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自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

浪曲、テレビ業界の衰退、そして日本の終演について 2018年7月29日

風呂に入ると気分が高まり、鼻歌を歌うことが良くある。かつて、文化放送ラジオパーソナリティを務めていたサンキュータツオは、浪曲とは「鼻歌がずっと続いている感じ」と表現した。まさしく浪曲を言い当てていると思って、私はすぐにその言葉をメモした。

日常生活では、節を付けて何かを言われることは無いし、そんな風に話しかけられても怪訝な表情で返すしかない。この人、もしかして特殊な言語感覚をお持ちの異星人?とまではいかないとしても、殆ど浪曲的な会話が日常に現れることはない。同じように、オペラ好きな人がある日突然、オペラ的な口調で話しかけてきたとしたら、正直ムっとするだろうし、ちゃんと話してくれないだろうかと思ってしまう。確か『レ・ミゼラブル』という映画だったと思うのだが、全編オペラ口調での会話がなされていて、開始早々に失敗したなぁ。と思ったことがある。やはりオペラの形式における良さというものがきちんとあるし、映画には映画なりの形式の良さがあるのだと思った。

そういった形式の妙を笑いに変える落語家もいるが、今日はそれは一旦脇に置いて、現在の浪曲の何が面白いかということを語りたいと思っている。

先に書いたように、浪曲は落語や講談と違い、節が付く。なんでも受け入れる落語、勇ましさと気迫の講談、そして浪曲は『染み渡る』と形容したくなる演芸である。七五調でリズム感のある言葉とともに、何とも言い難い独特の節回しによって、脳内の点と点が線で結ばれる瞬間の感動は凄まじいものがある。落語で言えば最後のオチで感動yが来たり、講談であれば物語のラスト一歩手前で感動が現れたりするが、浪曲は節が挟み込まれる度に感動が押し寄せてくるのである。焦らされているという訳ではないが、節回しを追っていくと滲み出るように言葉が沸き起こってくるのである。

冒頭に引用した言葉は三原佐知子氏の『三味線やくざ』の冒頭の節である。ただ普通に読んでも格好の良さが何となく感じられるのだが、三原氏の節回しが付くことによって一層深みが出てくる。おそらくは、その節回しの緩急、間が聞く者に様々な補足情報を促している、すなわち考える隙間を十分に与えることによって、感動を増幅させているのだと私は思う。

例として、相手から何かをお願いされたとする。「〇〇君、これお願いね」と言われたときに、5秒の間があってから「はい、わかりました」と言うのと、すぐに「はい、わかりました」と言うのとでは、お願いした相手が受ける印象は異なる。5秒の間が相手に「あれ?このお願いごと、嫌なのかな?」とか「何か思うことがあったのかな?」という印象を与える危険性がある。間とはそれだけ重要だと私は思う。

他にも強調したい部分を声量を変えたり、トーンを変えたりすることで相手に伝える手法があるが、浪曲の場合はそれが節に現れてくると言って良い。きちんと伝えたいことや、物語の性質上、最も盛り上がるところなどは節回しが強調される。

浪曲には忘れてはならない存在がもう一つある。それは物語の語り手である浪曲師の対となる存在、曲師の存在である。浪曲が落語や講談と大きく違うのは、この曲師の存在である。曲師とは三味線を弾き、物語の合いの手を打つ存在である。全編を通して即興で三味線を弾き、物語の緩急や浪曲師のリズムに合わせてその場で音を鳴らす。曲師の存在は物語を引き立てる上でとても重要になってくるし、浪曲師、さらには物語の筋を大きく彩るために必須な存在なのである。言ってしまえば、バンドのドラマー的な存在であり、ドラマーのいないバンドには二つの意味でドラマは無く、浪曲師に曲師がいなければ単なる流浪の存在になってしまうのである(洒落)。

浪曲師と曲師、この二つの存在によって成り立つ浪曲は、どちらが優れているとか、劣っているという優劣の差は一切ない。浪曲師は物語を進め、節回しをするし、曲師は浪曲師の進行に合わせて三味線を弾く。決まりきった楽譜は無く、その時、その場のリズムというものがあって、お互いに奇跡的な調和があれば名演と呼ばれるし、今いち気分が乗らずとも形として成立するのである。私はその瞬間にしかない芸の素晴らしさにひかれているし、何よりも上手な浪曲師は第一声の迫力が違う。突き抜けていくような声にはただただ圧倒されるばかりだし、曲師の絶妙な間で繰り出される三味線の音色や声などを聴くと気分が高揚する。楽曲とは異なり浪曲としか言いようのない拍、メロディ、そして何よりも語り継がれてきた物語がある。一過性のヒットソングにも確かに魅力はある。だが、今の私が最も興味を惹かれるのは、日本人本来の性分に根付いたものである。それが浪曲にはある。

時代を曲が彩るのだとすれば、私は今の時代を彩る曲に興味が無くなってしまった。そもそもテレビが無いから音楽番組も見ないし、そういった情報も意識的に求めないようになった。何よりも今の音楽には知性を感じなくなってしまったのである。誰もが秋元康の詩に感動するわけではない。誰もが美男美女に惹かれるわけではない。私は私が感じた知性あるものを追い求めていきたいのである。それが、落語であり、講談であり、浪曲なのだ。

浪曲師と言えば、あまりメディアには取り上げられていないが、優れた方々がたくさんいる。私が考えるにテレビは日本の演芸を取り入れなければ廃れていく。漫才やコントばかりがお笑いではないのだということを伝えなければならない。その使命に気づいていないのか、それとも何かしらの事情があって伝えていないのか、それは分からない。唯一風穴を開けた神田松之丞を突破口として、テレビ制作に関わる多くの人々がもっと日本の演芸に興味を持ったら、テレビは再び面白いものになっていくだろう。

汚いものは見せない。クレームには素直に従う。スポンサーには気を遣う。そういう忖度番組に心惹かれる人間は今後少なくなっていくし、いずれは絶滅するだろう。時代は『自分の好きなものを、好きなときに、好きなだけ見れる時代』に移り変わっていく。さて、それに気が付くころにはテレビは終わりを迎えているだろうか。

話が浪曲から現代のテレビ論に着地したが、かつてテレビっ子だった私の今の行動を客観的に見ても、それだけテレビはつまらなくなったのだ。もしかすると前に書いたかもしれないが、面白いのはせいぜいダウンタウンの番組と明石家さんまのお笑い向上委員会くらいのもので、それ以外はもう牛のフンも同然であるのだが、なぜか時代は牛のフンの方が人気があるようである。

そうだ、一つ余談を。

この前の休みに秋葉原駅の周辺を歩いていると、まるで電線にとまった鳥の群れのように、多くの人々がスマホを片手に椅子やガードレールや、至る所に突っ立っていた。人差し指を何やら素早く上下に動かしている。ちらっと画面が見えたのだが、どうやら『ポケモンGO』をやっているようだった。ざっと見て100人以上の人々がいたのだが、それを見た時の私の感想は『日本、終わったな』である。

気づいていないだけで、人々の知性は退化していると思うし、知らないことが簡単に知れるようになった世界で、知らないことを求める好奇心みたいなものが徐々に失われ、考える力も失われ、語彙も失われ、「やばい」とか「マンジー」とか、「すげぇ」とかの言葉であらゆる芸術が片付けられる時代になるのかもしれない。

かくいう私も、そうなってしまう恐怖に晒されている。考え続けるべきなのは、常に自分自身に対してである。自分がどうあるべきか、それが重要なのだ。

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