落語・講談・浪曲 日本演芸なんでもござれ

自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

我逢人~ザ・スズナリ きょんスズ30 2019年11月2日 14時回~

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My Heart Is Filled With Gold 

   

人と出会うことから全てが始まる

どうして柳家喬太郎師匠を好きになったんだろう。きっかけは、大学生の頃、Youtubeで見た『夜の慣用句』だった。桂枝雀師匠を知り、枝雀師匠が亡くなられたという情報を目にしたとき、私は「じゃあ、生きている噺家で誰が一番面白いんだ?」と思い、インターネットで『落語 最高 一番』みたいな言葉を検索した。すると、広瀬和生氏の記事が出てきて、その時の1位が喬太郎師匠だった。

すぐにYoutubeに上がっている落語を聞いて、すぐにハマった。これは見に行かなければならないと思い、近くのホールでやっている会を探した。そこで、私は喬太郎師匠の『抜け雀』を見た。別のホールで、『禁酒番屋』を聞いた。新作を聞くことができないまま、社会人になり、寄席に通い始め、初めて聞いたのは『午後の保健室』だった。

喬太郎師匠は新作も古典も面白い。昔、ラジオで『ピロウトーク』という番組をやっていて、地方出身の私は毎日録音して聴いていた。それくらい、喬太郎師匠が好きだった。

喬太郎師匠が書いた『落語こてんパン』を読んだり、どこかで枝雀師匠の面影を追いながら聞いていたのが、大学生の頃だった。どこを探しても枝雀師匠の高座を見ることのできない悔しさが、色んな噺家を聞くことで紛れていった。7年前は、一之輔師匠や三三師匠が特に凄かった記憶があって、今や不動の人気を誇っている。

東京に来て、数えきれないほど凄い噺家がいることを知ることになるのは、落語に衝撃を受けてから四年後のことだった。寄席で見た古今亭文菊師匠に痺れ、桂伸べえさんに度肝を抜かれ、小満ん師匠や笑遊師匠など、若手からベテランまで、物凄い人達が大勢いることを知った。もちろん、人気のある噺家も凄いのだけれど、それ以上に『自分の感覚に合う噺家』に出会えたことが嬉しかった。

人気者の喬太郎師匠は、私が大学生の頃に見たときから、輝きを失わずに、むしろさらに輝いているようにさえ思える。

これは本当に幸福なことだと思うのだけれど、大好きな噺家とともに歳を重ねることができるのは、とても素晴らしいことだと思うのだ。特に同世代の噺家がいると、より一層落語への面白さが増していく。

同世代の噺家も、中堅の噺家も、ベテランの噺家も、全ては私自身が出会うべくして出会った人だと思う。

さて、喬太郎師匠は今年で芸歴30周年を迎える。本当に凄いことだ。第一線で活躍し続ける喬太郎師匠の凄まじさを見ていると、勇気が湧いてくる。なんて凄い人なんだろう。どれほど落語に浸かって、落語を愛しているんだろう。

才能なんて安易な言葉では片づけられない。喬太郎師匠の覚悟は相当なものだったと思う。数多くの落語家は存在するが、『名人』と呼ばれる噺家はほんの一握りである。それでも、落語の世界に飛び込み、多くの同期と切磋琢磨し、今もなお輝きを失わずに高座に上がる柳家喬太郎師匠が、一体どんなことを語るのか。

きょんスズ 二日目。私は心を高鳴らせて待っていた。

 

 柳家小んぶ 持参金

小んぶさんを初めて見たのは、今は無くなった上野鈴本演芸場早朝寄席だった。確か『新聞記事』をやっていたと思う。口調と声の張りが素晴らしい。ガタイの良い体から発せられる声を聞いているだけで、心がスッと心地よい。

柳家さん喬師匠のお弟子の中では、力士並みの体格で江戸の風を吹かせる素敵な噺家さんである。もう二~三年すると真打昇進だろうか。声がとても良いので、寄席などで重宝される噺家になると思う。

 

柳家喬太郎 稲葉さんの大冒険~三遊亭圓丈 作~

マクラは書けないことも多々あるけれど、喬太郎師匠が『落語家になった経緯』を語られる姿がとても感慨深かった。大学生の頃に見た喬太郎師匠の人物像が、より身近に感じられた。本やネットの情報等で耳にはしていたけれど、改めて喬太郎師匠の語りで聴くと胸に迫るものがある。ゲストである圓丈師匠の『グリコ少年』を聞いて衝撃を受けたという話。私も喬太郎師匠を知ってすぐに『グリコ少年』を聞いた時は、腹を抱えてゲラゲラ笑った記憶がある。でも、そのとき私はどうして落語家になりたいと思わなかったんだろう。20歳の頃の私は、それよりも成りたいものがあったのだった。それは物を書く人間になること。今は趣味で続けているけれど、いつか本気で本を出版できるような存在になりたいと考えている。

さて、圓丈師匠、そしてさん喬師匠との思い出を語りながら、喬太郎師匠は演目に入った。簡単な内容は『真面目な稲葉さんが災難に巻き込まれる』という話だ。

ザ・スズナリという会場の影響もあって、物凄く楽しそうに演じられている喬太郎師匠が印象深かった。あんなに楽しそうな喬太郎師匠は見た事が無い。色んな思い出が喬太郎師匠の中で駆け巡っていたのだろう。そして、この演目で一番、私が気に入っているのが桂枝雀師匠の所作。三遊亭圓丈師匠、柳家さん喬師匠、そして桂枝雀師匠。様々な方々の魂が喬太郎師匠の中で息づいている気がした。

ただただ稲葉さんがひどい目に合うだけの噺なのだけれど、なんだか笑っちゃう。稲葉さんの真面目さや、長谷川さんの過剰な気遣いが面白い。ぼんやり、ぼんやり、楽しんで聞いた。

 

 三遊亭圓丈 ランボー怒りの脱出

もはやお馴染みの衝立が置かれ、圓丈師匠が登場。あんまり喬太郎師匠のことを語らない感じが、圓丈師匠らしくて好きだ。圓丈師匠の生き様は、高座を見る度に感動するほどカッコいい。全く話の内容を覚えられなくなっても、語ろうとする意志、そして、無邪気に話の世界に浸って語る圓丈師匠。落語に何を求めるかは人それぞれだけれど、全盛を誇った時代から、衰退の時代まで、全てを余すところなく高座で見せて行く圓丈師匠の姿は、私が言うのもおこがましいくらい、凄まじい執念がある。

名人と呼ばれた三遊亭圓生師匠のもとで修業し、圓生直伝の所作を見せたり、ランボー怒りの脱出という映画をそのまんまやりながら、落語の所作で置き換えて行ったりと、アクロバティックな語りを大熱演する圓丈師匠。

やっぱりこの、闘争心というか、面白いことを語りたいんだ!っていう飽くなき執念が、本当に凄いと思う。この圓丈師匠の姿を見るだけでも、大きな価値があると私は思う。

どれだけ年をとっても、飽きずに、探求心や、知的好奇心を忘れずに生きていたい。そんなことを思う、素晴らしい高座だった。

 

柳家喬太郎 ぺたりこん~三遊亭圓丈 作~

再び登場の喬太郎師匠。以前、両国亭で見た『ぺたりこん』より、若干、陰湿な印象は薄まった感じがする。それでも、どこで笑っていいか客席も試されるような、不思議なお話だ。なんていうか、不条理さをどう笑えば良いか戸惑う。

簡単な内容は『机に手がくっついた男と周囲の末路』という感じの噺である。今回は、机に手がくっついてしまう男にも、それなりの理由があって手がくっついたんだろうなぁ、という感じがした。

どんなところで、人生に不条理がやってくるかわからない。もしも不条理に苛まれたら、私は一体どうしたら良いんだろう。

 

総括 人と出会った、その先で

唐突に、私の苦い経験を語ることにする。人との出会いから全てが始まることは間違いないが、出会ったことで良いこともあれば、悪いこともあるし、謎を残したまま別れることもしばしばある。

初めて出会った人と、しばし素敵な時間を過ごした後で連絡先を交換し、再度お礼の連絡を送ったところ、そのまま音信不通になるということがあって、その時のショックたるや計り知れないものがあった。

自分にどんな悪いところがあったんだろう、とか。あの時間は何だったんだろう、という深い喪失感に襲われるのだが、根が起き上がりコボシの私は、それほど気にはせずに立ち上がりが早い。最近、のSSDを越える速さで起動する。

人と出会って、それが良い方向に進むか、悪い方向に進むか、そもそも良し悪しなんてあるのか。そんなことは、誰にも分からない。ただ自分で「良かった」とか「悪かった」とか言って、腑に落ちるところを探すことになるだけだ。

でも、私はこれからも誰かと出会うだろう。永遠に変わらないのだ。人と出会うことから全ては始まる。誰一人として他人と会わずに生きていける人間なんていない。であれば、少なくとも、私と出会った人だけは幸せであってほしいと思う。

そうそう、これも悔しい言葉なのだが、とある方に「森野さんは、相手のレベルに合わせて会話する人ですね」と言われたことがあった。「う、うん・・・」としか言えなかった。それが良いか悪いか自分でも良く分からない。少なくとも、ブログに関しては、特定の誰かにレベルを合わせて書いていない。自分のレベルで書いている。

反対に、渋谷らくごのレビューは、もっと別のレベルに合わせている。それは『初心者』のレベルである。これは決して低いとか高いという話ではない。そういう尺度のレベルではなく、次元の異なるレベルという話になる。が、ややこしいのでやめる。

いずれにせよ、あと二度ほど、喬太郎師匠をスズナリで見る機会がある。その感想も、簡単ではあるが記していく予定である。

喬太郎師匠の、様々な由来の見えた、素晴らしい会だった。

驚愕の新入生たちの大きな伸びしろ~2019年10月30日 神田連雀亭 新作一年生~

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カシコマリマシター

 

スイス!?

 

オザサ部長

ずっと前から楽しみに

宇宙一楽しいイベントが告知された瞬間、私は度肝を抜かれた。その告知を見たのは9月7日。新作一年生と題された会で、噺家が三人、自分で作った落語をやるという。

一体誰が出るのかな、と思って見ると、

三遊亭遊かりさん

三遊亭吉馬さん

桂伸べえさん

 

ん?

 

遊かりさん、吉馬さん、、、

 

ん?

 

伸べえさん?

 

えっ

 

 伸べえさんんんんん!!!!!????

 

気が付くと、私は予約のメールを送っていた。桂伸べえさんが、新作を作ってやる。これを見逃すわけにはいかなかった。

今日まで、待ちに待った会である。

結論から言おう。

 

んんんん超おおおおおうううううう

 楽しかったぁあああああああああああ!!!!!!!!

 

 オープニングトーク

遊かりさん、吉馬さん、伸べえさんの三人が着物姿で登場。相変わらず俯き加減なシャイボーイの伸べえさん、ガッチリと堂々としながらも不安な様子の吉馬さん、腹をくくった感じのある遊かりさん。まだ、新作披露前とあって、三人とも緊張している様子。客席は割とホクホクしていて、真ん中に座った伸べえさんが丁度良く和やかな空気を醸し出していた。改めて思うのだけど、伸べえさんが存在しているというだけで、会の空気感が凄く和やかになる。天性のフラとしか言いようが無い素晴らしさ。

私は、一体この三人がどんな新作落語を作り上げるのかということに興味があった。寄席で見る遊かりさんは、師匠である遊雀師匠直伝の『悋気の独楽』や、『女子会ん廻し』など、可愛らしい登場人物に小さく混じった毒っ気が面白い噺家さんである。今日は一段と化粧が濃いような気がして、遊かりさんの気合いを感じた。

三遊亭吉馬さんは、圓馬師匠のカッチリとした雰囲気を漂わせながらも、迫力があってドッシリとした落語をされる。勢いがあって声も力強く、プロレスやボクシングなどの格闘技系の出身なのかと思うほど、体育会系の雰囲気を感じる。

桂伸べえさんは、伸治師匠のおおらかさに育まれて、天然記念物的な雰囲気を醸し出している。もはや何をやっても伸べえさんになってしまうという、驚異のフラを持っている。とてもカッコイイのは、トークの時は俯いて恥ずかしそうにしているのに、落語に入るとパッと顔をあげて、縦横無尽に落語をするところ。大好きだし、とにかく笑いたいなという時に、真っ先に聞きたい噺家である。以前にも書いたが、『この人があの演目をやったらどうなっちゃうんだろう?』という強烈な興味を沸かせてくれるのが、桂伸べえさんなのだ。

そんな、三者三様の噺家が、緊張の面持ちであみだくじを行い、出演の順番を決めた。ゲストには春風亭昇太師匠の弟子の昇羊さんが来られていた。

さて、あみだくじの結果、トップバッターは、この方になった。

 

桂伸べえ 滑舌カフェ

世の中のありとあらゆる面白いに纏わる言葉を探しても、どれ一つとして伸べえさんの面白さを表現できないのではないかと思うほどに、とにかく面白い。もはや、『伸べえ』というワードが、最も面白いという意味を表現している。としか、言いようが無い。どれだけ私が『面白い』と語ったところで、『伸べえ』という言葉には敵わない。もしも神様がいるなら、伸べえさんの面白さを表現する言葉を教えてほしいと思うのだが、恐らく神様ですら、伸べえさんの面白さを表現することはできないと思う。

面白いのだ。面白くて、面白くて、面白いのだ。

どんなに書いても、伸べえさんの面白さを言葉で言うことは難しい。

数式で言えば、何億年と解かれることの無い永遠の定理とでも言おうか。

初めは私も幾つか記事を書いて、なんとか伸べえさんの面白さを伝えようと思ったのだが、不可能だということに気づいた。

というか、伸べえさんを見て欲しいのだ。

伸べえさんの落語を見てしまうと、落語という大きな枠の中に、

伸べえというとてつもないジャンルが生み出される。

抗えない。どうやったって抗えない面白さなのだ。

なすすべもなく、笑うことしかできなくなるのだ。

そろそろクドイので止すが、伸べえさんの作り上げた新作は、めちゃくちゃ面白かった。

簡単な内容は『上野を散歩した滑舌の悪い男二人が、滑舌の悪い人達のいるカフェに行く』という、ただそれだけの話である。特に上手いことを言うようなことも無ければ、笑いを狙いにいったところが一切ないこと。いつもの高座でも良く起こる『メタ』な会話の応酬があって、そこがことごとくウケていた。馬石師匠にも近いというか、噺に入り込んで、噺の中で心の底から楽しんでいる感じがあって、変に演じている感が無い。もはや地で与太郎をやっているんじゃないかと思えるほどに、噺が伸べえさんの中に染み込んでいるのだ。安易に使いたくは無いのだが、天才としか言いようが無い。唯一無二にして、天才の領域で落語をしている。凄まじすぎるのだ。

ストーリの中で特別なことは何も起こらない。ただひたすらに、くだらないことが連発される。

そのくだらなさに、なぜか笑ってしまうのである。笑わずにはいられないのである。

伸べえさんは、遊戯王で言えば『エグゾディア』みたいなもので、揃った時点で勝利が確定することと同じように、高座に上がって一言発しただけで面白いのである。読者に思い浮かべて欲しいのは、『この人が登場したら、全面降伏』という人が必ず一人はいると思う。そういう存在が、桂伸べえさんなのである。

とにかく、とにかく、とにかく、面白かった。

もはや、それ以外に言いようがない。

面白いという言葉に、ありとあらゆる地球上の面白いが凝縮されていると思って頂きたい。

会場も大爆笑が巻き起こり、伸べえさんもノリノリだった。

宇宙初公開の新作落語は、伸べえさんの滑舌が存分に活かされた、最高の一席だった。

これからも新作落語を作り続けていって欲しいと思う。何をやっても面白いから、伸べえさんらしい落語を突き詰めて行ってほしい。もはや盲目な一ファンの言葉である。

 

三遊亭吉馬 国技ワールドカップ

驚愕の一番手の後で、沸き上がった会場にパワーを得て登場の吉馬さん。荒馬の如き勢いから演目へ突入した。

簡単な内容は、『各国の国技を合体させたワールドカップがどうなるか』という話である。日本の国技は相撲で、相撲が色んな国の国技とミックスされて競技になる。

アクロバティックな発想で、映像を思い浮かべるだけでも面白い。次は一体どんな国と相撲が組み合わさるのか。ワクワク感が沸き起こる。

異種格闘技の究極を行くようなお話で、吉馬さん本人も『めちゃくちゃなワールドカップ』と語りながらも、丁寧な解説によって映像が目に浮かぶ。特に、最後のスイスとの試合はとても面白かった。落語の形式に則ったなぞかけのような小ネタも挟みつつ、最後も綺麗に決まった一席。

設定の特異さが際立った新作落語で、客席が大いに話に入り込んでいる空気があった。伸べえさんの時にも感じたのだが、お客さんの噺への入り込み具合が凄い。普段、あまり他の会では出会わないような、想像力を極限まで発揮した人達が数多く訪れていた雰囲気があって、その雰囲気に飲み込まれてとてつもない爆笑が巻き起こっていた。

こんなに温かい笑いが起こると、新作を作った苦しみから一気に開放されて、とても嬉しい気持ちでいっぱいなのだろうなぁ。と思った。伸べえさんも吉馬さんも、早く高座を降りたいという雰囲気は一切無かった。むしろ、もっともっと語りたいという欲求すら沸き起こっているかのような、とても熱い高座だった。

 

 春風亭昇羊 吉原の祖

新作落語の先輩としてゲスト出演の昇羊さん。キリっとした端正な顔立ちと、クッキリとした目鼻立ちが凛々しい。何度か聞いているが、今回初めてしっかりと聞いた気がする。古典の『短命』に近いような、言葉にされないけれど、態度には現れてしまうような、そういう『語られない部分の面白さ』があって、客席の想像力も爆発していて、とにかく笑いが起こっていた。

昇太師匠の弟子ということもあって、新作落語の新しい道を切り開いて行く方々も大勢いるのだろう。かつてとあるお客さんが「新作は大変ですよ。時代の流れがあるから」と仰られていたことを思い出す。どんなに時代が過ぎても、風化しない落語の息吹が、昇羊さんの作品には吹いているような気がした。

ここまで、素晴らしい会場の盛り上がりと、高座に上がられた噺家さんの個性が爆発したネタが続いた。仲入りを挟み、トリを飾ったのは、この会の発起人である。

 

 三遊亭遊かり 伝説の販売員

覚悟を決めたかのように、腹を括って高座に上がった遊かりさん。元百貨店のお酒の販売員さんだったようで、その経験を活かした新作落語が始まった。

簡単な内容は『デパートのお菓子売り場で巻き起こる様々な騒動』を語るお話である。これがとにかく、面白い。

デパートの豆知識もさることながら、色んなお客様が登場したり、従業員の裏話が聴けたり、色んな珍事が起こったりする。

特にオザサ部長(?)だったかが登場するくだりは大笑いしてしまった。前半のウキウキした語りが、とてつもないリアリティで迫ってきて、まるで本当にデパートのお菓子売り場にいるような感覚になった。

これは絶対、連続物にした方が良いのではないかと思ったほど、デパートや百貨店の色んな面白い話が凝縮された一席だった。遊かりさんには、架空のデパートを作り上げて、そこで巻き起こる様々な出来事を一話一話語る形式で新作を作ってほしいと思った。それくらい、面白くてタメになることがデパートでは起こっている。

特に、終演後のトークで語られたお話なども、連続物の最後に人情噺として据えても良いんじゃないかと思うほど良い話だった。もっともっとデパートや百貨店の事情やお客様の様子を知りたいと思うほど、とても興味深かった。

自分の過ごした人生を、これほど面白く落語に昇華できる遊かりさんの創作能力が凄まじい。細部までカッチリと想像して辻褄を合わせているからこそ、客席で聴いている人達にありありと絵を想像させることができるのだと思った。私も休みの日に、ユニクロの服を着て新宿のデパートを巡ってみたい。お菓子売り場を巡ってみたいと思った。

長尺の大ネタ。まだまだ聞きたいこともたくさんあったがおしまい。素晴らしい一席で、今後の可能性に満ち溢れていた。

 

 選評

遊かりさんのネタが終わった後、再び吉馬さんと伸べえさんが登場。なぜか土下座スタイルで、まるで叱られるかのようなスタイルで昇羊さんの選評が始まった。ネタを終え、緩みに緩み、安堵感に満ち満ちた伸べえさんの表情が面白い。ネタ披露前までは「どうしよどうしよ」という感じだったのだが、いざネタを終えると「やってやりましたよー!最高でしたよー!」という雰囲気に変わっている感じが、伸べえさんらしくて良かった。

吉馬さんはスケールの大きいネタを終えつつも、やりきった感よりも「苦労が長かった。大変だった」という様子。トリの遊かりさんは、前職ということもあって、まだまだ改良の余地を残すが、それまでの経験を存分に活かしていた。

昇羊さんの選評も的確で、伸べえさんはもう、伸べえさんにしか出来ない部分があるという感じのことを仰られていた。吉馬さんは組み合わせの妙が光った。遊かりさんは、事件を起こす部分の難しさがあったというようなことを仰られていた。

これは落語台本を書く人にも参考になる選評だった。いかに日常の延長線上に面白い話を作り上げるのか。それとも突拍子も無いワードで面白さを演出するのか、はたまた天性のフラで面白さを突き詰めて行くのか。色んな『面白い』が新作には詰まっていて、創作過程における葛藤や苦しみ、知恵や試行錯誤が垣間見える時間だった。

 

総括 驚愕の一年生

学校に入って、後輩に脅かされたことは私には無いけれど、今回の三人の新作落語は、今、新作落語を作り続けている噺家さん達を十分に脅かすと思う。というよりも、それぞれの個性が話に凝縮されていて、もっと見たい!と会場にいた誰もが思っていたのではないだろうか。少なくとも、私はもっともっと、今日の三人の作り上げた新作落語を見たいと思った。

誰にでも『らしさ』があって、その『らしさ』が一滴も漏れずに形作られたものが、きっと、新作落語に挑戦した噺家の第一作なのではないだろうか。初めて作って、初めて披露した新作落語には、誰が見ても明らかな、その人の個性が詰め込まれている。

今まで、遊かりさんも、吉馬さんも、伸べえさんも、古典落語(或いは古典・改)しか聞いたことが無かったが、本当に三人の個性が発揮された素晴らしい三席だったと思う。会場もとにかく温かかったし、これ以上無い、素晴らしいスタートを切ったと思う。とても大きな伸びしろがあると思う。

本気か冗談か分からないけど、伸べえさんの鎖というか、オモリが解き放たれた瞬間に立ち会えたのは、一人の落語好きとして、これ以上無いほど嬉しい。

今後、一体どんな風に新作落語を作っていくのか。

次は一体、どんな新作落語を見ることができるのか。

次回は、予定では2月末だそうである。

絶対行く。

驚愕の一年生たちの、今後の成長を見逃すわけにはいかない!

落語を見た!という~2019年10月27日 鈴本演芸場 夜の部~

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働くって辛いな

 

濡れねずみ

 

シロー

 

街頭演説

 

大谷翔平

 

おれは古典しか

 

大地!

 

今日はちゃんとやります

 

ふわぁああ

 

 

という 

Looking forward to the future

未来に楽しみを失うことなんてできない。食べる楽しみを永遠に失うことができないように。

どんな時でも、『これからが楽しみだ』と思う気持ちがあれば、レッドブルを飲まなくても背中に羽は生える。ローラースケートが無くてもパラダイス銀河は歌える。君と出会った奇跡が、この胸に溢れなくても、きっと今は自由に空を飛べる。

寄席という場所に入って、自分の座りたい席に座って、高座にあがった芸人を見ていると、座っているのに、飛んでいるような心持ちになるのは、笑顔だからだ。『笑』という字は『ショウ』と詠む。舞台で繰り広げられる『Show』を見て、『笑』が起こって『生』じるのは『昇』の気持ちでしょう?

今宵も、これからが楽しみな人々が続々と出てきた。もちろん、私もあなたも、楽しみなのは、これからだ。以下、個人的に気になった方をピックアップで記載。

 

鈴々舎美馬 金明竹

開口一番は鈴々舎馬風師匠門下の美馬さん。読み方はビバではなく、ミーマ。馬るこ師匠に弟子入りを志願したが、色々あって馬風師匠門下になったというのを、新ニッポンの話芸で聴いたことがある。

金明竹という話は大変に難しい噺だ。登場人物の描き分けであったりリズムであったり、表情であったり、同じパターンが繰り返されるので、飽きさせずに淀みなく聴かせる力が必要だと思っている。

圧巻だったのは、美馬さんの上方からの来訪客の言い立て。恐らく馬るこ師匠直伝のハイスピードな言い立てで、数々の名品の名を言い放つ美馬さん。表情筋が半端じゃないほど動いている。もう一度言う。表情筋が、表情筋が、

 

 表情筋がすげぇえええ!!!

 

と、思わず思ってしまうほど、喋る喋る。音だけ聴いてると「レロレロレロレロ」言ってる感じなのだが、それが耳に心地よく、場内拍手喝采

まさに『これからが楽しみ』な美馬さん。一体どんな方向に進むのやら!

 

 柳家花いち 猫と金魚

お次はクロマニヨンズのマスコットキャラクター『高橋ヨシオ』に風貌が似ている花いちさん。新作ネタも強烈な個性を発揮していて面白い花いちさんだが、寄席の流れで古典の演目。新作を作る噺家さんは古典になっても随所に小ネタが光っていて面白い。一体何と表現して良いか分からない不思議な雰囲気と、軟弱で非力感が漂う登場人物の様子が面白い。特に旦那から何か言われて、その都度ぷるぷる震える奉公人の態度と表情が面白かった。

 

 隅田川馬石 元犬

この可愛さに包まれた饅頭食べたい。と思うほどふんわり柔らかい馬石師匠の雰囲気。まるで気立ての良い饅頭屋の娘が、もうもうと沸き立つ湯気の中で一所懸命に饅頭をこねて、額に汗を流しながら作った饅頭を食べているかのような、甘さと清らかさ。目の前に一匹、無垢な白犬がいるのだが、猫のような自由奔放さも感じる。馬石師匠、見る度、噺の世界に入り込んでいて、なんというか、違和感が無いと言えばいいのだろうか。人が一歩引いて物語を語っているという感じでは無くて、むしろ物語そのものが語っている感じ。馬石師匠のフィルターを通すと、登場人物達がまるで目の前にいるかのように浮き上がってくる。思わず手を触れて撫でてあげたくなるような、可愛らしい白犬の姿に心が和んだ。馬石師匠の十八番はいつ聞いても最高である。

 

 鈴々舎馬るこ 糖質制限初天神

世に古典と新作があるとするならば、馬るこさんはその中間を行っている気がする。以前、『馬・改造』と書いたことがあるが、もっと分かりやすく言えば『古典・改』と言っても良いかも知れない。古典をベースにしながら、思い切り現代的な感覚を導入して、ほぼ新作寄りのネタを作り上げる。この寄席の前に黒門亭で『闇のたらちね』を聞いたのだが、改めて馬るこさんの古典を下敷きにしたギットギトの現代風アレンジが最高だと思った。

古典をあっさりとした定番のラーメンだとすると、バームクーヘンのようなチャーシューが乗せられ、チョモランマを想起させる山盛りのモヤシがそびえたち、わけいってもわけいっても麺が見えて来ないラーメン版種田山頭火を、これでもか!これでもか!と力道山チョップの如く、体全身に叩きつけられる。

まさしく落語界の『ラーメン二郎』やぁ~、と言うと過言(?)かも知れないが、それくらいに古典のアレンジがなされている。言ってしまえば、好きな人は禁断症状が出るほど好きになるが、頻繁に食べると激太りするような、危険性(依存性?)を持った凄まじい落語をするのが、馬るこさんの魅力だと私は思う。

糖質制限初天神』に関しても、古典の『初天神』の流れをベースにしながら、糖質制限というワードにもがき苦しむ一人の男が出てくる。たった一つ『糖質制限』というワードを足しただけで、こんなにも抱腹絶倒の噺に様変わりしてしまうのかと驚愕するほど、馬るこさんの『馬・改造』された古典は面白い。

どんな風に古典が『馬・改造』されていくのか。これからが楽しみだ。

 

 柳亭燕路 粗忽の釘

前の馬るこさんとおしどりさんの芸を受けて、抜群の寄席の流れを一手に引き受けた代演、燕路師匠。あんなにウキウキしてはしゃぎまくっている燕路師匠を見たのは初めて。柳亭こみちさんの師匠で、こみちさんも物凄いウキウキ感で寄席の高座に上がられているのだが、正に燕路師匠にその姿があって、師弟の関係の素晴らしさに感動する。

はちきれんばかりに満面の笑みで燕路師匠が語り始めると、怒涛の勢いで粗忽な男が暴れまくり、物語の登場人物も客席もぶんぶん振り回される。いきなりジェットコースターに乗ってトップスピードで走り出すかのような爆笑の渦が巻き起こった。その中心で畳み掛けるように語り続ける燕路師匠の姿が、何かの神様に見えたのだが忘れてしまった。

滅多に見られないベテランの興奮した高座。寄席の流れと客席の温かさも相まって、最高に面白い一席を体験することができた。仲入り前にMaxの流れを作った燕路師匠。終演後もTwitterでは多くの人が燕路師匠の凄さをツイートしていた。

 

柳家小ゑん 長い夜・改Ⅱ

仲入り前は小ゑん師匠。彦いち師匠とはオフィスねこにゃさん主催の『どんぶらこっこ ゑ彦印』で二人会をされている。仲の良いお二人が同じ番組でトリと仲トリを務めるとあって、どちらも好きな私にとってはまさに『俺得』というやつである。

小ゑん師匠の素晴らしさは、マニアックな趣味や専門用語を喋っていても、それを聞いた人に全く知識が無くても、面白くて笑えるところである。なんだかよくわかんないけど面白いという究極の姿を体現しているのが、まさに小ゑん師匠の凄味の一つでは無いだろうか。

聞いているうちに意味が分かるという落語の『スピードラーニング』と言っても良いかもしれない。分かる人だけ分かれば良いと言う部分ももちろん残しながらも、寄席に来た初めてのお客様にも笑える話が多くて好きだ。仲入り中に「マティーニのところ、最初すぐにわからなかったー、悔しいー」と仰っている人がいて、そういう言葉を耳にするだけでも嬉しい。分からなくても面白い。分かっているともっと面白い。誰も拒絶せず、あるがままに受け入れてくれる懐の深い小ゑん師匠の落語。

なーんて、こんな素人が言うのは野暮だけれど、百聞は一見にしかず、見た人はきっと好きになるはずだ。

 

古今亭文菊 あくび指南

白い!白い!白い!いよっ!色男!

と、ついつい声をかけてしまいたくなるほど、アリエールを越える驚きの白さ。早乙女乱馬は水を被ると女性になり、お湯を被ると男に戻るが、私は文菊師匠が高座に上がると女性になり、袖に消えていくと男に戻る。そういう特異体質だと信じ込んでいる。

おそらく喜多八師匠直伝のあくび指南。これもまた久しぶりに見たのだが、相変わらずの切れ味。思わず、

 

あたいが

 あくびを

 指南してあげるわっ!!!

 

と、心の中で思う。私の中で少女鉄仮面伝説が始まり、私の心は南野陽子演じる麻宮サキに成り代わる。性別なんてナンノその。あたいの文菊を苛める人を見つけたら、「おまんら、許さんぜよっ」なのだが、ひとたび、あくび指南のお師匠様が出てくると、思わず息を飲む。会場がシーンと静まり返る。

思わず、私は鉄仮面を外したときのように、

 

 風…

 

 生まれて初めて頬に

 

 風があたっちょる…

 

それまで顔の衛生管理どうしてたんだよ、というツッコミは消え去り、小さく、乙女のように、呼吸を止めて一秒。文菊、真剣な眼差しをしたから、私の心が星屑ロンリネス。ああっ、やめて!そんな美しい瞳であたいを見ないで!あくびなんて、あくびなんて、もうどうでもいい!稽古を、稽古を、なんでもいいから、

 

 稽古をつけてくりゃれえええ!!!

くりゃれぇえええ!!!

くりゃれぇええええ!!!

くりゃれぇえええ!!!

 

眼差しで魅せ、声で魅せ、表情で魅せた文菊師匠。絶品の『あくび指南』。え?あくびですか?つられて?そんなわけないじゃないですか。あくびで吸い込まれたのは、空気と、私の心です(以上、文菊乱れお終い)

 

 林家彦いち という

放心状態のまま、南野陽子から私に戻った私(?)は、トリの彦いち師匠を見た。ん?ここは空手道場かな?という一瞬の錯乱の後、彦いち師匠はマクラから演目に入った。

名前だけは知っていたが、内容までは詳しく知らなかった『という』という演目。新作のネタなので詳細は語らないが、彦いち師匠らしい場面転換が光る一席。どことなくテイストが似ている話を聞いたことがあるが、それでも一言で場面が展開していく豪快さが鮮やかである。

もう心は大満足なので、彦いち師匠らしい一席が聴けて良かった。彦いち師匠の『圧』は、全然嫌な感じの圧じゃなくて、むしろボクシング・スタイルと言えば良いだろうか。『という』というキーワードを軸に、ワンツーパンチを繰り出し続ける姿は、まさに五度の防衛に成功した鬼塚勝也を彷彿とさせる。人生はワンツーパンチの水前寺清子先生は。。。

大満足の一席だった。

 

 総括 これから それから

最高の気分で寄席を後にした。一緒に行った方がいたので、落語会の楽しさを語り合った。最近、特に文菊師匠の懇親会に参加してから、語り合いたいという欲求が強くなってきた。それまでは、一人、パソコンの前で文字を書いてネットの人々に思いを拡げてきたが、直接、お話を聞いたり、お話をしたりするのはとても楽しいということに気づいた。ちょっとずつ、落語好きな方々と接点を持っていけたらいいなぁと思う。

基本的に、私は『好きな噺家さんは徹底的に語り、そうでもない噺家さんのことは語らない』というスタンスである。誰々が嫌いという話は、私には不要である。

これからも、それは変わらない。

この記事は、私の記事を読んでくれて、一緒に見た会の記事を読みたいという方のために書いた。

お喜び頂けたら、幸いである。文菊師匠のところは、お目汚し程度に乱れてしまいましたが(笑)

ではでは、この記事を読んでくれたあなたが、これからも素敵な演芸に出会いますように。

いずれ、どこかでお会いしましょう。

それでは、また。

愛が金色~2019年10月22日 新宿レフカダ 文菊の時間~

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あの、もりのさんですか?

 

「野ざらし?」

「いや、えっと、あの・・・」

 

よく書いてくださいね 

  

行こうよ

最初に言っておく。噺家さんの懇親会には絶対に参加するべきであると。特に、自分の好きな噺家さんとなれば、尚更であると。

たとえ、緊張でガチガチになり、何を言うべきか焦ったとしても。

たとえ、緊張で言葉が出なくなり、過去の記憶をすぐに思い出せなかったとしても。

たとえ、言いたいことの10分の1も伝えられなかったとしても。

行こうよ、懇親会。行けるなら、行こうよ。

今はそんな心持ちである。

というわけで、文菊師匠の懇親会に行って、最高だった思い出のお話。

 

お休みの一日

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偶然にも『即位礼正殿の儀』によって祝日となった10月22日。私は朝から出光美術館で開催中の『名勝八景』という展示で、山水図を見てきた。墨だけで表現された『景勝地』とされる西湖や山や滝の図を見ていると、不思議と心が清廉になっていく。

あたくし、『山水図』心得てます。

特に、円山応挙の弟子でもある長沢芦雪の作品がとんでもなくて、見た瞬間に震え上がった。これは是非見て欲しいのだが、白い屏風の上に墨だけで表現された波、岩々、そして船に乗る人々。見た瞬間に音が聞こえてくるほどの筆致。息を飲むような芦雪の哲学というか、思考が垣間見えて、芦雪という人が一体どんな人物であったのか、会って話を聞いてみたいと思ったほどである。

あたくし、『長沢芦雪』心得てます。

墨は五彩を兼ねるという横山大観の言葉にもあるように、出光美術館に展示された作品は、どれも墨だけであるのに様々な色が見えるのである。そして、細かな筆遣いもさることながら、図と鑑賞者の距離も重要であると思った。初めは近くで絵を見ると、案外、乱雑というか、あっさり書かれているように見えるのだが、少し離れて図を俯瞰してみると、驚くような空間演出というか、奥行きが表現されていることに気づく。山水図との適切な距離感を図るのも、山水図の楽しみかも知れない。

そして何より、『月』を探すのが楽しいのだ。山水図の楽しみ方として、私なりに面白さを発見したのだが、山水図に描かれる月の位置と大きさを発見した後で、図を俯瞰して見ると、絵の拡がりや壮大さがはっきり、くっきりと分かるのである。思わず「この絵の月はどこかな~」と探すのが楽しい。「おっ、こんなところに月が!」と発見した瞬間に、がらりっと図の奥行きが変化して感じられる。是非、山水図を見て頂きたいと思う。

あたくし、『月』心得てます。

 

 〇〇心得てます

心の中で「わたし、〇〇心得てます」がブームである。駅を降りて改札を出る時も「わたし、Suica心得てます」とか、日本酒飲んでいるときに「わたし、日本酒心得てます」とか、色んなことに対して、ついつい「〇〇心得てます」と言ってしまいたくなる。それは、文菊師匠がマクラで「あたくし、ラグビー心得てます」みたいな発言をしていたのを聞いて、自分でも使ってみたくなったからである。

『知る』とか『分かってる』とか、『理解してる』とか言うよりも、『心得ている』と言った方が、粋ではないだろうか。そう思わないだろうか。ラグビー知ってますというより、ラグビー心得てますと言った方が、思わず「おっ、こいつ、できるなっ!」とならないだろうか。私は思う方だ。だから、ちょっとした時に、「ああー、それなら、心得てます」と言うようにしている。22日からだが。

 

 新宿レフカダへ

初めての新宿レフカダ。17時ちょっと過ぎに場所を確認。近場のドトールでホットティーを飲んで時間潰し、開場15分前に行くと予想以上の列。おっと、しまった出遅れたと思いながらも、地下にあるライブハウスのような会場に入っていく。まさかこんな感じだとは想像していなかったので驚く。

金色の屏風と、緋毛氈の高座。紫の座布団。めくりには『文菊の時間』。極小のカウンターでコロナビールを貰う。ライムの入ったコロナビールを飲みながら、開演時刻になった。

初めての場所は、いつも雰囲気を確認する。おそらく、物凄い常連さんの数。そして、誰もが顔見知り感満載。自民党の党決起集会に、一人だけ雑民党所属なのに参加してしまった感じと言えば良いだろうか。今、雑民党を知ってる人がどれほどいるか知らないが、とにかく、強烈なアウェイ感であったことは間違いない。

早く会が始まることを祈っているうちに、開口一番の登場。

 

 入船亭扇ぽう 子ほめ

入船亭扇遊師匠の三番弟子で、扇遊師匠の前座名を受け継いだ扇ぽうさん。気風の良い江戸前のリズムと、言葉を紡ぐ時に見せる破顔した笑顔が素敵な扇遊師匠のお弟子さんということもあって、随所に扇遊師匠の影響が見える一席だった。

2017年の入門から早二年が経ち、朴訥として生真面目な雰囲気が素敵な扇ぽうさん。扇遊師匠は前座噺も一級品で、寄席で見る『道灌』や『一目上がり』、酒飲みが出てくる『親子酒』など、寄席に江戸の風を吹かせる気持ちの良い一席が多い。いつか扇ぽうさんも、そんな扇遊師匠の気風を受け継いだ一席を披露する日が来るのだろうか。

二番弟子の遊京さんは独特の粘り気のある語りの間があるし、黒門亭でも良くご活躍されている一番弟子の扇蔵さんなど、独自の個性を持つお弟子さんが多い中で、真面目で何ものにも染まっていない雰囲気を持った扇ぽうさんが、どんなふうに落語の世界を表現していくのか。とても楽しみだ。

 

古今亭文菊 岸柳島

中野の『藪入り』の衝撃冷めぬままの文菊師匠。常日頃見ている私からすると、物凄いリラックスされた様子の高座だった。

朝の中野の澄み切るような高座の空気感とは対照的に、「早く飲もうぜ、文菊師匠~」みたいな、ご常連さん方の雰囲気が漂っていて、気迫の熱演をぶつけるというよりも、楽しい勉強の場で和気藹々というような雰囲気があって、他の場には無い温かい空気が流れていた。なるほど、会によってこんなにも雰囲気が違うのかと驚くほど違う。文菊師匠の新しい一面を見るような、そんな雰囲気で始まった。

マクラではラグビーの話。これも中野とは違って、より人間臭いというか、家族の話を聞いているような温かい笑いが起こる。文菊師匠も安心している様子でマクラを語る。

演目の『岸柳島』は久しぶりに文菊師匠で聞く話だった。簡単に言えば『落とし物をした若侍が、喧嘩になって老人と対決するが、騙される』という話である。

寄席でやっていてもおかしくないが、それほど掛けない話なのではないだろうか。老練な武士や、怒る若侍、取り巻き連中のてんやわんやが面白い。登場人物を見事に描きながら、特筆すべきは屑屋の表現であろうか。ちょっと間抜けな雰囲気もありながら、しっかりと自分の懐を温めようと画策していた様子の屑屋の雰囲気が良かった。

『たがや』でも同じような場面があるが、舟で若侍に向かって野次を飛ばす町人連中の掌返しも面白い。ころりと自分の意見を変えてしまうズルさが、マクラのラグビーの『にわか』な感じに重なって面白かった。

何ごともそうだが、始まりは誰も『にわか』である。村雨だって『にわかに』降り始める。それまで、全く見向きもしなかったことであっても、急にドハマりしてズブズブと沼にハマってしまうことが人生にはある。小田和正だって歌っている。『ラブストーリーは突然に』である。『岸柳島』の一席も『争いごとは突然に』なのだ。

 

 古今亭文菊 お直し

普段、滅多に見られない『超リラックス・文菊』が見られる場であるのだな、と確信した一席。マクラも印象深く、懇親会では恐ろしくて聴けなかったが、連絡先を知りたかった。どうしよ、選ぶ権利を行使されて、教えてもらえなかったら・・・という恐怖に負けました。嘘、緊張し過ぎて忘れてた。

私も大きな失敗をしたが、文菊師匠に上手く拾って頂き、演目は『お直し』

ネタ卸し以来の『お直し』。内容は前回の記事『ノブレスオブ・リージュの肖像』をご参照頂きたい。

二度目だが、やはり、奥さんが化粧をする場面がゾッとするほど美しい。以前にも書いたが、そこに女の『覚悟』を見るのである。

『お直し』という演目は、殆ど花魁の『覚悟』の連続であると思う。老いていく自らを受け入れられないでいるところに、客引きの若い男の言葉に心動かされ、花魁は仕事を辞めて夫婦になる。だが貧困故に蹴転(けころ)の商売に身を落とす。花魁は鏡の前で化粧をしたり、男に助言をしたり、男の諦めに腹を立てたりする。覚悟の連続以外の何ものでもないと思う。

女性の覚悟の連続を見ているだけで、なんて男はだらしがない生き物なのだろうと思う。男はいつも優柔不断で、無計画。女性の方がよっぽど現在と未来を照らし合わせて生きているのだと思ってしまうほど、『お直し』という演目には女性の力強さが表現されているように思うのだ。

また、演目名の『お直し』は、「直してもらいなよ」と声をかける場面がある。これは、キャバクラで言えば「お時間ですので、ご延長されます?」と同じような合図である。私の場合は大体、先輩と行くことが多いので、「どうされますか。閣下」みたいに聞くことが多い(いらない情報)

この「直してもらいなよ」という言葉が、なんというか、ふと、どん底に落ちた花魁と客引きだった男の人生にも掛かっているのではないかと思ったのである。洋服などの『お直し』と、どん底から這い上がろうという、今の人生の『お直し』が、「直してもらいなよ」と言ってお金を頂く言葉と三重になっているのではないか、と思った。

最後のオチだって、なんだか二重の意味に思えるのだ。人生のお直し、男女のお直しが、ここにはあると思う。

と、書いても、まだまだ文菊師匠は磨き上げて行く気持ちで満々だと思う。100%ホームだからこそ、研鑽の意味を含めて『お直し』を選んだような気がする。本当のところは分からないけれど、現代では受け入れられづらくなってきた、ちょっと過酷な男女の関係の表現に、私は文菊師匠の並々ならぬ凄味を感じる。滅多に聞けないけれど、私は文菊師匠の『子別れ』が大好きなのである。噺自体は、顰蹙を買いかねない内容だけれど、堪らなく好きなのは、そういう世間の風潮を一切抜きにして存在する男女の思いを、『子別れ』や『お直し』に見るからかもしれない。

文菊師匠の果てしない野心を垣間見た一席だった。

 

懇親会

お待ちかねの懇親会。最初に話しかけて頂いたフォロワーさんから、続々と大勢のフォロワーさんとご挨拶させて頂いた。

基本的に、10月22日まで、殆ど他者と関わることは無かった。まして、噺家さんの懇親会に出るなんて、初めてのことである。

とても緊張していたが、良く見かける方や、私のブログを読んでくれたり、渋谷らくごのレビューを見てくれた方々もいらっしゃって、とても楽しかった。

何より、文菊師匠への愛に溢れていた。共感の嵐が巻き起こることに興奮し、自分でも軽いトランス状態に入っていた気がするほど喋ってしまった。3年ぶりに喋りまくった気がする。

とにかく嬉しいのは、文菊師匠のファンの皆様が温かく迎えてくださったこと。気さくに話しかけて頂いたり、応援してくださったこと。そして、文菊師匠にご挨拶できたこと。

とにかく、何もかもが楽しすぎて、2日経った今も、思い出す度に興奮してしまうような、熱狂の一夜だった。

文菊師匠とお話させて頂いたときも、自分がレビューを書いた会の演目をド忘れするという大失態。ファンの方がフォローしてくれたが、なんとも申し訳ない。次回は挽回したい。

もう本当に文菊師匠も、ファンの皆さんも素敵過ぎて、「あれ、これ、全員、俺かな?」と思うくらい、自分と好きなところとか、好きな噺が似ていて、もうなんか、自分の分身がいっぱいいるような思いでした。共通して文菊師匠が好きっていう感じがたまらなく良かった。なんて幸福な空間なんだ、終わるな!永遠に続け!と心の中で願ってしまったほどである。全員、二十代で時が止まっているのかと思うほど、心も見た目もお若くて、文菊師匠の落語を聞くと若返る作用があるのかと思った。

なぜこれまで他者との関わりを断っていたのか、後悔はしないが、もうちょっとアクティブになっていても良かったかな、と思い直した。心を『お直し』した瞬間だった。

もう顔も割れてしまったので、ご常連の方々にはご挨拶させて頂いたり、色々とお話させていただく機会も増えると思う。もしかしたら、顔を忘れてしまっているパターンもあるので、その時は「あれ、こいつ、忘れやがったな?」と思って、なんとなく、教えてくれたら嬉しい。基本的に、一度見た人の顔は忘れないタイプなので、多分、気づいていないだけだと思うが。

まだまだ文菊師匠への愛は語り足りない部分もあったし、文菊師匠にお伝えできないことも広辞苑20冊分くらいはあったので、小出しにお伝えしていきたいな、と思った。

本当に、改めて言うが、懇親会には絶対に参加した方がいい。自分と同じ感性を持った人に出会う機会はそうそう無いと思うので、もしも出会ってしまったら、それこそ滝のようにとめどなく語ることになるのだが、その幸福は筆舌に尽くしがたい。

まるで高座の屏風のように、愛が金色に輝いていた。

黄金は錆びない。愛も錆びない。

また、懇親会に参加する予定である。

また再び、文菊愛の金山を掘削して、黄金に目を輝かせよう。

そんなことを思った、金色の一夜だった。

我が心の藪の装い~2019年10月19日 古今亭文菊独演会~

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縦にこすると生魚

 

つっぱらかっちゃって

 

食べさせてやりてぇなぁ 

 

藪野暮

茶道の場には『禅語』と呼ばれる先人の教えが掛け軸などに記され、壁に掲げられている。日々、茶道の世界に身を委ねていると、日毎に自分の心というものが、どういう状態であるかということが、如実に分かってくる。たとえ、昨日と同じような所作や振る舞いをしても、はっきりと今日の自分の所作や心構えや体調といったものが、まるで昨日とは違っていることに気が付く。

ふと掛け軸を見れば、そこには『日々是好日』とある。今日の自分が、今日の自分を受け入れて、あるがままに生きること。損得や優劣などに囚われることなく、ひたすらに自己と向き合った先にある好日。掛け軸の言葉を見て、自分が今『足りず欲するもの』と『足りて欲せざるもの』とが何か、見極めようとして茶と向き合う。

そんな、『心のリトマス試験紙』のような茶道について考えたのは、私の心が茶道の心意気に惹かれているからであろう。時間さえあれば、禅に取り組みたいという欲求が強い。いつからそんな思想を抱いていたかと言えば、ヘルマン・ヘッセの『シッダルタ』を読んだ辺りから、心惹かれ始めていた。別段、宗教的な強い思想は持ち合わせてはいないが、スッタニパータなどのブッダの教えを読むと、深く共鳴する部分が多いことに気づいた。

詰まる所、それは『自分自身の肯定』であるのかも知れない。自分と似通った思想や、精神を身の回りに集めることで、自分を肯定し、安心を得たいのかもしれない。安らかなる心とは、まず自分を受け入れることから始まるのではないだろうか。

23時に寝て、目が覚めたのは午前2時。踏切に望遠鏡を担いでいくわけにも行かず、ぼんやりと又吉先生の『人間』を読んでいた。毎回思うのだけれど、周囲の人間と自己との対比が、強烈に素晴らしく表現されている。こんなことを言うのはおこがましいけれど、又吉先生は人と人との間にあるもの、溝というか、段差というか、隔たりというか、壁というか、そういう『人の間』にあるものを、書き記そうとしていて、それが物凄く面白くて震える。

凄いな、と思っていたら4時30分になって、少し筋トレしようと思って5時まで筋トレ。プロテインを牛乳でシェイクし、再び寝たのが6時。それから8時に目が覚めて、身支度を整えて、文菊師匠の独演会へと向かった。

日々、心の装いを新たにしていく。良いとき、悪いときという話ではなくて、朝目が覚めた時の自分を、まず知る。そして、その状態が、仮に決めた最善の状態とどの程度の差があるかを知る。昨日よりも今日、今日よりも明日。僅かな自分の変化を感じながら、前へ進むのか、ときに、後ろに進むのか。

何事も、全ては自分を受け入れることから始まるのではないか。

あー、

茶道を習いたい。

 

春風亭枝次 狸鯉

注目している前座さんが出演されるときは、お得な気分。枝次さん、めちゃくちゃ上手くなってる。声の感じとか、言葉の淀みの無い感じとか、ちょっとした細部の言葉の言い回しとか。うわぁ、すげぇなぁ。と思いながら、にこにこ見ていた。

体も大きくて、ラガーマンのような体格から繰り出される落語の、なんとも言えない重厚感というか、『大工の職人が語っている感じ』が堪らなく良い。きっと、普段の仕事では数人の弟子を抱えながら、カンカンと木に釘打ってるんだろうなーという感じがあって、いずれは名人になる。絶対なる。

今でいえば、桂藤兵衛師匠とかの立ち位置になるだろうか。確かな技術と気風の良い感じがどことなく似ている気がする。これから一体、どんな話をしていくんだろうか。とても気になる。

好きな噺家さんの落語を聞くと、はっきりと今日の状態がどんな感じか分かるから嬉しい。それは、聞けば聞くほど分かってくる。まぁ、ぼくがそう感じているだけなのかもしれないけど。冒頭に書いた茶道で感じたことのように、日々のちょっとした変化に気が付くときって尊い。たとえ調子が悪くとも、聞く者は受け入れる。それがその日のベストだったら、それを受け入れるのが聴く者の心構えじゃないだろうか。演者を活かすも殺すも聞き手次第だ。

とても賑やかに沸いた客席。枝次さんの実力がメキメキ上がっている姿を見ることができた。

 

古今亭文菊 目黒のさんま

マクラではラグビーのお話。めちゃくちゃ共感です。ノーサイドの精神とか、うわー、語りてぇって思った。にわかファン同士、一緒になって楽しみたい。

演目の『目黒のさんま』は、お殿様の泣き虫っぷりが可愛らしい。以前聞いた時よりも、登場人物の彫りが深くなっているように感じられた。とにかく温室育ちなんだろうなぁという可愛らしいお殿様が、どこか憎めなくて愛らしい。殿さまのワガママに振り回される周囲の者達の対比と相まって、とても面白い一席だった。

 

古今亭文菊 藪入り

この話に関しては、冒頭から涙腺決壊。

もしかしたら以前に書いたかも知れないが、私が大学生の頃、実家に行くと必ずばあちゃんが「照、お食べ。お菓子もあるよ。寿司でも食べるかい。味噌汁もあるよ。ご飯も炊けてるよ。納豆もあるよ」と言って、とにかく私を太らせようとしてきた。食糧難の時代を乗り越えてきたからかも知れないが、私の祖母はお腹いっぱい食べることを勧めてくる。その気持ちが、ときどき嫌になっていたけれど、祖母の気持ちを蔑ろにはできないから、「今はお腹いっぱい。後で食べるよ」と言って、ごまかしていた。

そんな祖母の姿が、文菊師匠の演じられた『藪入り』の冒頭に重なった。亡くなった祖父は、「食べろ、食べろ」とは言わなかったけれど、料理をするのはいつも祖父で、いつも美味しかった。何も言わなかったけれど、量はてんこもりだった。祖母は自分で作ってもいないのに「いっぱいあるから、腹いっぱいお食べ」と言ってくれた。その心意気が嬉しかった。だから、ついつい食べ過ぎて、大学生の頃は今より10kg以上、体重があったと思う。恩には恩で応えたかったが、度を超すと自らが肥える。

食事の尊さは断食をして改めて分かったのだが、計り知れないものがある。殆ど、食べるために生きているのかも知れないとさえ思った。食べることを断ってしまうと、途端に人生に喜びが失われる。帰ったら何を食べようというワクワク感が消え、「痩せるためだ。食べないぞ」と思っただけで辛い。せめてもの楽しみと、一日一粒の梅干しで耐えた時は、一日の最後に食す梅干しがとてつもない美味さだった。

そんなことを思い出して、藪入りの冒頭、夫婦のやりとりを泣きながら笑っていた。心の中にふつふつと温かい液体が込み上げてきて、それが目からずっと零れて止まらなかった。

奉公先の亀が帰ってきた後の場面や、嬉しそうな父親の行動など、随所に胸を打つ場面があって、泣いたり笑ったり、良く分からない感情に心をぐじゅぐじゅにされながら、最後の最後まで泣きながら見た。朝から文菊師匠に泣かせられ、気持ちの良い涙を流した。なんと温かい『藪入り』であったことか。

祖父母との思い出や、たまに実家に帰った時の両親の振る舞いであるとか、親を思う子の気持ち、子を思う親の気持ちが、いちいち温かくて、なんとも言えない思いが込み上げてきて、泣くしかなかった。名演。名演。名演である。

終演後、恥ずかしくて目をこすりながら会場を後にした。『藪入り』自体初めて聞いたお話だった。オチが素晴らしい。円楽師匠や圓太郎師匠や金馬師匠や小三治師匠とも異なるサゲ。一体、どなたから教わったのだろう。

涙で濡れた目を拭って、私は一路、冨士見湯を目指した。

 

富士見湯 風呂神様の縁

 

開店時間の15時30分前には、ちょっとした列が出来ていた。タオル配布の日とあって、結構な人数が銭湯に押し寄せていた。

すっかり銭湯の入り方を会得した私は、体を洗った後、まずはぬるま湯でアイドリング。その後、とても熱いが匂いの良い『薬湯』に浸かり、その後水風呂に入り、水風呂から出たらしばらく休むということを何度か繰り返した。

30分ほどで出るはずだったのだが、結局1時間も入ってしまった。本当は自由が丘で開かれる文菊師匠の独演会に行きたかったのだが、欲張らずに帰ることにした。

最近はノンアルコールビールにハマっており、お酒の雰囲気を味わいながらYoutubeをだらだらと見て、途中、本を読んだりして過ごした。

四連休、申し分ないスタートである。

涙で始まった文菊師匠の独演会。さてさて、この四連休はどうなることやら。

記録用とあとがき(解説?)~辛抱する木に花が咲く 渋谷らくご 2019年10月13日 14時回~

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きっと「なんとかなるさ」とあなたが

言ってくれたら 今日は素敵な

時間が過ごせるような気がする

だから笑って進もう

  

短歌百倍式

何が一番伝えなくちゃいけないことなのか。あの会で四人が伝えたかったことって何か?って考えた時に、『辛抱する木に花が咲く』という言葉が浮かび、そこに向かって書き始めて、記事になりました。正直、色々紆余曲折あったので、興味のある方は、お読みいただければ、幸いです。

今回は、短歌の形式を制約にして記事を書きました。

http://eurolive.jp/shibuya-rakugo/preview-review/20191013-1/

自らの文字数の増大を防ぐために、短歌の調べ、『五・七・五・七・七』の形にしています。コピーしてワードに張り付けると、それぞれの演者名を抜いて、単純な文章だけですと、

 

冒頭文 500文字

竹千代さん 700文字

桃太郎師匠 500文字

笑二さん 700文字

鯉栄先生 700文字

 

でピッタリとなっており、単純に短歌の文字数を100倍しただけなのですが、この文字数にした狙いはもう一つあり、それは日本人の情緒にも訴えられるのでは?と思ったことがきっかけです。

今月号の『どがちゃが』を見て、自分のレビューが載っていなくて愕然とした瞬間に、「あ、これ、文字数削らないと、一生載らないわ・・・」ということに気づきまして、じゃあ、平均して『どがちゃが』に載っている人はどれくらいの文字数なのか、と調べました。おおよそ4000文字以内のレビューが掲載されていたので、「なるほど、ここか・・・」と思って、じゃあいっそ、3100文字の『短歌百倍式』で書いてみるかと思いました。

これが、予想外に苦痛でした。なぜなら、言いたいことがわんさか、出てくるのです。冒頭のマクラだって、幾つか記載ネタはあったんですが、泣く泣く削りました。

そもそも、私の心の中には、ずっと一つの問いがありました。それは、

 

台風の後に、お前何やってんの?

 

という問いだったわけです。もう、それこそ最初、冒頭では「台風の後に演芸鑑賞なんて、自分でもどうかしている」みたいなことを書いていました。渋谷に人が少なすぎて、道玄坂を割とあっさり上れてしまい、思わずファミマでチーズ肉まんを買った話とか、台風の後の閑散とした状況で、ユーロスペースに来てる自分は、果たして真っ当なのか?っていう問いで、出だしはかなり苦労しました。

いわゆる『不謹慎狩り』だとか、『自粛ムード』って、目には見えないけど、あるじゃないですか。で、そこに対して『自虐』で逃げるのは簡単だな、と思ったんですよ。「台風の後に見に来て申し訳ない。だが、見たい物は見たいのだ。我慢などできようがない」みたいなことを書いたときに、「お前、開き直ってんじゃねぇよ」というツッコミが入りまして、「あ、こりゃ駄目だ・・・」と思って、しばらく筆が止まったのが、13日のことでした。

ラグビーを見ていた時は、『令和元年のラグビーボール』とか、思いついたんですよ。大江健三郎村上春樹ときて、私がパロってやろうじゃないか!っていう。

全部の出演者、ラグビー選手で喩えられるな、と思って、竹千代さんは沢木敬介さん、桃太郎師匠は稲垣啓太選手、笑二さんは書いたけど具智元選手、鯉栄先生は田中史朗選手とか、一応書いたし、なかなかの出来だと思ったし、『落語はラグビーボールと一緒だ。どこへ飛ぶのか分からない』っていうオチも見えたんですけど、前回と同じ手法(数学だけの比喩)だし、文字数も、最終的に記事にした文字数の倍になったので、自分では「超ええやん・・・」と思いながらも、バッサリカット。僅かに残したのは笑二さんだけになりました。

桃太郎師匠のところは、500文字の制限をかけていたので、割とあっさりは書けたんですよ。殆どマクラだったから、内容もかいつまんでしか記憶してなかったので。やたら、出囃子をたっぷり流すなーとか、出てきた瞬間の『森のクマさん感』が凄くて、「あー、こりゃパンダだわ」とは思いながら、稲垣の仏頂面を消して、パンダを採用しました。落語の初心者に、いきなりラグビーで喩えるって、今になって考えてみれば、結構危険だよな、と思いながらも、最終的にパンダで良かったと思います。

 

で、全体を通して、『辛抱する木に花が咲く』っていう思いが、一日空けた14日くらいの夜にやってきて、「うーん、こりゃ、自虐だとかラグビーだとか言ってる場合じゃねぇや」となりまして、全面的に言葉を削って、書き直しました。

台風後に自分に何ができるのか、ということを意識し始めました。あの会で、演者の皆さん、そして、何よりも鯉栄先生が伝えたかったことって何だったのか。と考えた時に、それはやっぱり『めげずに立ち上がる』ことなんじゃないかな、と思ったんです。おふざけで小ネタとか入れない方がいいや、って思ったんですよ。だって、台風の後なのに「ウェーイ!無事だったぜー!!!やふうう!!!」とか言ってるやついたら、無言で立ち去りません?私だったら「なんだ、あいつ・・・」って言いながら、自分もそういうやつなのだけど、そういうのは一旦置いとく。

で、冒頭を書き始めたときに、今の形に落ち着きました。渋谷らくごは開かれるんだし、行くんだし、書かなきゃっていう思いが沸き起こってきまして、「鏡の前で自己暗示をかけた」とか「行かざるを得ない状況だから行くんだし、モニターだし行かないわけにはいかないよね」っていう文章もざっくり削ってます。甘えるな、と思って。

書き直して正解だったな、と今は思います。

 

何よりも、今回は『植物』の喩えが自分でも良かったな、と思う点です。自画自賛かよって話ですが、竹千代さんのところは『松葉菊』だし、司馬遼太郎の喩えは、いずれ『紀州』とか『読書の時間』に出会った時に、同じように落語初心者の方が思ってくれたら嬉しいな、というちょっとした小ネタで入れました。

竹千代さんの話術って本当に凄くて、師匠の竹丸師匠も凄いだけど、弟子の笹丸さんとか、他の新作派の落語家さんには無い、竹丸イズムとも言うべき語りのリズムがある気がして、そこも語りたかったんだけど、無駄な情報になるな、と思って、バッサリ。『源平盛衰記』とか『紀州』とか、『本筋+余談』系の落語があるよーっていうのも書きたかったし、『源平盛衰記』と言えば談志師匠と初代三平師匠でしょーとか、思いながらも、これは竹千代さんの説明に邪魔になると思い削りました。

もうお気づきかも知れませんが、今回、色んなものを削ってるんですよ。桃太郎師匠のところは、春風亭昇太師匠や瀧川鯉昇師匠と同じ一門なんだよっていう情報も、『ぜんざい公社』という社会風刺の落語とか、ビートルズ好きなんだよっていうマニアックな情報も全部「いらないか・・・いや、どうかな・・・いや、いらないか・・・」みたいな行ったり来たりを繰り返した結果、ボツに。

やっぱりどう考えても基準は『落語初心者にも伝わる』っていう部分で、ここが大きな軸になっています。どんな分野においても、たとえどんなにそれに詳しくても全く知らないという心持ちで望まないといけない。そういう思いがあって、再び筆が動き出したのが15日でした。

15日には、本当に素晴らしい出会いがあって、何より、ビートたけしさんに死ぬほど笑いまして、意気揚々と家に帰って記事に向かったんです。

それまで、鯉栄先生のところだけ、どうしても納得が行かなくて、冒頭から笑二さんまで500→700→500→700で来てたんですけど、鯉栄先生の時に2000くらいになっちゃって、慌てて削って、それでもどうにも納得することができずにいました。

『雲居禅師』のストーリーを書き過ぎて無いか、とか。松之丞とのエピソードは書くべきか?不要か?とか、考えあぐねていたんですけど、ビートたけしさん見た後に、書き始めたら、もう、みるみるうちに削れていきました。

核が見える瞬間があって、それはタイトルにもある『辛抱する木に花が咲く』っていう言葉。今回、ことわざも多少入れているんですが、これは全部、私が社会人になって、恩を受けた大先輩からのお言葉でもありました。

「森野。今は辛いかも知れへんけど、辛抱する木に花が咲くんや」

と、言われた時に、私は辛抱する木は辛抱する気でもあるな、と思いました。その思いがずっとあって、鯉栄先生の話を思い返したときに、「これで、行こう」と思いまして、今の記事になった次第です。

個人的には、小栴檀草の文章は良かったなと思いまして、自画自賛です。『百年目』に出てくる大旦那の気持ちで書きました。小栴檀草は別名『ひっつき虫』とも呼ばれておりまして、良く、草むらに入るとズボンとか靴下にくっつく草です。

絶対大人になると、見逃すというか、気にしなくなる草なんですが、台風の後とかに、道端にいるのを発見すると、「すげぇな~」と思った記憶がありまして、丁度、高校生の頃だったか、「草花は傷を記憶している」みたいな話を本だったか、テレビで読んだ記憶があって、調べてみたら、ダニエル・チャモヴィッツさんの著書『植物はそこまで知っている 感覚に満ちた世界に生きる植物たち』という一冊があり、それを読んで、「ああ、そうそう!これこれ」と思い出して、書きました。

台風の自然災害に、一番強いのって、植物なんじゃないか、と思うんです。種を撒いて子孫を繁栄させ、絶滅せずに今日まで生き残ってる。考えれば、「絶滅しないことの、何が尊いの?」って話ですが、きっと、植物とかも絶滅せずに生き永らえている品種がいるのだから、絶滅しない可能性を残した方が良い、すなわち子孫繁栄させた方がいいって、思いません?良くわかんないけど。

そういう植物の強さに、鯉栄先生の凄さが重なったときに、バチッと書くことができまして、冒頭から鯉栄先生の文章まで、全てめちゃくちゃ気に入る内容になりました。本当に、最初は、禿げるかと思った・・・

 

結局、自粛している時間は私には無かったのかな、と思うんです。祈っても、実際に何かできるわけではない。でも、文字にして、あの時の回の記憶と記録を留めておけば、きっと、また台風がやってきても、台風に負けずに開かれた会があるんだということを、誰かがきっとわかってくれる。

そう、そこなんだ。

誰かがきっとわかってくれる。

そういう思いで、書いている。

幸いにも、私には素敵な読者が多い。

また一人増えて、読者が14人になりました。

日頃から、読者の皆様に支えられて、今があります。

どうか、台風に負けないで。

『不謹慎狩り』だとか『自粛ムード』に流されないで、

あなただけの大切な時間を、有意義に使ってほしい。

そんなことを記しながら、レビューよりも長い、

余談、終わり。

さよならに無い~2019年10月11日 渋谷らくご 20時回~

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このへんを

 

言ってやるんだ

 

きらいなたべもの

 

まっつぐに

 

Changing The Rain

もしも一生のうち、他人と出会える数が決まっているとしたら、あなたはどんな人に会って、どんな時間を過ごしたいと思うだろうか。自分の人生の時間を考えると、会いたくない人と過ごす時間よりも、会いたい人と会っている時間の方が大切で尊い。今日もしも残り四人としか会うことができず、それ以降は誰とも会えないのだとしたら、あなたはどんな人と会いたいのだろうか。

私は渋谷らくごのロビーに溢れかえる人々の話声を聞きながら、そんなことを考えていた。地球史上最大級の台風がやってくると言われている12日の前日、渋谷らくごに来場した人々は意気揚々として、20時からの回を楽しみに待っているようだった。

たとえ明日が自分にとって最後の日だとしても、笑って過ごすことができたら幸せだねと言ったのは果たして誰であったか、遠い記憶に思いを馳せても誰の顔も浮かんでは来ない。きっと次の日のことを考えて、その次の日のことも考えて、さらに次の日のことも考えてしまうだろうねと、意地悪に微笑んだ自分の顔を思い出す。

死ぬときがきたら死ぬさ。その時はその時さ、と私は思いながら、そういえば近所の婆さんが「あたしゃもう十分に幸せだから、いつ死んでもいいのよ」と言っていたことを思い出す。とうの昔に亡くなった近所の婆さんは、ふくふくとして豊かな体であったし、近所では評判の豪邸でのんびり猫と息子夫婦と暮らしていた。子供ながらに羨ましいと思う反面、満足したら終わりだという気持ちもあって、妙にモヤモヤしたことを思い出す。

ふつふつとした、渋谷らくごは、たしかにこの場所で開かれるし、台風の知らせを受け、なんとなく家に備えはしたから、憂いは無いので、一人でロビーに落ち着きながら、私は番号を呼ばれるまでぼんやり考えていた。

今日が最後の演芸鑑賞日だろうか。

いやいやそんなの、演芸とのさよならに無い。

 

隅田川馬石 金明竹

タツオさんのアナウンスで急遽出番が変更となり、開口一番を務める馬石師匠が高座に上がった。変更になった理由はよく分からない。

台風に飛ばされるような噺家ではなく、たとえ隅田川が氾濫しようともどっしりと腰を落ち着けて、恬然としている石のような馬石師匠。先月の五日間連続公演が夢かと思うほど、私の中にある『いつもの馬石』が帰ってきた感じがする。

代演や出番の入れ替えというのは寄席では良くあることで、寄席に入ると配られる番組表(出演者の出番順が記されているもの)とは違う名前の噺家が出てくることがある。私が寄席に通い始めた最初の頃は、お目当ての噺家さんが出ず、代演の噺家さんが出た時は損した気分になったが、次第に慣れ、特に腹を立てたり損をした気持ちにはならなくなった。縁が無かったのだと諦めれば、妙に納得する自分がいる。

ひょこひょこと首を動かし、ふんわりとした語りとリズムを保ちながら、もちもちっとした雰囲気の馬石師匠は演目に入った。自分で表記していて不思議なのだが、マクラから演目に『入る』と感じるのは、落語の世界にぬっと入り込むような感覚があるからだろうか。

金明竹に出てくる小僧さんがとんでもなく可愛らしい。愛嬌があって、ちょっと賢くて、どこか抜けていて、憎めない。あんな子供がいたら、おこづかいを多めにあげてしまう。それほどに可愛らしい小僧さんだった。

馬石師匠の金明竹は何度か寄席で短いバージョンを見たことがあったが、今回の金明竹は絶好調でピカイチの出来だったと思う。馬石師匠のノリノリ感が伝わってきて、会場の空気と相まって最高の一席になっていた。後半に登場する女将さんのふわふわっとした雰囲気に、「なにこれ、デザート?」みたいな感覚になり、甘いひとときが流れ始めた。

上方の人がやってきて話を聞くのだが、女将さんが正直に聞いていなかった打ち明ける場面や、ちょっと怪しい勧誘に騙されそうな女将さんが小僧さんに話を思い出すように促す場面も、馬石師匠の独特の雰囲気が不思議な世界を作り上げていた。馬石師匠の金明竹に出てくる女将さんがいたら、私は抱きしめたいと思う(何言ってるんだか)

金明竹という話はかなり難しい噺だということを、とある噺家さんが言っていたことを思い出す。同じパターンの繰り返しをどう飽きさせずに聞かせるかがポイントなのだそうだ。確かに小僧さんが傘や猫や旦那を断るという前半から、全く聞き取れなくて困るという後半まで、外乱によっておかしなことが起こる面白さを飽きさせずに聞かせるのは至難の技かもしれない。それでも、そんな難しさを感じさせないリズムとトーンを持ち、身振り手振りで表現し、一つ一つの言葉に可愛らしいリアクションをする登場人物たちを馬石師匠は見事に描いていた。

 

柳家勧之助 中村仲蔵

真打昇進興行で妾馬を聞いて以来の勧之助師匠。前回のプレビューでとてもハレンチな新作を披露されたとのことで、今回はそのリベンジ?も兼ねての高座。自ら「古典をやらせろ!」と訴えたという並々ならぬ熱意。そして、演目はTwitterでも評判を目にするほど有名な『中村仲蔵』の一席。

思わず、心の中で、

 

 うわぁ!!!かっけぇ!!!!

 

と唸った。これは一演芸ブロガーの邪推だが、おそらくは会場に多く存在しているであろう松之丞ファンに向かって、落語の『中村仲蔵』を披露する気概に惚れた。決して勝負をしているわけではないことだけは確かなのだが、それでも私は勧之助師匠の力強い熱意を感じた。まさに十八番の中村仲蔵

思えば昨年の10月に見て以来、一年ぶりの勧之助師匠である。当時はそれほど大きな魅力を感じなかったのだが、この一年で凄まじい進化を遂げている気がする。何よりも、纏っている雰囲気が紫だとはっきり感じられるほど、不思議な色気を身に纏っている。そして、何よりも地語り(会話ではなく、説明的な語り)と、会話(上下を切って登場人物を変えながらの語り)を、交互に切り替えながら進む物語が、物凄く心地よくて気持ちが良いのである。思わず「いいなぁ~」と思ってしまうほど、軽やかなリズム。美しいフェンシングの試合で、エペの切っ先が交差し合う様を見ているかのような、美しく気高い語りだった。時折、冗談を差し挟みながらも、仲蔵を支える周りの人々を鮮やかに描いている。特に女将さんの献身的な姿や、仲蔵の芝居を見たおじさんの言葉、そして仲蔵の師匠の言葉が、どれも仲蔵を通り越して客席にいる私の胸にも響いてくる。客席にいる人達の気持ちを代弁するかのように「ありがてぇ」と漏らす仲蔵の姿に、思わず涙が零れた。

たった一人にでも、芯に響く芝居が出来たら幸せである。そこから波紋のように広がって、誰もが一人前になっていくのだろう。

オチに至るまで見事な極上の語り口。全てを見終えた今となって改めて思う。勧之助師匠の圧巻の十八番だった。

 

雷門小助六 お見立て

絶好の三番手は小助六師匠。軽やかに流れに花を添える陽光の紳士。先輩後輩との関係を縦横無尽に行き来しながら、どちらも傷つけることなく、むしろ盛り上げて場の空気を良くするという魅力溢れる高座でのお話。まさに気配りの人という感じで、軽妙洒脱な語り口が乙で粋な噺家さんである。

ともに修業時代を過ごしたという鯉栄さんの話や、真打昇進した小痴楽師匠の話、大先輩の遊三師匠から、信楽さんまで、老若男女を分け隔てなく語る様が心地よい、まさに紳士の気風を感じさせる。

そんな小助六師匠が演じる『お見立て』は、花魁の喜瀬川や客人の杢兵衛に振り回される喜助がまさに重なっているようにも思える。色んな我儘な人々に振り回されながらも、鮮やかに繋いで見せる。可愛らしく、振り回されている環境すらも楽しんでしまうような朗らかさで生きる喜助の、類稀なる処世術に見ている人々はすっかり虜にされてしまったのではないだろうか。

インターバル前で絶好調に盛り上がった流れに、まるでお風呂上がりの風のような心地よさで去っていく小助六師匠。鮮やかで粋な噺家の姿がそこにあった。

 

 神田松之丞 赤穂義士銘々伝 神崎の詫び証文

ひさしぶりに四人が出演する回に出たのではないだろうか。「待ってました!」コールももはやお馴染み。ご常連の人々の姿が見えると「あ、松之丞さんの・・・」となるほどに、鉄壁のファンに支えられて高座に上がる神田松之丞さん。

マクラでは支離滅裂(?)感を醸し出しながらも、それも全部作戦なんだろうなという邪推が走るが、腕は一級品であることに間違いはなく、来年の真打に向けて着々と演目を磨き上げている松之丞さん。すっかりチケットも取れなくなって、2017年に見て以来、破格の勢いでスターに上り詰めた講談師の姿がそこにはあった。

あれから二年。より松鯉先生の型に近づいているような語りの中に、松之丞さん独自の台詞の編集がなされているように思う。あくまでも私個人の感想だが、最初に見た頃は随分と丑五郎が残忍な奴に思えた。神崎に土下座をしている場面を見ても、あまりにも横柄で、改心することなど無いような人間に見えた。また、ラジオで「命(いのち)」をやっていた頃の神崎の詫び証文は、心身ともに疲れ果て、精彩を欠いた印象を受けたが、今日見た神崎の詫び証文は、抑揚が抑えられ、かつより平坦で地味に見えながらも、松鯉先生が高座でかけられている熟練の一席へと進化しているように思えた。まさしく、生きている芸なのだということを如実に感じる。

これも私の邪推に過ぎないのだが、恐らくは講談師として認知されるために、松之丞さんは敢えて講談をデフォルメして表現してきたのではないか。旧来の講談ファンには留まらない、より多くの人々に届く講談を目指したが故に、人物の個性は強調され、噺のダイナミズムは際立ち、自ら「チンピラ芸」と評するような形をせざるを得なかったのではないか。もちろん、そうした芸風は旧来の講談ファン、すなわち「講談とは・・・」と語り始める人々から反発を食らったが、その結果、多くの人々に認知されることになり、数えきれないほどのファンを確立した。誰かがいつか成し遂げなければ滅びゆく芸能だと、松之丞さん自身が語ることによって、より多くの人々が松之丞さんに触れ、そして講談の世界へと誘われ、講談界は盛り上がりを見せた。

現実が物語るのは、そんな神田松之丞という一人の講談師の偉業である。どれだけ旧来の講談ファンから蔑まれようとも、また、「お前のは講談じゃねぇ」と言われようとも、自分の信じた講談を貫いてきたが故に今がある。それが松之丞さんの『工夫』だったのだということを、今日、改めて感じた。

そして再び、松之丞さんは自分が拡げ、推し進めてきた芸を、より本来というか、旧来の講談ファンが掲げていた「講談とは・・・」を塗り替えようとしているように思える。それは『古典の更新』と呼んで良いかも知れない。

師匠である松鯉先生、そしてそのさらに師匠である二代目神田山陽先生が受け継いできた、伝統の講談を一度大きく演出を入れて変えながら、再び削ぎ落して核を上書きして戻っていくような姿勢を今日、私は感じたのである。本当のところはわからないけれど、今もまさに古くからの講談の基礎を保って高座に上がる偉人たち(松鯉先生、愛山先生、貞水先生etc・・・)に、新しい古典の型で挑もうとする姿勢が、松之丞さんにはあるように思えるのだ。もしかしたら、伯山になったら、よりその方向性を強めるのではないかと思うのだが、本当のところは分からない。

本当の素晴らしさがどこにあるのかということは、見る者が決めればよい。そして、芸は生きているから、見た者にしか真実は分からない。今は時代が進み多くの人々がテレビやネットで松之丞さんを見ることが出来る。生活水準が高まれば、より生の演芸からは遠ざかってしまうだろう。東京という場所に生活拠点があることも、生の演芸鑑賞には影響を及ぼす。それはまるで、舗装されたコンクリートを歩くことと、舗装されていない土を歩くことの違いに過ぎないのかも知れない。私はどちらも同じくらいに愛する。

より丑五郎という人間にフォーカスした『神崎の詫び証文』。30分を越える熱演の中に光ったのは、父の思いを噛み締めるように語る丑五郎の姿だ。松之丞さん自身の工夫が垣間見える台詞。そして、より実感の籠った語りに見え隠れする松鯉先生の語り口。全てが真打に向け、大きな転換点にあるように私には思えた。それまではパンパンに肥えていた肉体も程よく締まり、削ぎ落されて鋭さを増した芸の潤いが如実に感じられる。圧巻の一席で大団円を迎えたのだった。

 

 総括 演芸との別れは来ない

ユーロスペースを出ると、ぱらぱらと小雨が降っていた。嵐の前の静けさがあって、街ゆく人々は意気揚々としていたが、心なしかいつもより人の数も少ないように見えた。

思い思いの備えをして、人々は台風が去っていくのを待つのだろう。私としてはラグビーの日本対スコットランド戦がどうか開催されてくれと願うばかりである。

家に戻る道中、明日はどうなってしまうのだろうと考えていた。流されたら、そのときはそのときで、そういう運命だったと諦めよう、という自分と、いやいや、なんとか泳ぎきって、なんとか生き延びてやろう、という自分が頭の中でせめぎ合う。だが、最終的には、死ぬときは死ぬし、生きるときは生きるのだろうと思う。

演芸も同じだ。見れるときは見れるし、見れないときは見れない。そういう運命だと思えば、いくらか気も休まるというものだ。

大丈夫。必ずあなたにとっての最高の一席はやってくる。

一日一日、別れと出会いの連続だけれど、出会った人との間に生まれた

感謝の気持ちや、感動や、涙や、笑顔は、

流されずに、あなたの心に残り続ける。

明日も、明後日も、ずっと私は演芸に触れて行くだろう。

そして、言葉にするだろう。

今日が演芸の最後の日だなんて、そんなことは考えられない。

演芸に出会った人に、演芸との別れは来ない。

この記事を読んでくれたあなたが、明日も明後日も、生きている限り

演芸に触れ続けることを願って、

素敵な芸に出会えることを願って、

この記事を終わりたいと思う。

どうか、お気をつけて。

またいずれどこかで、素敵な時間を過ごしましょう。

それでは、また。