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The 鯉八ワールドの風刺性と変態性~2018年11月17日 ちゃお3~

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そういうのちょっと止めてください

 

ニキビ潰れるまで笑わしてやるぞー

 

俺の方がスケベ

  

えっぐたると教授の講演を終え、向かったのは内幸町ホール。オフィスビルが立ち並ぶ新橋。駅前では古本市が最終日だった様子。イルミネーションがとても綺麗で、冬に向けて男女のカップルがわんさか、わんさか。お綺麗な方々も次から次へと擦れ違う。気分はさながらファッションショーのランナウェイを大勢のモデルの進行方向とは真逆の方向に掻き分けながら進んでいる感じ。空気感もお洒落で、少し肌寒いかなとは思いつつも、屋台から漂う食べ物の匂いが温かい煙となってガードレール下に充満しているし、穏やかな顔をした人々やもう既に酔っ払いの限界みたいな酒臭いおじさんが喚いていたりと通常運転で、平和な新橋でしばし時間を潰す。

内幸町ホールは三度目。初回は『パーラーまろはちふく』で、二回目は『ちゃお2』。前回の『ちゃお2』記事はまだまだ未熟な文章ですが、下記リンク

 

https://blog.hatena.ne.jp/tomutomukun/engeidaisuki.hatenablog.com/edit?entry=10257846132605815530

前回は結構斜に構えていて『鯉八好きがなんぼものもんじゃい』くらいの意識で臨んでいたのだが、今回もう少し穏やかになって鑑賞する。鯉八さんの人気はすさまじいもので、開演30分前で既に長蛇の列。指定席なのになぜこんなに行列なのかと言うと、開場と同時に次回の独演会のチケットを購入することが出来るからだ。かなり先の講演のため、買ったことさえ忘れそうなくらいなのだが、その人気は凄まじく、もう既にこの開場後の段階でチケット完売なんてことが起こりうる。それほどにファンが熱心なのだ。おまけに土日ということもあって、ファンも行きやすい状態になっている。

客層判断だが、驚愕の女性率である。ほぼ8割が20代後半~50代後半の女性で、30後半~40代前半が多い様子。空気感が独特で、殆どゆるキャラを見に来ているような感覚のような方々が多い。また女性同士にしか分からない複雑な人間関係を見事に浮き彫りにするのが、鯉八さんの独自のオリジナリティで、男である私には分からないどろどろっとしたものが、さして灰汁や違和感なく伝わった結果、女性の圧倒的支持を得ているのだろうと思う。

少し不思議な雰囲気とお坊ちゃま感を発しながら、独自の間と可愛らしい喜怒哀楽のある表情で、ドギツイワードを緩和しているような語り口。かつてキモカワイイという言葉が流行ったが、ゆるドス黒い感じのニュアンスが鯉八さんからは漂っているように思う。これはあくまでも私の勝手な想像なのだが、女性は言葉を操る能力が男性よりも長けているが故に、その言葉の強度を男性以上に強く持っている感じがする。白という言葉一つをとっても、男性が白にオフホワイトだのなんだの、別の白を表すニュアンスの言葉を用いるのに対して、女性は白は白!の一点ばりというニュアンス。うーん、書いていていまいち伝わらない感じもするが、そんな感じである。

会場に入って、女性達にガッチリ囲まれると、私は妙にそわそわしてしまう。男はいつだって女よりも馬鹿な生き物だという固定観念から抜け出せそうにない。と思いつつも、本当に異空間の独演会である。前回も書いていると思うが、普段の寄席や他の落語家の独演会とは一ミリも被らない、鯉八さんの独演会にしか存在しない空気感がある。それはまだ私自身も未体験のマダムのゾーン、女の花園ゾーンなのかも知れない。と勝手に想像しているが、そういう『未体験ゾーン』の感覚が鯉八さんの独演会にははっきりと存在しているのだ。決してジャニーズとかイケメン落語家の独演会にある『素敵な殿方、眼福ぅ』というような空気感ではない。なんと表現すれば良いのだろうか。女性の持つ感性のギリギリの琴線をほぼ寸分の狂いも無く滑っていく感覚と言えば良いのだろうか。上手く言葉はまとまらないが、そういう幻想性を抱かせるようなワールドが、開幕する。

余談だが、開場前にはザ・カーディガンズの『カーニバル』が流れていた。歌詞を見ていても実に興味深い。鯉八さんはザ・ストーン・ローゼズのような『憧れられたい』ではなく、『愛してほしい』という姿勢を持っているのかも知れない。この『愛してほしい』はそのまま『俺を褒めてほしい』という言葉へと繋がってくる。さらに余談だが、今回の独演会の帰りに、酔っ払いの50代くらいのサラリーマンが「誰も俺のこと褒めてくれないからさ。たまには自分で自分を褒めたいじゃん』というようなことを言っていて、鯉八さんが見事に表現しているのは、そういう部分なのだと思った。

さて、長くなるので開口一番。

 

桃月庵ひしもち『子ほめ』

舞台袖から出てきたのは、お笑い芸人のモンキッキー(元芸名:おさる)に似たひょろひょろっとしたひしもちさん。顔が何とも言えない幸薄感(褒めてます)であり、吐き出される言葉もひょろひょろとしている。実は新作もやる前座さんで、最初に見た時より随分と声が出るようになっている。白酒師匠譲りのキレの良さにひしもちさん独自の雰囲気が足されて、可も不可も無い『子ほめ』。前列右側のお客様は結構温かくて、お決まりの個所で笑いが起こる。まだこれと言って目立ったところは無いけれど、着実に技術力を上げている様子。さらりと舞台袖に下がっていく。

 

瀧川鯉八『ぷかぷか』

独演会の主役である鯉八さんの登場。会場の空気がぐっと熱くなる感じがする。マクラは学校寄席の話。男子校と女子高の違い。この辺りのマクラは最後のトリネタに向けた大きな伏線になっていることに後々気づく。

強引にマクラを繋げてからの『ぷかぷか』。一人の男の栄枯盛衰かと思いきや!なお話。ある地道な努力によって自分すらも気づかなかった才能を見出され、あれよあれよとスターダムに駆け上がるが、時代の流れとともに衰退していく。再び返り咲いて活躍し、遂には伝説に!というような展開から、最後でさらに一捻り。今話題の映画を無理やりリンクさせるとすれば、『落語版・ボヘミアン・ラプソディ』=『ぷかぷか』という印象を私は持った。誰もが体験するかも知れない成功物語の中で、様々な思惑や事態に振り回される主人公。ところどころのネーミングセンスも奇妙で面白いし、現代のスキャンダルのような話も挟み込まれていて面白い。私はこの話を聞いて『かもめのジョナサン』を思い出した。登場人物が多く、主人公を取り巻く環境もめまぐるしく変わる中で、場面転換の時に発せられる言葉と間が見事なブリッジとして綺麗に作用している。そのため、人物が多く展開が早くても容易に想像することが出来る。一人の人間の栄枯盛衰をぎゅっと濃縮した様は、自分も同じような体験をしたら、きっとそう思ってしまうのかも知れないというリアリティがある。後半、主人公が再起を誓うシーンなども笑いもありつつ感動もあって、思わずうるっとくる。どうにかしてるのかも知れないが、自分の感情の琴線がめまぐるしい男の人生を追っていくうちに揺れ始める。ジョン・レノンの最後を彷彿とさせるようなシーンもあったりで、個人的には一本の映画を見るような感覚になった。最後のオチでさらりと着地点をずらすけれども、この辺りの言葉や間、声の張り具合も見事に映画的な音響効果を発揮していて、鯉八さんの細部までこだわった演出と展開に驚愕の一席だった。

この段階で既に、私は鯉八さんの落語には社会風刺的な要素が多く含まれているように思った。鯉八さん自身が自らの新作落語を『中の下と思っている人に向けて作っている』というように、まさしくこれは社会で生きる人々の全てに共通する部分を切り取った落語だと私は思った。落語という仮想の空間でありながら、現実との共通点が多く、現実に限りなく近い仮想世界の中で、葛藤したり、調子に乗ったり、立ち直ったり、神と崇められたりと、様々な人間の感情が渦巻いている。『かもめのジョナサン』のような寓話的要素ももちろん含みながら、より現代の事例を多く取り込んだ作品に仕上がっているように思えた。題材の馬鹿馬鹿しさでオブラートに包み込まれているが、現実の社会的な様々な問題に当てはめた時に、『ぷかぷか』に出てくる登場人物の行動や言動は見事に置換可能な状態であると私は思っている。だから、笑えるし面白いということの反面、現実社会のリアリティに迫っていて真顔になるという。相反する気持ちを私は鯉八さんから抱くのである。

さて、お次は真打昇進後のお方。

 

古今亭駒治『すももの思い出』

寄席では鉄道落語でお馴染みの駒治師匠。鉄道はもちろんのこと、プロレスやCO-OPの話題など、様々な新作を意欲的に生み出し続ける新作派の真打。流麗なる語り口は前回の真打昇進披露の記事でも書いたとおりである。高座へ上がる姿も背筋が伸びていて実直、真面目な雰囲気がある。お馴染みの学校寄席の話題から、駄菓子の話。私も昔食べたことのあるすももの話から『すももの思い出』。ちなみに私はすももが漬けられた汁は飲まずに捨てる派だった。

この辺りのネタの選択センスが駒治師匠はさすがだな、と思う。鯉八さんの『ぷかぷか』が大スターへの風刺だとすれば、『すももの思い出』は日常で体験する庶民への風刺だと私は思った。幼少期のトラウマ体験が大人になっても劣等感に多大な影響を及ぼすというような話で、最後は気持ち良くオチが決まる清々しい一席。これも落語という仮想世界ではありながら、ひょっとしたら誰か一人くらい経験しているかも知れない現実感のあるお話。主人公の劣等感に溢れた言葉の数々は面白いし、それを取り巻く脇役も面白い。さして大きな山場のある話ではないのに、随所に挟み込まれる感情の緩急が面白くてついつい引き込まれる。何より、駒治師匠の口跡は聴いていて心地が良い。まるで心地の良い電車に乗っているかのような心地よさがあるのだ。

ネタの詳細は他に任せるとして、普通の人間が体験するであろう様々な心の傷、そしてどうしようもない環境、つい嘘をついてしまう虚栄心。そんなものが面白おかしくないまぜになった作品で、聞く者の『酸っぱい思い出』にフィットしてくるような、会の流れに完璧に沿った一席。もし駒治師匠に興味を持たれた方がいたら、是非とも『鉄道戦国絵巻』や『十時打ち』を聞いて頂きたいと思う。

気持ちの良いオチで仲入り。

 

瀧川鯉八『暴れ牛奇譚』

仲入り後はマクラは無く占い師の場面から、『暴れ牛奇譚』へ。社会風刺の小噺を繋げたような作品である。暴れ牛が来るという夢を巡る長老と副長老の権力闘争や、生贄を巡る民子の葛藤など、物語で隠されてはいるが、社会に生きる人々が体感する人間同士の立場を巡る争いを見事に落語にした一席。私個人としては、長老のずる賢い感じ。新長老になった副長老の戸惑いの感じ。生贄になる前と後で態度を変える民子の様子が興味深かった。この辺りは醜く書けばどこまでも醜くかけそうな話題で、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』のような短編小説的な趣がある。菊池寛の『義民甚兵衛』のような後味の悪さを残さないのは、オチで見事に着地点をずらしているからだろうと思う。暴れ牛は動物の牛ではなく、何かの比喩だったりするんじゃないかと私は思った。生贄に捧げられた民子がそのあとどうなったかは語られない。ただ一言「意外とゴツゴツしてる」という言葉から想像するのは、生贄に捧げられた民子自身も想像しなかった、新しい変化なのではないだろうか。暴れ牛とは唐突にやってくる時代の流れだとしたら、その時代の犠牲者として民子が存在していた。だが犠牲者だと思っていたのは時代の流れから逃げた村人たちの方で、当の民子は実は時代の流れに胸をときめかせたのではないか。とか、色んな想像が出来るのだが、まだどうにも確証が無いので、これは聴いていくうちにおいおい考えて行こうと思う。

 

瀧川鯉八『にきび』

一度舞台袖に下がって、お馴染みの出囃子で再び再登場。敢えて書かないが、冒頭から過激なワードを連発。私の近くにいた客席の女性が「使わねぇーよ」とぼそりと言っていたのが印象的。実は冒頭のマクラから「俺はお前たちよりエロい」とか「ニキビ潰れるくらい笑わせてやるぜー」みたいな発言をしていて、それが見事に繋がったネタ卸しの『にきび』。感想としては、「え?何これ、催眠?快感へと誘う催眠?」くらいの強烈なワード連発で、引くか、引かないで乗って笑うかの見事な二択を迫られる一席。私は大いに笑ってしまったのだが、会場の得体の知れない笑いの質、会場の感情を真っ二つに叩ききるような強烈なワードの連続で、特に前方舞台より右側の女性のお客様には馬鹿受けの話だった。この際どさに笑えるご婦人は、相当に酸いも甘いも噛み分けてきている方々であろうと思う。いっぱい紹介したいワードはあるのだけれど、これはせっかくのネタ卸しなので、是非ともどこかで出会ってほしいと思う。

終演後の男性のお客様の、何とも言えない複雑な表情が印象に残ったし、全員が晴れやかな表情というよりも、どこか気恥ずかしい表情で、僅かに伏し目がちになっているのが印象的だった。ガッハッハと笑って満足そうなご婦人もいらっしゃったが、そういう人は恐らく40代を過ぎたエッチな人だと私は勝手に思っています。

 

総括すると、極限までヒートアップしたカルト感もさることながら、笑いに包みつつも風刺的なニュアンスを感じさせる、まさに『中の下という意識を持つ人々』に向けた落語会だった。私はそれほど熱狂的な鯉八ファンという訳ではないので、是非とも鯉八さんが大好きという女性にお話を伺ってみたいと思っている。なんとなくの感覚であるが、ヴィジュアル系バンドが好きな女子と同じような雰囲気を、鯉八さんの独演会に来る女性から感じたのである。これはあくまでも私個人のアンテナなので、正しいとか正しくないという話ではない。

いずれにせよ、正しくカルト的な落語会であったと私は思う。さて、次回はどうするか考えましょう。お次はモモエ師匠ですから、これは鯉八ワールドと百栄ワールドの強烈なぶつかり合いになることでしょう。どんな話をやるのか楽しみ。

さてさて、そんなわけで日付も変わってしまいましたが、本日はこれにて。

明日はどんな素敵な演芸に出会えるやら。

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