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紅葉の中で思うこと 2018年11月13日

今週のお題「紅葉」

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お前が望むものなど ここには残ってないよ

 

君の涙が忘れられない 初恋に捧げるナンバー

 

自分でさえも欺く 心は残ってないよ

 

秋になれば、きっとまた会えますから 

紅葉は我が心の細枝に火を灯す。可能性に満ち溢れた思慮深い深緑から、燃え立つような勇ましい紅を纏い、どこからともなく吹く風に身を委ねて葉を舞い上がらせる。

秋は、高貴なる炎をその身に宿した木の枝に姿を現して、見る者の心に郷愁と強い信念を与える。

私は紺色のロングコートを羽織り、首からは一眼レフカメラを掛けて、京都の街を散策しながら、京都を染める紅葉の有様を見て考えに耽っていた。早朝の静けさの中にあって、大地へと射し込む陽光は穏やかでありながらも強く、陽光を浴びて気持ちよさそうに空へと伸びる木々を眺めていると、静かだが力強い生命の息吹を私は感じた。

私は空へと伸びる木々の枝を眺めるのが好きだ。一見すれば、規則性はなく無作為なように見えるが、どこかに人間の理解を超えた木々の成長の意志を感じるからだ。日の光を浴びるために向日葵が葉の向きを変えるように、朝には葉を開き昼には葉を閉じる朝顔のように、木々の枝にもまたそのような意志を私は感じる。

訪れた寺の名は『神護寺』。約400段あるという階段を上って寺の周りを歩いていると、風景の全てに燃えるような紅葉がある。日頃演芸に触れていると、それは巨大な緋毛氈にも見えてくる。確かシャーロック・ホームズに『緋色の研究』という話があったなと思いながら、私は私自身の『緋色の研究』を探していた。

旅に出るときはいつも、友人達には洒落で「言葉を探しに行く」と気取っていた。まだ見たことの無い景色、経験したことのない体験に出会った時に、私はどんな言葉でそれを認め、理解するのか興味があった。その時に生まれてくる言葉は、その体験と環境の中にあってこそ生まれるものだという考えがあって、洒落ではあるが本気で、私は『言葉を探す旅』をしていたのだった。

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目にも彩な風景の中で、私はただその風景の中に溶け込むことも出来ず、何かを見出そうとして言葉を探した。僅かに残る緑の葉を見ていると、紅く染まる葉の前で恥ずかしそうにしているように見えてくる。着飾って派手に舞を踊るかのような木々に囲まれ、幼く静かに緑を携えている木は、まだ未知な世界へと飛ぶことに恥じらいを持つ小さな少女の姿に見えた。

薄青いガラスのような空に物言わず揺蕩う雲の姿を見ていると、大地に根を生やし空へと伸びて行く木々達の色の移り変わりを、一体どのように思っているのだろうと考え、ただ無垢で、どこから生まれたか分からず、どこへ行くかもわからずに漂う雲の寂しさが青い空に染み込んで、薄く薄く伸ばされているかのようだ。風は肌に溶け込もうとするかのように、冷たくて寂しくて儚いけれど愛おしい温度を保ってどこかへ流れて行く。景色は語らず、私だけがただ一人、自らの言葉で紅葉と戯れていた。

ふいに、『初恋の嵐』というバンドがいたことを思い出す。きっかけは、The Birthdayというバンドのボーカル、チバユウスケが雑誌のインタビューで「あのさ、初恋の嵐の、『真夏の夜の事』って曲、何回聞いてもいいんだよ。コード進行が不思議でさ、凄くいいんだ」というようなことを言っていて、それで気になってCDショップへ行ったという思い出がある。

ボーカルの西山達郎さんは、急性心不全により25歳の若さでこの世を去っている。その年齢を超えた自分は、この世界に何を残しているのか、この世界に何を残すことが出来るのか、自問自答しながら日々を生きているが、答えは見つからなかった。

紅葉には、私に一瞬の煌めきの儚さを感じさせるだけの力があった。類まれなる才能を持ちながら、若くしてこの世界から去っていった者を思う時、何とも言えない悔しさと無念な思いがやってきて、それ以上考えることを止めなければ、いつまでも自分の心を苦しめる事態になってしまうので、もどかしくてならない。

演芸の世界においても、将来を期待された芸人が不慮の事故や病によってこの世を去っていくということが往々にして起こる。将来の大名人と立川談志も太鼓判を押した落語家、古今亭右朝師匠がそうだ。

右朝師匠の口跡は師匠の志ん朝譲りで畳み掛けるようなリズム。中音が響いて張りのある声質。何をやっても優しさと人情味が溢れる語り口。落語を聞けば気持ち良くて温かくて、江戸の風を纏った立派な落語家さんだった。残念ながら生の高座を拝見したことはなく、CD化された音源でしか聞いたことがない。厩火事幇間腹が非常に面白くて、生きていたら間違いなく名人と呼ばれていたであろう落語家さんである。

紅葉が私に垣間見せた姿は、そんな二人の姿だった。

西山さんは唯一無二の声と、他の人には無い言語感覚を持っている人だと私は思っている。『Untitled』という曲や『真夏の夜の事』の歌詞を見ると、現代の感覚の隙間を縫って、研ぎ澄まされた言葉が豊富に詰まっている。その言葉たちが、西山さんの声を通して発せられ、ギターやベース、ドラムの音に混じり合うと、言いようの無い儚さと真実を突き付けられているような、そんな不思議な楽曲が出来上がるのである。

音も無く、ただ葉の色を変えるだけの木々の姿を眺めていると、それが無数に連なり、群れることによって、山の色合いを変えていることに気づく。誰に言われることもなく、ゆっくりとその葉の色を変えて、やがては全ての色を変える様を見ていると、強い意志を持ってそれまでの色を変えようとする何かの意志を感じた。

講談の世界にも、一つの強い意志を持って、それまでの講談の色を塗り替えようとする一人の男がいる。名を、神田松之丞。消えて行く芸だと言われた講談を100年ぶりに蘇らせた講談師と言われている。その小さな火は、今、大きな炎となって講談界を盛り上げている。

緑色の葉がなぜ紅色に色を変えるようになったのか、理由を私は知らない。研究者の方であれば理論的に葉が色を変えることを説明できると思うのだが、私は何か一つの木々もしくは葉が、人間と同じように「変えたい」もしくは「変わりたい」と願ったのではないだろうかと、そんな思いを抱いてしまうのである。

景色が移り変わらなければ、人はどんな気持ちになるのだろうか。ずっと冬の時期、ずっと夏の時期だったとしたら、どんな気持ちになるのだろうか。私は憂鬱なのではないかと思う。一年中冬だったとしたら、芽吹く花も限られ、動物の数も限られ、ありとあらゆるものが冬という制約の中で生きることになる。それではなんだか寂しいではないか。季節は移り変わるように、人の世もまた移り変わる。季節は春夏秋冬という規則性を持ったが、人の世には未だ規則性のある移り変わりは判断ができない。いつか、人の世も季節のように、規則性を持った変化を獲得するのだろうか。

 

 

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ぼんやりと散歩をしていると、ふいに訪れた竹藪に驚く。目に映えて派手な紅葉とは対照的に、竹はすっと空へ伸びて緊張感がある。少し怖さを感じるが、景色の中で一つの頑なな意志を感じた。色を変える紅葉の柔軟性とは対照的に、伝統を守る誇りを私は連なる竹に感じたのだった。竹を割れば中からかぐや姫が出てくるというような幻想的な空気はなく、判然としていて整った様子の竹を見ていると、その清廉さに背筋が伸びる。竹を割ったような性格という言葉にもあるように、割られる前の竹には頑固で静かな佇まいを感じさせ、それが割られるとさっぱりして感じられるのは、画像のように高く伸びた竹の全てをバッサバッサと割っていった後の風景は、さぞさっぱりしているであろうと思うからである。

 

景色の色合いを眺めながら、私は結局まだ言葉を見つけられずにいる。もっと、その時の感情を表せる言葉が知りたいものである。

もっと、努力が必要ですね。

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