落語・講談・浪曲 日本演芸なんでもござれ

自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

想像の中で奔流する感情の波に飲み込まれて~2018年11月9日 渋谷らくご 立川寸志 柳家小里ん 玉川太福 古今亭文菊~

f:id:tomutomukun:20181110011923j:plain

落語の魅力は、全ての感情を網羅しているところ。

 

俺の物語に入って来い!入って来い!

 

一円あげるから帰って頂戴

 

ちょいと待ちねぇ。唐揚げにタルルルタルルル~だってぇ?

 

 うちの女房がね、言うんですよ。お前さん、今日は縞の着物だよ。

帰ってくる頃には、はっきりと縞の模様が見えるといいねって。

 

梅喜さん、梅喜さん

 

朝は少し寒く、これは一雨降るかなと思って傘を持っていたのだが、結局傘は使わずじまいで、幸運なことに雨に降られることは無かった。空を見れば雲が漂っており、私はただ今日の渋谷らくごのためだけに一日ずっとぼんやりしていた。

雲田はるこ先生がトークゲストとして出演されるという今回の渋谷らくご。残念ながらドラマはまだ見ていないのだが、漫画は全巻持っている。女性向け雑誌に連載されていたとあって、女性コミックが陳列されているコーナーに行きづらかったという思い出がある。内容はとても面白いし、とにかく弟子入りや、様々な因縁が絡み合ったりして、最後はちょっと悲しいのだけれど、いろいろ複雑なのだけれど、素敵な物語である。

そんな、渋谷らくごに行くことを決めたのは文菊師匠、そして太福さんが出るというので、一にも二にもチケットを購入した。

渋谷ユーロスペースに着くと、既に行列である。当日券だけでも50枚は出るというのだから凄い。この日は四周年記念ということもあって、記念の特別ハンドブックも購入。Pen+神田松之丞よりちょっぴりお高い(?)

会場は大入り満員である。若くて綺麗な女性からお美しい素敵な笑い皺をお持ちのご婦人方まで、幅広い美人が大勢並んでいる。それでも、年齢層は30代~40代が多いという感じで、まだまだ20代の層は少ない様子。どこにでもいる常連の方々はやっぱりいらっしゃる。

ここ最近、そこまで大入り満員の会に入ったことが無かったので、久しぶりに客席の熱気を体感したのだが、凄まじいものがあった。落語好きが落語を全く知らない人を連れて来ている様子や、熟練の落語通がしみじみと聞き入っている様子。とにかく最前列で体感したい!という方まで、客層が本当に多種多様で、普段の寄席のような雰囲気はなく、もっと若い大人の空気感は如実に漂っていた。

渋谷は若い人の街だと言うのだが、私はユーロスペースで行われているシブラクのおかげで、あまりそういったイメージは持っていない。20代よりもむしろ30代、40代にヒットしているような感覚がある。また、普通であればあまり表舞台に立って、日の目を見ることのない二つ目という身分の落語家さんが活躍できるのも、渋谷らくごの凄いところだと思っている。

私の渋谷らくご初体験は、去年のことである。その時は文菊師匠目当てで何も知らずに行って、寸志さんの幇間腹遊雀師匠の野ざらし、左談次師匠の厩火事、そして文菊師匠の死神だった。思えば、私の渋谷らくごはあれからどっぷりで、松之丞さんや鯉八さん、太福さんを知ったのも渋谷らくごのおかげだったのだ。

寄席に出てくる芸人だけが全てではないということを知って、それから二つ目の方々を追う楽しさを知った。渋谷らくごには出ていないが、個人的に大注目の桂伸べえさんがそれに該当する。たくさんの落語家さんに出会って、自分の好きな人を見つけて追う。それが落語にハマっていく大きなきっかけだったと思う。

 

話を渋谷らくごに戻そう。20時の15分前にサンキュータツオさんが登場し、その後で雲田はるこ先生が登場。漫画家さんらしい風貌で、辛子色のAMBUSHと文字の書かれた服を着ていて、とてもお美しい方で驚いた。この人が『昭和元禄落語心中』を書かれていたんだなぁと感慨に浸っていると、喋り方が芸術に接している人の喋り方で微笑ましい。何か自分の想像を上回る巨大な概念の前で、ただただ恩恵を授かるために努力を続けてきた人の喋り方である。もうこの時点で羨ましくて少し泣きそうだったのだが、サンキュータツオさんが質問をして、それに答えた雲田はるこさんの言葉が、私としては、談志師匠の「落語は人間の業の肯定」に次ぐ、名言だと思っている。

 

サンキュータツオさん「雲田さんにとって、落語の魅力とはなんですか?」

 

雲田はるこ先生「落語の魅力は、、、全ての感情を網羅しているところ」

文章では伝わりにくいと思うのだが、この言葉のトーン、テンポ。普通の語りなのに雲田はるこ先生を通すと、ずしんっと伝わってきて、思わず泣きそうになった。そうだよなぁ、本当にそうだよという気持ちがこみ上げてきたのだ。

例えば、小指を柱の角にぶつけたとする。物凄い痛いというときに、感情がもしも無かったら、それは相手にテキストとしてしか伝わらない。「痛いです。痛いです」と言葉で言うのと、文字表現で申し訳ないが感情をこめて

「痛いですっ!!!!!!痛いですっ!!!!!」

と言うのとでは、まるきり他者に伝わる印象が違う。そういう意味で、落語の演目は同じであっても、その演目には書かれていない感情を表現するのが落語家なのかも知れないと思った。雲田はるこ先生の喋り方は、決して感情表現たっぷりに、キャピキャピしているとか、もうすっごいワクワクしてウキウキなんですぅ!という感じではなく、ただただ芸術の凄さに圧倒されてしまっている人の喋り方だった。本当に凄い芸を見たときは、自分の感情を表に出すことが出来ず、ただただ感嘆の息を漏らすというか、そういう言葉にならない感情がこみ上げてくるものだと私は思っていて、そういうニュアンスに近い喋り方を雲田先生はされていたように私には感じられた。

物凄い名言だなぁと思ってうるうるしている間に、出囃子が鳴って開口一番。

 

立川寸志『野ざらし

寸志さんは口跡が素晴らしい。出だしから畳み掛けるように語り始める様は二つ目として十分に貫禄がある。マクラはさほど面白く無いにしても、耳馴染みが良くさらっとした語りが素敵な落語家さんである。こんなテンポで捲し立てるようにポンポンと進んでいく落語を聞いていると、心地が良いし気持ちが良い。野ざらし柳家小三治師匠や遊雀師匠を聞いているが、寸志さんならではのテンポとトーンが素敵である。幇間ネタに関わらず、誰かを褒めたり、羨ましがったり、調子に乗ったりする人物の感情表現が上手い。中音の効いた声の質とテンポの良い語り口は、エフェクターで言えばオーバードライブに近い。随所に挟み込まれるオリジナリティも素敵で、「ちっちゃな頃から骨好きで」や、「俺の物語に入って来い!」などのパワーワードが炸裂。聴いた後にはそれほどの余韻は残らない蕎麦みたいな落語なのだが、のどごし爽やか気持ちの良い開口一番。

 

柳家小里ん『五人廻し』

いぶし銀のボス猫。と勝手に思っている小里ん師匠が登場すると、がらりと大人の渋み、特に浅草界隈の雑多な中で揉まれた渋みが漂ってくる。小満ん師匠と小里ん師匠を聞いているとより両者の雰囲気の違いを感じられると思うのだが、どちらかと言えば小満ん師匠は洋寄りで、小里ん師匠は和寄りという感じである。

そんな生粋の和寄りの小里ん師匠の廓話も、乙だし小ネタが効いているし、ちょっとした小話も粋で面白い。うっかり聞き逃すと損をしそうな面白い小ネタが随所に挟み込まれていて、とても面白かった。

五人廻しを現代風に言ってみれば、キャバクラに行ったけど女の子が全然来てくれないで不貞腐れる客をボーイが慰める。みたいな噺である。登場人物の演じ分けが見事で、私としては三島由紀夫や麻呂系の人、田舎侍が出てきたりして、実に見事な演じ分けだったし、小里ん師匠、似合いすぎなんですよ廓話(笑)

吉原の説明のくだりにしても、吉原が無いと言っても絶対それに近いところに行ってどんちゃんやってただろうという雰囲気があるし、何より醸し出している雰囲気がもはや名人。文菊師匠が光の名人オーラなら、小里ん師匠は闇の名人オーラなんです(何を言っているんでしょう、私は)

もう小里ん師匠の世代は私の知らない言葉や知恵をたっぷり持っている世代なので、そういう知恵のエッセンス、言葉のエッセンスを味わいたかったら追うしかないです。一朝師匠や雲助師匠には無い、浅草の泥臭さと渋さを纏った小里ん師匠の落語、ハマッちゃったらやばいぞ~(笑)

粋で渋い小里ん師匠に痺れてインターバル。

 

玉川太福小江戸の二人 おかず交換』

待ってました!太ちゃん!というような感じで、もはや愛されキャラクターとして定着した太福さん。この人は見ていると人間臭くて思わず応援したくなってしまう。池袋、末廣と掛け持ちで寄席に出てきて、池袋で盛大に滑ったというマクラから、「これは夢かな?」と思ったというので、現実に戻るために小噺を披露。爆笑と拍手喝采で迎えられ、無事現実に帰還。小里ん師匠に渡された「えど」と書かれたバトンを引き継いで、地べたの二人シリーズをなんと!小江戸バージョンでやるという、物凄いレアな事態に発展。齋藤さんと金井くんがどんな感じになるのかと思いきや、これがもう冒頭から大爆笑の連続。

今日一番ウケたのは間違いなく太福さんだった。恐らく寄席で溜まった鬱憤を一気に爆発させて爆笑をかっさらいたかったのではないか。それが見事に成就した渾身の一席。ツッコミどころ満載の齋藤さんと金井くんの会話。物凄いエセ感のある江戸弁。齋藤さんが完全に森の石松になっている異常事態。口調は江戸弁なのにタルタルソースのかかった唐揚げと、シャケと皮を交換するくだりはもう、通常バージョンの10倍くらいの面白さで、これはひょっとすると小江戸バージョンに変えて全作演じても問題無いのでは?と思うくらいに面白かった。やたら巻き舌で江戸感を出そうとしている様子も面白いし、とにかく太福さんの思う江戸感を纏った齋藤さんと金井くんが面白すぎた。小里ん師匠から渡された「えどのバトン」を見事に(?)繋いだ太福さんには、会場にいた誰もが惚れたんじゃないだろうか。愛すべき下町人情を持つ玉川太福さんの渾身の一席だった。考えてみればこの前の福笑師匠ばりに会場を爆笑の渦に巻き込んでいたのではないだろうか。

余談だが、どがちゃがという読み物に『この一席!』というテーマに福笑師匠の『憧れの甲子園』が掲載されていた。あれはもう本当に凄かった。それと比肩して劣らない今日の太福さんの『小江戸の二人』。小江戸ってなんだよって思いつつも、太福さんの思う小江戸がとにかく面白いレアな一席だった。

こんなに爆笑の後で、一体どんな演目を文菊師匠は選択するのか、この辺りの演目の選択を絶対に外さないのが、文菊師匠である。かつて、立川こしら師匠、三遊亭遊雀師匠、桂三四郎さんという連続で爆笑をかっさらった後の文菊師匠にも、正直かなり緊張したのだが、見事『井戸の茶碗』で拍手喝采だった。この辺りの感覚、もう本当に超人的なんですよ、文菊師匠は。この辺りの素晴らしさも是非、読者にご理解いただきたいです。

というわけで、トリはこちら。

 

古今亭文菊『心眼』

出囃子と入場で空気を作る文菊師匠。正直、会場は爆笑モードに包まれて陽気な空気に満たされている。浪曲という派手な演芸の後で、しっとりと登場される文菊師匠のリズムは変わらない。声は本調子、リズムも本調子。撮影されているという話題からNHK放送禁止用語の噺。すぐに笑いを求めずに、じっと言葉を繋ぐ。メクラとは言わず目の不自由な方と言い換えること、びっことは言わず足の不自由な方と言い換えること、客席から感心の頷きがあった後で、親方とは言ってはいけないのだという話題を振って、じゃあどう言い換えるか、チーフってんだそうです。ここでどっと爆笑が起こる。これ、普段文菊師匠を見慣れている私はかなり緊張した。文菊師匠のすばらしさが受け入れられなかったらどうしよ、と考えたが、いらぬ心配だった。いつだって私の敬愛する文菊師匠は凄いのだ。

どっと起こった笑いの後で、「人の心ってのは分からない」というようなことを言ってから第一声「あら、梅喜さん?」で背筋を電撃が走った。「うわぁっ!心眼だぁ!」と嬉しさのあまりかっと目を見開いて背筋を伸ばした。

国立演芸場の名人会で話題になっていた『心眼』。まさかこんなところで見れるとは思ってもいなくて、ずっと文菊師匠の表情を見ていた。その表情に最初は圧倒されてしまい、危うく最初の品川くだりの話を聞き逃しそうになった。

盲目の按摩である梅喜の描写に息を飲んだ。勝新太郎の演じる座頭市のような盲目な姿が真に迫っていて驚いた。と同時に、冒頭で雲田はるこ先生が言っていた『落語の魅力は、全ての感情を網羅しているところ』という言葉が繋がってくる。ここで、私の頭の中で点と点が線で繋がった。

緻密な所作にただただ息を飲む。心眼の演目は以前、深夜寄席柳家やなぎさんのものを見たが、その時は茅場町の薬師にお参りをする梅喜にかなり力を入れており、私には演技がクサ過ぎて受付なかった。文菊師匠はその点が凄い。弟の金公に借金を頼む時の描写は、それほど灰汁が強くない。だからこそ、想像の余地があって、もう既に涙の堤防が決壊しつつある。言葉の選択も抜群で、梅喜を思いやるお竹の言葉や仕草、言葉遣い、トーンが優しさに溢れているし、悔しそうな梅喜の表情、仕草も何とも言えない悲壮感があって胸が苦しい。薬師様へのお参りも、憎らしさとかそういう感情では無い、本当に見てとれるか、とれないかの微妙なニュアンスの感情を表情で見せてくる。やなぎさんの時は完全に目を閉じていたのだが、文菊師匠の目は完全に閉じているわけではなく、やや半開きでありながら白目が僅かに見えている様子が、物凄くリアルで息を飲む。心眼の演目中、殆ど息を飲みっぱなしだった。

文菊師匠の心眼は、薬師へのお参りよりもむしろ、眼が開いた後の描写にかなりの時間を割いていた。盲目から一転、眼が見えるようになったものがどういう感情になるのか、どういう事態を引き起こすのか、その辺りの表情の変化、言葉の変化が凄すぎて、笑える場面でも一瞬笑ってもいいのか躊躇ってしまうくらいに凄かった。私としては、弟の金公に「ド盲!」と罵倒されて悔しがる梅喜の表情。薬師様に願い続けて満願の日を迎え、何度も薬師様に問いかける梅喜の表情、そして最後のシーンの表情が忘れられない。

目が開き、様々な物事を目にし、浮足立って女房のお竹を忘れ、芸者の小春を女房にするというまでの、ありとあらゆる表情、言葉、声色。その全てが私の想像の中で奔流し続け、ただただ私はそれに自ら飲み込まれていった。ああ、きっとこの表情は心の中でこう思っているに違いない、きっとこう考えているに違いない。脳内でどんどんどんどん言葉が費やされ、それまでの記憶にあったことが次々と梅喜の表情の理解にあてはめられていく中で、最後に梅喜がお竹にこう言われるシーン

 

「梅喜さん、目が見えなくてもいいのかい?」

 

そういった後の表情の変転を、私はどう表現していいか分からない。時間が止まり、私のそれまでのありとあらゆる記憶の中にある感情、表情、そのどれも当てはまらない、強烈な、表情。あれを虚無と言い表すと全く見当外れだという確信がある。とにかく、そのお竹の問いかけに対する間に、私は壮絶な梅喜の感情の様を感じ、言葉では表せない深淵を見た。

もっと言えば、それまでは自分の想像の中にある感情を当てはめ、その波に飲み込まれて梅喜を見ていたのだが、唐突に波が消えてなくなり、宇宙にぽーんと放り込まれたような感覚と言えば良いのだろうか。

お竹の質問から、梅喜がぐっとお竹の腕を握りしめ、「もう信心はやめだ」と言った後で、オチを言うまで、再び襲ってきた感情の波に猛烈な勢いで飲み込まれたと思ったら終了という事態になり、全身にずしりと重い何かがのしかかってきたみたいで、しばらくずううんと心が重たかった。人は自らの体験に無い表情を見ると、こんなに重い気持ちになるのだなと思って驚いた。

その後も、あんなに爆笑を巻き起こした太福さんが嘘だったかのように、しんみりと考えさせられる心眼に会場全体が包まれ、気持ちの切り替えに戸惑いつつ、雲田はるこ先生とサンキューさんのアフタートークを聴いていたが、正直あまり内容は覚えていない。寄席に行きましょう。ということは言っていました。

 

帰り際、白杖を持った男性と連れ添うように歩くご婦人の姿を見た。その時、再び私の想像の中で感情の波が奔流した。そして疑問が一つ浮かんだ。本当に目の不自由な人は、どんな気持ちで心眼を見たのだろうか。

考えてみれば、私は梅喜に「ド盲!食いつぶしにでも来たのか!」と叫ぶ金公の立場にいたことだってあった。それは私の中に紛れもなく存在していた弱者への配慮の無い感情だった。往々にして人は、何かに劣っている人を馬鹿にしがちである。足の不自由な者、眼の不自由な者、あらゆる障害を持った人に対して、偏見が無かったかと言えば嘘になる。今だって、もしかしたら無意識のうちに馬鹿にしている可能性だってあるのだ。そう考えてみると、心眼という演目は多くを語らず、眼の自由・不自由に左右される人間を描くことで、本当の真理とは何かを考える指標になっているのかも知れない。

そして、文菊師匠の心眼に登場する、梅喜の表情。言葉では言い表せない様々な感情が表情に現れていて、冒頭の『落語の魅力は全ての感情を網羅しているところ』という言葉の、完璧な答えになっていたと思う。これを文菊師匠が意図してやっているのかいないのかは分からない。それでも、心眼をトリでやった文菊師匠のセンスは、ありきたりな言葉で表現するとすれば、神の選択に近いと私は思っている。

ようやく噂の心眼を見ることが出来て、今日のレポも充実することができた。

総括すると、寸志さんは相変わらず気持ちの良い口跡。小里ん師匠は大人の渋みと色気たっぷり、太福さんは小江戸バージョンで爆笑を巻き起こし、文菊師匠が全ての感情を表情で表した、物凄く素晴らしい会だった。

渋谷らくご4周年。こんなに素晴らしい落語会は未来永劫続いてほしい。

もしかしたら、こんなことを言う落語ファンも出てくるかもしれない。

「もう寄席は止めだ」

「どうして?たくさん落語家が出るじゃないの」

「落語初心者ってのは、妙なもんだな。シブラクを見ているときだけ、よーく笑える」