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自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

本が開いてくれるもの 2018年11月23日

本は無限だ。

文字が読めて、内容が理解できれば、誰でも新しい知恵や考え方に出会うことが出来て、それまで考えもしなかったことを考えるようになる。それは、毒にも薬にもなる。自分にとって何が毒で、何が薬かは読む人が決める。本を開いて、物語の世界を楽しんで、最後の一行を読み終えた時に、あなたは何を是とし、何を否としているのか。それを自覚するかしないかはその人次第。ただ一つ言えることは、あなたが選んだ本は、あなたが読んだ世界は、確実にあなたの心に影響を及ぼすのだということ。

人の性格は何が決めているのだろう。環境?周囲の人間関係?触れてきた芸術?。理由は様々あれど、私はそれまでに費やされた『言葉』だと思う。何を自らの言葉として発し、何を言葉で考え、何を言葉として言われてきたか。それが個人の性格を形作っていると私は思っている。もちろん、様々な理由は考えられるけれど、言葉は最も強い影響を性格に与えていると思う。

本は人生を豊かにしてくれる、ということが時々定型文として言われている。聞こえは良いし、何だか本の有難みがあって素敵な言葉だと思う。反面、私は本が人生を豊かにしてくれるとは思わない。私は本を読んだ人自身が本から何かを見出し、それによって結果的にその人の人生が豊かになることがある、と言い換える。本を読んだ人の人生が全て豊かになるかと言えば、必ずしもそうとは限らない。『不思議の国のアリス』が大好きだとしても、現実には喋る猫も歩くトランプもいない。現実と幻想の世界には隔たりがあって、それを認識することなく、現実の世界で幻想の世界に生きる人々もいる。どうやら本との『正しい付き合い方』というものがあるのかも知れないと思うのだが、詰まる所、本を読んだ人が何を考えるようになるかということは、私にはさっぱり分からない。本がどこまで読んだ人間に影響を及ぼすのかも、私にははっきりと認識できない。

私の周りの人間を例に考えてみると、本は読まないという人が多く、読んだとしても『話題の本』や『映像化された本』ばかりで、あまり本でしか形になっていないものは読まれていないようである。

日々の雑事に忙しく、携帯ゲームに興じたり、賭け事に勤しんだり、酒と肴に囲まれて生きている人たちが多い。娯楽が多くなり、文字だけの本は、地味で暗くて忍耐が必要な、あまり外交的ではないものとされているようである。せかせかと時間に追われている人たちにとってみれば、長い物語ほど時間がかかるし、読むのが面倒で、結局何を伝えたかったのか分からないらしい。実に勿体ないことだと私は思う。せっかちで時短が求められる社会だからこそ、じっくりと腰を据えて没入することの出来る本は貴重なのだ。

では、そんな腰を据えて没入するほど面白い本があるのか?と問われれば、それはその人次第だから何とも言えない。私は本好きとして最も愚かな行為だと思っていることが一つだけある。それは、『自分が面白いと思った本を相手に渡す』という行為である。自分にとって面白いと思った本が、相手にとっても面白いとは限らない。むしろ、相手にとって面白くないことの方が圧倒的に多い。なぜなら、相手は望んで本を手にしていないからである。本との出会いというのは、他人から強要されてはならないと私は思っている。本に限らずあらゆる芸術は、強要されてはならない。芸術は能動的に出会わなければ、その人にとって良い物にならない。長い時間をかけて物語の世界に強制的に入り込ませるような行為こそ、相手に自分の面白いと思った本を渡す行為なのである。だからせめて、最初の入り口だけは、相手に選ばせるようにしなければならない。それが本の書評であり、本に限らず全ての芸術に対する評論だと私は思っている。

書評を見た人が面白そうだと思って本を手に取る。その確率は分からない。それでも、一人の人間がその本の世界に没入し、言葉でその世界に対する考えを述べたという事実を目にして、人は興味を抱くか抱かないかという二択を迫られる。大して書評から購買意欲が湧かなければ読まないのも良し。実際に手に取って読んでみて、書評に書かれたことを思わなくても良し。大事なことは、本をなぜ自分が手に取ろうと思ったのか、そしてその本を読み終えて自分が何を感じたかを、はっきりと自覚することだと私は思っている。

もしも今、本を読んだことが一度でもあって、自分の本棚というものがあるという人がいるならば、今一度本棚に並べられた本を眺めながら考えてみてほしい。なぜ自分はその本を選んだのだろう。その本から自分は何を得たのだろう。あ、読み終えてない本もいっぱいあるな。なんでも良い、一度考えてみれば、自分の性格がどう形作られてきたのか分かるだろう。それに対して私が言えることは、「あなたが選んだ本があると同時に、あなたを選んだ本があるのだ」ということである。そんな見えない運命を信じてみたい。もしも自分が選んだ本が、実は本も自分を選んでいたのだとしたら、こんな素敵な出会いは無いと思う。そんなことを教えてくれたのが、冒頭の写真に紹介したミランダ・ジュライ著『あなたを選んでくれるもの』だ。

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お時間がいっぱいいっぱい

日本の演芸に触れていると、自然と興味が湧いてくる時代がある。それはまだ娯楽が少なく、テレビもスマートフォンも無い時代、江戸時代。その時代の言葉や風俗に興味を持ち、それに関連した本を読むことで様々な角度から日本の演芸を楽しむことが出来る。記録として残されたものから、我々はその時代を知ることが出来るのだ。もしも記録が無く、その時代を知る手がかりさえ無かったら、我々は今ほどの発展は遂げて来なかっただろう。ありとあらゆる物事は記録され、何度でも振り返ることが出来るようになったからこそ、どれだけ時代を経ようとも変わらない物を見つけることが出来るようになったのだと私は思う。

今、長い間陽の目を見ることがなく、かつては大きな隆盛を誇ったが下火になっていた演芸がある。それは講談である。テレビの普及により強烈な煽りを受けた日本の演芸、落語、講談、浪曲。名人と呼ばれた人々が地道に積み上げてきた演芸にさらなる光をもたらす芸人がたくさん現代に存在している。落語では春風亭一之輔師匠、浪曲では玉川太福さん、そして講談には神田松之丞さん。何度かブームと呼ばれているが、そんな一過性のものではない演芸だと私は思っている。その中心地は間違いなく東京であって、根強い常連と日々全国から訪れる新規の客によって、日本の演芸はとてつもない賑わいである。テレビを持たない世代が今後増え続けて行くと私は勝手に想像しているのだが、テレビに飽き、ネットにも飽きた人々が最終的に行きつく先は、生身の人間の芸だと私は考えている。生身の人間の芸をさらに楽しみたいと思ったとき、本は力を貸してくれる。

落語、講談、浪曲。これらは何も昨日今日出来た演芸ではない。本を探せば最も古い情報を知ることが出来る。一体どんな名人がいて、名人の周りにはどんな人物がいたのか。古本屋で少しでも演芸関連の本を探せば、それらの情報は簡単に見つかる。唯一悔しいと思われることは、故人の芸は生身では体験できないということ。生に叶う体験は無い。あらゆる演芸は、その瞬間に存在していることで何物にも代えがたい輝きを放つ。と私は勝手に思っている。

例えば、ゴッホムンクの絵を見ても、我々は絵に感動しても、それを直接ゴッホムンクに伝えることは出来ない。また、ゴッホムンクがどんな性格で、何を好んでいて、何を好んでいないかを知ることは出来ない。本当であれば、ゴッホムンクと直接話をして、絵の生まれた過程や、どんな気持ちでこの絵を描いたのかを私は聞いてみたい。それが叶わないというもどかしさに苛まれながら、我々はただ残された芸術を享受し、それに対して感動する自分を自覚することしか出来ない。それは一方通行の愛。返球の無い球を幻に投げるような行為に等しい。

翻って、今を生きる人には感動を直接伝えることが出来る。私は渋谷らくごや芸協らくご祭り、謝楽祭のような落語家さんと触れ合うことの出来る場で、直接自らの感動を伝えている。それは私の自己満足かも知れない。それでも、同じ時代を生き、同じ場所に存在し、同じ体験を共有することの、目には見えないがとてつもない輝きを放つ瞬間に、私は感動する。だからこそ伝えたくなるのだ。あなたの芸は素晴らしいと。あなたの芸に惚れているのだと。私のブログ記事は、おおよそそういう思いによって突き動かされている。自分で言葉にすることで、伝えた気になるのだから幸福なものである。それでも、自分が何を考え何を思ったかはとても重要なことだと思っている。なぜなら、後で振り返った時に、はっきりと確かな熱を持って自分の心に沸き起こってくるのだ。芸を体験した時に感じた強い感動が、まるでマグマのように。

本を読むことで、言葉を知って、その時代の空気に身を浸す。くっきりと自分の頭の中に映像が浮かんでくる。どういう理屈で映像が見えるかは分からない。だが、私は確実に映像を見ている。落語家の語り、講談師の語り、浪曲師の唸り、それらを聞いて、私が見る映像は私だけのもの。その映像に登場する人々の表情、空気感、周囲の風景。全てが私の脳内で映像化される。一度も見たことが無い筈の景色なのに、言葉から映像が立ち上がってくる不思議。芸は観客の頭の中でこそ完成するものだとつくづく思う。その映像をより鮮明にするために、やはり本を読んで文字から映像を想像することも必要なのだと思う。

私は演芸を見終えるとレポを書くが、殆どは自分の脳内に残る映像を頼りに書いている。比較的記憶力が良いと言われているし、なぜそんなに覚えているのかと驚かれることもあるが、私は『映像を見ているから』としか答えようがない。文字を書いている時も映像を見ながら書く癖があるので、文字を書かないと映像が立ち上がらない方とは明らかに異なる書き方になっていることは間違いない。本を読んでいても映像が見えてくるし、逆に映像が見えて来なくて良く分からない本を読んだこともある。つくづく不思議である。一体どういう理屈なのか誰か脳に詳しい人に教えてもらいたいものだ。説明されたところで、どうという話では無いけれど。

講談を聞いている時は、言葉が分からなくて上手く想像できないことがある。なんとなく派手とか、なんとなく荒れ狂っているということだけは分かる。自分の中で勝手に派手な甲冑を纏ったり、派手に舞う雪を想像したりする。講談師は丁寧にその様子を説明してくれたりもする。私はそれがとても嬉しい。より想像しやすくなることによって、よりその世界を『見る』ことが出来るからだ。演目を例とすれば、『隅田川乗っ切り』や『名月若松城』、『安兵衛駆け付け』など、はっきりと『見えて』感動することがある。自分にとって最も良い形で映像を見ることが出来るのだから、感動するのは当然だと思う。

もしも講談を聞いても上手く想像することが出来ないと思ったり、言葉を聞いても難しいと思ったら、写真に挙げた『講談入門』や『江戸ものしり用語辞典』を読んで頂きたい。想像の補助になってくれる。本には想像を手助けしてくれる側面もあるのだ。

 

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最近、並みじゃなくたつ 

何を面白いと感じるかは人それぞれだ。ユーモアや粋な言葉に彩られた物語に出会うと、日常生活でも使ってみたいと思う。それを使うことの意味は結局自己満足でしかない。面白い言葉を発見したと同時に、面白い言葉だと感じた自分を発見する。本とは発見と出会いだ。そして、発見と出会いは本に出会えば出会うほど増えて行く。だからこそ、本は無限だ。100人が読んでも100人全員が同じ感想を抱くとは限らない。人それぞれに感動した部分や気に入らない部分があって良い。本は、人の性格を計る定規にもなる。本棚には、その人の心が現れる。どんな本を選択する人なのか。同時に、どんな本に選択された人なのか。

それは、自分でも予期しないことかも知れない。まるで突然ノックの音がして、いきなり開かれた扉から、それまでの自分を一から変えてしまうような、そんな出会いがやってくるかも知れない。それを幸福と呼ぶか、不幸と呼ぶかは体験した後になってみなければ分からない。いずれにせよ、自分にとって幸か不幸かも分からない出来事がやってくることもあれば、自らそれを掴むこともある。気が付くと、自分がどんな人間に形作られているのか、気づく人もいるだろう。

Twitterなどを見ていても、私は「嫌だな」と思った発言はミュートしてしまう。なぜ「嫌だな」と思ったかははっきりと説明が出来る。自分はどんな信念で言葉を発言しているのか、そんなことを考えたりして、そのぼんやりとした信念からズレない範囲で文章を書くようにしている。それは、本を読んで何となく私が定めたものであって、これがまるきり正しいとは限らない。詰まる所、私は何も正しいことを言っていないのかも知れない。

色んなことを考え、色んなことを記していると、自分がどんな言葉を知っていて、どんな言い回しをする人間で、どんなことを好むかということがなんとなく分かってくる。基本的には好きなことしか書きたくないし、余計なことは言いたくない。何を言うべきで、何を言わざるべきか。それらの判断は全て本が教えてくれる。本当に大事なことは行間を読むことかも知れないと思う。書き続けても、書き続けても、全くすっきりしないどころか、どんどん行き詰まっていくような気がする。それでも、岩と岩の隙間から染み出る水のように言葉を出しながら、私は記事を書いていくつもりである。

 

本が開いてくれるものは、あなたが選んだ本の数だけ生まれる。なるべくなら、自分にとって良い薬となるような本に出会いたい。大丈夫、あなたが読むべきときに、本があなたを選んでくれる。私にはそんな感覚を抱いたことが何度もあった。全ては出会うべくして出会っている。本との出会いは本物だ。なんて、くだらない冗談を言って幕を閉じたいと思う。明日もあなたが素敵な芸に出会えますように。祈りながら記事を終えよう。

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