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自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

百年目の恥~2020年2月12日 横浜にぎわい座 古今亭文菊~

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未来のことは、誰にもわからない

だからこそ、この再会が意味するように

無限の可能性があるんだ

シュタインズゲート 岡部倫太郎 

不撓不屈

生きていれば信じられないほど恥をかく。一度や二度ならまだしも、幾度も恥をかいては至らない自分を修正する。或いは、修正せずに肯定して生きて行く。或いは、自らを否定して生を絶つ。

自らの人生を「恥の多い生涯」と皮肉を込めて書いたのは太宰だが、私とて例外ではなく、また社会に生きる人々も少なからず恥を重ねており、最終的に「恥の多い生涯」と記すかどうかは別として、恥というものはどんな人生にも付き物である。

恥は端でもある。中央をまっすぐに突き進もうと思っていた矢先に、ふらっと態勢を崩して端に寄ってしまい、慌てた時に生まれる感情に近いものが恥であるように思う。漢字を見れば、耳の隣に心があるから、恐らくは中心にある心が何かしらのきっかけで耳まで飛び出してしまうような、そういう感情を恥と呼ぶのではなかろうか。

私には、思い出すだけで鼻の穴から心が飛び出すのでは無いかと思うほどの恥が幾つもある。思い出したく無いものもある。だが、確実に、それらの恥が私にとって良い働きをしたと思える。なぜなら、恥をかいて、もう二度と恥をかくまいと決意することができたからである。

こと恋愛においても恥は多い。恋焦がれた相手に対して夢中になる余り、相手から引かれてしまうことも多々ある。なんでも相手の言いなりになり、寄り添うように生きることが優しさであると思う反面、優柔不断で自分の意見が無く頼りない。気がつけば意志が固く、決断力があって頑固な男へと靡き、後に残されて吹きさらしの木枯らしに自らの涙を消すこともしばしば。いっそ、知らぬが仏と阿保面を下げて恋焦がれた相手に向き合えれば楽なのであるが、そんな自分を見つめるもう一人の自分がそれを許さない。駆け引きも何も無い。一方的に好きになって、一方的に盛り上がって、一方的に別れを告げられることの繰り返し。とんと学習しないから仕方がない。

厚顔無恥である人が羨ましい。どんなに人様からあざ笑われようとも、決して自らの非を認めず、揺るがず、剰え自分の価値観を押し付けて、人の意見に取り付く島もない人間になれたら、どんなに生きることが楽になろうか。なまじの客観性では、生きるのがどうにも不自由でならないのだが、そんな自分を肯定してしまうから、私は幾つになっても恥を抱え、恋に蹴躓くのだろう。傷つきながらも不撓不屈の精神を持ち続けることが、今後果たしてできるのだろうか。

さて、前置きはこの辺りにして、横浜にぎわい座で行われた『よこはま文菊開花亭』に行ってきた。ネタ出しの『お見立て』と『百年目』がどうしても見たく、参加した次第である。

思わぬ偶然もあって、某編集長のお姿を拝見した。何度かお見かけしたことがあるが、匂いたつような編集長の香りと風貌にドキドキしながら、私は開演の時間を待った。

前座の市坊さんの『真田小僧』と、志ん松さんの『だくだく』の後で、にぎわい座の高座に上がった文菊師匠のお姿は、広い会場とあってか、とても小さく見えたのだが、それでもひとたび語り始めれば、そこに浮かび上がっている景色の解像度は破格であって、一瞬で江戸の廓の世界へと誘われる。圓菊師匠の所作も飛び出して、気がつけば、目の前にはとても綺麗な花魁が物憂げに座っているのだった。

 

古今亭文菊 お見立て

吉原遊郭で随一であろう花魁、喜瀬川花魁の仕草や声色は、文菊師匠を通すと妖艶な色気を纏って眼前に浮かび上がってくる。恐らくは頭の回転も速いであろう牛太郎の喜助でさえ、たじたじになってこき使われるほどの知恵と才と美貌を兼ね備えた喜瀬川花魁の、何とも言えない知的さの混じった佇まいが堪らない。私見で申し訳ないのだが、女性というのは我儘であればあるほど可愛らしく、また、男の虚栄心をくすぐってくる。女性からは嫌われるであろうが、所謂ぶりっ子であるとか、自由奔放な人というのは、見ていて思わず援助してしまいたくなる不思議な魅力があって、私を含め多くの馬鹿な男は、そうした女性の可愛らしさに頬も心も何もかもを溶けさせてしまう(はず)

芸能人で言えば、田中みな実さんであろうか。知的でありながら、可愛らしさと色気を存分に放って男を惑わせる。そんな妖艶なる佇まいこそ、文菊師匠の語りの真骨頂でもあると言えるだろう。

まさに文菊師匠の『お見立て』は、十八番と言っても良いのではなかろうか。文菊師匠の持っている全てが存分に詰まった一席である。

幇間腹』や『鰻の幇間』など、からっとしている幇間の魅力が、牛太郎として吉原の花魁を取りまとめる喜助に表れているし、『紙入れ』や『甲府ぃ』などに登場する『色気のある年増』や『ハイテンションなおバカ女子』を混ぜた女性は喜瀬川花魁に、『百川』や『権助提灯』などに代表される田舎者の語り口の杢兵衛など、それぞれに良さが表れている。

登場人物の個性がバランス良く、聞いていて鮮やかにくっきりと人物が浮かび上がってくることによって、驚くほど噺が人間臭い。現代的な言葉やくすぐりは一切排除され、全てが古典の世界の雰囲気にありながら、現代に通ずる人物描写は文菊師匠にしか出来ないのではないだろうかと思える。

喜瀬川花魁の徹底して杢兵衛を突き返そうとする知恵と、女性らしい感情による反発。それに渋々従い、文句を言いながらも振り回されてしまう真面目な喜助、現れない喜瀬川に対して怒ったり文句を言うどころか、全てを鵜呑みにしてひたすら自分にとって都合よく物事を解釈する杢兵衛。三者三様の心模様が実に見事に折り重なって表現されているのである。

特に、喜瀬川花魁が素晴らしい。美貌と才を身に付けたからこその、我儘な素振りが堪らないのである。反発しながらも、自らの勤めを全うする牛太郎と、全く自らの勤めを全うしようとしない喜瀬川花魁との対比が実に見事で、文菊師匠ならではの言葉選びと、花魁らしい所作が堪らなく素晴らしい。喜瀬川花魁のような女性に私も何度騙されたであろうか(どうでもいい)

また、杢兵衛も杢兵衛で実に能天気な田舎侍なのである。杢兵衛の救いようの無い自己中心的な解釈を聞いていると、喜瀬川花魁が拒絶するのも致し方無しと思えるから面白い。また、文菊師匠は相当耳が良いと思う。田舎侍の口調とトーンが実に見事で、一体どこで習ったのか不思議に思えるほど、田舎者が様になっている。

文菊師匠の醸し出す品のある雰囲気が、杢兵衛の語りになった途端に、「あ、こりゃ絶対ブサイクな侍だわ」と思えるのだから不思議である。文菊師匠の語りと所作によって生み出される『お見立て』は、絶世の美女である喜瀬川から、ド田舎者の自己中侍の芋臭さまで、性別と容姿のボーダーを軽々と飛び越えて、容易に聞く者の想像をくすぐってくる。その自在な声色とトーンの使い分けが、違和感が無く、むしろ心地よいくらいに人物を描いている。

また、後半に向けてさらっと『お見立て』という言葉の意味を説明する描写も素晴らしい。冒頭で説明することなく、噺の流れの中でさらりと伏線を仕込むところが文菊師匠ならではの工夫であろうか。同時に、喜助の仕事人としての誠実さが伝わってくる。『お見立て』という一席は登場する人物に様々に感情移入できる面白いお話である。

実生活でも、喜瀬川のように、会いたくない人と会わなければならなくなったときには、色々と知恵を絞って会わないための口実を作ることもある。また、喜助のように不満に思いながらも、しぶしぶ仕事を全うするときだってある。杢兵衛のように、何でも自分に都合良く考えて、相手の気持ちを知らぬままに自分だけ楽しんでしまうことだってあるのだ。

でも、そんなことは話を聞いている今だからこそ思うのであって、話を聞いている最中には、ただただ物語に浸り、文菊師匠の描き出す世界に没頭する。

ああなんて人間臭くて面白いのだろう。結局、男は美人に振り回される。

 

古今亭文菊  百年目

ネタ卸しの時に衝撃を受け、感動の余韻とともに数年が過ぎ、ようやくネタ卸し以来となる『百年目』を聞くことができた。

最初に聞いた時ときの記事はこちら

 https://www.engeidaisuki.net/?p=440

物語のあらすじは前記事に任せるとして、最初に聞いた時よりも格段に人物描写がくっきりとしており、全体的に噺の筋肉量が増えたというか、体格が良くなった感じがした。

特に、冒頭から番頭さんの声や表情がよりくっきりとしたように思うし、番頭さんが様々に小言を言う使いの者たちも、表情豊かに個性が増した。

最も素晴らしいのは、番頭次兵衛の主人であろう。前回の時にも印象に残ったのだが、普段はお店で堅物とされた番頭が、屋形船に興じた後で勤め先の主人に出くわす場面。胸がハラハラとして、一体、主人は番頭にどんな言葉をかけるのだろうと思っていると、絶妙の間とトーンで言葉を放つ主人。

この瞬間の主人の心遣いが、とーんと私の胸を突いて涙腺が刺激された。実に良い。実に良いのである。酔って扇子で顔を隠し、遊び呆けた番頭が、あろうことか主人と出くわしてしまった瞬間の、驚きとパニックに対して即座に声をかける主人。

この場面は特に見物である。さりげない言葉の中に、上に立つ人間の見事な姿が表現されているように思うのである。

その後の番頭の狼狽ぶりも面白く語られるのだが、じーんと主人の言葉が胸に響いて感動する。笑いと涙が幾重にも折り重なり、後半に向けて実に見事な前半だった。

『百年目』の見どころは随所にあって、お堅い番頭の様子が語られる冒頭から、そんな番頭が裏の一面を見せて遊びに興じる中盤、そこから一気に青ざめてパニックになり、最後に主人に呼ばれ、覚悟を決めて主人の話を聞く後半まで、あらゆるところに人の心の機微であるとか、人間らしさが滲み出ていて大好きな話である。

特に、最後に主人が番頭に向けて語る言葉の一つ一つには、染み入るような美しく、また含蓄のある言葉がたくさんある。この辺りの言葉は、勤め人の方々であれば涙無しでは見ることができないであろう。また、一所懸命に仕事を全うして退職され、第二の人生を歩む人々にとっても、自分の人生を振り返るのに素晴らしい言葉が凝縮されているように思う。

冒頭にも記したが、人は生きていれば信じられないほど恥をかく。思い出す度にかあっと顔が熱くなるような恥を誰しもがかく。そんなとき、『百年目』の噺の中に出てくる主人のように、教え導いてくれる人に出会うことができるのは、とても幸福なことではないだろうか。人に限らず、自分の恥を支えてくれるものに出会えたら、それはとても幸福なことである。

ひょっとすると、私は死ぬまで恥をかきつづけるのかも知れない。もしくはどこかでボケてしまい、恥を恥とも思わなくなるのだろうか。それも一つの恥なのだが、自覚できなくなってしまったらどうしよう。でも、そのときはそのときであろうか。

こうやって文章を書くことだって、もしかすると恥なのかも知れない。自分の考えを顔の見えない人達に向けて書くなんて、大きな恥だろうか。

でも、私はそれでも良いのだ。たとえ誰かにとって恥になろうとも、私は恥をかくことを恐れない。死ぬまで恥をかく覚悟だ。

文菊師匠の主人の言葉が胸に染みる。素敵な『百年目』だった。

 

終演後

落語好きな方々に誘われて、野毛にある小料理屋さんにお邪魔した。とても美味しいお料理とお酒を頂き、また、落語のお話で大変盛り上がった。ついつい盛り上がって終電を逃し、ディープな場所に流れ流れて、とても楽しい一夜を過ごした。

翌朝は自分でも良く目が覚めることができたなぁと思うほど、ギリギリの時間に目が覚めた。結局、再び、ねえさんに何から何までお世話になってしまった。

前記事で、2月は割とナイーブになるというようなことを書いたが、おかげさまで何とか楽しく2月を過ごせている。まだまだ素敵な演芸会が目白押しである。

どんどん恥をかいていこう。もちろん、恥をかかないようにはしているのだけれど、それでも恥をかいたときに、ちゃんと心を真ん中に戻せるようにしておこう。寄席に行ったり、落語を聞いていると、すとんっと心が真ん中に戻ってくる気がする。

落語っていいね。

軽さと鋭さの風を吹かせて~2020年2月11日 浅草演芸ホール 春風亭朝枝~

君の行く道は

果てしなく遠い

だのになぜ

君は行くのか

そんなにしてまで

ザ・ブロード・サイド・フォー『若者たち』 

 ポイント・オブ・ノー・リターン

一廉の人物になろうと決意し、奮い立った心に突き動かされて数十年。歳を重ねる毎に達成できた目標と出来なかった目標とが増え、次こそはと改めること数度、未だ一廉の人物どころか凡才愚才を突き通しながら今日に至る。

社会に出ると、よほどのことが無い限り『昇進』することは無い。小心者故に出世できぬと諦めて、幾度となく傷心しながらも生きている私にとっては、昇進なぞという言葉は夢のまた夢であって、とんと縁の無いものであるように思える。

幾歳月が過ぎて、気がつけば何者にもなれぬまま、希望と夢と理想が膨らみ、現実との差異が徐々に大きくなって押し潰されて行く人間が、果たしてこの世界にどれだけいるというのか。自らを誤魔化し誤魔化し生き永らえて、口から出る言葉と言えば不平不満、人を見れば疑いの眼差しを向け、聞く耳も、物を見る眼さえも失い、やがて老いた肉体を見ても素直に受け入れることが出来ぬまま、いつまでも成長することの無い魂の年齢に囚われて生きる屍になりたくはない。

今のままで良いのだろうかという思いが、私の頭をもたげるのである。常に自問自答するのである。「これでいいのか、私は」と、問えば問うほど深みに落ちて行く。やがて「これでいいのだ」という言葉に辛うじて引き上げられ、するすると深みに落ちた心を光の当たる場所へと引き戻すのであるが、隙さえあれば「いや、このままでは駄目だ」という考えがやってきて、てんとう虫が這っている棒を上下逆さにされたかのように、途方の無い心の落下と上昇を繰り返す。

それが、二月という時節の持つ嫌な魔力である。

一度、この魔力にやられてしまうと、どうにも物事が上手く行かぬような気がしてくる。自らの取り柄に対する自信も、自分自身の存在も、また、周りとの接し方も、全てが疑わしくなってくるから不思議である。殊更に声をあげることでは無いのだが、自分の力を疑ってしまうのである。

今後自分がどうしていけば良いのかということを一年365日のうちで最も悩むのが2月である。2月の私が一番様々なことに対して思い詰めている。だから、2月の私の面も心も酷いもので、鏡なぞを見たり、昔の日記なぞを読み返していると、あまりの酷さに吐き気がしてくるくらいである。去年の2月の記事を見ても、どうにも思い悩んでいる節があって良くない。

恐らくは、1月という新年を祝う雰囲気からの流れで、2月に様々な祝いの雰囲気が街中に充満しているからであろうと思う。誰それが転勤であるとか、誰それが昇進であるとか、節分、バレンタインデーなど、傷つきたくも無いのに心が傷ついてしまう行事が余りにも多く、その祝い事の真っ只中にいる人々を見ていると、途端に全身を小さな羽虫が駆け回っていくかのような嫌悪感に苛まれ、どうにも苦手で心が穏やかでは無くなってくる。

というのも、相手を祝っている場合ではなく、まずは自らが正しく成長せねばならないという思いが第一にやってくるからである。単純に心の余裕が無いのである。器が小さいのである。1年365日で最も心に余裕が無いのが2月なのである。

だから、演芸を見ても、誰かが大勢に祝われている会には参加したくない。ひっそりと、自分だけの楽しみとして、誰かを祝いたい。世間が大注目のお祝い行事より、極わずかな人々だけが集まったお祝い事の方が、私は好きなのである。

どちらも祝うということでは同じであるのだが、どうにも私の心持ちとして異なる。大勢の人々が熱中しているものは避ける傾向が元々あるから、そういう性根によるものである。1000人が1人を祝う会と、10人が1人を祝う会だったら、私は絶対に後者に行く人間である。それがなぜなのかは上手く説明できない。

前置きが長くなったし、どことなく暗い出だしではあるのだが、やはり誰かが昇進をして、それを祝っている雰囲気というのは素晴らしい。ささやかであればささやかであるほど、それは特別なものなのではないかと私は思うのである。祝い事に関しては、祝う相手に対して祝う相手が少なければ少ないほど良いという気がする。

くどいようだが、1000人が1人を祝う会よりも、10人が1人を祝う会の方を私は好む。

 

春風亭朝枝 真田小僧

最初から抜群に落語が上手いことは誰にも周知の事実であり、その風貌からは想像できないほど愛嬌のある表情と、落ち着いた声とリズムが魅力的な朝枝さん。前座名を朝七と名乗っていた頃から、落語好きであれば一目も二目も置かれていた存在であることは間違いないだろう。失礼ながら私も『https://engeidaisuki.hatenablog.com/entry/2018/08/22/235537

記事に書かせて頂き、大変多くの方にお読み頂いた。

今日も改めて思ったのだが、実に『軽い』のである。ベタベタッとしたいやらしさが無く、軽やかですらっとしていて、爽やかで快い。

実に不思議なことなのだが、私は『立川左談次』師匠を思い出した。左談次師匠の持つ独特の軽さの中に、朝枝さん独自の端正でシュッとした鋭さがあって、その『軽さ』が何とも言えず素晴らしいのである。

かつて『マフィア派』などと書いて、「後ろから首をスパッとナイフで切られる」というようなことも書き記したのだが、気がつけば心をさらりと切られているような、鎌鼬的とでも呼べば良いのか、『軽さの整い』が実に見事なのである。

間違いなく将来が有望であり、落語通にも初心者にも受け入れられる力量があり、何よりも表情と声とリズムが程よいバランスで確立されている。『非の打ち所がない』と言えば褒め過ぎかも知れないが、それほどに流暢で底の見えない魅力を秘めている。

今回は袖の様子も眺めることができ、スーツ姿もバシッと決まっていて様子が良く、また高座を終えた後の表情も何とも言えず様子が良かった。どう言い表して良いか分からぬのだが、一つの節目を終えて、また一つ長い歳月をかけて迎える節目へと向かうことに些かの曇りもなく、ただひたすらに自己を見つめて芸を磨くかのような意志を、私は朝枝さんの高座から感じた。

『軽い』ということが、実に見事な良さを持っている。例えば、胸に靄を抱えている人間であったり、霞がかった思いを抱いている人間が、朝枝さんの落語を聞くとスッと胸を梳くような、そんな快さを味わうのではないだろうか。落語の世界における『軽さ』と、今後さらに突き詰めていくのではないかと思えるような『鋭さ』を既に持っているのが朝枝さんであるような気がするのだ。

そして、この後に文菊師匠が高座に上がるのだが、袖から現れた時の笑顔が何とも言えず美しかった。というか、朝枝さんからの文菊師匠というのは、クールミントな流れであって、濃い料理を食べた後に、洗面所などに置かれたマウスウォッシュで口を爽やかにするような、そんな爽快感がある。いずれは、寄席においても『爽快ゾーン』として、朝枝さんからの文菊師匠の並びが生まれて行くかも知れない。無論、文菊師匠は文菊師匠で、深みや奥行きを突き詰めた『軽さ』を持っている人で、その『軽さ』は水のような清らかな流れを持っているように思うから、朝枝さんの立ち位置は絶妙な位置を突いている気がする。

私が言うまでも無いが、春風亭朝枝さんの前途は明るい。もちろん、それは朝枝さん自身が今後も絶え間なく落語の世界で芸を磨くことを前提としてである。私を含め多くの落語ファンはきっと同じ思いであるに違いない。春風亭朝枝さんが真打になり、やがては大名人と呼ばれ、鈴本でトリを取っている光景が来るであろうことを。そして、その日まで芸を磨き続けるであろうことを。

今日、私は軽さと鋭さを持った未来の大名人の、大いなる一歩、その一席を目の当たりにしたのだった。

浪曲の灯火~2020年2月8日 浅草木馬亭 浪曲名人会~

 

君が2年でやることを

10年かかる僕

ワタナベマモル『時速4kmの旅』 

 

  Return

二月に入って八日も経つのかと思うと時の進みの速さに驚くのだが、しんと冷えて刺すような空気を感じると、二月の冷たい横顔を見るような心持ちになって寒い。

こわばった頬をさすりながら、かちかちの心をほぐすように温水で顔を洗う。毎度、誰に似たのか無邪気な寝癖を整え、鏡の前で自分の間抜け面を眺めながら歯を磨いていると、日に日に老いているということを知らせるかのような皺に目が行く。20代も後半に差し掛かり、人生の淵とやらを考えるともなく考える時節になって、また再び春が訪れるという期待に心を立たせながら、白くもない歯を丹念に磨く。

あまり感情の起伏が激しい人間ではないことは承知しており、ともすれば『冷酷』とか『無感情』とか言われがちではあるが、言葉にして感情を表すことは不得手ではないと自負している。どうにも、悲しい時は悲しい表情をせねばならず、楽しい時は楽しい様子で無ければならぬという風潮が苦手で、仕事なぞで「森野くんは何でも他人事だよね」と言われると、「それはあなたの主観でしょ」と反駁したくもなるのだが、言ったところで争いになるだけで、下手な戦はしない方が有益であると心得て、朝が来て目覚める度に考え込むということがしばしばである。

今日も、ぼんやり自分の「実感を伴わぬ言葉」とやらに悩まされていた。ここ数日、昔の文豪に助けを求めて本を読み漁っているうちに、尾崎士郎先生や織田作之助先生の作品の素晴らしさに心洗われ、再び書こうという気持ちが沸き起こって今に至る。

考えても考えても答えが見当たらぬ時には、読むか書くかすることが私の性には合うらしく、尾崎先生の『中村遊郭』や、織田先生の『人情噺』に感銘を受けて、なんとか多忙な二月三月を乗り切ろうという気になった。

様々に幸運が舞い込むと、途端に筆が止まって書くどころではなかったのだが、どうしても書きたい会があった。

それは、浅草木馬亭の講談夜席終わりに出会ったチラシをきっかけに知った会である。『浪曲名人会』と題され、そこには『三原佐知子、松浦四郎若、天中軒雲月』の文字と写真。

浪曲好きであれば知らぬ者はいないと断言できる、東西の大名人である。昨年は講談界で神田松鯉先生が人間国宝になられたが、浪曲界には曲師の世界に沢村豊子師匠、そして浪曲師には、このお三方と澤孝子師匠、東家浦太郎師匠を加えて人間国宝にしても異議無しと思えるほど、現役最高峰の浪曲師がいる。特に、私は三原佐知子先生の素晴らしさを声を大にして叫びたい。正に浪曲の頂に立つ最高峰の浪曲師と言って良いだろう。

まだ開演より1時間前だというのに木馬亭には列ができ、開演するころには超満員で補助席ができるほどであった。お恥ずかしながら若造一匹、浪曲の名人達による最高峰の芸を、たっぷりと堪能させて頂いた。

浪曲は今、あなたの心の間欠泉を吹き上がらせる人情の噴出であるのだ。

 

東家恭太郎/紅坂為右衛門 終活浪曲

開口一番を務めるのは、前座ながらご高齢の恭太郎さん。玉川太福さんのミュージック・テイトでの独演会で、浪曲師になるまでに様々な世界にいたことを知っているだけに、この数年でメキメキと浪曲の声に馴染んできた様子。

どこか朗らかで、落語の世界の住人のような優しいお姿に心が和む。芸達者で明るい素敵な浪曲だった。

私にはまだ、終活を考えるには早すぎたかも知れないのだが(笑)

 

東家一太郎/東家美 雷電小田原情け相撲

お次は一太郎さんと美さんご夫婦による浪曲。満面の笑みと透き通って張りのある声と、優しさが溢れて突き抜けて行くかのようなお姿の一太郎さん。

お三味線の美さんの美しい音色もさることながら、ピタリと息の合った一太郎さんの節と語りが、物語の後半に向けて徐々に盛り上がっていく様子が実に見事だった。

また、会場の雰囲気が物凄く良かった。私のような若造が言うのも恐縮であるが、真に浪曲を愛し、浪曲に痺れ、浪曲に浸ってきた熟練の浪曲愛を育んできた人が多いように思えた。演者が姿を見せれば「待ってました!」とか「日本一!」とか、さらには「大統領!」とか「大当たり!」なんて言葉も飛び出す。

今では、感情を表に出す人が少なくなったと言われているが、私の周りはそうではないようである。私自身はさておき、木馬亭に集ったご高齢な人々が思わず漏らしてしまう言葉は、浪曲師と曲師に掛かる感情の橋のようにも思えたのである。

落語や講談では、滅多に演目中に客席から声が飛ぶことはない。むしろ、今のご時世で落語や講談のネタ中に声を掛けることなぞ言語道断であろうし、時代がそういう流れになってきたことも十分に分かる。誰もがじっと耳を傾けることができ、携帯の音などによって妨げられることの無い演芸鑑賞が求められる中で、浪曲だけは落語や講談と趣を異にするように思う。

良い節があれば「いいぞ!」と叫ぶし、三味線の音色が良ければ「いい音だ!」と声を掛ける。それを受けて演者も勢いを付けて唸る。殆ど音楽を演奏するバンドを見るような心持ちに近い。バンドの演奏中は客席でダイブする者もいれば、一緒に歌う者や体をくねらせて踊る者もいる。浪曲は、じっくりと聞く落語や講談と、体を思い切り動かして聴く音楽のライブの中間を行く姿勢が、客席には求められているのかも知れない。

話を一太郎さんに戻そう。これが実に素晴らしかった。演目は雷電とされながらも、冒頭は雷電の師匠である谷風が出てくる。谷風に敵討ちを嘆願する母子の思いが、一太郎さんの澄み切った声と、情熱的に感情を掻き立てる美さんの三味線の音色によって、ブクブクと音を立て、一気に感情が放出していく。

胸の奥底を突き上がっていく熱いものを感じると、自然、目からは温かい雫が溢れ出して止まらない。卑怯な技によって命を落とした力士の夫を持つ妻。自殺まで考えながらもギリギリのところで引き留められ、夫を殺した力士の敵討ちを頼む妻。そして、その経緯を聞いて涙する谷風、そして雷電。言葉にすれば短い内容でありながらも、そこに凝縮された人の心の美しさ、人情の波に感情が揺れる。

汗を流しながら、顔をくしゃくしゃにしながらも、ぐいぐいと体を揺らして唸る一太郎さん。いよいよ、土俵に立った雷電と敵討ちの相手である力士との一戦は、ちょっと笑ってしまう内容ではあるのだけれど、その時代に流れる空気感を見事に描いており、心震えて涙とともに笑みが零れた。

美しく力強い節と三味線の音に、感情の間欠泉が噴き上がった素晴らしい一席だった。

 

 瑞/紅坂為右衛門 北斎と文晁

三番手は力強い眼力と眉毛、そして芯の通った力強い声を持つ瑞姫さん。風貌を見ると、こちらがシャキッとせねばならぬという妙な緊張感もありながら、唸るのは天才絵師と画家の友情の物語。

北斎の癖のありそうな声色と、文晁の真面目な様子。そして役者の尾上菊五郎が顔を出すという想像も豪華なお話で、最後に北斎と文晁が互いに合作で絵を描く場面には、その時代を生きた二人の天才の美しくも輝かしい光があるように思えた。

 

黙祷

仲入りでアイスモナカを頂く。浪曲で火照った体に名物、アイスモナカ。

仲入りの終わりに幕が開き、昨年の12月に亡くなられた木馬亭の女将、根岸京子さんへの黙祷が捧げられた。

超満員のお客様が立ち上がり、浅草の木馬亭浪曲を愛し、浪曲という演芸を支え続けてきた席亭さんへの愛が、静かに演者の方々の目に宿っているように思えた。

この場所できっと、席亭さんも笑顔で浪曲を聴いているに違いない。

 

天中軒雲月/沢村豊子 男一匹天野屋利兵衛

仲入り後は、関西と関東を股にかけた大名人、雲月師匠。そして曲師は浪曲界最高峰の沢村豊子師匠。この二人の共演は正に浪曲界が産んだ奇跡の組み合わせ。

演目は講談でもお馴染みの天野屋利兵衛。白洲の場で拷問に合い、自らの息子が酷い目にあわされても、決して討ち入りの計画を漏らさなかった男の物語である。

これまた実に素晴らしい節で、豊子師匠の絶品の音色と相まって凄まじい一席だった。物語としては、それほどダイナミックな展開は無いのだが、息子を思う利兵衛の気持ちと、苦しくも言葉を吐く利兵衛の姿が胸を打つ。

それよりなにより、後半、とても素晴らしい光景を見た。

それは、雲月師匠が喉の渇きを潤すために茶碗に手をかけたとき、物凄く嬉しそうににっこりと笑いながら、思わず「いい音だね~」と言葉を漏らして、豊子師匠の方を向いたのだ。

なんて、なんて美しい光景なのだろう。

雲月師匠の満面の笑みと言葉を受けて、豊子師匠がそれに応えるようににっこりと微笑む姿を見たとき、何とも言えない感情に胸が締め付けられた。

美しいという言葉だけでは多分に漏らすものが多いほどに、その光景は美しかった。ただただ美しかった。

浪曲の世界に身を投じ、かたや唯一無二の唸りで芸を磨き、優れた弟子たちを育て、自らも浪曲界の最高峰に君臨する雲月師匠と、多くの浪曲師の唸りを支え、数えきれないほどの物語に三味の音で彩りを加えるとともに、見る者の感情を揺さぶり続けてきた豊子師匠が、浅草木馬亭という浪曲の聖地であり、根岸京子さんという席亭に支えられた場所で、互いに言葉を交わし、目と目を合わせて、微笑んでいる。

もはや、これ以上何を語っても、その美しさを言い表すことは不可能であろう。

私の記憶に焼き付くのは、浪曲師と曲師の美しき共演。その素晴らしい高座姿である。

 

 松浦四郎若/虹友美 首護送

一昨年の年末に聞いた『武士気質』以来の四郎若師匠と友美さん。もはや一献傾けたくなる素晴らしい節と声は相変わらずで、お茶目なエピソードもありながら、笑いと人情に包まれた素晴らしい一席。

演目は、桜田門外の変を下敷きにしながら、それに巻き込まれることとなった一人の船頭を中心に進むお噺である。

とにかく節が素晴らしく、また物語の前半は面白さに溢れ、後半は急にキリリとしてグロテスクでありながらも、想像の世界は雪に包まれていて、不思議な清らかさに満ちていた。

もっともっと色んな演目を聞いてみたいと思うほどに絶品の節と、繊細かつ力強い友美さんの三味線の音が光る素晴らしい一席だった。

 

三原佐知子/虹友美 母恋あいや節 テケレッツノパ

まさか、三原佐知子師匠についてブログで書ける日が来るとは夢にも思わなかった。今、この文章を書くにあたって、「うわ、俺、いよいよ三原佐知子師匠を語るのか・・・」と思い、胸の高鳴りを抑えることができなかった。

マクラも無しで、第一声の節。夢にまで見た、三原佐知子師匠のお姿、声、節、語り。そして、それを支える虹友美さんの三味線の音。

徹頭徹尾、打たれ続けた鐘のように痺れた。とにかく、痺れた。

幾日も、幾日も、見たいと望み続けた浪曲の名人が、確かに私の目の前にいて、幾度も幾度も聞いた『三味線やくざ』や『は組小町』を唸った浪曲師が唸っている。

しばし、茫然と目を見開いて聞いていた。

ぼろぼろと涙が零れて止まらなかった。

生きてて良かった。と自分に対して思ったと同時に、

お元気なお姿で舞台に立たれておられて、本当に良かった。と思った。

母を亡くし、酒に溺れた父親に粗末に扱われながらも、一所懸命に生きる小さな少年の姿。母との思い出にぼんやりとしながら、母の墓前で母を思う少年の気持ち。

何もかもが、私の心を揺らし続けていた。

しんと静まり返った客席。全員が三原佐知子師匠のお姿と、節と、友美さんの音色に耳を傾けている。

私にとって、三原佐知子師匠の高座を見ることは、枝雀師匠の高座を見ることが出来たくらいの喜びに近い。それほどに、私は待ち望んでいたのだ。

だから、あいや節を聞いている最中、とめどなく涙が溢れてきた。自分でもどう言って良いか分からない。嬉しいとか、感動するとか、そういう言葉を尽くしても尽くしても表しきれないほどの、何か一生涯をかけても辿り着けるか着けないか分からぬものに出会ったような強烈な感覚があって、それがただ私の心を震わせていた。

『母恋あいや節』の後、本当にすぐ目の前で佐知子師匠が『テケレッツノパ』を歌っているとき、恐れ多すぎ体が硬直した。自分にとっての神様が目の前にいるとき、人は硬直するらしい。初めて文菊師匠とお話しする時も同じだったが、本当に素晴らしい人を目の前にすると、私は身動きできない。冷凍保存されたアシカみたいになる。

歌が終わって、佐知子師匠が木馬亭のお席亭さんとの思い出を語ったときも、私は泣いてしまった。ええ話やぁ~と思いながら、佐知子師匠も涙ぐんでおられるようで、なんだか言葉には上手く言えないのだけれど、浪曲っていいなぁと思った(語彙力)

何もかもが温かかった。終演後、恐れ多くも三原佐知子師匠にサインを頂いた。また一つ大きな宝物ができ、感動のままに浅草木馬亭を後にした。

根岸京子さんという、浪曲の灯を守り続けてきたお席亭さんの魂が息づく木馬亭は、今年50周年を迎える。多くの浪曲師と曲師が、浅草木馬亭の舞台に立ち続け、今もなお、浪曲の灯火を、そして、浪曲愛する人々の思いを一心に支え震わせている。

数多の名人が、綺羅星の如く隆盛を極めたかつての時代に比べれば、落語や講談、漫才に押されて翳りを見せた浪曲。それでもなお、決して絶えることなく今日まで浪曲が存在し、また再び陽の目を浴びることになるのは、そこに浪曲を支え続けた人々の魂があるからである。こんなにも素晴らしい芸が、絶えて良い筈が無いのだ。

落語の世界で古今亭志ん朝師匠の死が一つの節目であるとするならば、浪曲の世界では国本武春先生の死が一つの節目であったことは薄々感じられる。講談の世界では、いいよいよ神田松之丞さんの伯山襲名によって大きな節目を迎えようとしている。

落語・講談・浪曲。この三つの演芸が2020年も大きく盛り上がっていくことは間違いないだろう。くしくも、今年はオリンピックの年ということもあり、今一度、日本の伝統芸能、大衆芸能に目が向けられる年になるのではないだろうか。

いつまでも、漫才やコントに押されているわけにもいかない。と、争いの様相を呈しても意味が無いことは承知であるのだが、もっともっと、多くの世代に、落語・講談・浪曲の灯火が伝わり、大きな炎となることを願うばかりである。

あまりにも、あまりにも、あまりにも見事な伝説の浪曲名人会。

次は一体、どんな浪曲に出会えるやら。

今後が楽しみで仕方がない。

進化の化身~2020年1月25日 新宿末廣亭 深夜寄席~

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Well my temperature’s rising
And my feet left the floor
Crazy people knocking,
‘Cause they want some more.
Let me in baby,
I don’t know what you got
You better take it easy.
This place is hot.

The Spancer Davis Group『Gimme some lovin'』

 Don't Think, Do It!

「私は気持ちだけで生きてる」と言う人に会った。ちょっと羨ましいと思った。輝いてさえ見えた。その人の言葉はとても活き活きしていた。でもその人は、「自分には語彙力が無い」と言った。言葉を知らないから、酷く傷つく時もあると言った。言葉を知らないから、とても嬉しいと思うのだと言った。0か1で生きてる。二進数で生きてる。感情を止める言葉が無い。言葉が無いから感情が止まらない。感情剥き出しの人生だと、その人は言った。

僕はその人の話を聞きながら、自分は言葉を知りすぎたのだろうかと思って、その人を心の底から羨ましいと思った。僕は、言葉で感情をコントロールできるし、何かを見ても言葉で消化する。そういう方法に慣れてしまったというか、それ以外の方法を取ることができない。何をしても言葉がまず立ち上がってくる。だから、言葉が感情を導く。

けれど、その人は違う。

感情と同時に体が動く。嬉しい時は両手を広げて満面の笑みを浮かべる。悲しい時はがっくりと肩を落として、悲しそうな表情をする。

僕は無いものねだりである。

その人の活き活きとした語りを見ているだけで、心が躍る。こちらまでワクワクする。普段、そんな風に感情を剥き出しにして話すことが無いから、羨ましいと思う。きっと、僕はまだお酒の力を借りなければそうなれないし、お酒の力を借りたところで、どこかで自分を客観的に見つめる視線を感じて、はたと立ち止まるから情けない。

その人は、自分を客観的に見れないのだという。それはどうなのか、と疑問に思うのだが、その疑問をぶっ壊すくらいに熱いのである。情に生きているのである。すげぇな、と思うし、憧れるのだけど、そうなれない自分を知っているし、そうなれない自分が好きなので、結局何も着地しないまま、楽しさだけが爆発している。

そんな経験があって、進化というのは、自分以外の強烈な存在に出会うことによって起こるのかも知れないと思った。特に、言葉を知らずに生きてきた人は、言葉をたくさん知っている人から刺激を受けるし、またその逆も然りである。

その人と会った不思議な感触が今も僕の中には残っていて、「気持ちで生きる」という言葉が、凄く響いている。自分は気持ちで生きているだろうか。どこかで言葉を拠り所にしてしまっているんじゃないか。僕が触れてきた言葉は、果たして僕に正しい効用をもたらしているのだろうか。

時折、ネットを見ていると、自分が触れた事もない言葉に触れてきた人がいる。多分、知らず知らずのうちに言葉がこびりついたのだと思う。僕はそういう人達を見て、仲間だな、と思う反面、自分にこびりついた言葉を大切に思う。汚れていても、大事な言葉なのだ。ちゃんと、僕に染みついてくれた言葉なのだ。

でも、世の中には、言葉がこびりつかないくらい、つるっつるの気持ちで生きてきた人もいる。その強さは計り知れない。凄かったのだ。今もジーンと響いている。

僕もまだ、進化の化身。一体どんな化け物になってやろうか。

 

 瀧川鯉丸 初天神

開口一番は瀧川鯉丸さん。個性派揃いの瀧川鯉昇一門では珍しい本寸法寄り(?)の噺家さん。何度か見たことがあって、三遊亭楽大さんや古今亭志ん陽師匠を彷彿とさせる丸っこくて優しいお体。さらりとした古典の語り口が軽やかな一席だった。

 

 春風亭昇輔 しずか

お次は瀧川鯉朝師匠門下の昇輔さん。マクラが超絶面白い!

以前、たまさんの会で見たときは『犬の目』をやられていたし、末廣亭では『英会話』をやったりと、多才かつ奇才な昇輔さん。

鯉朝師匠譲りの不思議に可愛らしい雰囲気と、客席から心配されるほどの毒っ気を放つマクラもご愛嬌。独特の雰囲気が癖になる素敵な噺家さんである。

演目の「しずか」も、映画「カイジ」を彷彿とさせる設定でありながら、度肝を抜かれる特大ミッションが主人公に与えられる。それを拒絶する主人公のツッコミぶりがとても面白い。随所に仕掛けられた小ネタが爆発していく気持ち良さ。

真打になる頃には、特定のコアなファンに絶大なる人気を得ているのではないかと思うほど、緻密かつ大胆なネタの光る素晴らしい一席だった。

 

 三遊亭小笑 くっしゃみ講釈

三番手は小笑さん。いやー、凄いっす。

 

桂伸べえ 片棒

2017年の深夜寄席以来のトリを務める伸べえさん。森野照葉 激推し!の噺家さんである。

このブログの読者であれば、僕が何度か伸べえさんの記事で2017年深夜寄席、伝説の『宿屋の仇討ち』について語っていることはご存知だと思う。その時に受けた衝撃以上の衝撃を私はまだ受けたことがない。それほどに衝撃の『宿屋の仇討ち』だった。

今も常に私の心にあるのは、これである。

 

 伸べえさんが

 落語をやったら

 あの演目は

 どうなっちゃうんだろう!!!???

 

この強烈な思いに、私は突き動かされている。

それほどに、伸べえさんの落語は、どれも伸べえさん印なのだ。

そして、その伸べえさん印の付いた落語が、私はたまらなく好きなのである。

というか、あの『宿屋の仇討ち』を見て以来、ずっと伸べえさんを追いかけているのだが、一度として「つまらなかった」ということが無い。

100回中100回、全部面白い噺家さんなのである。そんな人いる?と読者は疑問に思うかも知れないが、いるのである。それが私にとって伸べえさんなのである。

そして、2020年、久しぶりに深夜寄席でトリを取った伸べえさんは、とてもとてもたくましくなっていた。

たくましくなっていたのだ。

力強くなっていて、芯がガチッと固まってきて、2017年の頃から、さらにさらに自分を磨き上げてきて、面白さが突き抜けている。

なんていうか、活き活きしてる。

凄く、活き活きしているのだ。

伸べえさんを含めて、深夜寄席に出ている噺家さんはみんな、

進化の化身なのだと思った。

進化の速度は、それぞれ違うけれど、

それぞれに、自分らしさを見つけて、そこをとことんまで伸ばし続けている。

高座に上がって絶句する人もいれば、圧巻の人情噺をする人もいたり、大爆笑を巻き起こして去っていく人もいれば、出世譚を語って拍手喝采で幕の締まる光景を眺める人もいる。

新宿末廣亭深夜寄席には、人知れず進化を続ける噺家さんたちがいるのだ。

そして、末廣亭に入るお客様というのは、そんな進化の過程にある若き才能を見て笑ったり、泣いたりする。

なんて素晴らしい場所なんだろう。

人それぞれ、応援したい噺家さんや、自分の胸を打つ噺家さんは異なるだろう。

私にとっては、桂伸べえさんの姿が胸を打つのである。

面白いし、振り切れているし、力強くなって、自分らしさを一つも欠かすことなく、むしろ自分らしさを全開に押し出している。

涙が出てくるくらいに、全力でぶつかっていく伸べえさん。

カッコイイなぁ。

片棒に出てくる主人が、自分の息子に弔いの様子を聞く場面。

本当なら、父親が死んで葬儀をどうするかなんて、縁起でも無い話なんだけれど、

息子たちの振り切れっぷりもさることながら、伸べえさんが畳み掛けるように言葉を放って、時折、自分を突っ込みながらも、一所懸命に語り姿が面白いし、胸を打つ。

あんなに腹を抱えて笑えるのは、桂伸べえさんだけだ。

凄いのだ。

本当に、凄いのだ。

伸べえさんを見ていると、いつも面白くて面白くて、誇らしいのである。

自分らしくあることの素晴らしさを知るのである。

伸べえさんは、自分らしくあることの意味をとても良く分かっている気がする。

詳しく書くのもどうかと思うので止めておくけど、本当に凄い噺家さんである。

大笑いして、腹が捩れて、寄席を出ると不思議と心が癒されている。

伸べえさんの高座を見る度に、なんだか勇気というわけではないんだけど、

生きる力っていうか、なんて言えばいいんだろう、

良くわかないけど、「生きてるっていいなぁ!」って思える。

生きているから、死んだときのことも話せるのだ。

で、自分の死んだときの葬儀を語られる主人が、とても嬉しそうなのだ。

優しいのだ。

伸べえさんの落語は、見ている人が優しくなれる落語だ。

高座で今まさに起きていることに、リアルタイムで突っ込んでいく伸べえさん。

思わず身を乗り出して、お客が話に引き込まれてしまう天性のフラ。

絶対に、凄い噺家になるよ、伸べえさんは。

もう既に、気づいてる人たちもたくさんいる。

これからも、見続けますよ!伸べえさん。

進化の化身の凄まじい進化を見た一夜でした。

いやー、本当に凄いぜ、深夜寄席

笑顔のために生きる~2020年1月24日 文菊寄席~

 私の信条は

『毎日を笑って過ごす』ことだ。

 

 公園の茶トラ猫

「おぎゃあ」と生まれてから墓地に収まるまでの間に、一体どれだけの時間を幸福に過ごすことが出来るのかと考えてみれば、自分の心次第であるという結論に達するのだが、自分の心というものは始終落ち着きがなく、あちらこちらへ行って想像が付かないので、結局分からないままに過ごしている。

時折、まるで鳥が餌を見つけたかのように、幸福を啄むことがある。啄んでいる間は幸福で、しばらく食べ物が消化されているうちも幸福であるのだが、再び空腹がやってくると幸福を感じなくなるのだから困ったものである。人も同じで、自分の好きなことや楽しいことを体験している間は幸福を感じ、またその後に思い出を反芻することも幸福なのだか、自分の嫌なことや、何もしないでいると、途端に幸福を感じなくなる。

人それぞれ、何に幸福を感じるかというのは異なるのだということを、公園を散歩しながらぼんやりと考えていた。

嬉しいことや幸福が続くと、ついつい浮かれてしまう。幸福が人を馬鹿にするのか、馬鹿が幸福なのか、それは分からない。でも確実に、幸福なときは馬鹿になっている気がする。我を忘れていると思う。何かを体験しているときに、一瞬光った最初の熱に心をじりじりと焦がされて、気がつけば我を忘れて夢中になっているということが多々ある。理性が動きを止めて、本能が行動を始める瞬間、きっと私は馬鹿になっている。というか、理性が動いているときは人間で、理性が停止したときは動物なのかも知れない。

そう考えると、私は人間である時間が長く、動物である時間が短いのかも知れない。さらには、人間であるときは様々な物事に悩んだり考えたりしてストレスを感じるが、動物であるときはそういうことから解放されて、思う存分、雄たけびをあげているのかも知れない。

すっかり葉も落ちて、心なしか頼りない曇り空を眺めながら、冷たいコンクリートが漂わせる雨の匂いを嗅ぎつつ、ぼんやりと景色を眺める。

すぐ傍の横断歩道をランドセルを背負った小学生たちが群れになって歩いている。みな、高い声でワーワーと何か楽しそうに話しながら笑顔である。まっすぐに手を挙げて横断歩道を渡っていた。それを見ていた私は、一体何を背負っているのだろうか。小学生はランドセルを背負うが、大人になればもっと背負うものが増えてくる。責任であろうか、誇りであろうか、その他様々なものを背負わなければならなくなる。段々と重くなっていく子泣き爺でもあるまいに、次第次第に背負うものが重くなっていく。どこかで荷を降ろそうにも、そう簡単に降ろさせてはくれない厄介な荷物である。

小学生が横断歩道を渡るときに手を挙げるのは、自分の背が低く、運転席にいる運転手に見えない可能性があるからである。大人になって背が伸びれば、容易に運転席からは視認できる。だが、社会に出ると、幾ら手を高くあげても見てもらえない時だってある。ともすれば気づかれないまま車に轢かれてしまうことだってある。私だって、誰かがあげた手を、正しく視認できるか自信が無い。気がつけば、悲愴な表情を浮かべながら手をあげていた大人が、心の手をあげていた大人が、虚無へと続く朝のホームへと落下していく。それを轢く電車の車掌は、視認できる筈も無いまま死人を作る。

ちょうど、公園を一周したところで一匹の猫にあった。茶トラの猫だった。落ちた枯れ葉と同化するように、茶トラはぼんやりと景色を眺めていた。

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猫は、とかく、かわいい猫は、革命家である。革命家の言葉や姿は、それを聴いた人々の心を打ち、人々は思い思いに言葉で革命を語り始める。たった一言だけでも、ほんの些細な佇まいでも、革命家は人を熱狂させる。

ここに、一匹の革命家がいて、私に言葉をくれたのである。

「君の歩むその道には、多くの木がそびえたつ。君はその木を時に切り落としたり、ときにぶつかったり、ときに避けながら歩いていく。たまに、木に登って景色を見たくなったり、或いは木とともに生きることもあるだろう。君は既に木を持っているのだ。君は木持ちなのだ。君の心の木は枯れているのかい。君の心に葉は実っていないのかい。見てごらん、ここには枯れた木も実る木もある。そして落ちた葉が景色に彩りを与えている。

無駄なものなんて、一つも無いのだよ」

じっくりと、私は革命家の背を眺めながら物思いに耽った。

公園を一周している間に、様々なことを思い出した。昔の思い出を敢えて語ることはしないが、どこかで、「大人になった」ということが心に染みてきたのだった。

公園には子供専用のアスレチックがあった。私はもうそこで遊ぶことはできない。私の身体には小さすぎるのだ。止まることの無い成長が時折、憎ましく思えることさえある。成長すればするほど実る葉は増えるが、それに伴って養わなければならない栄養も増えていくのである。今、私は正しく栄養を取れているのだろうかと不安になる。

「枯れ木に花を咲かせましょう」

そう言ったのは、花咲か爺さんである。なぜか爺さんである。そこに作者の悲哀がある気がして、僕は好きである。

では、一体、木に花を咲かせるにはどうしたら良いか。

たくさん方法はあるだろう。

きっと、笑顔だ。と私は思ったのである。

笑顔になれる場所で、満開に咲く花を私は見たいと思った。

それはとても素敵なことだろうと思ったのである。

 

 笑顔の咲く場所

一人の噺家さんをお招きして、とある会場で落語を楽しむ。今日はそのお手伝いをさせて頂いた。

色んなことが初めてだったけれど、とても貴重な体験をすることができた。

ずっと、別世界の人だと思っていた人が、すぐ目の前で静かに、高座を眺めながら、語られる物語のために言葉を放っている。噺家さんの中には、何百という物語が通った跡があって、今宵、その跡をどんな物語が通っていき、その歩く様を見ることができるのだろうかと胸を高鳴らせた。

高座が出来上がって、客席が生まれて、ああ、ここで今夜、大勢のお客様が、一人の噺家さんの物語を楽しむのだと思うと、なんだか心に様々なことが染みてきた。

素敵な花瓶に差した花が美しいように、素敵な高座に座して語られる噺家さんは何よりも美しい。ここだけの、特別な時間が流れていて、それがたまらなく心地よいのだ。

なんて素晴らしいんだろうと思うと同時に、素敵な高座を作り上げることは並大抵のことではない。予期せぬアクシデントや、言葉にはならない不満が生まれることだってあるのだ。大人になればなるほど、それは語られないままに流されて、いつしか潰えてしまいがちである。どんなことも、最初から完璧ということは無いのだということを知る。だからこそ、演者と客席が双方に、限りなく完璧に近い高座と関係でいること。もちろん、その『完璧』は人それぞれであるから難しいのだけれど、それを追い求めて、誰もが楽しめる環境を作ることが出来たら、こんなに幸せなことはない。

高座を作り上げることは技術的な話ではある。一番大切なのは『気持ち』だと思う。どんな高座でありたいか、どんな会でありたいか。目には見えないからこそ、言葉で意思疎通をはかって、目の前に具現化する。これって、物凄く難しいことなんだけれど、やっぱり『気持ち』ってとても重要だと思う。

落語は、とかく素敵な落語は、『笑顔のため』であることがとても重要な気がする。そのほかの『利益』だとか『集客』だとか、そういう所為『金儲け』の道具ではないと思う。たまに、Twitterなどでせっかく予定を入れていたのに、急にキャンセルされた噺家さんのツイートを目にすると、「なんて心無い行為をする人がいるんだ!!!」と憤慨する。もちろん、集客や利益が重要なことも分かる。でも、落語はそういうものではないと思う。そういうことを抜きにして、誰もが『笑顔のため』に生きることが、一番なんじゃないかと、私は思います。

初めてスタッフをさせて頂いて、それを強く思った。誰一人として悲しむことの無いような寄席は、多分30~40くらいが限界なんじゃないかと思う。むしろ、私はそのくらいが一番ベストである気がするのだ。

色んな人が、『笑顔のために生きている』。

終演後、会場を後にするお客様一人一人の笑顔が、とても素敵だった。普段、客席にいると味わえない感動だった。上手く言葉には出来ないのだけれど、嬉しくて嬉しくて堪らない一夜になった。

 

古今亭文菊師匠の絶品の三席。『子ほめ』、『紙入れ』、『夢金』。高座に上がる前のお姿から何から何まで、とても貴重な光景を見ることができた。

そして、今回、このような機会を頂いた主催の方々にお礼を申し上げたい。本当にありがとうございました。

今まで、客席で見ている立場から、180°、また一つ落語の楽しみ方を知ることの出来た素晴らしい一夜でした。

今日も明日も、私だけではなく、誰かの『笑顔のために生きる』。そんなことを思う、素敵な一夜だった。

その胸の奥底から沸き上がる愛を止めるな~2020年1月22日 文菊の時間~

愛とは、ひとりの男なり女なりを大勢の中から選択して、
そのほかの者を絶対に顧みないことです

レフ・トルストイ

 ドンナニコンナニ

 志賀直哉の短編に『イヅク川』という作品がある。簡単にネタバレをしてしまえば、それは「会いたい人に会いたい気持ちがあったけれど、忘れてしまった」という話で、『イヅク川』が一体どんな意味を持っているのか、人それぞれに考えが浮かび上がってくるであろう。

 とかく人というのは老若男女問わず、様々なものに目移りしやすい生き物のようで、むしろ目移りしない方が奇妙なのではないかと思えるほどである。パチンコ屋に行っても、台に座る人々は急に動くものに目を奪われたりする。

 私とて、様々なことに興味が湧き、触れては離れ、触れては離れを繰り返してきた。塵とも埃とも付かぬものが体にこびりついて、いずれ塵埃そのものが『私』なのではないかと思い始める。何になりたかったかすらも忘れ、はっきりと『何かになりたかった』という気持ちだけを抱えて生きて行くことになるのだろうか。

 生きて行くということは愛を振りまくと同時に、愛を振りまかれていくということなのかも知れない。または、愛という名の水を注いだり、注がれたりして満ちて行くのかも知れない。人は、とかく渇いた人は、『愛』と書かれた水瓶が空であると我慢が出来ず、どこかに水は無いか、愛という名の水はどこかに無いか、と探し求めてしまう生き物なのかも知れない。

 たとえ、水を注ぐ相手が汚れていようと、または清らかであろうと、『注がれて満ちる』ということに喜びを感じてさえいれば、男女問わず誰でも構わないのかも知れない。この世に愛されない生き物などおらず、また愛さない生き物もいないのだという真実に目を奪われながら、私はぼんやり新宿の街を歩いた。

今宵、たくさんの愛が、一人の噺家に注がれた。

また、たくさんの愛を注ぐ人々も、互いに一人の噺家に注ぐ愛を分け合った。

愛はまるで水のよう。沸き起こってくる泉のよう。

その胸の奥底から沸き上がる愛を止めるな。

 

 柳亭市坊 寄合酒

 開口一番は柳亭市馬師匠のお弟子さんの市坊さん。七番弟子。快活とした喋りと、溌溂のリズム。ひょろりとした表情がメリハリ良く動く。表情の緩急が面白い。私は割と『顔の速度が遅い人』が女性では好みで、見ているだけで微笑ましいのだが、それはいらない情報として、市坊さんは三三師匠を彷彿とさせるような語り。

 身長もまさかの三遊亭歌武蔵師匠越え。でもバレーボールはやっていないそうで、恵まれた体格がどのように落語に活かされるのか期待大の面白い噺家さんである。

 

古今亭文菊 長短

 物凄いアットホームな空気に包まれて登場の文菊師匠。神戸での落語会のお話から、演目は長短へ。

もはや言わずもがなの、物凄い長短。私が初めて見た長短から、もう、もう、信じられないくらい、凄まじくなっているんですよ。なんですか、この凄さは。どんだけのスピードで凄くなっているんですか、師匠。

気の短い短七さんと、気の長い長さんの掛け合い。今度は長さんののんびりっぽさに拍車がかかっていて、短七さんの愛のあるツッコミの切れ味が抜群。心地よい間が最高で、もはや至福のお噺。

酔っぱらって物凄い饒舌になっているときにはたと気づいたのですが、文菊師匠は顔芸がとても見事。普段はあんなに端正なお顔をされているのに、『茶の湯』だったり、『長短』だったり、『湯屋番』なんかは、もう信じられないほど素敵なお顔になっている。特に『湯屋番』ですよ、奥さん、『湯屋番』です。

文菊師匠の『長短』で温かさを感じたら、『湯屋番』で絶好調の若旦那を堪能していただきたい。一撃必殺で文菊師匠の魅力にハートを射抜かれること間違いなし。

東京の寄席で文菊師匠を見たら、どうか『長短』か『湯屋番』に出会えますように!

 

 古今亭文菊 文七元結

大体、マクラで聴いているだけで演目が分かってくるんです。

そうなんです。落語好きになってくるとですね、

マクラを聞いただけで「あ、あの話だ!」ってなるんですよ。

それでですね、そのマクラの段階で、謎ときが始まりまして、その謎がいよいよ確信に変わってくるときがあるじゃないですか。

ミステリーで言えば、「こいつが犯人だな、犯人だな、犯人で間違いない!」っていう瞬間があるじゃないですか。

その瞬間って、超気持ちいいと思いませんか。

あ、あの話だ!!!っていう衝撃を私は何度も味わってきてるんですけどね、

今回はですね、今まで以上の衝撃ですよ。

文菊師匠のマクラを聞き、演目が分かった瞬間、

 

 ああああっ!!!!

文七元結だぁあああああ!!!!

うわああぁあああああっ!!!!

 

全身から沸き起こってくる、得体の知れない興奮。

一秒一秒、一言一言を耳に脳に目に焼き付けていくわけですよ。

もうね、たまんないわけですよ。

奥さん、たまんないわけですよ。

特にね、佐野槌の女将さんが凄くいいの。とってもいいの。

これも酔っぱらって饒舌になったときに語ったんですけどね、

一言、一言にね、女将さんの優しさが、もうそれこそ、愛をたくさん吸ったスポンジのようにね、溢れ出しちゃってるわけですよ。

厳しくもありながら、優しくもあるの。

凄いの。なんの。南野陽子

これは聞いた人だけのお楽しみポイントにしたいので書かないんですけどね、

佐野槌の女将さんが、ものすごくいいのよ。

それでね、その後にね、吉原に身を売った娘さんがね、本当に短いんだけれど、両親を思いやる言葉を言うわけですよ。

もうね、うるうるしちゃいますわ。

うるうるん滞在記ですわ。エイエイヤイヤイオー、ウイェエエですわ。

隣の人が号泣でしてね、私ももう、うるうるうるうるですよ。チワワの瞳の潤いを越えましたわ。

でね、やっぱり文菊師匠は言葉にこだわってらっしゃる。

私には分かる。言葉、言葉、言葉。言葉に敏感な人ほど、一言一言が如何に練られているか、そして、人と成りを形作っているかが分かると思うのね。

これも酔っぱらって饒舌になってベラベラと喋ってしまいましたが、文菊師匠は齢を重ねた人達、年を取った人の語りが凄いの。滅多にやらないけど『百年目』なんてね、大旦那ですよ。もうね、凄いのよ。もうこれしか言えませんわ。

なんか酔っぱらったときに全部吐き出しちゃったので、詳細な感動はあの場だけのものにして、文章ではなんとか、興奮の様子をお伝えできればと思う。

そりゃ、文菊師匠で文七元結と来た日にはですよ、江戸の風に吹かれてブラジルまで飛んでいきますわ。リオのカーニバルどころかリオのかっぽれですわ。

そんな最高の余韻を堪能しながら、懇親会。

 

 懇親会

 

これがもう!!!

 楽しいの

 なんの!!!

 なんのぉ!!!!

 なんのぉおおお!!!

 

最近、すっかり落語後の懇親会にハマってしまいまして、酔っぱらってとめどなく落語愛を語り合う楽しさって、悪魔的な楽しさがありますよね。みんなで、素晴らしさを共有してくと、もう入れ食いかよっ!つーくらい、溢れ出る溢れ出る愛。

これもいい、あれもいい、もっといい、もっともっといい。っていうのが、どんどん溢れ出していくわけですよ。落語好きだからこそ分かる部分とか、共通して好きな噺家さんとか、めちゃくちゃ合うわけですよ。

なんて言ったらいいんですかね、両替する気持ち良さって言うんですかね。ずっと一万円を持っていた人が、急に全部100円玉にするような気持ち良さって言うんですかね。財布パンパンで重たくなるんだけど、その重さが心地よいみたいな(ちょっと意味不明かな)

もう酔いにまかせて、文菊師匠や市坊さん、お話していただいたフォロワーさんや初めての方々。もうすっごく楽しくてですね、放心状態で朝を迎えましたよ。

twitterを見ると、同じように文菊師匠の『長短』と『文七元結』にノックアウトされた人たちがいて、「だよねー、マジで、だよねー」という気持ちで楽しみました。

落語後のお酒がめちゃくちゃ楽しいので、今年はそういう機会をもっともっと増やして、オーバードーズして行こうかなと思うほどである。ハメを外しそうになるので気を付けなければならない。この記事もとても感情に溢れた記事になった。

たまにはこんな記事もいいよね。理屈じゃないんだ、愛は。

溢れちまったら仕方がない。

最高の夜でした!!!

【Day 4】畔倉重四郎 連続読み~2020年1月 神田松之丞~

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その時は知らなかった

チバユウスケ『人殺し』

第十三話 おふみ重四郎白洲の対決

テレビ番組の取材が入っているためか、昨夜の『重四郎召し捕り』をダイジェストで熱演。その後、白洲の場へと突き出された重四郎の様子が本物の悪人を感じさせる。

特に、松之丞さんの語りでは、おふみと重四郎の対比がまるで光と闇のように、絶妙の緊張感を生み出している。夫だった三五郎の言葉を信じ、たどたどしくも力強く、杭を打つかのように言葉を振り絞るおふみ。盲人の城富が憎しみを抑えながらも重四郎に言葉を発する。

だが、重四郎は微動だにしない。「証拠を出せ」と迫ったり、おふみを「狂女」と言って罵る。もはやニコニコとして誰からも慕われる大黒屋重兵衛の姿はどこにも無い。

重四郎の心には恐怖が無いのだ。たとえ白洲の場に出ようとも、一切の恐怖が無い。むしろ、自分の行動全てを誇らしく思っているかのようにさえ見える。およそ人としての常識が当てはまらず、人の命を尊んだりするという気持ちが見えて来ない。むしろ、全てのことが『俺の思いのまま』だと言わんばかりに、自分そのものを貫いていく。

清々しいほどである。ここまで振り切れた人間は面白い。重四郎の放つ闇が濃ければ濃いほど、どれだけ光を放とうとしても、おふみの思いは飲み込まれてしまう。

そして、その様子をじっと眺めながら、大岡越前は真実を見極めようとしていた。

 

第十四話 白石の働き

悪に鉄槌を下す大きな一席。前半からコミカル感満載で、特に乞食に化けた白石の姿が面白い。ここまでのお話を聞いていると、慶安太平記のような幕府転覆という壮大なスペクタルは無いにせよ、畔倉重四郎の残忍さが際立つ場面もあれば、城富やおふみの清らかさが目立つ場面もあって、なかなか飽きが来ない。そこにきて、大岡越前に仕える白石の見事な働きぶりと、とある話に仕込まれた伏線が見事に回収される秀逸な話である。

なんと言っても白石である。この一席だけで、いかに優れた部下を大岡越前が持っていたかが分かるし、何より、重四郎の前に叩きつけられた証拠、そしてそれを持ってきた白石のカッコ良さ。

この一話で、見事に畔倉重四郎の闇に一閃を走らせた白石が見事だった。

 

第十五話 奇妙院登場

重四郎に叩きつけられた証拠に対して、重四郎がどんな反応を見せたのか。深く語られることなく、話は牢屋に入った後の重四郎の話。

それほど大きな起伏は無いが、後に繋がる話とのことで、奇妙院という老人が登場する。

最終日には、奇妙院の悪事、そして重四郎の最期が語られるとのこと。

四夜目にして、あまり気合の入っていない記事になったが、それでも、十四話目がとても良かったので、満足。