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有無を言わせぬほのぼのさ~2018年10月31日 西新宿ミュージックテイト 第十回桂伸べえ落語会~

ポケットに鍵が

 

尻に敷くって言いました

 

今日は湯呑が無いから

 

音痴?

 

そうそう、聖徳太子 

  

明け方の寒さと日暮れ頃の寒さが異なる。少し酔いたい気分だったので、ファミレスに入ると、講談談義をするカップルがいる。ちょろちょろと「松鯉先生が~」、「松之丞は~」、「枝太郎は~」という言葉が聞こえてくる。芸協談義かと思って嬉しくなる。こういう落語とか講談のことをお話しできる相手がいたり、それが日常生活のふとした瞬間に出会ったりすると、嬉しくなる。もっとたくさんの人が芸を愛し、芸人を愛し、自らの生活の糧としてくれたらなぁと思ったりもする。

大久保という駅の周辺、西新宿界隈はお洒落な雰囲気と居酒屋の雑多な雰囲気が入り混じっているような気がする。私は以前、ここで輪入道らしき人とすれ違ったことがある。街ゆく人々の恰好はハイセンスというか、どこか最先端のお洒落があるような気がする。あくまでも私の個人的な感想です。

今日のお目当ては島根が生んだ爆笑モンスター、桂伸べえさんである。連雀亭での素晴らしい『宿屋の仇討ち』の余韻を残しながらの今回である。

会場に入ると、ざっと椅子が10席。およそ私を合わせて9人はいる。予約の方が一人来られていないようで、合わせれば10人に達するというところだ。

出囃子が鳴って、伸べえさんが登場する。

 

桂伸べえ『熊の皮』

冒頭にエピソードトークがあった。銭湯でのお話である。内容は割愛。

一席目は『熊の皮』。夫婦の会話がとてもほのぼのとしている。文菊師匠や志ん陽師匠、鯉朝師匠など様々な落語家さんで見ているが、伸べえさんの『熊の皮』は夫婦の仲が不思議な繋がりで持って存在しているような感じである。色々とお願いをする奥さんと、そのお願いを聴く夫、どちらにも嫌味ったらしさというか、ちょっとした互いに対する憎らしさがあまり感じられない。というよりも、成り行きで付き合って、成り行きで生活をしているような印象である。声のトーンや間がそう感じさせるのだろうか。どことなくほのぼの系アニメに近い雰囲気で進んでいく。

『熊の皮』の内容は他に任せるとして、後半に出てくる医者もほのぼのとしている。まだ少し慣れていないのかなと思う口ぶりではあるけれども、全体的に優しくてほんわかする不思議な熊の皮だった。まだ試行錯誤の一席という感じだけれど、ここにどんな伸べえさんテイストが付加されていくのか、とても楽しみ。

 

桂伸べえ『ちりとてちん

もはや十八番?のちりとてちん。何度となくマクラのネタになっている部分で爆笑を生み出す。連雀亭での一席も凄かったけれども、アットホームな独演会特有の空気感の中で、とても楽しそうに演じられている。会場の空気がそうさせるのかも知れないのだが、伸べえさんと会場が生み出すほのぼの感が凄まじいのである。誰一人として厳しい眼で『こいつの落語ってもんを見てやるぞ!』と意気込む者がいない。むしろ、『伸べえさんが、なんかやってる』というのをただただ温かく見守っているような雰囲気があるのだ。

落語は基本的に観客との言葉による対話を行わない。座布団に座ってお話をする落語家に向かって、何か言葉を投げかけて、それに落語家が応えるということはない。観客は、落語家の言葉を受け取って思い思いに想像したり、心の中で言葉を発したりしている。

伸べえさんの落語には、この対話を言わせないほのぼのさがある。例えば一対一での会話であれば「え、何その、今の発言」とツッコミたくなるし、私も大体心の中で「その発想はどこから来るんだ」とか「ん、今の沈黙はどういうことだろ」と心の中でツッコミを入れることが多々ある。落語の形式上、落語家の発言にツッコミを入れることは他のお客さんに迷惑になるし、何より落語家のリズムを乱すことになる。

ここでハッと気が付いたのだが、寄席では落語家の語りのリズムに身を委ねると同時に、観客は会場にいるその他の客にも気を委ねているのだということに気づく。誰かが笑えば「あ、ここは笑っていいんだ」と思い、誰かが拍手をすれば「あ、ここは拍手してもいいんだ」と思う。芸は演者だけではなく、観客も作っているのだということが、何となく分かってくる。だからこそ、演者には観客を巻き込む方法というか、とにかく観客と一体になって芸を作る技術が必要になってくると思う。

そういう意味で言えば、桂伸べえさんの独演会に参加した観客は、少人数であれど、一緒に芸を作っていたと言える。あの場にいた誰もが、伸べえさんのペースを乱さず、集まった観客のペースを乱さなかった。だからこそ、伸べえさんは伸び伸びと落語をやることが出来ていたと思う。

どんな演者にも、きっと人を巻き込んで芸を作る力があるのだと思う。それは人それぞれの感覚に寄るものだから、一概に正解というものはないし、力の優劣も無い。私は、あの場所で、あの観客で、伸べえさんを見たということが素敵なことだと思う。

つくづく芸というものは一期一会だな、と思う。演者でも無いのにそう思うのは、その場に集まった観客との、『無意識の一体感』はその日、その時刻、その場所にしか存在していないからだ。

連雀亭で見た『ちりとてちん』と、ミュージックテイトで見た『ちりとてちん』はまるで異なっているように私は感じる。それは場の空気、会場の空気感がそうさせるのだと思う。一日として同じ芸など存在しない。コンピュータやAIでも決して数値が出来ない、とても不確定な様々な要素が合わさって芸は出来ているのだなと思う。

だから、ミュージックテイトで見た『ちりとてちん』には、素敵なほのぼのさを感じさせる何かがあったと思うのだ。そんなことを感じつつ仲入り。

 

桂伸べえ『棒鱈』

以前聞いた時は、全員訛っているように聞こえていたのだが、今回は田舎侍が少し訛っているように聞こえる。これも連雀亭で見たことがあるのだが、やはりミュージックテイトで見るとほのぼの感というか、伸べえさんがノってるな、という雰囲気が如実に伝わってくる。特に後半の胡椒を振りかけて喧嘩を仲裁するシーンの演出も、会場に集まったファンのためにたっぷりサービスという感じだし、そのわちゃわちゃっぷりが面白おかしい。会場の規模にもよると思うのだが、少人数の独演会というものは、演者の新たな一面を見ることが出来てとても微笑ましい。ところどころツッコミたくはなるのだが、敢えてそっとしておくことが伸べえさんにとってプラスだということを、会場の誰もが理解している感じ。有無を言わせぬほのぼのさで、終始和やかな雰囲気に包まれて『棒鱈』の一席が終わる。

このアットホーム感をもう少し味わいたいな、と思っていると、伸べえさんが「もう一席」と言う。

 

桂伸べえ『狸の札』

お馴染み狸札である。今回は高速ファンサービス・バージョンと言って良いと思う。とんとんと進んでいき、札のところでアレンジが加わっている。いいですね、そういうオリジナリティを挟んできちんと爆笑を起こすのが伸べえさんである。誰もが伸べえさんのファンである状況だから、正直『何をやっても許される感』はあった。そういう日があっても良いと思う。寄席に行くと寝る客や笑わらない客だっているのだが、独演会は真逆。全員が熱心なファンだからこそ何をやっても笑う。こういう場で、日ごろの鬱憤(溜まっているのか分からないが)を晴らして、気持ちよく高座に上がってもらいたいものだし、人目を避けてひっそりと活動なんて仰るが、自ずと晴れ舞台に上がっていくだけの力と才能を持っている落語家さんだと私は思っている。

もっともっと、その進化を追い続けたいと思う独演会だった。何度同じ演目を見ても、面白いと思える。そんな伸べえさんに、これからも期待大!

 

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