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自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

寄席の醍醐味、亭号に思うこと~2018年11月18日 新宿末廣亭 中席~

 

止せよ止せよと言いながら 結局行くのが寄席な余生

 

あー、ああー、あー。もう何も言わずに持ってってください!

 

う、うけた、うけたまわっしゃわしゅわしゅう

 

法界坊はどんな坊かというと、法界坊なんです

 

落ち着きなさい、ねぇ、ちょっと落ち着き バチーン

  朝、目を覚まして『東京かわら版』を読む。目ぼしい会が無いので、ざっとスケジュール帳を眺める。このところ寄席には行かず、殆ど独演会やらに通っていて、なんと気づいたら10月14日の文蔵師匠の鈴本演芸場『鼠穴』以来、寄席に行っていないことが分かった。これはさすがに寄席離れが過ぎるぞと思ったが、考えてみれば10月14日以降、どの寄席を見ても私の「行きたい!」という気持ちを起こす番組は無かった。ここに来て、久方ぶりに四大寄席のホームページを眺め、これぞ!という番組を発見した。新宿末廣亭、昼夜入れ替えなし、昼トリ柳家権太楼師匠、夜トリ桃月庵白酒師匠。これだ、これに行くしかない!

 早速いつものスタイルに着替えて寄席に行く。久しぶりに寄席に行くので気分は高まっていた。常々、寄席というのは『落語家にとって名刺代わりの場』だと思っていたが、どうにもそれでは味気ないような気がしていた。一か月以上寄席から離れていたので、より客観的に何かを感じれるかもしれない、と微塵も思わず、ただただふわふわっと身を委ねようと思っていたのである。

 私を例とすれば、独演会や渋谷らくごのような会は、超真剣に聴く心持ちで望んでいる。何より、独演会は好きな人しか出ない会である。だから、ふわふわっと聞くことが私は出来ない。それはもはや大好きな人の前で鼻をほじって屁をこいてゲップするくらいの、そういう失礼さを感じてしまうからである。好きな人の前ではシュッとしていたいし、全力で好きな人を感じたいのだ(何を言ってるんでしょうかね・・・)

 一言一句、一挙手一動でも記憶に刻み付けようという無駄な乞食根性で独演会には参加している。それに、その空間には自分と同じように演者が好きなお客様がいるのだ。そこには暗黙の協調性があって、言葉に出さずとも漂っている連帯感みたいなものがあると私は勝手に思っている。

 その点、寄席は気楽も気楽に聴ける。たとえ隣の人がカサカサ、モグモグ、ペチャクチャやろうとも、そういう場なのだから、ということで諦めることにしている。初めてのお客様の新鮮な驚きを隣の席に座って味わうというのも乙なものである。特に太神楽などの時に、となりの客が「おおっー!」とか「すごい!」とか言うのを聞いていると、懐かしい気持ちになるくらいに常連になっている。私も初めて見た時はそうだったなーとか、この人実はワザと間違えてるんだよなーとか、この人殆ど同じネタしかやらないんだよなーというのは、寄席に行き過ぎると起こる弊害である。これは寄席の常連になると起こる症状なので、一か月ほど寄席から離れるというのは、良い経験だったと思う。

 寄席というのは本当に全国津々浦々、様々な場所から人がやってくる。考えてみれば、こんな奇跡は無いのだ。

 どんな環境に生まれて、どんな性格で、どんな人生を過ごしてきたか。そんなことを客同士が感じることは無い。中には声をかけあって「どちらから?」なんて話をし始める人もいる。寄席には、決して言葉では交わされることのない、目には見えない奇跡の繋がりのようなものがあると私は思っている。それを話と笑いで繋いでいるのが、演者の皆さんだと私は思っている。

 拍手一つを考えてみてもそうだ。素晴らしいと思ったら拍手をする。それが会場全体に伝わって大きな拍手になるなんてこともある。私もしばしば『拍手指揮者』的な拍手で、会場の拍手を支配するという思いを抱いたこともある。それほどに寄席という場には無言の連帯感、協調性があって、それはとても面白いのだ。木馬亭のような浪曲の寄席にも生粋の『拍手指揮者』が存在していて、私のようなアマチュア浪曲ファンでもわかりやすく拍手をしてくれる方々もいる。その目に見えない拍手だけの『拍手指揮者』の影響によって、私自身も拍手のタイミング、長さが分かったりする。ただ現在、唯一無念なのは、浪曲における『拍手指揮者』となる精神力が私に備わっていないことである。「あ、これ絶対拍手のタイミングだ!」と浪曲の節が一調子上がっても、浪曲を知らないお客様が多すぎて物怖じしてしまうという体験が何度かある。そこは強い精神力を持ちたいと常々思っている。

 さて、寄席の話に戻そう。約300席ほどの会場にずらっとびっしりのお客様。休日の昼席は特に人が多い。夜席はよほどの実力者でない限り二階席まで埋まるということはない。昼席のトリは柳家権太楼師匠。それよりも私のお目当ては仲入り前の小満ん師匠だ。

 

 柳家小満ん時そば

 全体の演目リストは他の方に任せるとして、何よりも小満ん師匠をまず聞くために寄席に行ったようなものである。いぶし銀の声とリズム。何回聞いても痺れるほどのダンディズム。そばを啜るシーンでは客席のご婦人から『上手だねぇ』という溜息にも似た言葉が漏れる。寄席の小満ん師匠は最高ですよ。唐突に現れた江戸の風を纏った粋な落語家、柳家小満ん師匠。蕎麦を啜ったり、酷い蕎麦を食べたりするシーンはもはや名人芸。物凄い脂の乗りっぷりで、今小満ん師匠の芸を見逃すのは非常に勿体ないと思えるほどの素晴らしい芸だった。

 

 寄席の良いところは、面白くない人も出るということである。これは決して落語家を否定しているわけではない。これは自分にとって面白くない人ということだ。そういう人に出会うことで、『自分は何を面白いと感じるのか?」ということが反面教師的に分かってくるのだ。やたらと眠っている観客を起こそうとする野暮な落語家もいれば、ちっとも面白く無くて眠くなる落語家も出てくる。そういう時はじっと椅子に腰かけて目を閉じて眠るに限るのだ。

 一か月ぶりの寄席を体験すると、また違った感覚で寄席をとらえることができた。少し記述したいと思う。

 私は常々、人と人との交流はお互いの精神の家に入るような感覚を抱いていた。なぜそう思うようになったかは分からない。とにかく、私の想像では外から家の様子を眺める行為は、相手の外見を眺めることに等しい。Twitterなどで愚痴やら私のように感想を呟くものは、家に窓を付けているようなものである。窓が多ければ多いほど、家(精神)の中が周りの者に見られやすくなる。

 自分の精神の家に入れたものを友人と呼び、その家をお互いの所有物とするのが結婚と言えるのかも知れない。その人の家(精神)は、その人の意志によって形作られる。家の中の家具の配置、柱の傷、隅の埃。これらの粗というのは、他人を自分の家(精神)に招き入れ、長く暮らすことによって分かってくるものだ。私のような人間は「この家には入りたくないな」と窓から眺めて拒絶する家もあれば、「凄い綺麗な外観だ。中身はどんな風なんだろう?」と興味が湧いて家に入れてもらった結果、足の踏み場もないほどのゴミ屋敷だった、という経験もある。この辺りの精神構造を家で例える比喩は、読者にご理解いただけるだろうと思う。

 そう考えてみると、私は落語家に亭号があるのは、落語家そのものがまさに、『家』だからだと思う。既にこの段階で一つの公式を提示するとすれば『家=その人の精神、心』だとすれば、落語家に亭号があるのは、客を家に招き入れる一つの目印としての機能があるからだと私は思った。

 亭という文字には、『眺望や休憩のために高台や庭園に設けた小さな建物』という意味がある。家という文字には『人間が居住する固定式あるいは移動式の建物のこと』という意味がある。柳家、古今亭。桂に至っては木である。そういう場所の苗字の後で、権太楼や白酒や文菊や伸べえなど、その場にいる人の名前が続くのである。

 また一つ寄席を見ていて思ったのは、寄席には住宅展示場に近い部分があるということである。15分交代で舞台へと出てくる落語家を家そのものであると考えてみれば、観客は「この家に住みたいな」とか「この家は住みたくないな」と思うことと同じように、「この落語家さんは面白いな」とか「この落語家さんは面白く無いな」と思うのである。気に入った落語家、すなわち家が見つかれば追ってみたいと思うもの。それが独演会という、何人もの人々と一緒に家の佇まいや家の内覧をするような会へと繋がっていく。落語の演目は行ってみれば家に備わった部屋みたいなものかも知れない。

 そう考えると、寄席に行く心持ちというもの変わってくる。絶対に心奪われる素敵な家(落語家)に出会うこともあれば、さして住む気の無い家(落語家)に出会うことだってあるのだ。紙切りはイレギュラーで、自分の望むものを与えてくれる。あれは住宅展示場で貰える粗品のような立ち位置だろうか。いや、もっと芸術性があるから、何とも例えずらいけれども。

 そんなことを考えながら、昼席は柳家の住宅展示場。最後は高級住宅。

 

 柳家権太楼『井戸の茶碗

 出てくるなりお決まりのマクラだったのだけれど、驚愕だったのは話に入る瞬間の所作と間である。爆笑をかっさらってどんどん盛り上げて代書屋突入のパターンかと邪推していたが、右手を首の後ろに回して頭を垂れ、「麻布台の裏長屋に」と言った瞬間の権太楼師匠の恰好良さ。あれは強烈だった。笑いで温まった会場を一瞬にして物語に繋ぎ込む鋭い所作と間。そこに引き込まれる会場の空気感の流れが凄すぎて鳥肌が立った。この素晴らしさをどう表現したらいいか迷っているのだが、温かい空気感の中でいきなりスパッと刀を抜かれ、気が付くと異空間に誘われていたかのような感じ。見事に話題を屑屋の正直清兵衛さんに流れさせる技。あの辺り、何回でも繰り返して体験したいくらい、他の落語家さんには無い、まさに「お前はもう死んでいる」という、死んだことさえ気づかないというような、そんな鮮やかな展開に驚嘆。

 さらに驚嘆なのは、爆笑の上塗りのような怒涛の展開。権太楼師匠の持つフラを全開に推し進めた井戸の茶碗。それまでどちらかと言えば心温まる人情噺として聞いていた井戸の茶碗が、裃の振り分けと相まって右へ左へ揺さぶられるかのような爆笑の嵐。文菊師匠では威厳と誇りを感じさせる高木 作右衛門や千代田卜斎が、権太楼師匠の手にかかると実に泥臭くて滑稽感が増す。屑屋の自暴自棄感は凄まじく面白かった。どちらかと言えば文菊師匠が屑屋より高木 作右衛門や千代田卜斎を浮き立たせているのに対して、権太楼師匠は屑屋を浮き立たせるとともに、権太楼師匠らしさを高木 作右衛門や千代田卜斎に加味していて、それがとにかく面白かった。同じ噺でも演じる落語家によってこんなに違うんだと改めて思ったし、権太楼師匠はなかなかクレバーに泥臭くて人間味のある登場人物を描いている。でも、笑遊師匠の爆笑感とどう違うかまでは、まだ説明することが出来ない。権太楼師匠には何かがまだ見えて来ない。その見えない何かが物語を引き立たせている気がして、今後機会があったら考えてみたいと思う。トリ以外の寄席では代書屋か町内の若い衆を良く掛けているけれども、大ネタになった時の権太楼師匠のマインドの差みたいなものを、ちょっと知りたくなった。

 柳家はどちらかと言えば生粋の庶民派という気がする。夜席は実に対極的な金原亭、古今亭の番組だったので、その辺りの対比も一日お籠りでいて感じられて面白かった。

 とにもかくにも、底知れない実力を秘めた権太楼師匠。最高に面白い井戸の茶碗で大笑い。素敵なトリで夜席へ。

 

 打って変わって夜は品格と気品の夜席。ニックスという場末のキャバレーにいそうなおばちゃんを抜きにしても、気品が溢れている。特に二つ目昇進の金原亭小駒さんなんかは、見るからに落語の品格を湛えた人である。これからどう進化していくのか楽しみ。渋すぎる伯楽師匠の志ん生師匠との思い出からの『猫の茶碗』もさらりとしている。気品、漲ってますねぇ。

 

 隅田川馬石『鮑のし』

 不思議な雰囲気と間を持つ馬石師匠。そろそろ中毒になりつつある自分がいる。何て言えばいいんですかね、一定量を超すと発症する病気みたいな、そんな不思議な中毒性のある落語家さん。既に中毒になっているファンの方々も多いし、馬石師匠を通して出てくる登場人物はどこか抜けているし、あの表現しがたい感じは馬石師匠のオリジナリティなのだと思う。似ている落語家が一人もいない。ワールドとまではいかないけれど、馬石師匠独自のテイストが加味された会話が面白い。だんだん面白く感じられてきて癖になる。女将さんの感じが好き。

 

 紙切りのリクエストは『白酒師匠・90歳のミッキーマウス・法界坊』。ここでも語りたいこともあるけれど、秘密にしておく。

 

 トリはお待ちかねの庵。

 

 桃月庵白酒『幾代餅』

 桃に月に庵ってどんな場所なのだろうと想像する。パッと浮かぶのは桃源郷。桃のような柔らかいものや、どぶろくや甘酒のような白い酒のある小さい住居なんだろうなぁ。と想像する。五街道は道だし、隅田川は川だし、桃月庵は庵だし、蜃気楼に至っては現象である。観客は凄い亭号に誘われて行くんだなぁと思う反面、やはりそれだけの個性が際立った猛者揃いの一門であると思っている。

 その一門の筆頭を進むのが、カワイイピンク色のカバを想起させる桃月庵白酒師匠。名前にぴったりの風体と、何よりも声と間が唯一無二なのだ。天性の声を持っていて、この声色を聞いているだけで惹き込まれるのに、絶妙に屈折した性格からもたらされる唐突な間と言葉、可愛らしい風体とは裏腹に鋭く釘を刺して毒づくスタイル。愛嬌のある人の毒づきのギャップだけでも笑える。 

 登場から徹頭徹尾、美しい声と気持ちの良い口跡。とんとんと物語が進んでいくと同時に、登場人物達の感情豊かな表情と声色。出てくる登場人物全員に白酒師匠らしさが滲み出ていて、爆笑に次ぐ爆笑。権太楼師匠の爆笑とはまた雰囲気の違う、現代性が加味された爆笑が巻き起こる。若い人には特にウケていて、これからの何十年と無敵なのではないかと思えるほどに非の打ちどころのない古典。100回聞いて100回外れないレベルで面白い白酒師匠。久しぶりに見たけれど衰えない美声と白酒節とも呼ばれる鋭いキレッキレの間。そして独自の演出とワードセンス。春風亭一之輔師匠もそうだけれど、現代の感覚に見事にチューニングを合わせたワードセンスに脱帽。また、現代の感覚に埋もれがちでありながらも、古典に独自の緻密さと品位を加味する文菊師匠。この世代は本当にもう、群雄割拠というか、猛者揃いというか、漫画キングダムで言えば王翦、恒騎、李牧とか、そのくらいの凄まじい力を持っている感じ。(逆にわかりづらい?)

 菊之丞師匠とか割と人情噺寄りでやるのに、白酒師匠は爆笑スタイルで畳み掛けるように変化する清蔵の姿が面白い。脇を固める人々も見事に性格が浮き彫りになっていて、これはもはや新しい古典のスタイルなのではないかと思う。

 権太楼師匠、白酒師匠と爆笑スタイルで幕を閉じた寄席。最高でした。素晴らしい落語家の番組。今日得た考えは住宅展示場の雰囲気であるということ。落語家という巨大な家に入って、演目という名の部屋に入って、大いに笑った一日だった。

 何度入っても良いと思える部屋があるように、何度聞いても良いと思える噺がある。何度入っても良いと思う家があるように、何度聞いても良いと思う落語家がいる。末廣亭に限らず定席のある場には、そんな素晴らしい家と部屋へと誘う会があるのだ。鍵はいらない。払うのは木戸銭のみ。お金を払って木戸を開けて、素敵な家(落語家)を訪れて、素敵な部屋(演目)に出会ってほしいと思います。

 それでは、また。素敵な演芸との出会いを祈りつつ、祈りつつ。

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