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自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

人の心を浚う人~2018年12月2日 朝練講談会 田辺いちか 一龍斎貞弥~

落ちぶれて袖に涙の降りかかる 人の心の奥ぞ知らるる

 

随分と回り道をしてきました。

 

私の倅になってくれないか

 

行って参ります! 

 

人にやや遅れて歩む君の背の月光陽光決して霞まず

  

朝、7時に目を覚ます。昨日は久方ぶりの民謡クルセイダーズのライブで、頭の中が民謡でいっぱいだったし、ゲストの吾妻光良 & the swinging boppersも最高だったし、帰り際に立川志らべさんを発見したりと、色々と素敵な瞬間に立ち会うことが出来た。

今日は朝練講談会ということもあって、早めに身支度を整えて家を出る。まだ少し肌寒く雨が降りそうな陽気。傘を持っていこうかと思ったが止め、てくてくと散歩をして会場へと到着。

数日前に田辺一邑さんのツイートで、来年の3月に田辺いちかさんの二つ目が決定したという報告もあり、今日はどんな思いでいちかさんが高座に上がるのか、とても楽しみにしていた。恐らく私と同じように多くのお客様が楽しみにしていた様子である。開場前の時刻にはずらずらと列ができており、恐らくは4年間、田辺いちかさんを見守り続けてきたお客様もいるだろう。新参者ながら田辺いちかさんの醸し出す雰囲気に惹かれ、高座を拝見させて頂いている身としては、そんな先達に遅ればせながら綴っていきたいと思う。

着座して周囲をざっと見回すと、やはりご年配の、生粋の講談ファンの方々がいらっしゃるご様子。私のような眠い眼を擦り、体を無理やりに起こさなければ家を出れないような怠け者とは望む姿勢が違う。本気の講談好きの会、開幕である。

 

田辺いちか『生か死か』

登場したと同時に拍手が起こる。表情はとても嬉しそう。いちかさんはいつも、嬉しそうな表情で講談に臨んでいるように私には見える。

その大きな眼は今日も、光り輝いている。凛としてたおやか。素朴ながらも芯の通った声。一言一言が優しくて、温かくて、心地が良い。

前置きをした後で、二ツ目に昇進が決まったというご報告。Twitterで知っていたのだが、改めて本人の口で言葉を発せられると、きゅっと胸が締め付けられて、涙がこみ上げてくる。それからは涙が零れてしまって、断片的にしか覚えていないのだけれど、ネットで調べた情報通りのことを仰られていた。詳しくはこちら

 

 39歳女性講談師。只今、前座修業中。

http://kanto-seikyokai.jp/?p=8917

田辺いちかさんを初めて見たのは、10月21日の朝練講談会。貞橘先生の前に三方ヶ原軍記を抜き読みされていた。初めて見た時から、その眼と語り口、何よりも滲み出てくる優しさに惹かれた。今、これからが最も楽しみな講談師である。

それから私は、田辺いちかさんで『隅田川乗ッ切り』や『湯水の行水』で泣かされてばかりで、いちかさんの講談を聞き続けるとミイラになって干からびるんじゃないかと思うくらいである(おふざけは控えましょう)

どう言い表せば良いか悩んでいるのだが、清流と答えるのが適切な気がする。大原敬子先生のお言葉を借りるとすれば、河というのは、最初、天から雨が降って山に染み込み、いろいろなもので濾過され、初めて綺麗な水になる。いちかさんは、講談の世界に飛び込み、4年という前座修行をいよいよ終えて、来年の3月に二ツ目になる。山に染み込み、ようやく一つの清流になろうとしているのだ。

考えてみると、水というのは最初から綺麗な訳ではない。泥水だったり、不純物が混じっていたり、山登りをしていても、汚い河は幾らでもある。汚い河には汚い河なりの魅力はあるけれど、色々なもので濾過され、街に流れて知れ渡り、やがて一級河川となるまでには、長い年月がかかる。その最初の源流に、今日、朝練講談会にいらっしゃった方々は立ち会ったのである。

そして、田辺いちかさんの決意表明の後、初めて聞く田辺派に伝わるという由緒正しい演目というようなことを言って、『生か死か』というお話を始めた。これも違法かどうか分からないが、Youtubeに田辺凌鶴先生のものがある。是非、聞いて頂きたい。

物語のあらすじは、終戦後、家族を失った天涯孤独な男が、数奇な運命によって再起するというようなお話である。これがまた、怒涛の感動場面の連続で、いちかさんに見られていたら恥ずかしいくらい、目から涙が溢れてしまった。

いちかさんが二ツ目になるということの、強い決意のようなものを、私は演目から感じたのである。今までは先輩方の芸を袖で見て学んでいたが、今度は自分の芸でお客様を呼ばなければならないというようなことを仰られていて、内心私は(大丈夫、きっと皆、あなたの芸に惚れていますよ)と思った。それこそ、二つ目になるということに不安もあるだろう。時には濁流になったり、虫の死骸とか折れた枝が河に流れることだってある。それでも、諦めずに長い年月をかけて、講談の世界に流れ続ければ、必ず立派な利根川級の川になると私は信じている。そう信じている客が一人ここにいるのだ。

冒頭、主人公の男は死のうとするのだが、戦争で特攻隊に入り命を落とした息子、コウタロウにそっくりの青年と電車の中で出会う。この場面で私は泣いている。なんやねん、その最高の出会い、と胸の中で突っ込む。息子そっくりの青年に出会ったとき、男の胸にはどんな思いが沸き起こったのだろうかとか、その青年に銃を向けられた時の心持ちとか考えてしまい、自然と涙が溢れて止まらなかった。

ひょんなことから大金を手にする男だが、賭場で全部賭けて死のうとする。ところが、あれよあれよと金が増えていく。仕方なくその金を持って悩んでいるところに、再びあの、青年がやってくるのである。この辺りで既に私の涙腺ダムが決壊。青年を家に招き入れた後からは、黒部ダムの放流よろしく、温かい涙が流れっぱなし。もはや正常な評が出来るかどうかさえ怪しい。

それから青年が男の倅になるくだりや、その青年が男の息子の後輩だった場面も挟み込まれる。確かヤマセ?ついてこい!のくだりがあるのだが、もういちいち映像が浮かぶし、泣くし、泣くし、泣くしで、もうおじさん困っちゃう。(ふざけないと書いてて泣いちゃう)

最後、男が青年に向かって「おとっつぁんと呼んでくれないか」の言葉、それに答えて「おとっつぁん」と呼ぶ場面。実は青年も戦争で家族を失い、天涯孤独であることが分かる説明も挟み込まれて、私のような純粋無垢な人間(ツッコミどころ)は、もうひたすら「ええ話や、ええ話やでぇ」と泣くしかなかった。

天が命を救ったと言えば聞こえはいいかも知れない。人の縁が男を死なせなかったのだろうか。はたまた、戦争で死んでいった息子、家族たちが、残された天涯孤独の男を救ったのだろうか。物語中、語られることの無い部分に私は思いを馳せた。

天涯孤独の人生を歩むこととなった男と青年が出会い、再び生きていくことを決意する場面は、たとえどれだけ都合良く奇跡が起きたとしても、それらすべてに確かな理屈が存在しているのだということを、いちかさんの声、所作、そして眼、全てが説得力を持って表現されていた。

ふと我に返って考えてみれば、『生か死か』は予定調和のように奇跡が連続で起こる。映画で言えば『東京ゴッドファーザー』並みの奇跡の連続である。でも、そんな奇跡を信じて見たくなるような、そんな語り口と魅力を田辺いちかさんから私は感じた。

これから数多くのお客さんを魅了し、田辺いちかさんにしか出来ない、素敵な講談が生まれるだろうと思う。生きているうちに、可能な限りやりたいと思えた講談で、これからいちかさんが、どんな講談を見せてくれるのか、とても楽しみである。

同時に、講談を知ったばかりの方や、まだ講談に出会っていない方にも、是非一度聞いてもらいたい講談師である。

私の目から涙を零した、最初の講談師になった。

余談だが、笹井宏之という、26歳という若さで夭折した歌人がいる。私は彼の『ひとさらい』、『てんとろり』という短歌集が大好きで、短歌そのものが好きになるきっかけとなった人である。生きていれば、短歌界を代表する人物になったと思われる人がいる。この人が残した短歌の数々を見ていると、私は田辺いちかさんの語りに、笹井宏之さんの短歌のような、人の心を浚う力を持った人だと感じたのである。笹井氏については、詳しい記事があるので、こちらを参照して頂きたい。

 

世界への交信と祈り ―笹井宏之をめぐって― 岸原さや - さやかな岸辺

 

いちかさんはどうして美しく、凛としてたおやかな語りで講談が出来るのか、私は笹井氏の平易な言葉で生み出された短歌を見た時と同じような、どうやってその良さを伝えたら良いか迷ってしまう事態に陥るのである。もちろん、色んな芸人さんを見て、その印象から外れない位置で文章が書けているかは分からない。それでも、あの透き通るような眼差しと、可愛らしくも芯の通った誠実な姿勢を語るとき、私はどうしても言葉に困ってしまうのである。

詰まる所、何が正しいか正しくないかは分からない。それでも、言葉で書き留めておくことで、私は何かを考えてみたいのだと思う。それだけの魅力を持ち、演目を終えると不思議と心が穏やかで、何か不純物を取り除いてくれたような、素敵な講談をいちかさんはやっている。もしも何かに悩んでいる人がいたら、是非聞いて欲しいと切に願うばかりである。

 

一龍斎貞弥『赤穂義士本伝より殿中刃傷~内匠頭切腹

大変申し訳ないのだが、前半はいちかさんの演目に対する号泣を引きずっており、全く頭に入って来なかった。ただ気になったのは目線で、会場にいるお客さんの様子を端から端まで眺めつつ、空気を感じている様子が少しだけ印象に残った。

史実に近い演じ方ということで、東大教授の「忠臣蔵」講義(角川新書)にあるようなことに則った話だと思う。前半は全く覚えていないが、吉良のイジメ理由は上納金みたいなものを浅野が払っていなかったという場面は、史実でどうやらそういうことらしい。また吉良の様子はだいぶ誇張されていると思ったけれども、松の廊下で浅野が斬りかかる場面、それを必死で抑える梶川与惣兵衛という人もまた、数奇な運命を辿る訳である。つくづく思うのだが、忠臣蔵はいろんな演目を聞いてこそ詳しくなってきて、より一層楽しむことが出来る。そういう意味では、落語に比べると少し好きになってからの意志の強さが求められる演芸なのかも知れないと思った。

貞弥さんは声がとにかく良い。美しくて色気もあって声があるなんて、もう反則。次は泣く前に聴きたい素敵な講談師。

 

総括すると、朝から田辺いちかさんに泣かされた会でした。どうも今日は涙腺が緩い日だったようです。

昨日は文菊師匠の『高砂や』、そして民謡クルセイダーズの『アナログ盤リリース・パーティ』と、祝福ムードに包まれていた。その祝福の後で、待ち受けているさらなる試練、幸・不幸。これは人生のどんな瞬間にも言えること。人生に挫折は無い方が良いのかも知れないけれど、挫折した分だけ人間の心というものが分かってくる。

素晴らしい演芸の門出の後で、素晴らしい未来を予感させる講談師、そして先を走る講談師を見れたことにこの上ない感謝。

日本橋亭を出て浅草へと向かう道中、すれ違う人に不思議な目で見られる。ビルに反射した自分の姿を見ていると、まるで失恋して号泣した男みたいになっている。恥ずかしいけど、気持ちがいい。

雨はまだ降らない。私は一路、浅草の木馬亭を目指して歩を進めるのであった。