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落語界の魔球 桂伸べえ 2018年6月24日

正統派と呼ばれる落語家は数多いる。が、私が思うのは「一体何が正統で、何が異端であるかというのは、観る者にしか判別できない」ということである。

同じように、芸の上手下手というのも観る者が決める。何百・何千席を見れば自ずと芸の良し悪しも分かってくるなどと言うが、私は他人の意見に左右されずに「自分が面白いもの」を求めて欲しいと思うのである。

確か柳家さん喬師匠だったと思うが、「落語家を好きになるのも結構ですが、落語そのものを好きになって頂ける方が増えることを望みます」と仰っていたことがあった。

入り口は何でもよい。落語に興味があって聴いてみた。落語家に興味があって聴いてみた。理由は千差万別、多種多様。様々な落語家がいて、様々な芸がある。その多様性を落語ファンであり、演芸ファンである私は楽しみたいと思っている。

簡単に私の落語家の正統・異端を列記すると、柳家さん喬師匠、入船亭扇辰師匠、古今亭文菊師匠、柳家小満ん師匠等は私の中では正統な古典落語家であると考えている。

古今亭寿輔師匠、三遊亭円丈師匠、三遊亭笑遊師匠、三遊亭白鳥師匠等は私の中では異端の落語家に分類される。

これらはあくまでも私の価値基準であって、決して絶対ではない。先に述べたように正統・異端は観る者が決めれば良いのであって、正統好きが異端を嫌い、異端好きが正統を嫌うことも大いに結構である。私の周りにはいないが、「こんなのは落語じゃねぇ」というお人もいるとすれば、その人は落語の楽しみ方を知らないのだと思う。

概ね、私は正統な落語家を好んで観ている。特に6月下席と8月の上席でトリを取る文菊師匠を大変好んで聴いている。江戸の風を私は文菊師匠に感じるのだ。より強い決意があれば弟子入りしたいほどである。落語に江戸の風を求めるのならば、自分が江戸の風を感じる落語家を探せばよい。そして、そのセンサーはあなた自身しか持っていないのだから、気の向くままに好きな落語家を探すことができる。

さて、前置きが長くなってしまった。正統派を愛する中で、異端派も同じくらい私は愛している。その中で、今後の期待というか、今現在の破格、無類の才能を持った落語家がいる。その人こそ、桂伸べえである。

 

桂伸司門下の二つ目の落語家で、島根県出身、朴訥としていながらどこか温かく、ほんの少しぼんやりとしたシャイな落語家である。桂伸べえを初めて観たのは、6月の深夜寄席でトリを取った時のことだった。

物凄くか細い声と病弱なのかと思うほど弱弱しい体つき、大丈夫か?この人と思って見守っていると、発された言葉のトーン、間、空気感が絶妙に面白いのだ。正直、頭からお終いまで、「こんな面白い人がいたのか!」と衝撃を受けたほどである。

トリで桂伸べえがやった演目は「宿屋の仇討ち」という大ネタである。ざっくりあらすじを述べると、宿屋に泊まった侍と粋な三人組が面白おかしく揉める噺である。

これが抜群に面白かった。なぜ面白いのかと冷静に分析をすると、私はこのネタを別の演者で何度か聞いたことがあった。桂鷹治、柳亭小痴楽、いずれも深夜寄席でトリにやったネタである。この正統(だと私が思っている)な『宿屋の仇討ち』が、桂伸べえという人を解すると、完全に異端の『宿屋の仇討ち』に様変わりするのである。

まず、想像される登場人物が全員貧弱だし、妙な間と空気感を持っており、これが一度インプットされてしまうと、怒涛の勢いで『今まで想像していた宿屋の仇討ち像』が上書きされ、『桂伸べえ印の宿屋の仇討ち』に代わるのである。

この斬新な上書きによって、終始笑いが絶えず、おそらく初めて見た人は「え?これが落語?ちょっと変ね」くらいになるだろうところを、私は「こんな落語は観たことない。最高に面白いぞ!」と鳥肌が立ったのである。

 

その後、連雀亭という辺鄙な場所にある寄席に行き、今度は『皿屋敷』を聞いた。

これも抜群に面白くて腹を抱えて笑ってしまった。桂伸べえという落語家のフィルターを通すと、こんなにも落語の噺は様変わりするのかと度肝を抜かれたのである。

 

私はそれほど伝統や習わしを大事にする人間ではないから、『落語とはこうあるべきだ!』という固定観念が無い。むしろ、そんな固定観念を持ってしまうのは少しもったいないと思う。そりゃ、面白く無いと思う芸人もたくさんいる。大事なのは、『なぜ面白くないと感じたか』を分析し、理解すれば良いだけのことである。こいつに千円払う価値は無いな、と思えば払わず、必死に追いかけて聴かなければ良いのである。

反対に、この人は最高だ!と思えばどんどんおっかけて頂きたい。それだけ、落語の間口は広い。誰からも愛され、売れる落語家がいる一方で、売れずともカルト的な人気を誇る落語家もたくさんいるのだ。

そうしたことから、私が思う桂伸べえの魅力というのは『彼にしかできない落語』が既にあるということである。彼は二つ目にして『自分にしかできない落語』をきちんと持っているのである。それを彼が理解しているのかは分からない。私としては彼らしさをこれからどんどん磨いていって欲しいと思う。

これは個人的意見だが、真打でも二つ目でも前座でも、自分にしかできない落語というものを持っている人がいる。あくまでも私がそう思うだけであって、別に誰かにとやかく言われることでもないのだが、そういう落語家を私は尊敬しているし、必死に追いかけたいと思うし、末は立派に大成してほしいと思うのである。

詰まる所、どこまで行っても落語の話はその人がやる以上、その人の話にしかならないのだが、なんというか、方向性というか、色みたいなものがくっきりと表れている人がいる。桂伸べえもその一人である。

落語会の魔球などと書いたが、私が思うにいずれは凄い落語家になるのではないかと思う。爆笑王という名を付けても良いくらいに私は思っている。

是非、あまり落語に興味の無い人、落語通と呼ばれる人にも広く知れ渡って欲しいと思う。そんな素敵な魅力のある落語家、それが桂伸べえである。