆どその作法を、唯一絶対の作法にして、人類万物共通の認識として、信じている。おぎゃあと生まれた赤ん坊から、棺桶目前の老人まで、全ての存在が神を敬う前の儀式を身に付けていると信じている。故に、私のような小僧っ子が、自分の信じる神への作法から逸脱しているのを見た時に、ふつふつと沸き起こった悲しみの気持ち、憐みの気持ち、愚かな者を見つめる気持ちとして、「だめよ~、全然ダメよ~」という言葉に変わり、表現しきれないほどの憐みの眼差しで私の心に斬りかかる。もはや殿中松の廊下並みの不意打ちを食らいながら、私は謝り、老婆はただただ愚かなるものを見つめる眼をし、溜息を吐くのである。

 同じようなことが、落語の鑑賞者にも言えるのである。ごく稀に、自分の中に存在する絶対的作法、絶対的常識で他人に対して言葉を発する人を見かける。私はなるべくなら関わりたくないと思う。どうせ100年もすれば嫌な奴は全員死ぬ。でも米丸師匠は死ななそう。それはさておき、些細なことで発狂したり、社会情勢についてグダグダと言葉を放ち、とにかく何かを潰そうとする落語好きを見ると、この人は落語そのものが好きじゃないのかもな、と思う。社会やら人の価値観に対して、なんて無駄な言葉を発する人なのだろうと不思議に思うときもある。そういう人の眼というのは、大体つり上がっているし、顔が非常に怒っているような表情になっている。これは嘘だと思われるかも知れないが、事実である。私が危険だな、と思う発言をする人の顔はかなりひん曲がっている。電車などで様々な面相の人を見るが、殆ど間違いなく「こいつは危険」という顔が見分けられる。というか、私自身も、そう信じている。人は、何かしら自分の中に信じるものを持っていて、それは一度固まってしまうと、なかなか柔らかくはならない。自分自身の考えを肯定し、自分こそが正義だと信じ、自分は誰よりも現実が分かっていて、未来を考えているのだと信じる。それは単なる思い込みとは違う。思い込みと信じるという心の作用は、雲泥の差がある。それでも、自分を信じ、他人にとやかく言う人が私は怖い。その人にとっては善意の行為であるかも知れない。あるいは悪を断罪する正義の言葉であるかも知れない。「キサマ!手洗い場の作法も!礼の作法も知らずに!神社仏閣に来やがって!呪われろ!徳を失え!えええい、やああ、みみみみみみみみみみ~~~~」となって言葉をかけられても、私としては「すみません」しか言えぬのだが。

 信じるというエピソードで言えば、他にもこんな話がある、金言宣言。

 

 隅田川由来、金落しの一席

 これは何かの古い本に書かれていたのだが、隅田川に由来する話である。隅田川と言えば、荒川の流れをくむ川であるが、この隅田川。昔はよく土左衛門が上がったのだという。土左衛門というのは力士の名で、色白で膨れ上がった体が水死体に似ていたらしく、隅田川で上がった水死体を見た人々は、語呂の良さもあっただろうが、土左衛門と呼ぶようになったという。

 土左衛門と言えば、水死体。すなわち生きていない人間、亡骸である。隅田川では、よく土左衛門が上がり、その度に人々は処理に追われていた。隅田川というのは、昔は大変な自殺の名所でもあったそうである。今日では、そんなことを考える必要は無いが、隅田川を見るとどうしても、私は川の淀みもあり、また、橋が多く架かっていることもあり、身を投げる人が多かったのではないかと想像する。

 ある日のこと、隅田川にかかる吾妻橋の真ん中で、一人の青年が隅田川を眺めながらじっとしていた。周りの人々が気がかりに思って青年を見ていると、青年は今にも川に飛び込まんとしている。落語の方では、川に飛び込もうとする人々や、実際に橋から川へと飛び込む人々も登場するが、今回の話はそうではない。

 よく見ると、青年は金を落としている。自分が飛び込むように見えたが、実際、青年は金を落としていたのである。

 「なぜ落としているのだ?」と周囲にいた一人の男が尋ねると、青年は「落としたいからだ」と答えた。青年が落としたいというのだから仕方のないことかも知れないが、周囲の人々は呆れている。どんなに金があっても、金を落とす人と落とさない人がこの世界には存在するようである。

 問題は、隅田川に落とされた金の行く先である。一体どこへ行くのかと言えば、金は流れずにそのまま青年が落とした真下へと沈む。よく井戸や水たまりへ小銭を投げ入れる人々がいるが、金が落とした位置から全く外れることは、一円玉で無い限り、まず無い。当時の銭は重量もあり、たとえ川であっても、どこか遠くへ流れるということは無かった。

 さて、この金を落とす青年。何日も何日も橋の上から金を落とすということで、周囲の人々の話題になり、青年の落とす辺りの地面には、随分と金が埋まっているだろうという話になった。一人の男が、酔っぱらったせいもあるだろうか、青年が金を落としている辺りまで泳ぐと言って、服を脱ぎ捨て褌一枚となり、隅田川へと飛び込んだ。隅田川の水深は深いところでおよそ5mほどある。また、隅田川は随分と汚く、どれほどの深さかも当時ははっきりと分かっていなかった。金に目が眩んだ男は、酔いのせいもあってか金を探すことに夢中になっていた。途中、息苦しいなと思って上へあがろうとしたのだが、水があまりにも汚かったため、上も下も分からない。そのまま窒息して土左衛門になった。次から次へと川に飛び込む者が現れ、青年の落とす金目当てに多くの人々が土左衛門になった。

 読者は、なんのために青年は金を落とすのか気になっているだろうか。冒頭に記したように、この青年は「金を落としたいから落としている」のだ。この青年はすなわち、散財をしているのである。毎回、幾らの金を落としていたかは分からないが、金を落とす自由は橋の上にいる青年にある。殆ど金を落とす自由を与えられていると言っても良いだろう。また、それを見た人々が、青年が落とす金を拾おうとする自由も同じようにある。故に、青年が落とす金を拾おうとして土左衛門になる人間が出てきたとして、果たして、青年に罪はあるのだろうか。結局、橋から金を落としていた青年は、何の裁きも受けなかった。金を落とすことを周囲の人間が咎めることはなく、むしろ金を拾って豊かに暮らすことを夢見た人々が、続々と隅田川へ飛び込み、そして土左衛門になった。

 しばらくそれが続くと、周囲のものは恐れを抱き、金を拾わなくなった。すると、不思議なもので、橋の上にいた青年も忽然と姿を消していなくなってしまった。

 この話が最終的にどうなるかというと、あるとき、異常気象による干ばつによって隅田川が干上がったことがあった。その時、そういえば橋の上で金を落としていた男がいたな、と思い出した老人がおり、当時の記憶を思い出し、橋を歩き、男が金を落としていた辺りから、川を眺めて見た。なんとそこには、金が一銭も無かった。

 流れてしまったのか、誰かが拾ったのか、何かの餌になったのか、定かではないが、不思議な話であった。

 これが隅田川に由来する、金落しの一席である。

 

 金言宣言

 私の記事も、結局のところ、橋から金を落とす青年と何ら変わりはない。私は「書きたいから書く」のである。それを読んで土左衛門になろうが、何を感じようが、私には関係の無いことである。これは、無料の話であって、すなわち私は時間を割いているのであって、私には何のメリットも意図も無い。これは想像することも野暮だが、橋の上から金を落とした男に、人を土左衛門にしたいという心はあったのだろうか。それは、結局、分からない。

 この記事で私は金言宣言と題して書いた。当初、人生の恩師の話について語ろうと思ったのだが、急に惜しくなり、昔に何かの本で読んだ話を記憶を頼りに記してみた次第である。

 本当に面白いことはインターネットには無い、などと書いたことがあるが、面白いと感じるか否かは読み手の自由である。全ては読み手にゆだねられている。なるべく、意味の齟齬が無いように、配慮した。

 どうにもまとまらないが、信じるというのは、素晴らしいことでもあり、恐ろしいことでもあるようだ。読者には、隅田川に飛び込み、金を拾うようなことだけは注意されたし、と言いたいが、ここまで読んだ人はもう既に、川に飛び込んで金を拾おうとしているのも同然である。

 それでは、また、いずれどこかで。

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地下帝国で芸人に笑う人になる~4月6日 池袋演芸場~

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(志ん松さん、いいなぁ。凄くいいなぁ)

 

(馬石師匠。かわいい・・・)

 

(うわぁ、鉄平師匠。すっごく楽しそうだぁ)

 

(菊之丞師匠。うわぁお家芸!凄まじい!)

 

花緑師匠、後半も聴きたいなぁ)

 

(彦いち師匠。絶好調だなぁ) 

 

喬太郎師匠。無条件で面白いわぁ!会場が爆笑の渦だぁ!)

  寄席に行こうよ 地下だけど

 私の体は「寄席だから」という理由だけで、地下に降りてしまったことがある。階段を一段一段降りる度に、地上の光は消え、桜満開の景色は冷たい壁に遮られた。暗い寄席で芸人に笑うためだけに、私は2000円を支払って客席に座した。

 割引はちゃんと使った。

 池袋には、地下に入っただけで「Oh! NO!」と言ってしまう寄席がある。でも、笑うことで芸人達の笑い人になることは出来る。芸人の力と可能性に圧倒されよう。それはきっとあなたの心を変える大きな一歩になる。

 開場時刻の12時までに長蛇の列となった池袋演芸場。これも私の前記事『4月神池袋演芸場に行け!』の効果かな、と思いつつ(1ミリもそんなことはない)、列に並ぶ。老若男女が入り乱れる物凄い行列で、落研らしき人々も見に来ていた様子である。尻の皮と財布の中身が厚い人々が集まっているのか、などと愚にも付かぬ想像をしながら、竹中平蔵氏もびっくりの秘密クラブ的な地下帝国、池袋演芸場へと入った。

 落語の『ぞろぞろ』よろしく、次から次へと人がなだれ込んでくる。雪山だったら遭難するほどのなだれ込みようで、サーフーボードを持ったら軽く3メートルは波に乗れるであろうし、これがロックバンドのライブだったらダイブした奴はかなり目立つ状況である。一揆の決起集会かと思うほど人が入ってくるので、私も鋤と鍬を持参しなかったことを三秒だけ後悔しつつ、足腰がヨボヨボの牛蒡であるため、後ろ側の席に座した。だが、立ち見客がぞろっかぞろっかと入ってくるではないか。ポニーも驚愕の和やかな速度である。いずれも寄席の初心者というような風貌で、小さく「やばくね、人」とか、「そのうち座れるっしょ」などと、戦場だったら真っ先に戦死する甘い言葉を耳にしつつ、私は自分の席を8時間の友として愛した。歴戦の覇者であろう常連客は鉄壁の布陣で前衛を守っている。立ち見をする青年にこう声をかけたかった。

 「良いか、青年、いつまでもあると思うな親と席」

 今どき、地方の公民館でもこんなに人は集まらないと思う。私が幼稚園生の頃、ダンスの発表会でさえこんなに人は集まらなかった。すなわち、この場には私の幼稚園時代のダンスの発表会を超える、凄まじいダンスを披露する芸人が登場するのである。否、凄まじい芸を披露する芸人が登場するのである。

 これは前記事でも書いたが、出演する演者全員が、まさに今をトキメク、明日にキラメク、未来にめくるめく世界を作り上げているであろう演者さん達なのである。

 地上では桜が咲き乱れ、頬を上気させた女性が好きな男に向かって「あたし、甘酒きらーい、もっと強いのがいいー」などとほざいているかも知れず、男は「じゃあ、バーボン、ウイスキー、ストレートでいっちゃおっかー」などと戯けたことを言っているやも知れないが、そんな上界とは完全に隔離された下界で、大勢の人々は笑いの一揆を起こすのである。どう考えても客観的に見て不健康さは際立っているが、良いのである。大人とは、娯楽とは、地下でこそ楽しまなければならない。微妙に心に起こる背徳感を抱きながら見る寄席は、格別である。一度ハマると、地上ではもう二度と落語が聞けなくなるだろう。そんな後ろめたさと悪魔的な魅力が詰まっているのが、池袋演芸場である(個人の意見です)

 

 昼の部 ガッツリ古典なユニバース

 演者の全員の感想を述べていると、長大な記事になるため、以下は私が気になった演者のみを記すことにする。

 

 古今亭志ん松 牛ほめ

 

 モグラだぁ!

 

 地下に潜って最初に出会ったのは、陽の光を浴びていなさそうな志ん松さん。これ、文字だと伝わらないかも知れないし、失礼な感じで受け取られたら困るのだけれど、久しぶりの志ん松さんはめちゃくちゃ良かった。そんな志ん松さんを「モグラだぁ!」などと最初に書いたのは、記事を読んで頂くための苦肉の策です。実際は一切、そんなことは思っておりません。最高です、志ん松さん。

 兼ねてより、早朝寄席で聞いた『岸流島』などの古典を、独特の静かな語り口で表現していた志ん松さん。最初に見た時は、「元気ないなぁ」と思っていたのだけれど、静かな語りがとてつもなくパワーアップしており、それがむしろめちゃくちゃ良かった。入れ事をせず、現代的フレーズも一切なし、ただ純粋に落語の世界に即した、落語本来の面白さを突き詰めた語りが素晴らしく、私の方の聞く姿勢が成長したのかは分からないが、会場に爆笑を起こしていた。

 語りの落ち着いたトーンと、大げさではなく、オーバーなリアクションでもない、地の語りでリズムを精緻に組み上げ、人物描写に嘘っぽさもない。滲み出るような面白さが、思わず「ん!?亭号は古今亭だったっけ?」と思ってしまうほど、どちらかと言えば柳家の亭号に近いような語り口。私の中の勝手なイメージだが、古今亭の人はとにかく早口で、テンポが早く、ハキハキとしている。だが、志ん松さんは木が根を張るようなどっしりとしたテンポで、かつ樹液が漏れるような面白さがあって、それがとても心地が良かった。今回の記事は、殆ど志ん松さんのところを語ったら終わりなくらい、素晴らしい一席だと思ったし、以前見たよりも格段に良さが分かった。

 筋が分かっているのに、面白いのは、与太郎の雰囲気が絶妙に面白かったからかも知れない。馬鹿になり過ぎていない与太郎の感じ、嘘っぽさがなく、どこかつむじ曲がり、捻くれた感じの与太郎が物凄く良かったのである。もう『凄く良かった』しか書けないところがもどかしいのだが、古今亭志ん松さん。要チェックである。

 

 隅田川馬石 元犬

 語りのソフトクリーム感。馬石師匠が出てくると、私はいつもソフトクリームを捻りだすような感覚を覚える。それは馬石師匠の声が醸し出す雰囲気と言ってよい。何も考えず、ただ座席に座して、目の前に座った馬石師匠を見つめ、馬石師匠が口を開いた瞬間に、声が発された瞬間に、私の舌の上に乗るソフトクリーム、バニラ味。柔らかい感覚がすっと胸を通り抜けて行くと、胃の中でとろんと溶けて行くソフトクリーム。語り始めた馬石師匠は、可愛らしい白い犬の話をする。ごろんっと寝転がった犬の可愛らしさ。もはや、元犬という話では他の追随を許さないほどの面白さで、馬石師匠は動物系の話がとても可愛くて好きだ。特に、寄席のバージョンのためか犬が人間に変化するところの描写が短縮されているところが気持ちが良い。どこを語り、どこを語らないか、その省略の美学が最高だった。

 

 林家鉄平 堀の内

 ケリー・スレーターもびっくりの波乗りっぷりで、イケるところまでイクという気概全開の小ネタを随所に挟み込み、時折「へへ、やっちまった」と照れくさそうに笑う鉄平師匠が最高だった。寄席が女子高生で埋め尽くされていたら、ルールなど無視されて即座にTikTokにアップされ、ファッキングラビッツよろしく『いい波乗ってんねぇ』のパーティ状態になっていても過言ではないほど、ノリノリの語り。最高に気持ちの良さそうな表情で熊五郎が暴走する。熊五郎の底抜けっぷりが最高で、身近にいたら結構迷惑なのに、何だか面白くて許せてしまう人柄がとても面白かった。

 

 柳家さん喬 天狗裁き

 ネタも最高だったんですが、冒頭のアグネス・チャンさんの物真似が最高だった。

 

 柳家小八 千早ふる(物理学ver)

 人間国宝の言葉恐るべし。オチで会場から「おぉ~」の声。

 

 古今亭菊之丞 火焔太鼓

 待ってました!の大歓声、大観衆に迎えられ、やってきました『火焔太鼓』。古今亭のお家芸にして、見事な笑いをまき起こした凄まじい一席。

 もうこれは、語るに及ばずという渾身の一席。

 

 さて、後半戦

 

 夜の部 めくるめく夜のワンダーランド

 

 柳家花緑 花見小僧

 花緑師匠の定吉が物凄い可愛らしい。特に表情の変化が最高である。物凄い能天気な笑顔から、一瞬にして真顔に表情が変わる時の面白さ。お節と徳三郎の関係を語るまいとしながらも、お給金の誘惑とお灸の仕置きに挟まれて、結局全てを話してしまう定吉の可愛らしさ全開のネタだった。ドSの主人の誘導に耐えながらも、その時の様子をぽろぽろと喋ってしまう定吉は必見である。後半は結構シリアスで教訓めいた『刀屋』へと繋がるのだが、花緑師匠が通しでどのようにやるのか見てみたい。

 桜満開の風景の中で、男女の恋が可愛らしい定吉によって語られる。その語りの朗らかさに、地下にいるのに春を感じた。

 

 林家彦いち マイナンバー

 説明不要の面白さ!!!!!

 マイナンバーの紙を失くした私には、恐ろしい噺でした・・・

 

 柳家喬太郎 結石移動症

 説明不要の面白さ!!!!!パート2!!!

 もう今更書く必要が無いほど、大爆笑の一席でした。

 

 総括 やっぱり神席

 正直、面白すぎて言葉を失っている。随分と気の抜けた記事になってしまったが、冒頭で書いたように、志ん松さんの部分だけ書くことが出来れば、この記事は90%完了したようなものなので、後悔はしていない。

 冒頭に某企業の広告をオマージュした文章・画像を書いたが、悪意は一切ない。やってみたかった、というだけである。実際、ピンクの文字が見づらいし、背景が人ではなく寄席文字看板ということもあって、非常に雑なオマージュになってしまった。

 某企業さんの広告は個人的に衝撃的だった。見た瞬間に「うっ」と心がパンチされたような衝撃があった。出来ることなら目にしたくないし、背景にいる物言わぬ人物の眼が怖くて、私は視界に入ると遠ざけるようにしている。広告のワードも強烈で、そのメッセージが意図することは恐らく、伝わりにくいのではないか、と思う。某企業さんのキャッチフレーズは、『遠い国の女の子の親になる』だが、別段、女の子に限定しなくても良いのに、と思うのだが、その強烈なビジュアル、ワードが、やけに胸をザワつかせるので、今回、違った形でオマージュしてみた次第である。

 いろいろと、その広告については言いたいことがあるのだが、趣旨とズレるのでやめておくことにする。

 でも、それくらいに強烈な寄席だった。公開に際して後悔はしていないが、少し反省している。

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心の春のともしびの~3月31日 立川左談次一周忌追善~

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あの町この町 日が暮れる
日が暮れる
今きたこの道 帰りゃんせ
帰りゃんせ

おうちがだんだん 遠くなる
遠くなる
今きたこの道 帰りゃんせ
帰りゃんせ

お空に夕べの 星が出る
星が出る
今きたこの道 帰りゃんせ
帰りゃんせ

  いつもどこかにあなたの声を

 愛用の歩かないwalkmanで、左談次師匠の『妾馬』、『阿武松』を聞きながら、私は新宿末廣亭の前をうろうろとしていた。寄席には、良い誓いでもなく酔い近いでもなく、余一会というものがある。通常の月は1日~30日まで、10日間ごとに番組を変えて興行が組まれているが、月によっては31日まであるため、余った1日で会が開かれ、それを余一会と呼んでいる。

 昼夜に分かれて有名な噺家が登場する余一会、私はあまり参加したことがなく、たまたま休日ということもあって、『左談次一周忌追善』の会に参加することが出来た。これも何かの縁であろう。

 私はこれまで、幾つか立川左談次師匠について記事に書いてきた。僅か二席しか聴いたことが無かった私だが、もっと早く左談次師匠に出会い、芸に触れたかったという後悔がある。全ては縁であると諦めるならば、こうして左談次師匠のことについて語るのも、その芸の素晴らしさの一片にしか触れることの出来なかった人間の、怨であると思って欲しい。素晴らしい芸人に気づき、その芸を真摯に追わなかった自らに対する怨を縁として円とするために、私は文章を書く。とある講談師は、自己顕示欲の塊と評するかも知れないが、私の心にそんな思いは微塵も無い。もしも、自己顕示欲があるならば、無料で記事を書いたりなどしないし、とっくに顔を晒している。私はただ、自分のために書いているだけである。出来ることならば、読者に私の思いが伝わればよいと思う。ただそれだけである。

  音源の中で生き続けている左談次師匠の声が、新宿末廣亭の高座から聞こえてくるような気がした。私は新宿末廣亭に入り、座席に座りながら、左談次師匠の声を聞き、まだ幕の開かない末廣亭の中で、一人ぼんやりとしているのだった。

 

 いつものように幕が開き

 数々の名人が座し、高座で一席を披露し続けてきた新宿末廣亭。昔の映像などを見ると、両脇までびっしりと人で埋め尽くされていたこともあったようだ。今では、二階席にも大勢の人々が座れるということもあって、左右に立ち見が出るほどの光景はなかなか見られない。娯楽が増え、あらゆるメディアが発達し、多様な時間潰しが出来た今日において、なぜ私は落語に惹かれるのだろうかと考える。それは、何か根源的な笑いの知性があるように思われるからだ、と書けば堅苦しく思えてしまうのだが、簡単に言えば『面白いと感じるから』という一言に尽きるであろう。なぜ面白いと感じるかは、うまく説明することが出来ない。映画や小説なども好きだし、落語に限らず講談や浪曲など、生身の芸というものは、言いようの無い素晴らしさがあり、それを文字として書いている段階で、物凄く大切な熱というものが失われてしまうように思うのだが、それでも書きたいと思うのは、自分の中で言葉にして落とし込むことによって、いつでもその時の熱を思い返したいという思いがあるからであろう。

 寄席という場所は、生産性も無ければ何か教訓を得られる場という訳でもない。むしろ、聞く者がそれぞれに何かを見出し、何かを発見する場であるようにも思うのだ。無論、ただ笑いたいというだけでも構わない。日頃、社会において様々なストレスに苛まれ、憤り、愚痴を発するような人々が、束の間、落語家の話を聞いて笑い、何かを得て、少しだけ心が軽くなって、再び社会へと戻って行く。寄席には、人それぞれに効用があり、効き目の強弱がある。よく酷い客に対するツイートを目にすることがあるが、それは自分の心に芸の効用が強く作用しているからである。私のような呆け者は、例え予定時刻より早く終わろうとも、酷い客がベラベラと喋っていようとも、何とも思わない。それはひとえに、生きるとは兎角、雑音が多いということを理解しているからである。何とも申し訳ない言い分であるが、嫌いな人と付き合わねばならぬのも人生、一生涯相容れない人間と付き合っていかねばならぬのも人生である。だから私は、嫌いならば嫌いなりに、相容れぬなら相容れぬなりに、人物に対して接し方を変える。態度を変える。人によって、己を変化させる。なんぞ貴様は芯の無い奴ぞ!と罵られようが知ったことではない。争わぬと一度心に決めた身、雑音なぞに無用な時間を割いてはいられないのだ。

 さて、戯言が過ぎた。いつものように幕が開き、開口一番の登場である。全落語家を評すると長大になるため、以下は気になった方々を抜粋。

 

 立川談吉 権兵衛狸

 末廣亭という風情のある場所で談吉さんを見るのは初めてだった。寄席で見ると普段と違った味わいというものがある。考えてみたら、談吉さんの動物物は初めて聞く。『千早ふる』や『阿武松』などをこれまでシブラクで聞き、そのメロディアスな口跡と、甘い饅頭を食んでいるような柔らかい語り口が魅力的だった。

 寄席で見る談吉さんの、権兵衛狸は最高の可愛らしさだった。何より狸が異常に可愛らしく、天井に吊るされている狸の哀れさもさることながら、狸をどう処理するか残酷な会話をする男も、そこに悪意が無く、ふざけているような雰囲気があって、狸にとっては絶体絶命の状況なのだが、聞く者はなぜか心がほんわかするという、不思議な語り口であった。饅頭を食むと、最初は表面の塩気に食欲が湧き、次いで歯を立てて饅頭の餡が舌の上に乗ると、その甘さに恍惚とするような、そんな甘く柔らかい語り口が耳にすうっと入ってきて、この『軽さ』の奥に左談次師匠がいて、『所作』のメリハリに談志師匠が生きているような気がする。

 狸の人柄というのは演者によって非常に多種多様である。同時に、狸を見守る人の了見もまた、演者によってかなり違う。談吉さんの狸は、声のトーンも相まって、非常に可愛らしくて、吊るされてシュンとしてうな垂れる狸が可哀想だった。それを見つめる人々の了見も、若干サイコパスな狸汁にしたい男と、狸の頭を刈って坊主にする男の会話も、どこか漫画チックで童謡的でありながら、ふんわりと流れるようなリズムと声が、穏やかな空間を作り上げているように思えた。

 この『軽さ』を、私は出来ることならば寄席の流れの中で味わいたい。今回は前座の後で登場した談吉さん。より深い位置で、ふいに現れる『軽さ』を体験してみたい。何とも言い表すことが出来ないのだが、これはまず一聴して、その軽さを体験した後でなければ理解が難しいかも知れないが、談吉さんはピアノ曲が続いた後で、唐突に現れるヴァイオリンのソロ演奏というような感じがするのだ。と、こう書くと「マグナム小林さん?」と思われる方もいるかも知れないが、そういう感じではない。もっとふわっとした、ベートーヴェンの曲の間でモーツァルトを聞く感じと言えば良いだろうか。我ながら表現に困るのだが、そんな魅力が談吉さんにはあると思う(どんな魅力やねん)

 

 桂才賀 カラオケ病院~左談次師匠を偲んで~

 Youtubeで、若かりし頃の左談次師匠を背負う才賀師匠の動画を見たことがある。その時のエピソードを語られる才賀師匠の姿が、妙に印象に残っている。その背に左談次師匠を背負った才賀師匠。「見たいですか?」と左談次師匠を背負った芝居について客席に語り掛けると、客席は万雷の拍手。高座に座している筈の才賀師匠だったが、私の脳裏には左談次師匠を背負った才賀師匠の映像が流れていて、その時のぬくもりを感じながら今、才賀師匠は高座に上がられているのだな、と感じた。

 お馴染みのカラオケ病院に入る前に、左談次師匠のことを語られる才賀師匠。出来ることなら、再び、左談次師匠を背負う才賀師匠が見たかった。無茶はしなくてもよいので、そんな景色を一度、この眼で見て見たかった。

 

 立川龍志 小噺~左談次師匠を偲んで~

 お初にお目にかかる落語家。声が本調子で無かったようだが、その声の掠れ具合の随所に左談次師匠のトーンが見え隠れ(この場合は聞こえ隠れか)して、思わず胸が締め付けられる。左談次師匠同様、とても素敵な笑顔が印象に残った。語りのリズムとトーンも柔らかく、どこか左談次師匠に似ているように思えたのは、単に声の調子が掠れ気味であったためだろうが。ひょっとすると左談次師匠が龍志師匠の喉を借りて、寄席の高座の僅か数分だけやってきたのではないか、そう思えてしまうほどに、私は龍志師匠の声の中に、左談次師匠の姿を見たのだった。

 医者の小噺などを披露され、ネタはやらなかったが、いずれ声が本調子に戻ったら、もっとネタを聞いてみたいと思った。立川流に脈々と受け継がれている談志師匠のDNAが、談志師匠亡き後も連綿と続いていることの奇跡を、私は仲入りの間、ずっと噛み締めていた。

 

 桂竹丸 弟子小噺

 お弟子さんの竹千代さんや笹丸さんは何度か見たことがあったが、師匠である竹丸さんを見たのは初めてだった。ゆるキャラのような可愛らしい体格、そして心地の良い語りのリズム。言尻に現れる「すっ」という感じが、「あ、竹千代さんもこんな語り方だったな」と思って、師匠と弟子の共通点を発見できたのが嬉しかった。会場を巻き込む話芸もさることながら、何よりもリズムが素晴らしい。そして、現代の感覚に合わせた話題を差し挟むところなどは、非常に知性のある人なのだなと思った。それはお弟子さんも同様で、歴史の語りで他の追随を許さない竹千代さん、漫画家の人生を語る笹丸さんなど、エンターテイナーとしての話芸が滲み出ていて、初めてだったがとても面白かった。次は寄席のトリで見てみたい。

 

 立川談笑 花見酒

 さらに、こちらもエンターテイナーな談笑師匠。お肌がつやつや真っ白で、ヨーグルトだけ食べてるのかな、と思うほどに白い。もはや絶品の声と語り口で始まった『花見酒』は、左談次師匠追善ということもあって、特別仕様。これがまた物語のアクセントになっているし、ワードだけで登場人物の映像が思い浮かんでくるのだから、まさにイリュージョンと言っても良いかも知れない。談笑師匠の粋な計らいによって姿を変えた『花見酒』は、終わってしまうのが惜しいほど軽やかに進んでいった。これも談笑師匠のお人柄だと思うのだが、落語の雰囲気がとても優しい。特別仕様になって、左談次師匠の姿が脳内に思い起こされる時の、何とも言えない気持ちが、笑いと同時に涙を誘う。物語の中で、言葉として発せられるだけで、脳内で活き活きと動き出す二人の落語家。談笑師匠にどんな意図があったかは分からないが、素敵で粋なネタを聞くことが出来た。

 一席終えて袖に消えて行く談笑師匠。そして楽屋から漏れる笑い声が羨ましい。出来ることなら楽屋に混ざって談笑師匠の花見酒について語り合いたい思いに駆られる。いいなぁ。あんな雰囲気の中で、左談次師匠は生きていて、語り継がれていって、あの満面の笑みを見せてくれるのだろうなぁ。と思うと、この追善を誰よりも追善たらしめたのは、談笑師匠だったかも知れないと私は思った。

 

 春風亭一朝 蛙茶番

 一朝師匠が登場すると、きゅっと場が締まる感じがして、安心安定の本寸法に心が落ち着く。特別仕様の談笑師匠の後で、これほどきっちりと古典に雰囲気を変えることが出来るのは一朝師匠しかいないのではないか。寄席では絶対に外すことの出来ない存在である。確実に塁に出る打者といった感じの素晴らしい落語家である。ネタも長尺の蛙茶番だが、一切ダレることなく、気持ちの良いリズム、口跡、そしてトーン。一朝師匠の安定感というのは、最初は全く気にならなかったのだけれど、立川流の落語家が続く流れで見ると、改めて素晴らしさが分かるというか、古典に場の雰囲気を完璧に調律する感じが、堪らなく凄いのである。

 たとえ下ネタの蛙茶番であっても、一朝師匠の気持ちの良い語りと、お茶目で可愛らしい軽さのある声で聴くと、卑猥さはどこにもない。むしろ、江戸っ子の粋さえ感じられる。このスタンダード感、江戸標準感というのは、弟子の春風亭朝七さんにも表れていると私は思う。マクラを聞いた時は「あ、芝居の喧嘩かな」とも思ったのだが、嬉しい誤算であった。

 芝居の喧嘩という話も、一朝師匠の気持ちの良い語りで聞くと、その後に出た落語家がどれだけ暴れていようとも、きゅっと場が締まる。これぞ、ベテランの見事な芸だと思いながら聞いていると、オチを言い終えた後で会場を去る方々が数名いた。うむ、致し方なしだ。と思えるほどに、一朝師匠の蛙茶番は素晴らしかった。

 

 林家正楽 紙切り

 左談次師匠の追善ならではのリクエスト。『あの町この町』をリクエストされた方は実に粋だと思った。最期に正楽師匠が切った紙切りも斬新かつ面白くて、寄席には出ていない川柳師匠が目立つという、謎の状況が生まれた。

 

 立川談幸 町内の若い衆

 トリで登場の談幸師匠。中音の気持ちいいトーンで軽めのネタをさらりとやる。左談次師匠の追善らしい軽さがとても心地が良かった。女将さんの演じ方も品があって、ブッサイクな女将さんという感じが微塵も感じられなかった。逆に、その品の良さが女将さんに妙な色気を生み出していると思った。随所に細かいクスグリがあって、客席も笑いに包まれていた。なんだかラデツキー行進曲を聞いているような、軽くスキップするような感じで寄席が終わって行くネタであると思った。

 爽やかにさらりと、立川左談次師匠の一周忌追善興行が幕を閉じた。

 

 総括 心の春のともしびの その先の輝きに座す

 時は異なる。満開の桜の木に囲まれて、私はブルーシートを敷いて仲間と酒を酌み交わした。少し肌寒いが酒を飲めば体は温まる。いずれ酔って寒さなぞ忘れる。桜は恋をした少女の頬のように、薄っすらと赤みがかって可愛らしい。何度季節が移り変わっても、桜の美しさは変わらない。同じように、好きな人には何度あっても好きだという思いは変わらない。この世の中で変わらずに存在し続けるのは、形の無いものただ一つ。などとくだらぬ戯言を思いつくが、キリンビールの前では意味を成さない。

 心に春がやってきて、もしも灯を灯すのだとすれば、その灯の先にある輝きの奥で、思い人は座しているのであろう。と、訳も分からず書いてみる。心に春がやってくると、言いようのない高揚感、未来への期待感が増してくる。そして、気づけばぼんやりと灯火が蝋燭の先に灯っている。賑やかな場所で唐突な孤独を感じる時に、私はその蝋燭の輝きに縋る。景色が美しければ美しいほど、それを他者と分かち合うことの出来ない寂しさを自覚するのだが、そんな寂しささえも消し去ってしまうような灯火の輝きの奥に、座布団が敷かれ、その上に座す落語家の姿を見るのだ。

 満開の桜が咲く度に、私は左談次師匠を思い出すだろう。金遊師匠や馬楽師匠のことも思い出すだろう。春の風に乗ってこの世界から、天国の寄席へと遠い旅に出てしまった人々のことを思う時、私は再び、松尾芭蕉の言葉を思い出す。

月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也

  誰もが旅人であることを自覚する。確か宮本輝先生だったと思うが、『錦繍』という著作の中で、以下のようなことを書かれていた。

生きていることと死んでいることは、同じことなのかもしれません

  うろ覚えで恐縮なのだが、何となく、そんな言葉が頭の中にある。誰かが忘れない限り、その人は死ななない。これは永六輔さんの言葉だが、

人間は二度死ぬんだよ。最初の死は、肉体の死。二度目の死は、家族や生者がその人の事を語らなくなった時なんだ。

 まさしく、我々が語り続ける限り、死者は死なない。そんなことを思いながら、私の頭の中にある高座には今日も、名人達が上がり続ける。そして、座布団に座して一席を語り始める時、私はその高座姿に、ただただ見とれ、笑うのだ。

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枝雀師匠のDNA~3月30日 お江戸日本橋亭 九雀・坊枝二人会~

やったるでぇ! 

  ぼんやりボンボヤージュ

 桂枝雀師匠と言えば、落語好きなら知らない人がいないほど有名な落語家である。何を隠そう私も、たまたまYoutubeで見た桂枝雀師匠の『代書屋』を見て落語に魅了された人間である。生の高座が見たい!と思って調べたのだが、残念ながら既にこの世界にはおらず、天国に存在する寄席で名人達と肩を並べながら、天国の人々の爆笑をかっさらっている。

 その日は、たまたま用事で東京近辺をぶらぶらとしていた。東京駅は随分と人で賑わっており、少し肌寒い空気ではあったが、人々の熱気が街を温めていた。何となくぼんやりと散歩をするのが好きな私は、自分の直感に従って歩き、道に迷ったり、飽きて家に帰ろうかと思ったところでスマホを見るようにしている。Google mapという非常に便利なアプリで現在地を確認したら、私の散歩は終了することになっている。

 ぼんやりと歩いていると、『綾鷹の木』やらが立ち、有名シェフが一同に会した祭りのようなものが行われていた。なんとなく景色に見覚えがあり、一体どんなシェフが店を開いているのだろうと気になりつつ、店の様子を眺めた。各地の日本酒やら寿司やら肉串などが並べられ、『三代目がどうのこうの』と書いた看板があった。顔の黒いどこかで見たシェフが、陽気に酒を飲みながら周りの友人たちと語り合っているのを見た。

 今になって思えば、これも全て何かの縁であったと思う。ぼんやり円を描きながら始まった私の散歩が、円の閉じる位置でばったりと何かにぶつかった。それは、何代も受け継がれる食の技術の祭り。正式な名称は全く覚えておらず、一体何の祭りだったかすらも覚えていないのだが、白い調理服を身に纏った有名なシェフが露店で店を出していたことだけは覚えている。何となく、何かが受け継がれているのだという空気がそこにはあった。

 

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 なんともいい加減な覚え方であるから、私は全く自分というものが信用ならないと思うのだが、そこにあった空気感だけははっきりと覚えているので、何の問題も無いと思う。大事なのは情報ではなく、その時自分が何を感じたかであると思うので、この記事は正確な情報というものを必要としない。それは誰かがそのうちに、「3月30日のイベントはこれこれ~」と教えてくれるだろうと思う。別に教えてくれなくても良いが。

 

 ばったりお江戸日本橋亭

 そんないい加減な人間であっても、見覚えのある通りを歩いていると、「あ、ここは前に来たことがあるぞ」と思い出して驚くことがある。ぼんやりと歩いていると、お江戸日本橋亭を発見し、「おっ、懐かしいな」と思った。朝練講談会でお馴染みの日本橋亭である。直近では左談次師匠を偲ぶ会が最後であったと思う。僅か数日間で懐かしさを感じるほどなので、私は随分と忘れっぽい性格のようである。

 せっかくお江戸日本橋亭まで来たのだから、落語の一つでも聞かねばなるまいぞと思い立ち、早速スマホで今日の会を調べる。『桂九雀・桂坊枝二人会』とある。調べると、九雀師匠は桂枝雀師匠のお弟子さんであると書かれており、このときに私は、「これは聴かねば!」と思ったのである。

 今まで、桂枝雀師匠には夢中になっても、お弟子さんについて考えることは無かった。よく目にするのは桂雀々師匠で、いつか高座を見たいと思っている。

 思わぬところで桂枝雀師匠のお弟子さんの高座が見れるということで、私の胸は高鳴った。また、今では6代目で有名な桂文枝という名であるが、5代目の桂文枝師匠のお弟子さんである桂坊枝師匠も見ることが出来るとのことで、一体どんな落語が見れるのだろうと、興奮を抱えながらドトールに入った。結婚式帰りの美人集団が珈琲を飲んでいたので、無条件で癒されながら、私は開場時刻まで待った。

 

 前情報一切なし 一目惚れ

 落語も恋もそうだが、一目惚れというのはどうにも頭を悩ませて仕方がない。ぼんやりとした寄席の中で、綺羅星の如く光り輝く文菊師匠を見た時もそうだが、一目見て「これぞ!」と思う落語家に出会ってしまうと、無性に色んな演目をその落語家さんで見て見たくなってしまう。恋も同じで、全ての美人の中にあって「これぞ!」と思う美人に出会ってしまうと、何度か足繁く通って、顔と名前を憶えてもらうところから会話が生まれ、美人が何を考え何を好んでいるかなど、いちいち全ての事柄に対して美人が感じることを知りたくなってしまう癖がある。一言で言えば恋愛体質であるのかも知れぬが、物事はそれほど単純ではない。また、これはセックスにも言えることで、一度体を重ねてみると、いや、よそう。

 相手の高座を初めて見る時のドキドキ感もさることながら、自分の中で固まりつつある江戸の落語家さん達の風から、一転して上方の落語家さん達の風を感じる時、果たして自分はその風に馴染むことが出来るだろうか、という不安がある。だが、そんな不安も全く杞憂であった。それは開口一番に、圧巻の前座さんが登場したからである。

 

 桂九ノ一 兵庫船

 これまでの落語鑑賞人生において、これほどまでに漲った落語は聴いたことが無かったし、これほどまでに溌溂とした熱気を放ち続けた落語家はいなかったように思う。九ノ一という名から、美人な前座さんかなと思っていたら、力士のような体格と、まさに「やったるでぇ!」というような笑みを浮かべ、眼にはたっぷりの気合と情熱を燃え滾らせた男が出てきた。その名を、桂九ノ一。

 後に偉大な落語家になるであろう素質を持っている。一目見れば、その勢い、汗、熱量、そして圧巻の大音声に心を奪われることは間違いない。もはや前座レベルではない。一つ一つの言葉に淀みは無く、眼は仁王の如くに輝きを放ち、厚い眉と気迫に溢れた口元。全身を使って船を漕ぐと、鳴り物が鳴る。完全に気迫にノックアウトされ、私の頭の中はこんな言葉で埋め尽くされた。

 

 物凄い気迫だ!

 

 何よりも、眼である。その眼には幾千年もの年月に耐えうる、強烈な力があった。落語において、今まで想像もしなかった『気迫』という言葉が、私の脳内に沸き起こった。同時に、『気迫』という言葉は講談に主に用いられるものであろうと私は思っていたし、現に神田松之丞さんなどの講談師には『気迫』という言葉が芸の表現のどこかには表れてくるだろう。肩の力を抜き、独特のフラで笑わせる桂伸べえさんや、鮮明かつ端正で緻密な落語の世界を構築する文菊師匠、そして、ついに新たなる落語の魅力、気迫と熱量の落語を見せる九ノ一さん。この三人のトライアングルが私の中に出来上がったのである。あまりの嬉しさに身悶えし、二日ほど目覚めの時には「九ノ一さん、凄かったなぁ・・・」という衝撃が残るほどであった。

 ただただ気迫に圧倒され、大振りの大剣を振り回すかのような圧巻の落語に打ちのめされた。同時に、上方にこれほどの逸材が存在しているということが、堪らなく羨ましいと思った。出来ることならば、東京の落語界に九ノ一さんが欲しいほどである。まだ前座という身分であり、調べると入門して僅か2年であるという。Twitter等で演目を調べると、ネタ数も多く、どんな風にやっているのか、物凄い興味がある。

 出来る限り東京にも来て欲しいと思う。そんなスペシャルな存在との嬉しい出会いがあり、今もまだ「九ノ一さんの落語がみたい」という欲求に苛まれている。

 

 桂坊枝 手水廻し

 初見であるため、詳細な判断を下すことは出来ないが、愛らしい姿と可愛らしい声が魅力的な落語家さんだと思った。なぜか私は春風亭一朝師匠を思い出していた。寄席の中において、この人が出てくると場が締まるという感じがする。本寸法の落語を何とも可愛らしく演じ、聞く者を惹き付ける声と言葉。手水を飲む場面も面白く、ベテランの落語家さんが持つ、噺の世界に誘う力が物凄いと思った。最初に九ノ一さんを見てしまったため、さすがに溌溂さは無かったが、細部まで配慮された言葉と所作、何よりも深みのある芸が光った。出来ることならば、寄席の流れの中で見てみたい落語家さんである。

 

 桂九雀 桜ノ宮

 九ノ一さんの師匠ということで、一体どんな落語が見れるのだろうかと期待して見た。結論から先に言えば、物凄い溌溂とした落語家さんで、なるほど九ノ一さんの溌溂さ、気迫の根底には、九雀師匠の存在があったのだな、と改めて思った。どの落語家さんでもそうだが、気になった落語家さんの師匠の芸を見ると、芸の中で生き、受け継がれたものがあるのだなと感じることがある。それは小八師匠に受け継がれた喜多八師匠の芸であったり、談吉さんに受け継がれた談志師匠と左談次師匠の芸であったりもする。そして何より、桂九雀師匠には、確かに、桂枝雀師匠の芸が受け継がれていた。

 動画でしか見たことはない枝雀師匠の姿であるが、その溌溂としながらも流れるような言葉運び、そして知性に溢れたワードの数々。九雀師匠には枝雀師匠の溌溂とした姿が受け継がれているように思った。そして、何よりも眼である。九ノ一さんの時にも思ったのだが、とても素晴らしい眼を持っていると私は思う。それはどうにも理屈では言うことが出来ない。ただ『素晴らしい眼だ』と思う心が、私の中にあり、そんな眼をしているのである。

 さて、『桜ノ宮』というネタは、東京で言えば『花見の仇討ち』に相当する。何とも季節に合った素晴らしい噺で、九雀師匠の声と表情がとても素敵だった。満開の桜の中で、芝居に興じる人達の姿が面白い。花見をしたくなる素敵な一席で仲入り。

 結局、仲入り中も私は『九ノ一さん、すげぇなぁ』という気持ちでいっぱいだった。

 

 桂九雀 鰻屋

 軽めのネタでさらりとやった九雀師匠。一杯飲むために振り回される男の様子が面白い。一杯の正体が判明するオチまで聞いた後、鰻屋のオチまで、音源で聞いていた枝雀師匠の型だと私は思った。嬉しそうに語る眼と表情がとても素敵で、何よりも元気である。明るくて元気で、それでいて可笑しみがある。まだ初見のため、良い言葉を発見できていないのが残念だが、気持ちの良い型で落語を聞いているような感覚がある。sれは変に入れ事のない、落語本来の面白さに寄り添った語りにあると私は思う。もっと色んな話を聞きたいと思った。

 

 桂坊枝 天王寺詣り

 大変に失礼な輩がいるもので、こんな無礼を働くのであれば未来永劫、演芸の神様から呪われてしまえ、と一瞬思うような、酷く礼を失した者がいたらしく、登場した坊枝師匠が優しく制していた。そこでブチ切れずに冷静に伝達する坊枝師匠は、とても大人の対応であったと思う。これは読者にも察して欲しいのだが、寄席や落語にはルールがある。それは、聞く者が勝手に捏造したり、拡大解釈してはならないものである。以前、寄席の録音行為について記事を書いたが、録音・録画は一切禁止である。これを読む読者の中には、そんな不届き者はいないと思っているが。

 優しく制した坊枝師匠は、気を取り直してネタに入った。これが絶品で、『付き馬』にも似た、二人で移動する系のお話である。愛犬の供養のために四天王寺へとお詣りをする六さんと甚兵衛さんの姿が、楽しくて仕方がない。微笑ましいお詣りの姿の底には、『愛犬の死』という悲しいテーマが流れているのだが、温かくて、なんだかほんわかするような語り口で、最後のオチの辺りは少し涙さえ浮かんでくる始末。

 後になって、五代目桂文枝師匠の音源を聞いた。坊枝師匠の語りの中に、文枝師匠の語りは生きていた。あの優しく、高い声と、独特の間の愛らしさ。初見であるため、まだ適した言葉を持たないが、ほんわかとした雰囲気がとても素敵だった。

 

 総括 それぞれのDNA

 今回の三人はどなたも初めてだったが、上方には上方の素晴らしさがあることを改めて知った。東京と上方で優劣などなく、どちらも素晴らしいことに間違いはない。だが、私の心は確実に『上方の落語家さんをもっと見たい。聞きたい!』という気持ちで埋め尽くされている。どんな逸材が眠っているのか想像も付かない。また、上方の地で感じる寄席そのもの、寄席の空間そのものも、まるで東京の空間とは違うのではないだろうか。それぞれの空間に存在する風、雰囲気を味わってみたい。

 長く東京の寄席に通っている身としては、東京には東京の風が吹いているように思う。そんな場所に、上方の落語家が現れてくると、それはそれは魅力的に私には感じられるのである。

 また、上方で隆盛を誇った名人。桂米朝師匠、桂枝雀師匠、桂文枝師匠、笑福亭松鶴師匠等々、名人たちのDNAは確実に弟子達へと受け継がれているのだと知った。東京ではお馴染みの噺であっても、上方で聞くとまた違った味わいがある。だから、落語は奥深いのだ。

 もっともっと、上方の落語が聞けるように、東京で開催された時は通ってみたいと思った。

 お江戸日本橋亭を出て、少しハッとする。そうか、私はいつの間にか上方の地に誘われていたのだな、と思いながら、東京の街の中へと消えて行くのだった。

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