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自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

誇りと伝統の伝承、或いは言火の移しの美しさ~2018年11月11日 渋谷らくご 春風亭昇羊 林家彦いち 古今亭志ん五 神田松之丞~

 

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松之丞さんはね、負けず嫌いなんですよ

 

池袋演芸場、18時あがり、、、んっ!?

 

小顔になりたいなぁ。

 

今日は芝居のお話を申し上げたいなぁ、なんて

 

おめでたい一席で、シブラク四周年、トリを取らせて頂きました

午前10時5分前、私はPC画面に三画面ウインドウを開いてマウスをひっしと握っている。一瞬たりとも時刻に狂いが無いことを確認し、刻一刻と迫るAM10:00に向けて神経を研ぎ澄ませる。真景累ヶ淵。じっとログイン画面をクリックしつつ、まだ受付中か、よし、まだ繋がるな、よし、ここの通し券のボタンだな、よし、よし、よし。

なぜ私は必死になっているのか。それは神田松之丞さんの新春連続読み、『慶安太平記』の通し公演のチケットがあるからである。そのチケットを得るために朝練講談会を犠牲にし、昼の落語会も犠牲にして椅子に腰かけ、卍巴と荒れ狂う精神を宥めながら、ログインして、この位置にあるボタンをクリックし、座席を指定して、買う。というシミュレーションを脳内で繰り返す。午前10時1分前。呼吸を止める。いや、それでは死ぬから呼吸をする。10時10秒前、呼吸を止める。いや、呼吸を止める必要無いから吸う。気管に入って咽る。呼吸を止めて1秒、私は真剣な目をしながら、そこから何も聞こえなくなって、星屑ロンリネス。

 

1クリック

エラー

1クリック

大変込み合っております。

1クリック

通った!

あ、この席無い・・・

あ、この席も無い・・・

え、うそ、通し公演じゃないボタン押しちゃった!

あ、あ、あ、あああああ!!!!

 

確保~

 

もはや出産に立ち会った助産師ばりの安堵感に包まれ、即座に発券。無事、通し公演のチケットを購入することが出来た。どっと疲れがやってきたので、そのまま眠ってしまった。というわけで、通し公演レポが決定いたしました!

 

目を覚ます。外より部屋の中が寒く感じるという異常事態。まさか、夢じゃないだろうな。と思いつつ机の上を確認。ちゃんとある、五枚のチケット。よし、よし、よし。ムツゴロウさん並みの愛らしさでチケットを愛でて棚にしまうと、私はいつものセットをして家を出る。今日は随分前から楽しみにしていた、シブラクで松之丞さんがトリを取る公演だ。

もはや金曜日の時点で、これ以上無い完璧なシブラクに出会っており、文菊師匠の心眼の余韻を笑遊師匠で断ち切って(失礼!)、迎えた日曜日である。既に『慶安太平記』が確定したので安堵していたが、一体どんな演目をやるのか楽しみだった。

正直に言えば、前回のトリでやった『神崎の詫び証文』は本調子では無かったというのが私の感想である。それはブログにも書いていることなので、改めて言う必要も無いが、本調子の松之丞さんの名刀村正のような切れ味鋭い高座が見れるかどうか、一期一会の高座を楽しみに渋谷へとぷらぷら散歩しつつ、向かった。

渋谷という街については、あまり良い印象を持っていない。ことさらにどこがどう悪いと書くつもりはないので、さらっと書くことにする。

JRの改札を降りて、岡本太郎作『明日の神話』を左手に見つつ、階段を上がってさらに真っすぐ進む。スターバックスや美登里などの店を横目にどんどん前へと進むと、道玄坂に出る。潰れたセブンイレブンの脇を通って路地に入ると、少し大人のムードを漂わせたホテルが幾つかあって、英語の勉強には持って来いかも知れない。TSUTAYAO-EAST?を右に見て坂を下ると、見えてきたのはユーロスペース。最初に来た頃は地図に惑わされて苦労したものだと来るたびに思う。すぐ脇のカフェ?で倉持由香さんと鈴木咲さんという女優?アイドル?が生誕祭なるものをやっている様子。こちとらピチピチ女子より脂ぎってるテカテカ男子じゃい、と、いらぬ負けん気を発揮しながら会場入り。

まず驚いたのは人の量である。一時期は本当に黒山の人だかりで大変だったのだが、どうやらその狂乱期は抜けて落ち着いた様子である。それでも物凄い人達がひしめきあっている。見れば、若い女性が多い。しかも美人。着物を着た何とも美しい佇まいの女性から、教養とファッションセンスと美貌を兼ね備えた女性まで、マダム感は無いが初々しさのある方々が多い。丁度三割くらいは若くて綺麗な女性。もう三割も落語好きな美しいご婦人方、一割常連で、二割落語が好きそうなキリリとした紳士、一割若い男子という感じである。あくまでも私の客層判断ですので、ご了承ください。

番号が呼ばれ、黒山の人だかりがぞろぞろと会場に流れるように入っていく。さながらマリモを瓶から瓶に移していくかのような様子。会場には二つ目でトリを取った人の写真が飾られており、撮影者は武藤奈緒美さんという方だという。どれも活き活きとしたものから、なぜそれを選んだ!?というものまで多種多様である。個人的には松之丞さんと小痴楽さんの写真が気に入っている。

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壁にはこれまでのシブラクに関する感想ツイートがA4の紙に印刷され、びっしりと貼られている。僭越ながら、私のツイートも発見。これを見てブログを読んでくれている方がいたら嬉しい限りである。

番号が呼ばれ、会場入り。映画館のような構造で、最初に行くと少しびっくりするかも知れない。特に寄席に慣れていた私は真っ赤なふかふかの椅子にまずびっくりした。何とも奇抜である。前三列か五列くらいは落ち着いた深い赤色なので、寄席好きはそこに座ると何となく気分が落ち着く。

着座してざっと辺りを見回す。やはり圧倒的に女性率が高い。演者のバラエティが豊かだから、色んな美人が集まるのは当然である。春風亭昇太一門は一部を除いてイケメン集団である。これはもう昇吾ないこと、おっと、しょうがないことである。結婚して順風満帆の麗しいイケメン、春風亭昇羊さんのファンは美人に決まっているし、薄、ならぬ臼顔の彦いち師匠だってプロレス好き女子(プ女)や、相撲好き女子(スー女)のような美人にモテるだろうし、志ん五師匠は田舎のぽちゃっとした女子ウケよさそうだし、チンピラ松之丞さんは金髪のイケイケギャルにモテそうだし、と、勝手な偏見と想像を膨らませながら、開演を待つ。通路にも座布団が敷かれ、お客様も大入り満員。キャパ178席にびっしりとお客様が埋め尽くされているのだから、これが映画上映ならば『トラック野郎 御意見無用』や『タイタニック』並みの大作上映である。

いつものようにキュレーターのサンキュータツオさんが場内の諸注意を伝え、次回公演等の見どころを紹介して舞台に去っていく。最初に言って置きたいのだが、アラーム付き時計も止めてほしいと思う。丁度19時くらいで松之丞さんの演目中に「ピピッ」と鳴った。私は一生恨む。嘘、今後は気を付けてください。

さて、出囃子が鳴って舞台の左上部に開口一番の演者の文字。

 

春風亭昇羊『そば清』(そばきよ、じゃなくて、そばせい)

少しくの字に曲がった角度で頭を斜に構えながら登場。着座と同時にマクラで松之丞さんの話題。さすがに空気感から『松之丞を待ってます感』を感じ取る。ご常連の松之丞ファンのご婦人もいらっしゃるし、そういう意味では非常にわかりやすい空気感。若干アウェーの空気はあるかも知れないが、松之丞さんをマクラに入れることですんなりと溶け込む。内容と言えば、結局反撃のようなクサしマクラだった。でも、愛があって素敵である。最後には「松之丞さんは負けず嫌いでストイック」とさらりと褒める。こういうクサされつつも、愛のあるクサしで返すところが、昇羊さんの後輩としてのすばらしさを引き立たせていると思う。色々と発言をしていたが、まだ松之丞さんが来ていないということで、来ていたらもっと面白くなっていたかも知れないと思うが、そんなことは露とも知らない松之丞さんも良かったので良し。

そば清は蕎麦を大量に食って家を三軒立てる清兵衛さんが主役。なんと言っても見どころは蕎麦を食べる所作だろう。私は春風亭昇太師匠の『時そば』を見たことがある。その食べ方と全く同じ食べ方を昇羊さんはされていた。ああ、やっぱり昇太さんに習って、昇太さんの芸を受け継いでいるんだなぁと思った。今日の回に通底していたのは『伝承』だったと思う。そんな僅かな伏線が既に、昇羊さんから始まっていたのだ。

蕎麦の全景を見ながら、蕎麦つゆを付け、蕎麦つゆの入っている椀を下ろすような所作で蕎麦を啜る。実に規則的な美しい所作で、きちんと背筋が伸びていて本物の蕎麦食いの所作である。基本的に蕎麦の長さは背筋をピンっと伸ばし、箸で掴んで胸辺りまで持ってくると、丁度蕎麦の端から端まで見ることができ、蕎麦つゆに付けやすい長さになっている。『そばもん』という漫画で読んだことなので正しいと思う。私は蕎麦は毛嫌いしていたのだが、今や馴染みになった蕎麦屋の味に惚れ、本格的な蕎麦好きになった経緯がある。そんな蕎麦好きに、『そばもん』はオススメである。

蕎麦を食う所作は多少大げさかも知れない。でも、少し大きな所作であることで、蕎麦を食っている様子が分かりやすくなる。まして大ホールともなると、後ろのお客様には小さい動きでは分かりずらい。私はその辺りを昇太師匠から学んでいるのだと思った。昇太師匠の『時そば』はかなり細くて長いイメージがある。是非一度、昇太師匠の『時そば』に出会ってほしいと思う。これぞ、昇太師匠の工夫の現れだときっと思うはずである。

実に見事な蕎麦の食べっぷりに思わず会場中が「早く蕎麦食べないかな」という空気に包まれる。テンポ良く進み、蛇が出てくるあたりの描写は短く的確で素晴らしい。限界まで食べた清兵衛さんの様子は見てるこっちも吐き気を催すくらいに見事だったし、オチも綺麗に決まった。さすが昇太一門である。確かなスキルを持っている。でも、まだまだ昇太師匠の影響が声やトーンやテンポ、所作にも垣間見えるから、今後どんな個性を獲得していくのか、楽しみでならない。

すっと舞台袖に下がって、お次は二番手

 

林家彦いち『反対俥』

だあっと高座に駆け上がったのは彦いち師匠。がっちりとした体格と強面の表情でありながら、マクラの話題は台所おさん師匠。私もTwitterで見て驚愕していたのだが、鈴本演芸場の千秋楽でおさん師匠が新作『プリン付き』をやった時の様子をドキュメンタリータッチで話題にする。まさかまさかの新作でトリ公演を終えたということで、昨日の様子を教えて頂いてとても嬉しかった。と同時に、台所おさん師匠、未知数過ぎる(笑)どういう心境だったんでしょうか。と思いつつ、彦いち師匠も自身の初日にシブラクでやった『つばさ』を掛けていたので、どこか共通する点があるのかも知れない。

柳家小三治師匠に次ぐ長いマクラが幕を開け、ドキュメンタリーな語りで会場を巻き込む彦いち師匠。時間は確認していなかったが、どうやらシブラクの後に池袋と末廣で高座があるらしいのだが、どう考えても間に合わない時刻に高座があるという。その無茶苦茶さもさることながら、勢いで突破する彦いち師匠のワイルドさがかっこいい。飛行機の話もドキュメンタリータッチで会場を巻き込む。いつの間にかするりと『反対俥』に入る。ここでも所作が凄い。俥をひく俥夫の様子も見事。夢花師匠のスーパーアクロバットな俥夫よろしく、物凄い大ジャンプと駆け足っぷりで、豪快な反対俥を披露する。オチは見事にマクラと繋げ、高座を物凄い勢いで去っていく。エンターテイナーだなぁと思いながら、その勢いと中立感が素敵である。普通はなかなか二つ目トリに顔付けされても嬉しいものではないと思うが、見事に会場を包み込む。決して松之丞さんを褒めるような発言をせず、ただただ自分の役目を全うする姿は、もう優秀な兵士そのものであると思う。どの亭号の会にあっても重宝されるのは、そういうお人柄もあるのではないかと思う。真っすぐで、力強くて、面白い。素敵な鬼軍曹の熱い一席でインターバル。

 

古今亭志ん五甲府い』

整形の話から、小平太師匠の顔ハメパネルの話題になり、コーヒー一杯でいいですよ。とマクラを振ってから、お馴染み『ひもじさと 寒さと恋とを比ぶれば 恥ずかしながら ひもじさが先』と言って、『甲府い』へ。

文菊師匠の感涙の人情噺と比べると、志ん五師匠は滑稽に寄っている印象。豆腐屋の旦那の人柄は、文菊師匠がやると老舗の高級豆腐屋の亭主という感じだが、志ん五師匠の豆腐屋は商店街の豆腐屋という印象である。特にひもじさからオカラに手を出す善吉に掛ける言葉の優しさの印象がまるで違う。旦那の言葉遣いが文菊師匠の演じ方は優しさに溢れていたのだが、志ん五師匠のは少しぞんざいであまり私としては好ましい感じではなかった。どんな事情でオカラに手を出したか分からない相手に対して、配慮の無い印象を受けた。善吉のひもじさも、旦那の様子や脇を固めるご婦人方も、所作も、やはりどうしても私としては文菊師匠の『甲府い』に感動してしまっており、正常な判断が出来ないと思っている。生粋の古典派と新作もやる古典派では、その差は歴然だと私は思っている。ちょっと厳しい意見になってしまうが、志ん五師匠に抱く印象はおおよそそんな感じである。

オチの後でにっこりと去っていく志ん五師匠。トリはお待ちかね。

 

神田松之丞『淀五郎』

少し猫背気味でのっそりと舞台袖から登場する様はThe 松之丞という感じで、飄々としていながら安定の話芸を披露するオーラが既に漂っている。迎える観客も気持ちが溢れて『待ってました!』と声が上がる。男性とご常連のご婦人。私は思う。いや、敢えて書くのは止す。

釈台を前に座布団に座ると、早々に眼鏡を外して辺りを見ながらマクラは山形の公演の様子。携帯が鳴っても苛々しないムードだったと語り、栃木も良かったと語り、東京で携帯鳴るとイラつくという話題で爆笑が起こる。会場の特に前列はほぼ生粋の松之丞ファンだったと言えるくらいに、爆笑の連続。翻って後方の客層はそれほど笑ってはいなかった。前列の常連、後列の初心者、中列の落語ファンという構えで、個人的には中列にこそ生粋の落語・講談ファンが潜んでいると思っている。

「芝居のお話を申し上げようかな」と発言したところで、私は「むむ、中村仲蔵かな?」と思いきや、演目は『淀五郎』。痺れる話が来たぞと思ってじっと構えて松之丞さんの話に聞き入る。

何度見ても驚愕なのは所作、声、そして間である。淀五郎が座頭の市川團蔵に抜擢指名され、浮かれた様子で舞台に上がり演じる様子がありありと目に浮かぶ。淀五郎の心情よりもむしろ淀五郎の浮かれた演技に腹を立てる脇役達の言葉、表情、間が凄まじく、外堀を埋めることで中心が引き立つという手法が実に見事。仮名手本忠臣蔵の四段目の説明や、歌舞伎の役者の階級を流暢に並べるような口調は見事。全体を通して笑い成分は少なめで、ぐっと真剣味の増した話である。

特に淀五郎が塩冶判官の役を与えられ、切腹するシーン。「お前のは腹を切る真似をしているだけだ」と言われ、大星由良助が切腹の場に来ないという酷い仕打ち。こんな屈辱を大勢の観客の眼前に晒し、困惑する淀五郎の姿が可哀想でならない。

これは、芸に携わる者全てに相通ずる痛みだと私は思っている。自分でも予期せぬ幸運から良き人に芸が評価される。思わず浮足立って「俺の芸は凄いんだ!認めてもらえるんだ!」と調子に乗っているうちに、芸の粗削りさを周りに疎まれたり、蔑まれて、気が付くと周りには応援してくれる者が無く、自分の芸にさえ疑問を抱き、やがては芸そのものから離れる決心をしてしまう。そんな、芸能の世界に突如として放り込まれた若き才能が潰える瞬間が、淀五郎の舞台でのしくじりに共通していると私は思った。

これは何も芸に限ったことではない。人はそれぞれ自分だけの力を持っている。それが思わぬところで評判になり、認めてくれる人が出てきて、少しだけホッとして浮足立つ。そんな時ほど、自分の力というものは過信しがちなのだ。かく言う私にだって、自分の力を慢心することも、したこともある。過ぎたるは及ばざるが如し。及ばざるは過ぎたるより勝りし、と、勝って兜の緒を締めるという言葉にもあるように、誰かから大きな期待や評価を受けている時ほど、自らの力を過信せず、必死に研鑽を積み重ねていかなければならない。

恐らく、私は松之丞さんはそれを誰よりも理解していると思っている。松之丞フィーバーと呼ばれるほど活気があり、講談を蘇らせた講談師という言葉に惑わされず、ただただ11年、講談の世界に身を投じ、言葉を組(冓)み、言葉の炎を燃やし続けてきた講談師、それが神田松之丞さんだと私は思っている。この辺りの話、対談させてもらえませんかね、偉い人(笑)

だからこそ、淀五郎の姿にはどうしても松之丞さんを重ねて見てしまうし、芸に携わった全ての人々の姿を見てしまうのだ。鼻っ柱を折られる淀五郎の姿は痛切に苦しく胸に迫ってくる。「お前の切腹は腹を切る真似」、「本物の刀を持って舞台に出ろ、そこで腹を斬れ。お前みたいな腹を切る真似しかできない役者は、本当に腹を切って死んだ方がマシだ」と名題に抜擢した市川團蔵に言われる淀五郎の気持ち。これは苦しくて悲しすぎる。実の親から「お前を生んだのは間違いだった」と言われるくらいの、大きすぎる絶望が淀五郎の全身を圧し潰そうとする発言である。考えてみれば、淀五郎を抜擢した市川團蔵にも役者としての誇りがあったし、それは周りの役者にもあったのだ。それを厳しい言葉で、決して悟られることなく真っすぐに淀五郎に伝える。きっと淀五郎に「本当に腹を切って死ね」と言った市川團蔵だって、心中は苦しかったはずである。本当に淀五郎が死んでしまったら、悲しみのあまり自ら命を絶ってしまったかもしれない。それくらいの強固な意志と覚悟で市川團蔵は言ったのだと思う。でも、それを決して表に出さず、本気で「死ね」と言っているような語りをする松之丞さんの語りが素晴らしい。きっと会場の誰もが思ったであろう。淀五郎、頑張れ、と。

伝統芸能の世界は厳しい。でも、そこには必ず愛があるのだ。獅子が子を千尋の谷に落とすと言う言葉通り。伝統芸能には役者の誇りと意志があるように私は思った。

芸の世界から身を引こうと死まで決意した淀五郎。一体この話のどこに救いがあるのだろうか。何度舞台に上がっても周りの楽屋雀から馬鹿にされ、観客にまで悟られるほどの無様な醜態を晒し、自分に良い役を与えてくれた師にも見放され、死ぬ為に旅に出ようと決意する淀五郎の気持ちが痛いほど胸に伝わってくる。

 

そんなとき、淀五郎を救うのは、堺屋、中村座の名役者だ。

 

パッと僅かな光が射したかのような素振りで、淀五郎は「この芝居は、中村座だ・・・」と思い詰めた様子で口にするシーンがある。そして、中村座の名役者の経緯を知る淀五郎は老齢となった中村座の名役者の元へ行く。

歴代の名役者の系譜を持たず、血の無い役者と周りから疎まれ、せっかく貰った役に憤りながらも、役を与えてくれた師の思いを汲み、悔しさと試行錯誤と、誰よりも芸を愛する気持ちで、一心に芸の工夫に心血を注ぎ、見事、相中から名題になった後世に名を残す名役者。その名こそ、

 

中村仲蔵、その人である。

 

信じた芸の道で、これ以上無いほどの恥をかき、自らの芸を捨て死を選ぶ淀五郎が、血の無い役者と馬鹿にされながらも、誰よりも芸に心血を注いだ中村仲蔵に暇乞いに行くシーン。このドラマチックな出会い、そして中村仲蔵名題になった経緯を知っているだけに、淀五郎が中村仲蔵と出会うというくだりで涙が零れ始めた。ああ、良かった。本当に良かったなぁ、淀五郎さん。と思うと同時に、同じように苦労を積み重ね、もはや名人となった老齢の中村仲蔵の姿が見えて感動した。余談だが、講談の楽しみの一つとして、別の話で主役になっていた者が、また別の話では重要な脇役になっていることがある。義士伝にしろ、寛永馬術宮本武蔵伝など、様々な物語が時を同じくして交差するシーン。これは一度味わってしまうと止められないと思う。もしも松之丞さんの中村仲蔵を聞いたことが無い人は、是非聴いて欲しい。そして、改めて淀五郎を聞くと、最初に聴いた淀五郎以上の感動が押し寄せてくるはずである。

そして、松之丞さんの語りのリズム。穏やかな仲蔵の口跡。思わず松鯉先生のお姿と重なって涙がどんどん溢れてきた。中村仲蔵は恥をかき、畜生、畜生と思いながらも工夫で持って名題になった。今、自分と同じように恥をかき、死を決意する淀五郎を見て、放っておけない気持ちになったのだろう。その仲蔵の優しさ、淀五郎の苦しみを共に分かち合おうとする姿。松之丞さんの優しい声と、穏やかなリズムと間。戸惑いながらも、仲蔵に教えられ、自分の芸に目覚める淀五郎の姿。ああ、良かった。本当に良かったねぇ、淀五郎。と思って、もう泣くしかない展開である。

そして、これも芸能に携わる人間に共通することだが、中村仲蔵のように、若い頃は恥をかいて、恥をかいて、恥をかきつづけて、名役者と呼ばれるようになった人々がいる。芸を志す者の中で、淀五郎に出てくる中村仲蔵は、芸の道を貫いてきた理想の芸人の姿だと私は思う。

「恥をかいて、それで立派になるんだ」

「死んだら駄目だよ、それじゃあ今まで勤めてきた役者達に申し訳が立たないだろう」

「淀さん、また明日、頑張ればいいよ」

もうこの辺りの中村仲蔵の言葉が、次々に胸に迫ってきて、正直筋を追うどころではなかった。温かいおじいちゃんの言葉が素敵すぎた。マクラと繋がっていたのかも知れないけど、お年をめした方の含蓄のある言葉というのは、本当にありとあらゆる些細なことを吹き飛ばすほどのパワーがあると思う。

『淀五郎』という演目の凄み、『中村仲蔵』の在りし日の姿。これは二つセットにすることで、物凄い相乗効果を生む。今日それがはっきりと分かった。だから思わず物販で講談入門を購入してしまった。その位の力があった。

話を戻そう。中村仲蔵の教えを受け、芸に開眼する淀五郎。徹夜で稽古をして舞台に上がり、素晴らしい塩冶判官を披露する。大星由良助を演じる役者も舞台にやってきて、最後はお馴染みの「待ちかねた」。色んな思いの付された「待ちかねた」という言葉に、会場にいた誰もがほっと胸を下ろしたに違いない。

これから出世の道を歩んでいく淀五郎。素敵なおめでたい噺でシブラク四周年のトリを松之丞さんは飾った。

私には、淀五郎と中村仲蔵の間で確かに受け継がれた伝統と誇りを感じた。二人の役者のやりとりは、まるで松明に灯る火を移すようだった。言葉と所作で、その火を移す中村仲蔵。その火を受け取って強い炎とするために努力する淀五郎。その美しき言葉の火を移す様。まさに名優は名優を生むという言葉通りに、中村仲蔵の誇りと伝統を受け継ぎ、立派な役者になった淀五郎。きっと松之丞さんも同じである。松鯉先生から受け継いだ火を、今まさに大勢の観客の前で燃やしているのだから。

 

終演後、痺れる体。放心状態で震える体を何とか起こして物販に行き、本を買って外に出た。駅まで帰る道中、芸に携わる者の美しさと厳しさを考えながら、私はじっと来週のことに思いを馳せた。

本当に素敵な土日だった。ここ最近というか、二年くらいずっと、怖いくらいに幸福である。今週は、金曜日に文菊師匠の『心眼』でド真面目モードになり、笑遊師匠の独演会で『わけわかんないけど楽しい状態』になり、松之丞さんの『淀五郎』で『伝統芸能の誇りと美しさ』に触れた三日間になった。

もうね、誰か一緒に語りません?おじいちゃんばりのくどくて長い話しかしないかも知れませんが、そんな気分になってきました。

さて、来週もね。実は凄いんですよ。もう一部には身バレしてますけどね。

あなたにもいつか、素敵な演芸の出会いがありますように。

願いつつ、願いつつ、今日は問わず語りを聞いて寝ます。

それでは、また来週。さよなら、さよなら、さよなら。

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