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自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

あしたのあたしへのたしかないし~2018年11月3日 吉田アミ あしたのあたし~

天気は良いが肌寒い。午前中は部屋の掃除をパパパパーンとやって、洗濯機をごいんごいん回して、ベランダにダラダラっと干している間に時間が過ぎる。だらだらと本を読みながら、めぼしい落語会も無く、寄席も最近はご無沙汰している。寄席の空気感も好きなのだが、今は行くほど目当ての落語家が顔付けされた会が無い。11月の中席に向けて準備期間といったところである。

本日の目的は、三鷹駅周辺にある『SCOOL』という会?がやっている『あしたのあたし』という芝居を見ることである。以前、オーストラ・マコンドーの『ありがたみをわかりながら死ね』という芝居の感想を書き、tweetをしたところ、その芝居の主演女優?の清水みさとさんからリツイートをいただいたので、せっかくだから見に行こうという気になり、見に行った次第である。

こういう会に行ったとしても、私はあまり女優とは面識も無く、話しかける勇気も無く、言葉を発すれば何か相手の時間を奪ってしまうような気持になるので、こうして後から文字を書くことで、そのうち目に触れれば良いのではないかな、と思っている。演劇の鑑賞としては二度目で、ワークインプログレスというから、まだ実験段階の未完成な芝居だということを承知して見に行く。

 

恒例の客層判断、おもちゃのふぢやの5階に行くと、40代の男性が圧倒的に多く、まばらに同年代の女性がいるという塩梅。若い人もいるにはいるのだがごく少数である。これは清水みさとファンも結構いるのではないかという印象を受けた。全くの邪推かもしれないけれども、どうにもそういう雰囲気を感じさせる客層であった。

前回の『ありがたみをわかりながら死ね』もそうだったのだが、演劇というものの風習なのだろうか、なぜか苛々する出来事に出くわす。16時30分に開場の筈が、開場時刻20分遅れ、開演が10分遅れる。アナウンスも雑で、せっかく並んでいるお客に配慮が無いなぁという印象を受けた。せっかくワークインプログレスという形で精いっぱいやろうと意気込んでいるのならば、もう少し会場の設営に気を張って、万全の態勢でやってほしいと思ったり、いろいろと文句は言いたいことはある。気の短い方や偏屈な人であれば、恐らく二度と観ないと思われても仕方がないのではと思ったりもする。その点、落語・講談・浪曲にあまりそういったロスは無い。長年培ったシステムというものの尊さを思い知る。

そんな中、私は椅子に着座して舞台を見る。まず驚いたのは、舞台と客席に境界が無いこと。あまりにも舞台と客席の距離が密すぎて、ちょっと戸惑った。

中央には白いテーブルが置かれ、プラスチック製のグラスや、新聞紙、花束のようなものが置かれている。テーブルの後ろには冷蔵庫(?)らしき棚があって、サッポロビールの缶やぬいぐるみが置かれている。棚の右には小型のカセットプレーヤーが置かれ、その隣には頭の無い金色の天使像が置かれてあった。壁には落書きと赤・青・緑のビニールの切れ端、地面には紙の切れ端、膨らんだ風船。少し異様だったのは物干しハンガーにベル、フォーク、星のおもちゃ、取扱注意の札があったことで、これは一体何を意味することになるのだろうという期待が高まった。

壁には時計が掛けられ、9時25分で止まっている。地面には白いブラウン管のテレビ。テーブルの脇には紀伊国屋の買い物袋。さらに異様だったのは天井に紐でつるされたシンバル。

異常な舞台設定を観察しつつ、開演時刻の10分後に突如清水みさとさんが登場。クラッカーをばら巻きながら舞台を歩く。全くどこへ向かうのか想像が付かないでいると、三宅里沙さんが傘と合羽を着て登場。そこからテクノ的なノイジーな音楽が流れ始め、清水みさとさんと三宅里沙さんが舞台をゆっくりと歩き回る。最初にばらまいたクラッカーを破裂させたり、地面の風船を踏んづけて破裂させたり、とにかく激しい音が巻き起こる出だしである。それだけで一つの芸術作品になるのではないかと思った。何かのミュージックビデオなのだろうかという印象を受ける。私なりに考えてみた結果と言えば、ノイジーな音楽と、はしゃぐ清水みさとさんと、合羽を着て傘を差しながら憂鬱そうな顔で歩く三宅里沙さんの、そのアンバランスさ、不安定さをまず第一のインパクトとして与えたかったのではないか、と思った。

破裂音とノイジーな音楽に包まれた出だしから一転、夕暮れ時と思われる場面に変わり、yuko nexus6という女優が出てくる。私個人の意見として、yuko nexus6さんに言うことがあるとすれば、書けないので、書かない。

三宅里沙さん演じる女の愚痴を聞き、yuko nexus6演じる老齢な女がアドヴァイスを送るというシーン。清水みさとは物言わず色々なものを準備する。この場面の清水みさとの立ち位置が良く掴めなかった。そのシーンに存在する妖精なのか、言葉を発することの出来ない女なのか、向かい合って語り合う三宅里沙とyuko nexus6に無視される可哀そうな女なのか。一番近いのは妖精だという気がする。三宅里沙の頭上にゴムボールをばら巻いたり、シンバルを吊っていた紐を引っ張ってシンバルを落としたり、このシーンが伝えたいことの意味がいまいち良くわからなかった。これもワークインプログレスで片づけるのだとしても、それはちょっと不親切なのではないかと思う。

舞台は唐突に暗転し、ビデオ日記なるものが始まる。まず清水みさと、次に三宅里沙と、交互にビデオ日記らしく言葉を発する。この辺りは両女優の個性が如実に表れていたように思う。

まず、清水みさとさんは圧倒的に声が魅力的である。内に抱えた不安定さを見事に滲ませた他に無い声。そして病気を患っている幸の薄そうな表情。これは誉め言葉である。前回の『ありがたみをわかりながら死ね』でも如何なく発揮されていた天性の『不幸を抱えつつ生きてます感』がスポットライトが当たるたびに発揮されている。基本的に、私が思う清水みさとさんの魅力はそこにある気がする。何をしても、どこか寂しさが付きまとう声と表情、昔何か悲しいことでもあったんだね、と思わず同情したくなるような眼差しと目線。一つ一つの言葉を発しても、そこに言いようの無い鬱屈とした感情が籠っているように感じられる。とびきり明るいキャラクターは似合わないのではないかという不幸感をどうしても拭えない感じが、また一つ個性として感じられた。

お次の三宅里沙さんは、表情が素敵である。伏し目がちな目線と、言葉のねっとりとした間。「なんていうかぁ」、「晩御飯を作りました!」という言葉のニュアンス、抑揚が良いなと思った。一見するとどこにでもいそうな女子という感じなのだが、目線と表情で個性を発揮しようとしているように見えた。冒頭のyuko nexus6との会話での表情と、ビデオ日記での表情が別人のように感じられて驚く。と同時に、yuko nexus6での会話は、愚痴を吐くには少し冗長というか、まださほど苛立っている様子が感じられず、憤りというまでの激しい感情の爆発は無かった。使えない後輩の女子に対する思いをyuko nexus6にぶつけるのだが、もっと心の奥に頑固な部分があって、それが後輩の女子と全く異なるのだという、理不尽さみたいな感情を爆発させていたとしたら、またちょっと違うと思ったのだが、その愚痴に対するyuko nexus6の間、言葉のトーンが粘っこいし、一辺倒過ぎて良い掛け合いとは思えなかった。

清水みさとさんと三宅里沙さん、交互にスポットを当てつつビデオ日記が進むのだが、これが私には冗長に感じられた。いつまで続くのだろうという飽き、これがどう結びついてくるのだろうという不安、恐らく時間的に回収されずに終わるのだろうな、という諦め。色んなものが襲ってきたところで、舞台は暗転し、壁に映像が映し出される。2003年のyuko nexus6のビデオ日記である。あまりにも感情が無く、淡々とした語り口で映像のyuko nexus6は語り、それが会場に流れる。もはや意味が分からないなと思うのだが、この映像と、つい先ほどまで清水みさとさんと三宅里沙さんのビデオ日記の演技がリンクしていたことに気づく。けれど、さほどの衝撃は無い。

内容の感想としては、良く寝るし、良く食うし、良く料理を作るな、くらいの感想しか抱かなかった。この辺りが冗長だと感じた大きな要因になっていると思う。

映像が唐突に終わって、舞台中央でyuko nexus6が語り始め、壁には肺のレントゲン写真が映し出される。目が覚めて痛みを感じ、胸のあたりにササミくらいの大きさのふくらみが出来ていることに気づく。という語りを聴く。途中、奇妙なぬいぐるみ(ホゾちゃん?)との奇妙な会話がある。これもなんだか、良く分からない。清水みさとと三宅里沙は壁に背を倒し、座って、チョコレート系のパン菓子?を食べている。何やらぼそぼそと会話しているが、内容は聞こえない。

yuko nexus6のササミほどのふくらみが胸に出来たという話の辺りで、舞台が暗転。一定の間隔を開けてノイズがスピーカーから鳴る。舞台中央から様々なものが投げつけられ、舞台がめちゃくちゃになる。この辺りで、なんとなくこの物語の主題というか、ぼんやりとしたメッセージのようなものが、私には感じられた。

 

一言で言えば、癌という抗いがたい病気に対する抵抗の意志を感じた。

 

鬱屈さ、日常の不満を吐露しながら、自らの病との付き合い方、そして、病が襲ってきた時の衝撃。それらをノイジーな音楽と、物理的な破壊で演出していたように思う。病への憤りや怒りが、最後の投げつけられた物と、めちゃくちゃに物が散乱した舞台を見て、感じることの出来た唯一のものである。女優の演技よりもむしろ、演出で衝動を表現するという点は、面白いと思った反面、あまり魅力的には感じられなかった。

 

総括すると、清水みさとの天性の魅力、そして三宅里沙さんの表情の奥に潜む不安定さ、そしてyuko nexus6が恐らく主軸にいるのであろう、病と破壊衝動。それらがワークインプログレスという未完成な舞台の中で、ほんの僅かに感じられたエッセンスとして表現されていたと思う。カンパを募っており、完成した作品としてクラウドファンディングを行い、本公演を実現しようというのだが、私は応援しようという気にまではならなかったというのが正直なところである。女優云々は抜きにして、語り部一人と破壊パフォーマンスで成り立ちそうなメッセージ性しか私には感じられなかった。

一つ発見があるとすれば、三宅里沙さんの独特の雰囲気である。清水みさとさんの持つ不安定さとは違った、どこか愛嬌を感じさせる眼差し。これが生きる物語ってどんななのだろうとか、この人が感情を剥き出しにて叫んだりしたら、どんな風何だろうとか、そういう感情の爆発に興味が湧いた。というのは、清水みさとさんの感情の爆発には、切れ味みたいなものがあって、それが凄く刺さったのだが、三宅里沙さんのはもっと、違うものがあるように思ったからである。ちょっと他の演技を見てみたいかも知れないと思う表情と間だった。

 

三鷹の街を後にして家路に着く。ワークインプログレスねぇ。と思いつつ、やはり他の完成された芝居を見てみたいという欲求に駆られる。何かオススメの演出家さんや女優はいないものでしょうか。詳しい方に教えて頂きたい次第である。

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