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オーストラ・マコンドー 『ありがたみをわかりながら死ね』~いつも届かずに離れていってしまうものへ~2018年9月2日

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ありがたみをわかりながら死ね 

 

 

いつ、どんな時に、どんなところから自分の行動が選択されるかなんて、皆目見当が付かない。出会いに必然と偶然があるとすれば、私が知った情報から行動を起こし、そしてその選択の先に待ち構えていたものに出会ったのは、間違いなく必然と呼んで良いだろうと思う。

今回も、そんな必然から私は演劇を見ることを決意した。Twitterでいつフォローしたかも分からない『清水みさと』という人が、『オーストラ・マコンドー』という劇団で、『ありがたみをわかりながら死ね』という芝居をやる。その情報を最初に目にしたとき、パッと芝居の題名が心に引っかかった。疑問がまず浮かんだのだ。

 

一体何の『ありがたみをわかりながら死ね』ばいいんだろう。

 

それだけで、観たいという理由には十分だった。たった三人しか役者が出ないというのも気になったし、そもそもどんな芝居なのかも全く分からない。いかんせん初心者だから、劇団の凄さも、役者の凄さも、演劇の楽しみ方も何も知らない。この『何も知らない』という状況が私は好きだ。理由は単純に知るための余白がたくさんあるから。そして、私は自分が目で見て聞いたものしか評価をしたくないし、外部からの余計な情報を完全に遮断して『自分がどう感じたか』を表現することが演芸について語ることの意味だと感じているから、そういう意味では私はまず観よう、そこから判断しようと思ったのだ。

 

8月26日の午前中は、神田連雀亭で玉川太福さんを見るためだけに行った。勿論、寸分たがわず最高だった。そこから、殆ど何も期待せずに下北沢に向かった。

 

下北沢という街も初めてだった。少々雑多だし色んなカルチャーがぽつりぽつりとある街だという先入観はあった。まだ下北沢が正直どんな街なのか分からないけれど、『小劇場 楽園』は確かに存在していた。

私は普段、落語、講談、浪曲ばかり聴いている。だから、客層もかなり年齢が高くて、みんなほっこりと安らかな表情をした方々が多い。色んな芸能の楽しみの一つとして、観客の表情をぼんやりと見るのも良いと思う。と言うのは、まるで顔の雰囲気が違うからだ。私の勝手な思い込みだとは思うのだが、関東人と関西人の顔つきが異なるように、もっと言えばアメリカ人と日本人の顔が違うように、落語や講談や浪曲、音楽のジャンル、そういう様々な分野において、その分野を好む人の顔付き、面相というものはまるで違う。全体の雰囲気が全然違うのだ。そして、分野によって面相にはある種の共通点があるのである。これは本当に私個人がそう思うだけであって、他の人がどう感じているかは分からない。おそらく、憧れの対象になりたいと思うが故に、そこに近づこうとする気持ちが働いて、そういう面相になるのではないかと思う。

では、演劇を鑑賞する人々の顔つきはどんなものだったのか。これが実はかなり分かりづらい。面相が違うと書いているくせに分かりづらいとはどういうことかとお叱りを受けるかも知れないが、意外にも(?)四十代のおじさんが多かった。結構、推測してしまう質なので後々何となく、なぜ四十代くらいのおじさんが多かったのか判明するのだが、女性もちらほらと見え、何かを感じようとする熱心な面相の人が多いように感じられた。何せ3000円以上払って2時間の演劇を鑑賞しようとしているのだから、中途半端なものであったら二度と見るか!となりかねないものだと思う。値段と演劇の質は必ずしも一致しないが、映画館で2時間1800円、レンタルになれば200円前後で2時間の映画が楽しめる時代に、3800円で2時間の演劇を見ることには、やはりある程度の価値が無ければならないと思っている。私はつまらないものは語りたくも無い質なので、そういう意味で観客の鑑賞の態度は落語に比べれば強気だと思う。500円の連雀亭ならば「どうぞ、好きなように思う存分やってごらんなさい」という態度で見られるものが、3800円になると「しょーもないもの見せたら二度と見ないぞ」に様変わりするのだから、つくづくお金は怖いものだと思う。

 

余談だが、会場前に配られたトランプカードの意味が最初、私は分からなかった。いらぬ推測をして、まさか観客参加型の何かをやるのだろうかと思った。ところが会場と同時に、カードが整理番号を表していたのだと気づく。そんな説明はどこにも無かったので、内心、かなり苛立ったのだが、まぁ、そこは初心者の不幸ということで水に流した。

 

さて、いよいよ劇が始まる。これ以降はかなりのネタバレを含む。といっても、この記事がアップされるのは公演終了後なのでネタバレも何も無い。もちろん、全て私の記憶によるものだから、多少の間違いや改編された記憶があるかも知れない。そこはどうかご容赦頂きたい。演劇を見たものがどう感じたのか、そのエッセンスを感じ取っていただければ幸いである。

会場に入って着席すると、まず四角形の舞台に砂が敷き詰められた床がある。これは海辺の浜を表しているのだとわかる。椅子と缶ジュースが8本。木の枝が置かれている。全てがこの舞台で繰り広げられるのかと想像する。

余談だが、開演前に流れているBGMが良かった。私の好きなオールディーズが流れていた。オールディーズを流す店に外れ無し。朝の松屋と強い親近感を覚えたが、先のカードが整理番号だったことにまだ苛々していたので、ちょっと正常ではなかった。

ついでに、開演前に演出家の挨拶文が載った冊子を読んだ。やはりトランプカードの数字が整理番号であった件に苛々していたので、最初に読んだ瞬間は「一人よがりで気持ち悪いな」だった。さっと見て読む気が失せた。『あいつらがいなきゃ』とか『大変でした』みたいなことが書いてあって、「うるせぇ、こっちはそんなん聞きたくないわ」と思いながらすぐに読むのをやめたのだが、整理番号への苛立ちが収まって改めて読み返すと、「これくらいの強い意志が無ければ、演出家もやっていけない」という考えに変わった。自意識過剰というか、恥部を晒すというか、そういう自分の全部で勝負しなければ見る者の心を震わせることは出来ないのだと思い、冷静になって考え直し、芝居に対する期待値が高まった。私の気持ちとしては『良いものが見たい』という物凄く漠然としたかなり傲慢な意識があった。演出家も観客も互いに傲慢なのだと思った。傲慢だからこそ色々と言いたくなるのだと思った。私は最後まで見てから評価をする質なので、物語を読んで早々に『ああ、これは駄作っすね』というようなことはしない。どれだけトランプカードが整理番号を意味していたことが腹立たしいことだったとしても、その苛立ちは芝居とは無関係である。

 

芝居の評価を冒頭から判断するのは難しい。だから、開演時刻になって照明が消え、少しの間の後に照明が付いた時、スーツ姿の男二人が砂浜に存在しているという、最初のシーンの意味がまず分からなかった。髭もじゃの男(役者:カトウシンスケさん)が「銀行強盗してぇ」と言い、ガタイの良い男(役者:後藤剛範さん)が「じゃあ、ちょっとシミュレーションすっか」と言って金を盗むシミュレーションをする。iTunesカード100万円分を息子にあげるための小芝居で、会場に笑いが起こる。私はじっと見ていたし、さして笑える内容ではなかったので、この後の展開として、この二人が犯罪を犯すのだろうかと探っていると、結局髭もじゃの男が金を盗むことにシミュレーションの段階で失敗し、絶叫する。「こんなことも出来ねぇのかよ」と言ったのち、しばらくの間があって穴を掘り始める。私の記憶では冒頭のシーンは大体こんな感じである。

この冒頭のシーンについて、ここ単体で語るのはちょっと難しい。今、この記事のこの時点では『そういうことがあった』程度に記憶していればよい。

それから、これも記憶が前後するのだが、髭もじゃ男がアルクという名で、椅子に座って「傷は浅い方がいい」と何度もつぶやいたり、ガタイのいい男がツブルという名であることが分かったり、ナツという女性(役者:清水みさと)が出てきて、駅で待ち合わせをするシーンがある。最初の30分くらいで印象に残ったのは、ナツを中心にして間を開けてアルクとツブルが椅子に座るシーン。これも輪にならずに、アルクとツブルがナツに背を向けて話をしているということが、ちょっと引っかかった。仲が良ければ輪になって向かい合ったりするだろうに、何でわざわざ背を向けているのだろうと思った。そうした微妙な距離感がこの三人の関係性を表しているのだろうかと推測していると、ナツが語り始める。大体、以下のような内容。

 

「子供の頃にね、ベッドの中で凄く温かくて心地よいものを抱いて眠っていたの。そしたら、その温かいものがね、急に私の元を離れていくのが分かったの。私はそれをまた抱こうと思ったんだけど、全然掴むことが出来なくて、温かくて心地よいものがはっきりと遠くにあることが分かるの。でもね、掴めないの。後で分かったんだけど、それは私のパパだったの。パパがね、はっきりと意志を持って遠くに行くことが分かったの。必死に手を伸ばしたんだけど、もう二度とその温かいものがつかめなかったの」

 

というようなことを述べて、アルクとツブルが役に立たない感想を述べるのだが、このシーンが冒頭で妙に心に残った。何より、ナツを演じる清水みさとさんの声に不思議な魅力があるのだ。なんだか、不安を抱えていて不安定なのに、それでも確かに何かを信じている。そんな声と、何より表情。自分の中で上手く形にできない物事を必死に吐き出して伝えて、共感を得ようとする思いが滲み出ていた。話していた内容も本当にぼんやりなのだが、『手にしていたぬくもりが急にどこかに去り、そしてそのぬくもりが確かに存在していることは分かるのに、二度とそれを掴めない』ということが伝わった。これも後々効いてくる。

 

そこから、結構場面が展開していく。幼少期の無邪気なシーンが挿入される。ここも結構笑いが起こっていたのだが、演劇に超集中モードの私はどこかに伏線があるのではないかと思って一切笑わずに聞いていた。とにかくツブルの陽気さが目立ったし、どこか擦れていながらも無邪気なアルク、そしてその二人を様々な距離で見ているナツ。やっぱり女性って男より大人になるのが早いんだろうな、と思わされるシーンが多々ある。

正直、良く分からなかったのはやたらとツブルが缶ジュースを飲むシーンがあること。これは8本の缶があった時点で何かに使われるのかな、と推測していたのだが、未だに私は意味を見出すことが出来ない。缶ジュースを飲むシーンは場を繋ぐための小道具なのだろうか。これはちょっと演出家さんに聞いてみたい気もする。

 

ナツの思い出話のあと、陽気な展開が挟まれ、海を見に行こうとする三人の会話が差し込まれる。ナツがアルクとツブルの頬を掴んで「二人とも大人になりましたなぁ」と言うシーンがある。何か奇妙だなと思いつつも見続けていると、海がもう近くに迫っているという時になって、ナツが突然倒れる。これはちょっと驚く。それまでの陽気な展開から徐々に陰気な話へと向かっていく。不穏な雰囲気のまま、中学生時代の話が差し込まれる。

アルクがナツに抱き着いて色々言うシーン。ツブルが『稲中卓球部』を読みながら笑い、アルクがヤクザの女に手を出して焦るシーンが差し込まれ、パンツ一丁になってアルクとツブルがひたすらヤクザに二時間殴られながら、謝るシーンがある。もう既に私の記憶の中の時系列がぐちゃぐちゃなので、読んでいる方には申し訳が無いのだが、実際の演劇では適切な個所で、適切な順序で物事が組みあがっているのでご安心頂きたい。本当は時系列をメモしておけば良かったのだが、芝居に没頭したかったのでメモしなかった。これでは評論家失格なのだが、これはこれで断片的な感じが出て良いと思うし、いい具合に物語の全容を表現していないので、良いと思う(何が良いんだ)

そういうゴタゴタの後に、アルクの部屋でツブルが漫画を読み、くだらない話をしているところに、一枚のDVDが届く。そのDVDを見ると音声から推測するに、ナツがレイプされるシーンであることが分かる。アルクは「殺す、殺してやる」と言って、ツブルと一緒にナツをレイプした奴ら、その主犯格である婆さんを殺そうと思い立つ。どうやら、アルクがヤクザの女に手を出した結果、めんどくさいヤクザの婆さんに絡まれ、報復としてアルクと中の良かったナツがレイプされた。ということが分かる。

結局、アルクとツブルは殺害計画を実行することなく終わる。この辺りのアルクとツブルの演技は凄まじい。「何も守れねぇのかよ」というような、ナツという大事な存在を守ることが出来ず、何もできない自分に苛立つアルクの慟哭は鬼気迫っていた。

この後だったか定かではない。再び時はナツが倒れて病院に行くシーンに変わり、ナツの感情が爆発する。この辺りも鬼気迫っているし、何より清水みさとの絶叫と声が凄まじくて鳥肌が立った。アルクとツブルはデリカシーも無く死ぬとか、海を見に行こうとか、何とか不器用にナツを励まそうとするのだが、ナツは苛立って「死ね!死ね死ね死ね!もうあっち行け!出てって!出てってよ!」と叫ぶ。「なんで?海、もうすぐだったじゃん。いつもそう。あとちょっとなのに、あとちょっとのところなのに、どうしていつもこうなるの、どうして?」

このシーンも本当に絶妙なタイミングでやってくる。それをこの記事でお伝えすることが出来ないのはもどかしい。この辺りから演者の芝居に熱が籠ってくる。そして、ナツがアルクに耳打ちする。「自分が死んだら、骨を砂に埋めてほしい」とナツはアルクにお願いする。それを受け入れられないアルク。また海に行こうと決意するアルク

さらに物語は進んでいく。ナツがもうすぐ死ぬこと、三人で海を見に行けなかったこと。幼少時代の夢と希望が叶わずに消えていったこと、何も守れなかったこと、色んなものがあとちょっとで届かないことが続いて、後半、ナツが一人で語り始める。

このシーンは、心が痛む。清水みさとの声、表情、動作。全てがその残酷さを表現していた。塾帰りに黒い車が突然現れ、婆さんに「あんた、アルクの友達だね?」と言われ、ナツは「違います」と言ったけれど、見知らぬ男たちに暴行され、森に連れて行かれ、レイプされたこと。その表現、その表情、その言葉、全てが心を深く抉る。ナツの感情が爆発して「私はその時、本気で心の底から、殺してやりたいと思った」という絶叫。そして、その強烈な感情の後に、「私は生きる。そんなことをされて、生きることは大変だから、耐え忍んで生きることは大変だから、私は生きて、生きてやる」と噛み締めるように言う。ところがすでに観客はナツが若くして死ぬことを知っている。その対比。中学生の頃にレイプされたナツの生きるという決意と、もう死が迫り「なんで?どうして?」と慟哭したナツが、この瞬間に観客の中に生まれる。そして、照明が明るくなり、再びナツを挟んでアルクとツブルが話すシーンになる。くだらないことで言い争いになるアルクとツブルに向かって、ナツは「ちょっと、ちょっと待って。ねぇ、聞いて。聞いてよ、我が友、よ」という。この瞬間、ぶわあっと込み上げてくるものがあって、私の目から涙がこぼれたことをはっきりと覚えている。大人になったナツは、過去の体験を背負いながらも生きていたこと。そして、もうすぐ死ぬことになるのだという事実。その儚さ。無情さ。それでも必死に、笑顔で二人に向かってナツは言うのだ。「ねぇ、記録してほしいんだ。海でさ、皆で騒いでさ。色んなことをするの。その思い出を、記録したいの」と言う。

時は過ぎていく。様々な物事が起こっては消えていく。その中で忘れられずにいる物事は少ない。現に今の私だって芝居の全てを記憶しているわけではない。だが、二時間、ずっと体験をして初めて私は感じたのだ。冒頭にナツが言っていた『ぬくもりが去っていく話』が、現代のナツに繋がってくる。

 

あらゆる物事の全てが、掴んでいたけれど、いつの間にか離れて、再び掴もうとしても、そこにあることは分かるのに、二度と掴めない。

 

殆ど物語の最後に、病室にアルクとツブルがナツを訪ねてテレビと本を持ってくる。『フランケンシュタイン』とか、そんな本の中に最後、『千年後の百人一首』の一冊を見た時に、私は心が震えた。ナツに対するアルクの思いが少し見えたような気がしたのだ。何かを残したいという気持ち、それは映像でも言葉でもなんでもいい。何か形として、千年後も残るような思いも込めて、アルクは本を選んだのではないか。全部の本のタイトルが読めたら、より判断も付くだろうと思うのだけれど、少なくともアルクのちょっとした意志のようなものが垣間見えて、私はその緻密さに驚嘆した。冬になってマフラーをアルクがナツに買ってくる。なんとツブルも同じバーバリーのマフラーを買ってきて、一瞬笑いが起こるのだが、突然ナツが苦しみだし「痛い痛い痛い」と言って胸を押さえる。「大丈夫か」とアルクとツブルが心配して声をかけるのだが、痛がるナツは二人を突き放す。きっとこのシーンも同じだと思った。子供の頃は同じぬくもりを共有していた三人。それでも、ナツというぬくもりが去っていこうとするとき、アルクとツブルが手を伸ばしても、もう二度とナツのぬくもりに触れることは出来ない。おもいだしたのだが、ナツが空に向かって手を伸ばすシーンがあった。きっとこの物語に通底していることは、そういうことなのかも知れないと思った。

そして、物語は再び最初のシーンに戻る。スーツを着たアルクとツブルが喪服を着て、ナツの葬式に出たことが分かる。

アルクは色々なことを呟く。「ありがたみをわかりながら死ね」と初めて、一度だけ口にする。私はここで、遂に何に対して「ありがたみをわかりながら死ね」ば良いかが分かった。だが、それは敢えて記さないことにする。

二人はナツの骨と本を砂に埋めようとする。その儀式として、アルクとツブルはパンツ一丁で相撲を取ろうとする。一度全裸にもなる。再びパンツを履いてアルクがナツに向かって呟く。ここのセリフも何となく覚えているのだが、ここは敢えて記さないことにする。全てを語ることが必ずしも物語にとって良いことではないと思うからだ。

そして、二人が取り組みあうシーンで物語は終わる。音楽が流れ、舞台で演者の方が頭を下げる。あとから清水みさとが出てきたとき、彼女の泣きそうな表情が印象に残った。

 

例えば芝居の感想に、凄い芝居だった。とすることは簡単だ。でも、私はどうしても言葉を費やしたかった。それが野暮だとしても、私は私なりに物語を消化するために、言葉を費やしたかった。そして、それをネットに公開することで、まだ演劇を見たことが無い方や、『ありがたみをわかりながら死ね』という芝居が確かにあったこと、そして、それに対して私が何を感じたかということを記しておきたいと思った。そうすることが、私にとって必然の行為だからだ。

演者の三人は月並みな言葉だが、凄まじいものがあった。三人とも初見だったのだけれど、普段たくさんの落語家を見ている自分からすると、やはり役者らしいという印象である。面相もそうだし、言葉の一つ一つの言い方を聞いても、役者とはそういうものなのだろうという、当然ながら落語家とは異なる間と言葉の発し方を持っていた。そして何より、清水みさとという強烈な役者がいたからこそ、この物語は成立したのだと思う。清水みさとの役は清水みさと以外有り得なかったと思う。何より声の質、表情に特別な何かがあるのだ。それを何となく垣間見た気がした。

後になって、清水みさとがグラビアアイドルだったと聞いた時、妙に40代のおじさんが多かったのは、そのせいかとも思った。私は正直、グラビアアイドルだったことを後で知ったので、正直驚いた。あの演技力、声、表情、役者になって間違いないと私は思った。別に昨今のテレビ業界、映画業界を批判するつもりはないが、ああいう表情や声を出せる人は中々いないと思う。だから、テレビや映画には彼女のような不思議な力強さを持った役者をどんどん表に出してほしいと思うし、適切に評価してあげてほしいとも思う。と私が書いたところで、もう既に確固たる評価を得ているのかも知れないが、とにかくすさまじい演技だった。演劇初体験にして彼女のような特異な声と表情を持った人に出会えたのは幸運かも知れない。

カトウシンスケさんや後藤剛範さんについても、コミカルな表情や演技が多かったように思う。もっとシリアスな表情を見たいと思った。どこか抜けている感じも良いのだけれども、まぁ、そこは観る者の好みということでご了承いただきたい。

 

『 ありがたみをわかりながら死ね』、このタイトルに興味を惹かれて見た芝居。私は間違っていなかったと思う。限られた期間でしか公演されていないという希少さもあるが、演劇の強さのようなものを垣間見たと思う。と言っても、私はまだ演劇に関してはズブの素人である。どの役者が素晴らしいとか、どの劇団が素晴らしいとか、そういうことは全く知らない。だからこそ、今日の、この演劇を基準として様々な演劇に触れていきたいと思った。演劇は実に面白い。というか、ずっと書いてきたが、演劇という表現が適切かどうかは分からない。でも、それでもいいと思う。私は私なりに今の段階で思ったことを書いていきたいと思っているから、そこはそのまま行こうと思う。

 

演劇が終わって、小劇場 楽園を出たとき、随分と外は暑かった。17時を過ぎていたし、まだ心と頭が痺れていて、というか、久しぶりにかなりの集中力で物語を見ていたので、かなり疲れた。そう、演劇はかなり体力を使うものだということに気づいた。座布団に座って話をする演芸と比べると、演劇は飛び回ったり転がったりととにかく全身で表現をする。逆に言えば落語よりも想像力を働かせる必要は少なくなる分、自分と合わない演劇だったら地獄だっただろうなと思う。そういうことを含めると、私は正しく自分に合った演劇に出会ったのだと言える。やはりこれは必然だったのだと思う。

価値観を揺さぶられるほどのものではないけれど、何か人生を過ごす中で思い返す瞬間がある演劇だったと思う。色んなものごとに対して、私は今日みた演劇を思い出すだろうという微かな予感がある。同時に、私もそういったものを生み出してみたいという思いに駆られる。今は様々な物事を評価し、言葉にし、私の言葉で記事を書いている。いずれは私も生み出す側に行きたい。

世間では、『ヤバみ』とか『つらみ』とかいうらしいが、私の中では『ありがたみ』が一番しっくりくるし、正しい。

最後に一言だけ、ありがたみをわかりながら死ぬって想像すると、かなり幸福なことだと思う。だってそれまでの人生の一つとして憎まずに死んでいくのだから。様々な物事のありがたみをわかって死んだ先に、何が待っているのか。それはまだまだ分からないけれど、いつかそれが分かったとき、私は何を思うのだろう。

そして、ありがたみをわかりながら死んでいった人たちはどれだけいるのだろう。そんなことを考えながら、電車に揺られ私は下北沢を後にした。