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寄席における録音行為について 2018年8月8日

Twitterで話題になっている『落語会の録音』行為について、落語ファンとして書かずにはいられないので、書いておく。

録音技術の向上によって、誰もが簡単に録音が出来る環境になってしまった。ICレコーダーなどを持ってライブ会場に行く人間も多々いる。非常に腹立たしいというか、演者に対して失礼である。

先の引用は柳家小ゑん師匠がマクラで良く語られているお話である。この注意喚起はとても重要で、寄席に存在する芸泥棒を駆逐するためのマクラである。

 

どう記せば落語会、寄席における録音行為が違法であるとわかって頂けるか、今回の記事はそこに重点をおいて考えていきたいと思う。

まず第一に、落語会・寄席における録音行為は著作権法で罰則が決まっている。

 第一一九条 著作権、出版権又は著作隣接権を侵害した者(第三十条第一項(第百二条第一項において準用する場合を含む。第三項において同じ。)に定める私的使用の目的をもつて自ら著作物若しくは実演等の複製を行つた者、第百十三条第三項の規定により著作権若しくは著作隣接権(同条第四項の規定により著作隣接権とみなされる権利を含む。第百二十条の二第三号において同じ。)を侵害する行為とみなされる行為を行つた者、第百十三条第五項の規定により著作権若しくは著作隣接権を侵害する行為とみなされる行為を行つた者又は次項第三号若しくは第四号に掲げる者を除く。)は、十年以下の懲役若しくは千万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する。 出典:著作権法

要するに私的使用の目的で実演等の複製(すなわち録音)を行ったものは罰則を受ける。と書くと、常識のある方は理解して頂けるだろうと思う。

ところが、中には落語を変に自分に都合よく解釈する人間がいる。落語には泥棒が物を盗んだって許されるんだ、俺の録音行為だって大目に見て許すのが落語だろう。という人が出てくるかもしれない。だが、そういう人が語る落語は落語ではない。単なる自己正当化に用いられたものであって、落語の中の泥棒は許されても、現実世界の泥棒は許されないのである。なぜならきちんと罰則が決まっているし、許さない人間がいるからである。きっと録音をする人は『居残り佐平次』とか『出来心』を引き合いに出して許しを請うだろうけれど、それは想像力が間違った方向に進んでいる。取り締まる方はあなたの人柄も能力も知らないし評価していないし、そもそも録音は禁止と言っているのに録音するのだから、そういう規則を守れない人は罰を受けなければならない。

まず第一に著作権法について述べ、第二に落語を引き合いに出しても許されないことを述べた。それでもまだ録音する人間の全てを納得させることは出来ない。次に上がる問題は『テレビとかラジオの録音と何が違うんだ。一緒じゃないか。だから俺が録音しようが問題ない』という人である。

まず大前提として『寄席における録音は禁止』がアナウンスされている。これがそもそも理解できない人間がいるから、録音する人間が出てくるのである。なぜ悪いかを理解しないならまだしも、勝手に録音行為を正当化するから質が悪い。

寄席の落語家が演じる話がテレビやラジオと決定的に違うのは、録音を落語家が了承していないということである。テレビやラジオなどは必ず撮影機材・録音機材がある。そうした機材が用意されていることを演者が認識し、発言や演目がどのように視聴者に向けて発信されているか、テレビやラジオに関わる人々はそれをきちんと認識している。だから、台本もきちんとあるし、編集さんが放送に不適切な場面はカットすることが出来る。

テレビやラジオが開かれたメディアであるのに対して、寄席や落語会は閉じられたメディアなのである。電波にも乗らず、どこかに発信されることを目的とせず、その場、その瞬間、その人たちだけに向けられたもの。それが落語会、寄席なのである。だからこそ木戸銭を支払って入場するのである。垂れ流しの無料放送とは根本的に考えが異なっているのである。録音をする人はここを考え違いしているのだと推測する。

だったら東京に行けない地方の人はどうなるんだ、地方の人が楽しめるように東京開催の落語を録音して、聞かせろ!と傲慢な人が出てくるかもしれない。はっきりと申し上げるが、そういう人には東京に来るか、地方で落語家が会をやる時に行ってくださいとしか言いようがない。落語家の体は一つである。境遇を恨んで違法な録音に銭を支払って楽しむよりも、東京に出て生で落語を聞く喜びを知ってほしい。東京の常連達とは別の角度から楽しむことが出来るはずである。

 

真に考えてほしい。自分の人生が生まれてから死ぬまで一秒も余すところなく、録音・録画されているとしたらどう思うだろう。確か漫画で『走馬灯株式会社』というものがあったが、あの漫画のように自分の人生がディスクに収められ、たくさんのコピーがあり、見知らぬ人が自分の人生を売り買いしていたらどう思うだろう。

落語家の演目を録音する人は、そんなことをされても受け入れられるのだろうか。私は受け入れられないと思う。

今一度、想像力を働かせてほしいと切に願う。

 

地位、名声を得るために録音をする人。

自らの金銭目的のために録音をする人。

何度も繰り返し素晴らしい芸を聞くために録音する人。

 

気持ちは純粋かもしれないが、それは間違った行為なのである。

きちんと製品化されたものを買って楽しんでいただきたい。

それが、真に落語を楽しむ人間のあるべき姿である。

こう書いていると、「うるさい。良い芸に出会えなかった僻みじゃないか。俺は良い芸を自分だけの宝として楽しみたいんだ。だから録音するんだ。自分だけで楽しむんだ!」という人も出てくるだろうと思う。甘い。甘すぎる。そんなものじゃないのだ、落語というものは。それは、僻みでもなんでもない。生の芸の素晴らしき感動をすり減らす行為でしか無いのだ。二度と出会えないからこそ、胸にとどめるものがある。

立川談志だって、落語は一期一会だと言っている。そうなのだ。その一瞬にしか、そのわずかな時間にしか存在していないものなのだ、落語とは。演芸とは。

録音されたものに、その輝きは無い。はっきりと断言できる。

もしも、それでもまだ録音をするという人がいるのならば、その人は一生、落語そのものを楽しめずに終わっていく。これは断言できる。そういう後ろめたさ、罪の意識を屁とも思わない人は、もはや落語を楽しめなくなった人なのである。

だから、もしもこれから落語を聞きたくて寄席に行く人は、決して録音行為は止めてほしい。絶対にやらないでほしい。その行為とセットで覚えた芸ほどつまらなく、愚かなものは無いのだから。

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