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美しき調べの中に光る魂~2018年10月27日 らくごカフェ 第82回 貞橘会~

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隅田川乗っ切りの一席でございました。

 

関西弁っていいですよねぇ

 

講談の寄席を作ろうとしているんです

 

娘の目がかっと開いて

  

天気は気持ちが良いほどの晴れ。神田神保町は大賑わいである。すずらん通りからさくら通りまで真っすぐに伸びるワゴンには、びっしりと本を詰めて店の前に立つ店主がずらり。看板には神保町ブックフェスティバルの文字。どうやらハロウィンと真っ向勝負(?)で古本の即売会をやっている様子である。

私は古書に目がない。今回は講談本を目当てに店を回ったのだが、落語の本はたくさん見つかるのだが、なかなか講談本を見つけることが出来ない。縁が無いのだなと諦めて神保町をぶらりと歩いている。今日のお目当ては一龍齋貞橘先生である。

らくごカフェに行こうとして目の前まで来て驚く。

物凄い行列なのである。

時刻は12時50分。開場は13時である。こんなに人気があって、果たして貞橘先生のところに入れるのかと恐る恐る列に並ぶ。若い人が圧倒的に多い。どういうことだ、どういうことだと混乱する。若いカップルが楽しそうに談笑しながら並んでいる。こんな人気があったら講談界の未来はとっくに明るいではないかと思っていると、私の前にいた若者たちに、一人の老人が声をかけた。

「この列は、何の列だい?」

すると、若者たちはこう答えた。

「カレー屋さんの列です」

むむむっ!カレー屋の列とな!?

驚いて看板を見る。『欧風カレー ボンディ』とある。どうやら大変に人気のカレー屋さんであるらしく、長蛇の列。なんと、貞橘会の列では無かったのである。いやはや、何ともお恥ずかしいと思いつつ、列を素通りして中へ入るとエレベータがある。あっさり5Fに着くと、左手にらくごカフェがあった。

恐らく、初めてらくごカフェに来た人は間違えるのではないかと思うほどの大変な行列が出来ているのである。普段、行列に並ぶことに慣れている私だが、あれだけの行列のある会に来てしまったとは思わなかった(ちょっと失礼)

らくごカフェに入ると、ノラ・ジョーンズの曲がかかった、いかにもカフェという感じの場所で、一瞬「あれ、こんなところでやるんだ」という驚きもある。壁には名人の色紙などがあって『他抜』の文字と絵はまさしく柳家小さん師匠の色紙である。緊張して残念ながらコーヒーを頂くことは出来なかったのだが、大変に雰囲気が良く、落語や講談をやらなくても、カフェとして十分にやっていけそうな雰囲気である。

舞台には釈台と座布団。後ろの壁か突き抜けた丸ダクトに味がある。こういうあまり外観に捉われない自由な施工は好きである。舞台右が小さな楽屋になっている様子で、カーテンで仕切られており、ちらほらと会話が聞こえた。恐らくネタ合わせをしているのである貞橘先生の声で「ここが来たら、きゃー、で、このセリフでウオー」などと聞こえて、おお、随分と綿密に打ち合わせされているんだな、と驚く。

ミュージック・テイトに比べると、やや雑な背景ではあるが、こういうこじんまりとした会には、その会なりの良さがある。連雀亭などはその最たるもので、こじんまりとした、40~50人キャパの中で楽しむには最高峰であると思う。私個人としては、大ホールで演芸を楽しむことも良いのだが、やはりこじんまりとした、お客様が少数精鋭の方がぐっと集中の度合いが増すし、より演芸を楽しみやすいと思っている。というのは、お客様の無意識の連帯感が凄いし、何より演芸を妨げるリスクが少ない。1000人の会場と20人の会場では、携帯が鳴ったり、くちゃくちゃ音を立てたりする率に大きく差があることは、感覚的にご理解いただけると思う。さらに演者の表情も見やすいし、息遣いも間近に感じられるから、言うことなしなのである。

講談好きなお客様が多い会場は心地が良い。開演前の会話でも講談が好きな方々がお話をされていて、いいなぁ、と思った。

私は講談そのものを三代目神田山陽先生で知り、生を最初に見たのは阿久鯉先生。そのとんでもなさに「講談面白い!」と思っていた最中で、神田松之丞さんの『甕割試合』を見て決定的に講談好きにさせられた(?)という経緯がある。そもそも、あまり講談には詳しくないのだが、分かってくると実に面白いものだと、恐らく誰もが思うだろう。私は特に講談の口調に惹かれている。

特に、一龍齋貞橘先生は第一に口調が良い。私はあの口調が大好きなのである。迫力がありながら決して臭くならず、それでいて一定の音階とリズムで淡々と言葉を繋いでいく。あの心地よさは是非聞いて頂くほかに筆舌に尽くしがたく、気持ちよくスッと言葉が入り込んできて情景が浮かぶ。どこか優しさを滲ませながらも、淡々とという言葉が実に良く似合う口調で、物語は紡がれていくのである。

今日、私はそんな一龍齋貞橘先生を見に来たのである。ところが、

 

未だ言葉のリズムは無くとも、その真っすぐな眼光と溢れ出る講談愛を抱えて高座にあがる一人の女性がいる。名を田辺いちか。講談の口調はまだ拙いけれど、大好きだという思いと、何よりも眼に魂が籠っている。嬉しそうに読み物の世界に身を投じ、一つ一つ噛み締めるように言葉を組んでいく姿は実に美しい。そんな開口一番の田辺いちかさん。私にとっては朝練講談会に続いて二席目の演目。

 

田辺いちか『阿部善四郎忠秋の隅田川乗切』

その眼と愛らしい登場人物の語り。冒頭、家光公と安部善四郎忠秋が剣道の練習試合をする。その描写は淡々としていながら、とてもわかりやすい。真っすぐで真面目な忠秋の姿と、試合に負けて拗ねる家光の姿。本気で戦って勝つ家光に勝つ忠秋の真面目さと、それがどうにも消化できず、試合でわざと負けた連中だけを相手にする家光の姿。この辺りは、くどい心理描写もなく、聴く者に想像を委ねてくれる。この偉い人(家光)に接待名目で勝ちを譲らず、たとえ相手が偉くとも自分に嘘偽りなく生きる忠秋の姿が胸を打つ。この辺りの描写が凄く素敵で、その説明しすぎない感じがとても良かった。忠秋を認める大久保彦左衛門の言葉、真面目な人にはそれを認めてくれる人がいるのだという分かりやすい構図。そして、濁流の隅田川を渡る者はおらぬかという家光の言葉に、誰もが怯む中で一番槍の如く濁流に馬を走らせる忠秋の姿。そこで家光が忠秋を認めるシーンなどは、おじさん泣いちゃう。

さらに渡り切った後、忠秋は向こう岸で何やら騒いでいる家光やその家来を見て、「ああ、しまった。しくじった」と思って再び濁流を渡って戻ってくるシーン。これも笑えて泣ける。こんないい話があるなんて、講談もたまんねぇなぁ。とひしひしと思った。浪曲では「きっとここで節だな」という場面が、講談はクールに言葉で持ってさらりと幕を閉じる。

私の中で大好きな演目になった『隅田川乗っ切り』。まさか、開口一番で泣かされるとは思わなかったのだが、あのいちかさんの声と、眼で持って紡がれていく物語には、胸を打たれた。今、松之丞さんは講談の認知に一役買っているが、そのバックに控えている講談師の凄さたるや、何か巨大な運命の流れの中にあるかの如く、次々と素晴らしい講談師がいるのである。もちろん、素晴らしい講談師の土台には、素晴らしい講談そのものがある。

余談であるが、私は落語・講談・浪曲も全て同じ割合で好きである。落語は演者の人口が多く、それだけ好きな落語家も多い。多様性を獲得し、様々なニーズに対応できる者達が多い落語界に比べると、講談会は大スター松之丞が牽引しているが、落語ほどニーズに対応できる講談師は多くない。何より、今の若い層に近い年齢の講談師が圧倒的に少ない。それはいずれ、空前の講談ブームによって補填されるであろうと予測はできる。さらに深刻なのは浪曲界であると思う。今や玉川太福さんと玉川奈々福さんという二人以外に若い層に即急できる存在がいないと私は思っている。例えば、国本武春師匠や玉川福太郎師匠が生きていたら、まだ浪曲界の未来は明るかったと思う。ところが、木馬亭に行っても殆どがベテランの高年齢な方々ばかり。もちろん、澤孝子師匠や富士琴美師匠、天中軒雲月師匠、東家浦太郎師匠など、名人は存在しているのだが、渋すぎて次世代の若い層には理解が難しい。浪曲界へと誘う若きスターとして、玉川のお二人がご活躍されているが、まだまだ認知はこれからというところである。

さて、前置きが長くなり、大きく脱線したが、お次はお目当て貞橘先生

 

一龍齋貞橘『赤穂義士銘々伝より 杉野十平次俵星玄蕃

黒紋付きで飄々と舞台に上がり、上方のマクラから先日の貞水先生の独演会の話題。浪曲の方では有名だが、講談ではあまり演じられていない杉野十平次という人の話。そば屋の話で笑いを誘いながら、十平次と玄蕃の二人の運命が実に見事に表現されていた。

笑いを小さく挟みながらも、その声と表情で緩急を付ける貞橘先生の姿はとてもカッコイイ。少しお茶目でふざけ過ぎてしまう嫌いもあるが、それでも真剣に物語を読み進める時の声と口調には迫力がある。心地よさの中に二人の心模様が現れ、特に吉良の付け人に玄蕃がなるのか、というところから、十平次が内蔵助に相談する様なども、実に現実味があるというか、その慌てぶりも実に見事である。親しい人と争いたくないという気持ちの現れに胸が打たれた。もうこの会、胸を打たれっぱなしである。

最後はさらりと語って下がっていく。クールな貞橘先生。もっと見たい、と思ったところでお次。

 

旭堂小南陵『碁石

お初の小南陵さん。キリリとした目と張りのある声。大阪のおばちゃん感のある声であるが、男性と女性の演じ分けの時のために、敢えてそういう声であるのだなと思う。残念ながらあらすじまではあまり良く覚えていない。朝から活動していたため、眠気がピークに達していた。大変に申し訳ない。

 

一龍齋貞橘『ドラキュラ』

照明を落として電気蝋燭と電気カンテラでの一席。ブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』を題材に、ひょんなことからドラキュラ城に舞い込んだジョナサン・ハーカーの話。この辺りはさすが講談といったところで、夏の寄席で松鯉先生がやっているような、照明と怪談話を見事にマッチさせた物語。少々子供だまし感はあれど、わき役のいちかさんの効果も相まって、実に面白い話になっていた。コミカルに演じつつも描写力はさすが。これ、連続物でやってもいいじゃないか(笑)と思うほど、素敵なお話。

ハロウィンということもあっての一席。凄く良かった。最後はヴァン・ヘルシングも出てきてドラキュラ退治へと続くといったところで、仲入り。

 

一龍齋貞橘『鼓ヶ滝』

仲入り後は青い着物に着替えて登場。西行の話から滝の話に触れる。冒頭からの言葉の選択が抜群で、ありありと頭の中に映像を思い浮かべることが出来る。何より、西行がなぜ坊主になったかという描写、自らの歌人としての才能を過信する西行の有様が実に良い。松之丞さんの場合は、鼓ヶ滝の位置、そこから西行という坊主の歌人としての慢心でさらりと流すのだが、貞橘先生の丁寧な人物描写から、より西行という人物の気性が浮き彫りになって、ぐっと西行への親近感が増した。

まさかのドラキュラと若干光景が被りつつも、今度は日本の古めかしいあばら家を表現。この辺りを丁寧にじっくりと描写していくところもさることながら、語りのリズムと声の調子が実に良い。松之丞さんとの比較では、この辺りの描写も割とあっさりしている。少々笑いを挟みつつスススッと進む感じがあるが、貞橘先生の場合はこの辺りの描写も言葉を費やす。これは省略の美学をとるか、型の美学を取るかの問題であると思う。もうこれをどう表現したらいいのか、まだ言葉を見つけていないのだが、貞橘先生のリズムと声に心地よさを感じながら物語を聴く。

西行の読んだ歌『伝え聞く鼓ヶ滝に来て見れば沢辺に咲きしたんぽぽの花』を読むまでに至る描写も、両者まるで違う。登場人物の声色などは、松之丞さんの方はコミカルさが強く、貞橘先生の方はしみじみとして寓話っぽい。特に最後の娘が歌を直したあとの描写、これが凄い。鮮やかに脳裏で風景が変わっていくさまが、その娘の描写で見事に表現されていて、この辺りの言葉の選択が痺れるくらいに良いのである。

 

総括すると、貞橘先生の語り口調というものに心惹かれ、またその美しい描写と所作に心を奪われ、ますます講談そのものが面白くなってきた。落語や浪曲など、様々な芸のエッセンスを織り交ぜて講談に昇華させる松之丞さんと比べると、地味で目立たないが、その鉄壁の講談標準を持つ貞橘先生の方が私は好みである。決して松之丞さんが優れていないとか、そういう話ではないのだが、もし講談を聴くのだとしたら、私は貞橘先生で聞きたい話が多く存在するということである。

少し貞橘先生に感じたのは、若干太福さんと芸への接し方が似ているように思ったのだ。講談と浪曲という芸に携わり、その芸に浸かりながら楽しんでいる感じ。どちらかと言えば本気感というか、気迫を全面に押し出して迫力満点の高座というよりも、じんわりじんわりと、気が付くと染み込んで芸から抜け出せなくなるような魅力を、貞橘先生と太福さんは持っているような気がするのだ。反対に、松之丞さんの講談はガツーンと来る感じ。ドカーン、ガツーンと来て、「うっひゃあ!おもしれぇ!」と興奮するのだが、じわじわとは来ない感じと言えば良いのだろうか。

とにもかくにも、素敵な講談の会だった。浪曲もそろそろ聞きたいよー(涙)

 

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