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迫真の黒い炎~講談師 神田松之丞~2018年7月23日

忘れられない講談がある。まだ人気という大嵐がやってくる前の静かな連雀亭で、神田松之丞さんが最初に出た時のことだった。

今でこそ満員が続き、チケットが取れないという肩書きが付く松之丞さん、おそらく私はその『売れ初めの前夜』に立ち会った人間と言っても良いと思う。事実、その日以降は殆ど満員の寄席に行くことになったからだ。あの時はまだ、客はまばらだったし、ぎゅうぎゅうになるほど人もいなかった。

松之丞さんの講談は渋谷らくごで数席見たことがあった。忠臣蔵ものだった。語りがとにかく凄いと思ったし、独特の目を持っている気がしたが、震えるほど凄いと思ったことはなかった。

ところが、連雀亭で見た甕割試合は震えた。自分の体の正中線の全てをカツーンと打たれたかのような、しばらく動くことの出来ない芸を見た。あの瞬間が、今もずっと神田松之丞の名演となっている。

これはもう、是非近くで体験して頂きたいと思う。今はもうあまりやらなくなってしまったのか分からないが、とにかく凄い講談だった。

何よりも劇的だったのは、最後である。甕割試合をご存じの方はきっと分かると思うのだが、これは何の前情報も無く聴いていただきたい。

気迫とか迫真という言葉が一番合うのが、今の神田松之丞だと思っている。聴き比べてみるとよくわかるのだが、話の演出力、声のトーン、間。全てがすごい。

落語であれば、似たような人はたくさんいる。特に前座・二つ目は殆ど現役で活躍している真打の劣化コピーと言ってもよいと思うし、二つ目の中でも突出して個性が出ていると感じる落語家もたくさんいる。ところが、講談には劣化コピーされた人が殆どいない。数が少ないというのもあるのだろうが、全員の個性が非常に際立っている。一人として似た人がいないというのも、講談の面白さかもしれない。

落語はその点、個性を出すのは難しい。凄い人たちが多すぎるのだ。ピラミッド方式というか、本当に凄い芸の人は頂点に僅かにいるだけで、ほとんどは似たり寄ったりなのだ。だから、わざわざ師匠のコピーをやる二つ目にはあまり心惹かれない。師匠から学びつつも自分なりに演出を変えたり、ちょっとした自分なりの言葉を追加するところに落語の変化があると私は思っている。学んだことを学んだままやっていても無駄である。自分なりの間、言葉、トーンを獲得しそうな二つ目は全力で応援したい。

さて、講談師の話に戻そう。最近の松之丞さんの怪談の語り口には鬼気迫るものがある。怪談話に引きずり込まれる語り方をするのだ。そのリズムを是非体感してほしい。凄すぎて笑いを堪えるので必死である。私は凄すぎて笑うということが良くあるのだが、松之丞さんの語りにはその凄みがあるのである。

ただ、残念なことがあるとすればお客が増えてしまったこと(笑)やっぱり少人数でやっている寄席のすばらしさというのは、他のホール落語とは全く違う良さがあるのである。これはもう、味わうのが難しくなった。

ラジオやテレビに良く出ているが、それはあくまでも二の次の仕事であって、やはり本業の講談がとにかく一番気合が入っている。いつか読者の皆さんが『甕割試合』に出会ったら是非感想を聞いてみたいと思う。

つい最近、もう人気が出まくっている神田松之丞さんの寄席を見た。お客全員の空気感が『お前を待ってたよ!』という雰囲気で満ち溢れていた。観客の私でさえそれを感じるのだから、やはり演者の松之丞も感じたようで、そういうアットホーム感を言葉にしていたし、普段よりもノッている芸をする。客が演者を育てる、場が芸を作る、そういう瞬間があった。今、松之丞さんが出ている寄席に行った方が良いと思う。売れている芸人の空気感を味わうのも一興である。

面白いものを求めて寄席に行くのも良い。ただ私は神田松之丞さんの迫真の芸を見てほしいと思う。私自身がそういう真に迫った芸を見たいと望んでいるせいかも知れない。

迫真の黒い炎を垣間見た瞬間、あなたはきっと講談の世界に足を踏み入れるだろう。だが、同時に気づく。講談の世界には誰一人として同じ色の炎を持った人間はいない。一度、神田松之丞さんの黒い炎に焼かれてしまったら、もう一度同じ炎に焼かれたいと思うようになるだろう。代えがいない世界、それが講談の炎の世界なのだ。