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12月、演芸初めの門出を祝う~2018年12月1日 中野小劇場 古今亭文菊独演会~

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我以外、皆師なり 

 

11月の終わりを、講談で締めくくった翌朝、師走の朝は眠い。赤穂義士達は現代に存在しないが、現代に存在する私のような、おっと、小生のような小粋な人間は、だらだらっと気張ることもなく生きていくしかない。寒いと家から出るのは億劫だし、基本的に熊みたいな生活をしているので冬眠したいし、路上でハゲとハゲが喧嘩して、どちらもケガねぇし。とか冗談を言いつつ、さくっと着替える。

顔を洗って髭を剃って、お決まりのスタイルを整えて家を出る。講談の世界に浸っていた昨日とは打って変わって、平凡な日々。電車に乗れば退屈そうな顔をした紳士が不死身、じゃなくて、しがない様子で鞄を抱えてホームへと消えて行く。英雄達が残した夢の跡を辿って現実に舞い戻ってきたとき、私は何に、その物語を活かせば良いのか。主君や家来と言った身分もなく、忠義やら敵討ちの制度もなく、手をがたがた震わせるわけでもない私が、一体演芸の何を生活に付与していくのか。

既に答えは出ている。演芸は人の心を理解するための、ありとあらゆる人の心を理解するための芸だと私は思っている。人の心を知ることで、日常生活の中で、様々なことに演芸は応用できる。たとえば神崎与五郎の忍耐の精神。目的を達成するためには、恥を捨てプライドを捨て、全ては敵討ちのためにと、酷い仕打ちに耐える精神。一つ秀でた物があり、人情を持っていれば、周りに助けられるということの証明として、石川一夢という講談師の存在。雲田はるこ先生が仰られたように、落語の魅力は「すべての感情を網羅していること」。演芸は「人の心の全てを網羅している」と私は思う。嫌だなと思う人間から、見習いたいと思う人間まで、ありとあらゆる人間が登場する。だから私は常々こう思っていた。

 

真に誠実なる人は、出会った全ての人たちを生涯の恩師とすることのできる者である。

 

些か長い。だが、私はずっと前からそんなことを思っていた。だから、極力誰かを蔑むような発言は避けてきたつもりである。談志師匠には「お前のは、毒がねぇからつまらねぇ」と言われてしまいそうだが、それでも毒なく、書きたいのだ。

 

さて、そんなことを思いながら、文菊師匠の独演会。とある方にはバレたと思っていたのだが、どうやらバレていないらしい。私は結構、もう様々な方をTwitterで存じ上げている訳ですが、根がシャイなので、声かけが出来ませんし、声かけされても困るので、ほどよい距離感でいたい。

 

春風亭きいち『代脈』

春風亭一之輔師匠の一番弟子で、ちょっと調べるときいちさんのお父様のブログが出てきたりする。そんなちょっと変わり種な前座さん。寄席で見れば実力もあるし、声にも張りがある。昨日今日の前座に比べたら既に二つ目クラス。だけども、私はどうしても一之輔師匠の物真似であるように感じられてしまって、きいちさんがどういう人物なのかということが見えて来ない。多分、以前にも書いたような気がする。きっと真面目なのだが、一之輔師匠の間と言葉を受け継いでいるし、その後光でウケている感が見え隠れしてしまう。だったら一之輔師匠で聴きたいと私はどうしても思ってしまうのだ。守破離という言葉にもあるように、今は師匠の教えを忠実に守っている落語家さんだと思う。これからどう破っていくか。そのとき、どんな風に変わっていくのか。楽しみな落語家さんである。ご常連さんにもウケていました。

 

古今亭文菊高砂や』

12月の演芸初めは文菊師匠で始めたかった。たまたま朝早かったというのもあるし、やはり自分の演芸評の大きな指針として、文菊師匠は存在しているのだ。

ひたすらに古典落語を守り続けている文菊師匠。改編や現代の感覚を入れ込む落語家さん達が続々と現れる中で、金太郎飴のようにどこを切っても古典落語の文菊師匠。常に想像を超えた江戸の風と、江戸時代からタイムスリップしてきたんじゃないかという佇まい。煌びやかな目元、粋な張りのある声、緻密かつ落ち着いた言葉選びと間。全てが落語のハイ・スタンダード。私にとって文菊師匠は、落語から江戸の空気感を取り出すために、長い年月を掛けて挑んでいる凄まじい意志を持った落語家さんなのである。

マクラで『我以外、皆師なり』という言葉を聞いたとき、私は同じ思いを文菊師匠も持っていたんだと思った。どんな人間であっても、その人と同じ人生を歩むことは私には出来ない。私には私だけが歩むことが出来る人生があるように、他の人には他の人にしか歩むことの出来ない人生がある。だからこそ、私は私以外の人を師として、様々なことを受け取っていかなければならない。と、冒頭に記した『生涯の恩師とする者』という言葉と重なって、私はただ一人、感動していた。後で調べたところ、宮本武蔵を書いた吉川英治先生の言葉であるらしい。吉川英治先生と古今亭文菊師匠と同じ思いでいられたということが、私には幸福で仕方がない。

今日はありとあらゆることが、祝福されるべき日だったのだと思う。結果的に私はそう思った。なぜなら、12月最初の演目が『高砂や』だったのだから。

私は音源でしか文菊師匠の二つ目時代を知ることは出来ない。今日の一席『高砂や』は、二つ目時代の音源とは比べ物にならないほど、掛け合いをする二人に深みが現れている。特に隠居のトーンは落ち着いているし、何よりもリズムが緩やかである。白眉は隠居が『高砂や』を教える場面。私としては拍手を送りたかったのだが、会場はなぜかあまり沸き立っていない。仕方なく一人でぱちぱちと叩く。菊六時代の音声だと、まだ声質とリズムが覚えたてで、真に二人の性格が立ち上がって来なかった印象だったけれど、真打になって聴いた『高砂や』には、わざとらしさを一切感じなかった。ちょっとわざとやっていると感じられる菊六時代の八っつぁんの演じ方も、演歌を心得ているという演出が挟み込まれることで、それなりに歌は上手いのだけれど、祝言の謡となるとからっきしだという部分に説得力が増した。隠居の言葉にも単に否定だけではなく、懐の深さが現れていて、二つを聞き比べたらその違いがはっきりと分かるくらいに違う。今日の『高砂や』を聞いた後で菊六時代の『高砂や』を聞いて、私はそう感じた。

演芸の魅力の一つとして、好きな落語家の成長を一緒に楽しむということがある。既に真打になってしまった方でも、ネタ卸しの会に行けばそれを味わうことも出来る。その成長を感じた時、胸に迫ってくる感動は計り知れない。これは是非、味わってほしい。

ここ最近の文菊師匠の話には、どっしりとした重みが付加されてきたように思う。どこか軽さ、溌溂さが感じられた去年と比べると、また一つリズム、声、間。全てが一段階、緩やかに、低く、緻密になって来たように私は感じる。もちろん、一日一日、様々な要因で芸は変わってくるけれども、朝の10時の穏やかな、少しぼやっとした空気の中で、気持ち良く響く文菊師匠のお声は、祝言を謡いながらもどこか失敗してしまう可愛らしさと相まって、素敵にほっこり温かい一席になったところで仲入り。

 

古今亭文菊『火焔太鼓』

道具屋のマクラ、目で語る姿が面白い。売る者と買う者の駆け引きを語りつつ、演目は『火焔太鼓』。以前、渋谷らくごのトリで見た時に比べると、時間帯もあってかリズムは緩やかに感じられた。会場も常連さんばかりだから温かい空気。何と言っても文菊師匠の突出した女将さんの演じ方、これに尽きるだろうと思う。夫婦の関係性がはっきりしてくるなかで、終始周りの人たちに翻弄されっぱなしの甚兵衛さん。人が良い甚兵衛さんに火焔太鼓を売った道具屋が、私は粋な人間だなぁと思う。真っすぐで正直だけども抜けていて、女将さんに頭の上がらない甚兵衛さんが、道具屋の心意気に救われながらも、様々なことに巻き込まれ、最後はハッピーエンドの物語。

表情で風景を見せて行く演出も素晴らしいし、何よりもあまり奥さんに信頼されていない甚兵衛さんの可哀そうな境遇に共感する。正直者が馬鹿を見ない、良い話なのである。人間の心の機微が見事に現れているのが、私は『火焔太鼓』だと思っている。

また、『火焔太鼓』は古今亭を語る上で欠かせない演目である。元は小噺であったものを三遊亭遊三が膨らませ、それを聞き覚えた5代目古今亭志ん生が練り上げた一席である。

文菊師匠の甚兵衛さんには、奥さんに頭の上がらないことを自覚している部分がある。志ん生師匠の時代だと、恐らくは男尊女卑の名残りがまだ微かにあって、どちらかと言えば甚兵衛さんが奥さんに腹を立てている部分が回収されないままなのだが、文菊師匠は甚兵衛さんが女房に腹立つのだが、結局女房には敵わないのだと自覚する部分がある。特に太鼓を持って家を出る場面。志ん生師匠は「叩きだしてやる、あのアマ!」でお屋敷へと到着するが、文菊師匠は「なんだちくしょう、カカアの野郎。言ってやるんだ、こんちくしょう、てめぇこの野郎って言ってやる!そんでもって、最後にはすいませんって言ってやる!」というようなことを追加していて、細かい部分なんだけども、時代の変化に見事に対応した一言だと私は思っている。

今はYoutubeで不正なのか不正じゃないか分からないが、文菊師匠と志ん生師匠で『火焔太鼓』の聞き比べが出来る。どちらが好みか、是非聞き比べてほしい。

何度か同じ高座を見ないと、その微妙な言葉の選び方の違いを感じることは出来ないと思う。何分、朝となるとそこまで真剣には聴いていないというのも本音である。けれども、しっかりと微修正というか、自分の中でベストの言葉を探してきている文菊師匠の意志を少し感じることが出来た。

志ん生師匠とも志ん朝師匠とも違う、文菊師匠独自の『火焔太鼓』。特に奥さんの演じ方が他の追随を許さない出来。そして目線で風景を語る所作。決してCDには映って来ない部分にも、文菊師匠の魅力が詰まっている。これは是非、刮目して頂きたい。

 

総括すると、12月の演芸初め。とても有意義な会だった。文菊師匠の高座を拝見することが、様々な落語家さんを見て行く中で、一つの指針になっていることは間違いない。古典落語の中心に文菊師匠を据えると、柳家小三治師匠からごはんつぶさんまで、色んな人の芸の違いをはっきりと感じることが出来る。私にとって文菊師匠は江戸落語の標準である。その文菊師匠とトレーサビリティを取っているのが、春風亭朝七さんだと私は思っている。今、この二人を見ることが落語そのものの標準を作る上で、初心者の方にも一番の手助けになってくれるはずである。さらには、朝七さんはまだ前座さんなので、これから御贔屓にすれば、ますます落語の世界の理解は膨らんでいくだろう。ベテランの方にも、初心者の方にも、この二人、是非見て感じて頂きたい。

 

そんなわけで、本日はここまで。

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