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その二人、歳を足して150歳。激渋の味~2018年10月20日 お江戸日本橋亭 三遊亭円丈 柳亭小燕枝~

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前座なんですけど、マクラ喋りましてね

 

皆さん、インスタご存知ですか!?

 

いいんだ、今日はそういう日なんだ

 

 途中で分かんなくなっちゃってね

 

午前中の空模様は晴れて過ごしやすく、散歩をするには丁度良い日和だ。ぶらぶらと時間を過ごしていると、午後は一転雲行きが怪しくなってきた。傘など準備していないから急な雨は困るなと思って近場の喫茶店で雨宿り。明け方の快晴が嘘のように風が冷たく肌寒い。街ゆく人々も温かい恰好をしている者が多く、何やら眉間に皺を寄せて歩く丸眼鏡のご婦人や、驚いた様子で目をぎょろりとさせている紳士が見受けられる。人間の陰と陽、天気の晴れと曇り、喜怒哀楽。それらの変わりゆくさまを見ているかのような風景の中で、私は一人風邪を引いて鼻をすすってだらしがない。

今週に入ってからどうにも体の調子が悪く、いささか鼻のあたりがむず痒いなと思っていると、布団から目覚める時に体に気だるさが残っている。とろりとしたとろろのような生暖かい物質が、私の中でじんわりとたゆたって鼻の方へと進行し、ずるずると二つの穴から出て行くような心持ちになって、とうとう私も死ぬのか、などと思い悩む。私はそれなりに極端な思考を、特に病の時に持つ質であり、良い時はとことん良い気分、悪い時はとことん悪い気分になりたいという願望があるらしく、今日まで至ってネガティブであり、もはやこれまでか、という気分ではあるのだが、それではどうにもあらゆることに対して憎たらしさが解消できぬので、死にかけの老人でも見てやろうと思い立ち、お江戸日本橋亭に行くことに決めた。

会のタイトルは、

 

『第6回 落語ぬう ふたり合わせて150歳!会 三遊亭円丈 柳亭小燕枝』

 

意外な組み合わせだと思った。ポスターの画像がクールである。円丈師匠と言えば現代における新作落語のパイオニア三遊亭圓朝が今に続く名作古典落語の祖だとすれば、これから何十年と先に古典となるであろう作品を生み出した、名作新作落語の祖である(書いててよくわかんないけど)

そこに来て柳亭小燕枝師匠である。寄席ではお馴染みの渋い芸を見せてくれる落語家で、地味な語り口の中にどこかぽやっとした優しい雰囲気がある。若い頃なぞはスマートで、さぞ女を泣かせただろうなとは思うのだが、そういう破天荒さやモテっぷりを一切出さない、実に素朴な落語家である。寄席でしか見たことが無いので、大ネタをやる時はどんな感じなのだろうと気になった。

二人は事前にネタ出しをしており、円丈師匠が『居残り佐平次』、小燕枝師匠が『猫の災難』である。渋いなぁ、と思う反面、円丈師匠が古典をやるというので、少し興味が湧いた。と言っても、大ネタの時の円丈師匠は見台を置き、そこに台本を置くというスタイルで、私は『朗読落語』と勝手に読んでいる。恐らく、今回も朗読落語になるであろうという予想はしていたのだが、それでも本寸法は他で聞けるし、文菊師匠で一度聞いているから問題ないだろうということで、入場した。

 

私が入る前から既にポツリポツリと雨が降ってきていた。お客の入りとしては50名ほどである。さすがにキャパ100名のお江戸日本橋亭は埋まらない。だが、集まっているのは生粋の落語マニアだと私は勝手に思っている。余程の落語好きでなければ、円丈師匠、小燕枝師匠を知っている人は少ないし、わざわざ聞きに行こうとまで思う人はいないのではないか、というのが私の見解である。円丈師匠と言えば『グリコ少年』で人気絶頂を極めた落語家であり、今でも落語に臨む姿勢は凄まじいものがあると思っている。風邪気味の私には丁度良い姿勢である。記憶力が衰え、固有名詞を覚えることが出来ず、台本に縋りつきながら、それでも落語をやることを辞めない姿勢。もはや落語という枠からはみ出して、「あれ?朗読?」と思ったとしても、その思ったことさえ恥となるような、落語への愛を貫く円丈師匠の意志。きっと、その姿に惚れ込み、円丈師匠の今を応援したいという方々が集っていたのだと私は思っている。私は風邪だったので、少しでも死にそうな老人を見て元気を出したかった。ただそれだけである(照れ隠し)

入場前は場内にセックス・ピストルズの曲が流れていて、パンク色を押し出しているのか何なのか、落語の前に何を示唆しているのかよくわからなかった。誰がどんな意図で選曲したのかは分からないが、新作落語を作る円丈師匠の、古典への反骨精神の現れなのか?と邪推した。そこからはいつものお囃子が始まって前座が出てくる。

開口一番は三遊亭あおもりさん。顔つきは怖いが声は良し。表情はまだ硬いし、口調は良いが心が籠っていない感じ。随所にオリジナルのくすぐりを挟むところはさすが白鳥門下と言ったところ。前座という身分だからまだ抑え気味ではあるが、きっと二つ目になってから新作を開花させるのではないかという期待はある。それでも何か特別に光るものはまだ感じない。やった演目は『強情灸』。私としてはまだ心が籠っていない感じだけど、「ハートに火をつけて~」からの「ジム・モリソンかよ」のくだりは笑った。ドアーズ好きなのね。

マクラで円丈師匠がまだ楽屋入りしていないということで、お次は急遽の三遊亭ふう丈さん。円丈門下の新作派である。ビリケンさんが大人になったかのような顔つき、とにかくパワフルで明るい。私は『ライザップ寿限無』を聞いたことがある。なんでしょうね、生真面目でパワフルでビリケン顔という感じ。ネタは好き嫌いが分かれますね。演目は『インスタ婆エ』。うーん、登場人物の70歳の婆ちゃん感が私には微妙でした。イイネ!を稲!にするくだりも、う、う、うーん。新作派の世界の難しさを改めて思った一席。

お待ちかねの柳亭小燕枝師匠。出てきた途端に空気がじんわりと変わるのも素敵ですが、小さん師匠の思い出話はさらに素敵でした。思い出話を語るときの落語家の表情は一見の価値があると思う。同じ時を過ごした名人の傍にいて、それを今に生きて語ることの出来る弟子の凄さ。たとえ名人と世間から言われなくとも、自分が惚れて入った世界で、惚れた師匠と過ごした時間というものは、何物にも代えがたいものなのだなぁ、とつくづく思う。そう考えると、次の名人と呼ばれる落語家さんたちにも、その名人の生きた伝説を語り継ぐ弟子の存在が望まれる。弟子のおこぼれ話を一落語ファンとして聞いてみたいと思うのは、少し欲張り過ぎであろうか。

今より時代がおおらかだった頃は、破天荒、型破り、アウトサイダー、放蕩野郎なんて腐るほどいたと思うのだが、そういう人々に対する憧れというものを、現代の人々は持っているのではないかと思ったりもする。その思いが強まれば強まるほど、ふとした瞬間に箍が外れると、一気にドバっと抑えていた思いを解き放つ人間もいる。つくづく人というものは業の深い生き物だなと思うのだが、それはまた別の話。

ネタ出しの『猫の災難』。随所に小燕枝師匠らしい粋な言葉が挟み込まれる。本物の飲んべえのような文蔵師匠のものを聞いたことがあり、それと比べると飲んべえらしさは劣るが、酒を飲んでしまった熊さんの表情、特に目の焦点が定まらない感じが良かった。それほど強い脚色をすることなく、あくまでも古典の世界を忠実に再現していく小燕枝師匠の落語は、小さん師匠の落語を見たことが無くても、きっとこういう感じなのだろうなぁという雰囲気が伝わってくる。

その最たるものがさん喬師匠や小三治師匠なのだろうと思う。さん喬師匠に至っては物凄い気品である。落語の気品と呼ぶべきその佇まい、所作、声質、間。全てが「これぞ!」という感じで、特に『時そば』を聞くと度肝を抜かれる。蕎麦の啜り方がとんでもなくお上手で、素人がお上手と表現することさえおこがましい上手さなのである。

反対に小三治師匠は自らの野生っぽさを推し進めてきた人だと思う。これはもはや柳家に共通する独特の雰囲気なのだが、新宿末廣亭然り、鈴本演芸場然り、後ろの扉やら、座布団の周りの木材から、じんわり、じんわりと漂ってくるような芸を私は感じるのである。それはもはや自然の温かみと表現して適切かは分からないが、そのぬくもりのようなものが、柳家の落語家さんからは感じられるのである。そのぬくもりを陽気に、素朴にやっているのが小三治師匠だと思う。「ようこそおいでくださいました」という一言に凝縮された、自らの家に友人を招いて話をするかのような感覚。スペイン語で『ミ・カサ・エス・ス・カサ』という言葉があるのだが、気楽にしてくださいね、という意味と同時に、直訳すると『私の家はあなたの家』という意味がある。すなわち、柳家の落語家さんは、一瞬で『私の家はあなたの家』という雰囲気を醸し出すことが出来ると私は思っている。と言っても、それは全てでは無いけれども。

さて、小燕枝師匠に話を戻そう。『猫の災難』の話の詳細は他に任せるとして、下手な脚色をしない小燕枝師匠の演じ方は、それだけ客に想像を抱かせる余地を与える。自分だったら熊さんのことをどう思うだろうとか、兄貴分はどんな気持ちで酒や魚を買いに行っているんだろうとか、そういう様々なことを想像していると、熊さんの駄目っぷりや、兄貴分の懐の深さ、そしてオチにおける猫への思い。それらがじんわりと染み込むように入ってくるのだ。派手であればあるほど良いという風潮も確かに一理あるし、私も嫌いなわけではない。だが時々、こういう派手ではないけれども、じんわりと染み込む地味な落語も聞きたくなる。濃い味よりも薄味を好むことと同じである。

じんわりとした落語の後で、お次は遅れてやってきた円丈師匠。見台にたくさんパンフレットやらを乗せ、小脇に便せんを抱えて登場。演目は『ろっきぃ&みっきぃ』とあるが、内容は犬の写真や古いポスターや、真打昇進時の文章をしたためた紙など、お宝(?)揃いのプレゼント大会。それが終わって仲入り

 

仲入り後は5分間の対談。小燕枝師匠が外国人と付き合っていたという話でおしまい。いいねぇ、モテる男は国籍を超えるんですね。

 

トリは三遊亭円丈師匠でネタ出しの『居残り佐平次』。予想通り見台には台本(笑)最初は順調に上下を振り分けてやっていたのだが、途中からアベコベになり、最後はほぼ朗読状態。どうしても台本を読むと間が狂うなぁ、というのが私の印象である。だが、そんなことはどうでもいいのである。小燕枝師匠の『猫の災難』でのセリフで「そうなっちゃったんだから、今日はそういう日なんだ」と言って酒を飲むシーンがあるが、まさに円丈師匠の落語にはそういう部分がある。客席では退屈して大きな欠伸をされている方がいて、思いっきり「かぁあふぅううーーー」とか分かりやす過ぎる欠伸をする者もいたが、円丈師匠の姿勢そのものに感銘を受けている私にとっては、朗読など些細なことであって、大切なことは落語に挑む円丈師匠の姿を見ることなのである。

不思議な気持ちであると思う。私は客席の一人一人に聞いてみたい気持ちになった。「なぜあなたは円丈師匠を見ようと思ったのですか?」と聞いてみたくなった。でも、ここは物書き。想像するのみである。きっと、昔から大好きで追っている人もいれば、喬太郎師匠やそのほかの新作を作る落語家さんから知って好きになった人もいるだろう。今を生きる新作落語の祖として、最後まで見届けようという熱心な方々がいたのだろうと私は思っている。かくいう私も、そんな円丈師匠に惹かれ、そして小燕枝師匠の新たな一面に触れ、寄席が面白くなるだろうと思ったので聞きに行ったのだ。

寄席で知った落語家を気になって追った後、再び寄席を見ると感慨深いものがある。それは色々な角度から落語家を知ることで、よりその落語家を好きになっている自分がいるからだ。これは通の楽しみと言っても過言ではないかも知れない。何も通ぶりたいという訳ではないが、そういう楽しみ方もあるということで、機会のある方には是非オススメしたいと思う。

さて、台本による『居残り佐平次』である。円丈師匠らしいくすぐりもあり、じっと聴いていると要所要所で笑いが起こる。新作ほどのスリルは無いし、古典っぽいかと言われると疑問だけれど、そんなことは特に求めていない。円丈師匠が古典をやる。ただそれだけでいいと私は思う。

オチの後で、何度も何度も深々と頭を下げていた円丈師匠の姿が印象的だった。一時代を新作落語で極めた落語家さんが、今、古典に挑み、悪戦苦闘、もがき苦しみながらも、全てを受け入れて舞台に立ち、ウケるかもウケないかも分からない古典をやる会。その姿勢のすばらしさに、私は風邪を引きながらも胸打たれるものがあった。

決して派手で、痺れる高座では無かったかも知れない。けれど、円丈師匠、小燕枝師匠。二人の歳を足して150歳の落語家の姿。そのとてつもなく渋い味を味わって、私は感謝の気持ちしかなかった。生きて、名誉や名声がなくとも、語り継ぐべき芸と思い出があること。その全てに感謝だった。

お江戸日本橋亭を出ると雨はやんでいた。少し肌寒い風が吹いた。心はじんわり温かい。私はじんわりと心に残る思い出を抱えながら、帰路についた。

 

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