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自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

金色の講談クロワッサン~2018年11月24日 貞橘会~

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 お先に勉強させていただきました。

 

ここがスラスラ言えると、もう終わってもいいようなもんで

 

私の内心(秀吉はなんてスケベジジイなんだ・・・)

 

ありがてぇ、ご利益だ

寒風吹き荒れて波は穏やかならざる朝の景色の中、身支度を整えて家を出立する一人の若侍。腰には大小の鞘を差してはおらず、鞄のみ。充電を忘れたスマホの電池残量が25%であることを確認すると、しまった!と思いつつも諦めてぱっぱっぱっぱと馬のような勇ましい足音を鳴らすことなく、ただとうとうと散歩に出かける。

最近はすっかり寒くなり、本格的な冬の到来を感じさせるのだが、未だ都会の風景は一面の銀世界とはいかない様子。薄灰色の雲がもくもく、どよどよと漂いながら空を覆う姿を見ていると憂鬱な気分になってくるが、一つの光を射すかの如き演芸を見るために、私はぱっぱっぱっぱっぱっぱっぱっぱと、馬のように走ることなく、たらたらと歩いて神田に到着する。

古書店をぶらぶらと巡りながら、めぼしい本を見つけることもなく時間を潰す。やはりらくごカフェに向かう前の、あの裏路地のエレベータの周囲にはカレー屋ボンディの行列。その数武田信玄も驚愕のおよそ3万の軍勢、皆一様に赤備えの甲冑をどうのうこうのうんぬんかんぬん。というわけもなく、カレーに飢え、カレーを欲し、カレーを食さんと必死になってカレッと目を見開いた若者たちが、スマホを見ながら皆一様に列を成している。私は槍の先を払ってえいやっ!と斬りかかる訳も無く、スッスッと列を横目にエレベータに乗り込み、5階へ行くボタンを押す。憎き蛮国の食べ物など見向きもしないぞと固く心に誓いつつ、結局新宿でゴーゴーカレーを食すことになるのだが、私はらくごカフェの門を開いた。

今度こそ騙されまいとして出し抜いたボンディの軍勢の後で、らくごカフェにちらほらと見えるご常連の一派。これすなわち豊臣秀吉子飼いの七人衆。というわけではないが、ちらほらとお客様。美味しい珈琲(一杯300円)を頂戴して着座。

外の寒風荒ら荒らしい様とは対照的に、ゆったりと穏やかな空気が流れる店内。素敵な佇まいである。芸人の言葉と人々の笑いが染みついた床。こんな場所で午後のひとときを過ごそうと考えるだけでも立派。実に立派だと思う。

考えてみればひと月が経つのは早いものだ。つい最近貞橘先生の『鼓ヶ滝』を聞いたかと思ったらもう11月である。時の経つのは早いものぞ、人の成長はだんだんと積み重なっていくものだ。

さてさて、前口上はこの辺で。開口一番は勇ましき目を持つ講談師。

 

田辺いちか『鳥居と成瀬 湯水の行水』

この人の出で立ち、佇まいは凛としていながら勇ましく清らか。目を見開いて口を開き、放たれる飾り気のない真っすぐな言葉を聞いていると、白い和紙にそっと筆を下ろし、一点の迷いもなくすっと縦線を引くような、そんな凛々しさを感じる。

見開かれた目に射す蛍光灯の光でさえも美しく、その眼前で進む物語に冒頭からぐっと引き込まれる。おじさんは涙腺が緩いからすぐ泣きそうになる。鳥居と成瀬の意地の張り合い。この応酬の可笑しくも胸に響く情と情。ただの意地比べと考えてはならない。そこには二人の間に相通ずる思いがあるのだということを、確かな言葉と、声と、リズムで描いていく、いちかさんの語り。もはや私は心を奪われている。前回の『隅田川乗っ切り』でも思ったが、今回の『湯水の行水』は筋はもちろん良い。そして何よりも田辺いちかさんの紡ぎだす言葉が、一つ一つ丁寧に情景を描写していて、それはそれは脳内にありありと景色が浮かんできて、もう雑な言葉で言えば『涙がちょちょぎれる』のである。

まさに言葉を冓んでいる人だと私はいちかさんに対して思った。一つ一つの言葉を重ねて、静かに火を灯す。特に成瀬が武田の軍勢へと勇ましく斬りかかっていく時の描写には、儚い人間の意志を感じて胸を打たれた。戦の中で互いに互いを認め合った鳥居と成瀬。家が隣同士ということで、言葉にはせずともお互いがお互いの心意気を知り、高め合う様子。丁寧に丁寧に言葉を折り重ねていくいちかさんの語りには、他には無い静かな凛とした清廉な空気が漂っている。

何度聞いても目に涙が浮かぶだろう。なぜあんな語りが出来るのか不思議でならない。貞橘先生の前にこんなに胸打たれて、目に涙を浮かべてしまうのだが、本当にいちかさんの今後が楽しみでならない。一席を終えて舞台袖に下がり『お先に勉強させていただきました』という丁寧さ。講談という話芸の世界に身を浸し、全身全霊で講談に取り組む田辺いちかさん。是非、講談ファンじゃなくても見て頂きたい、素晴らしい講談師である。

 

一龍斎貞橘『天保六花撰 河内山宗俊と直侍』

髪を切って坊主風の貞橘先生。キリリとした眼と鉄壁の語り口。これよ、これこれ!な貞橘節で紡ぎだされたのは河内山宗俊の話。流れるような天保六花撰の面々の名と、六歌仙の面々の名を言う辺りは耳に心地よく気持ちがいい。六歌仙に準えたという悪人の中から、河内山宗俊のお噂。頭が良くて賢く将来を期待されながら、血筋の無い者は上に立つ人間になれぬとやさぐれる宗俊。この辺りは中村仲蔵のような、血の無い役者であってもめげずに努力して名題になった人物とは対照的である。どれだけの才能に恵まれようとも、血統が物を言った時代に生まれた悪人。これは悪人にならざるを得ない環境であったのだろうということが察せられ、宗俊の境遇を憂いつつも、まだそれほど悪人には成っていない宗俊が直侍と出会う話である。

冒頭で両国橋にて宗俊が書物を読むシーンがある。その書物を仮で『三方ヶ原軍記』として貞橘先生は読んだ。これがもう白眉も白眉。流麗なる口跡に思わず笑みが零れてしまって、ああ、もっと続け続けと思っているところで一区切り。貞橘先生の語り口で読まれる『三方ヶ原軍記』は凄まじい余韻と口跡である。私が最初に聴いた時から感じた黄金色の語りが緩やかな波となってやってくるような感覚がある。もはやスーツを仕立てる職人さんですか、と思うほどの折り目正しい語り口。

何層にも何層にも重ねられた言葉の数々で積み上がる宗俊の物語。松鯉先生の『卵の強請り』で感じたような、何ともずる賢い奴だ!という憎たらしさはなく、そこはやはり人の情が通った男だったのだなぁ、最初の頃は。という印象を抱かせるくらいに泥臭くて人間味のある宗俊に感じられた。グレずに全うな道を歩んでいたら、きっと立派な人間になったであろう才知を、大名などに発揮して煙たがられていく。そして、直侍である片岡直次郎との出会いの場面。ここにも懐の深い宗俊の、まだ悪にどっぷりと身を浸していない、情のある人間の様が描き出されていた。何よりも悪の道へと宗俊を引き込んだのは、直次郎なのではないかという予感をさらりと語って、幕を閉じる。

天保六花撰がどのような連続物として存在しているのか、私は良く分かっていない。断片的に神田派の講談師で聞いたことはあるが、第何話から何話まであるかは分かっていない。それでも、貞橘先生で『宗俊と直次郎の出会い』を知ることが出来てとても良かった。これを聞くと、宗俊に対するイメージが変わった。どんな悪人も最初から悪人だった訳では無く、様々な環境、周囲の人間に巻き込まれることで、結果的に悪人にならざるを得ない状況になったのだということが、何となく察せられたのである。悪人にも悪人の道理がある。この辺りを全て網羅するのにどれだけの時間がかかるか分からないが、ますます講談の魅力にハマっていく一つの要因となった。この後で、宗俊はどうして悪人になっていったのだろう。そして、どんな裁きが下るのだろう。そんな想像が巡ってきて、講談にヤミツキである。

 

神田織音『お江』

美しき年輪を重ねたお方というような、織音先生。お話は織田信長の妹、お市が産んだ三人の娘のうち、末娘のお江の話。運命に翻弄されっぱなしで、胸が痛む話である。特にスケベジジイとして嫌な笑みを浮かべる秀吉に嫉妬する。また、いちかさんと織音先生に挟まれる貞橘先生にも嫉妬する。女にモテる男に私は嫉妬する(笑)

お江の娘、完子の姿にはやや感情移入しづらい部分もあったが、織音先生のとつとつとした語り口で、自らの運命を受け入れる女の心が何とも言えないもどかしさを感じさせた。目の動きと首の動きが特徴的で、織音先生が見てきたスケベジジイの感じと、物言わず目と所作で語る女性の姿が感じられて興味深い。それほど歴史に詳しくない私であっても、お江が置かれた境遇や人生を考えて行くと、やはり何とも言えない理不尽さがあって、可哀そうになってくる。

あれやこれやと思索するスケベ秀吉、運命を受け入れつつも賢く生きる淀殿。全てを把握できた訳ではないが、お江とその周辺を取り巻く環境というものが感じられた。少し私には縁の無い話のように思われたし、それほどどろどろとしたものにあまり興味を持つことが出来なかった。それでも、完子の純朴さを認める中で、運命を受け止めようとするお江の決意のようなものが、私には切なく感じられた。

 

一龍斎貞橘『赤穂義士銘々伝より~岡野金右衛門

冬は義士ということで、一席は赤穂義士のお話。お初に聴く岡野金右衛門の話だったが、これがまた面白いのなんの。吉良邸の設計に携わった大工の棟梁、その娘のお艶が大石内蔵助一派の岡野金右衛門に惚れ、その恋心を利用して吉良邸の絵図面を手に入れようという噺。007もミスターアンドミセススミスもびっくりの『恋の大作戦』ばりのMr Saxo Beatが流れるわけである。

初心な金右衛門の姿も笑ってしまうのだが、その金右衛門に惚れるお艶の純粋さも面白い。好きな男のために健気な奮闘をするお艶。奮闘虚しく好きな男の夢を叶えられず、男からそっぽを向かれるお艶。この彼女の決意を想像してしまって、良い時代だなぁと思う。今どき、好きな男のためにちょっとした悪さをする女性っているんでしょうかね。特に語られることは無いが、父親の留守に抽斗から吉良邸の絵図面を盗み出すお艶の表情を想像してしまった。なぜか桧山うめ吉さんで想像された。うめ吉さんから絵図面を入手した金右衛門の姿も想像してしまって、私は「お艶、恐ろしい子!」と月影千草ばりの表情で聞き入ってしまった。何よりも、貞橘先生の描き方が実に絶妙で、鉄板の貞橘節もさることながら、微妙にすっとぼけた金右衛門の姿や、完全にすっとぼけた大工の棟梁の姿など、実に面白い。途中、お艶に惚れられた金右衛門が番頭の神崎与五郎に助言を求める場面がある。そこで神崎与五郎が「成らぬ堪忍、するが堪忍』と助言する。「そなたはそう言うと思った」と返す場面は、私の行動の壮大な伏線になっているのだが、この辺りは神崎与五郎に纏わるお話を聞いていると、より一層楽しめるだろう。このように、登場人物が交差するのも講談は面白い。また、金右衛門とお艶の出会いのシーンも、聞いているこっちまでドキドキする少女漫画みたいな淡い風景。絵図面を持ってこれないと知った金右衛門がへそを曲げるシーン、そしてそれにショックを受けるお艶の表情。磨き上げられた所作と、無駄の省かれた言葉の選択によって、淡々と進んでいく物語。何と言っても私の想像の中で、もっとも良いシーンは、抽斗から絵図面を盗み、金右衛門の元へと走るお艶の姿。そのまんまうめ吉先生なのだが、この辺りは勝手に脳内で言葉が付されていて、「金右衛門様、私、やりましたよ!あなたのために、絵図面を手に入れましたわよぉおおお!」というような言葉が浮かんできて、私が男だったらこれほどうれしいことは無いと思う。私が金右衛門だったら間違いなくその晩は、おっと、これ以上は止そう。

絵図面を手に入れた大石一派は討ち入りをするわけだが、その前の晩に金右衛門がお艶の元へ行き、「いいかい、明日は吉良邸に近寄っちゃいけないよ」というようなことをいう場面。もうこの辺りなんて、どこかで見たことのある映画みたいな美しさがある。死亡フラグを立てた金右衛門と、何も知らずに「金右衛門さんがそう仰るのなら・・・」というような感じで受け入れるお艶。なんだこのダイヤモンドばりの純粋さは。輝きが強すぎて何にも見えないわ。と思いつつ、後半はどうやら演者によって結末が分かれるようである。敢えて貞橘先生がどう終わったかは記さない。読者が体験したときのお楽しみとする。

赤穂義士銘々伝は『赤垣源蔵』、『神崎の詫び証文』を良く聞いている。特に『神崎の詫び証文』が断トツで聞いている。今日の『岡野金右衛門』のような、現代の恋愛×スパイのようなお話があるとは思わなかった。互いに惚れ合い、ちょっとした悪さに手を染めながらも、愛には敵わないなぁ。と思う一席で、仲入り。

 

一龍斎貞橘『左甚五郎 水呑みの龍』

最後の演目は『左甚五郎もの』。私にとっては彫り物の名人として、彫った物に魂を与える名人のお話。ここで交差してくる人物と言えば、大久保彦左衛門である。もはや名脇役として、随所で人を助け、人の才能と力を見抜く才人。前回の『隅田川乗っ切り』でも阿部善四郎を助け導いている。私の中で講談の中に大久保彦左衛門が出てきたら、もはや良い話確定なのである。

そんな大久保彦左衛門が左甚五郎を龍を彫る物として抜擢する。ところが、肝心の龍を甚五郎は見たことが無い。上野、不忍池の弁天堂に願掛けに行く甚五郎が、池の傍に立つ娘を見るシーン。若干恐怖映像のような怖さを感じながら、そこから龍が天に昇っていく様がありありと浮かんできた。貞橘先生はこの辺りの情景描写を派手にはやらない。大音量でやると迫力はあるかも知れないが、むしろ想像の邪魔になると思っている私にとっては、最高の語り口。甚五郎の描き方も実に素晴らしい。天衣無縫の天才と思われがちだが、意外と人間臭い。龍を見たことが無いから彫れないという正直に言う辺り、甚五郎の性格が表れていて良いと思った。ふと思ったが、義士伝では『惚れた話』、甚五郎では『彫れた話』になった。ま、どうでもよいが。

前回のトリネタは『鼓ヶ滝』で、この幻想的な描写が実に緻密な語り口で描かれていて、この辺りに貞橘先生の語り口が乗ってくると、とても心地が良い。龍が天に昇っていくのは夢だと自覚しながらも、その夢からヒントを得て龍を彫る甚五郎。彫った龍に魂が宿り、水呑みを始める場面も実に見事に描き出している。これはもはや百聞は一見にしかずなのだが、貞橘先生の語りには現実世界から幻想世界へと移動するときの、微妙なズレみたいなものが無くて、あたかも幻想が現実に存在しているかのように錯覚する語りとリズムがある。これは是非、聞いて体験して頂きたい。

水を飲まないように楔を打ち込むと描写して、龍を彫った建物の顛末を語って幕を閉じた。

 

総括すると、貞橘先生の語りが素晴らしすぎて、物語の筋を追っているだけでも惹き込まれてしまう。紡がれる言葉とトーンとリズムに一度ぴたっとハマってしまうと、もうそこからずるずると物語の世界に引きずり込まれてしまうのだ。私が思うに幾重にも幾重にも積み重なった言葉が、こんがりと焼きあげられて口の中に放り込まれるような感じ。私が感じる黄金色の語り口と相まって、まさに金色の講談クロワッサンを食したような、そんな気分になったのである。前菜としてほろりと爽やかな涙を誘った田辺いちかさんの講談クロワッサン。人々の心の機微を繊細に描き出した織音先生の、その名の通り織り目の細やかな講談クロワッサン。そして、笑いと真剣の塩と砂糖で味付けされた貞橘先生の金色の講談クロワッサン。私のお腹は既にパン・パンである。

さて、勝手にお後がよろしいようで、と申し上げさせていただいて、本記事は閉幕。この後は、末廣亭に行き、松之丞さんと松鯉先生を見に行きました。

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