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自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

眼前の浪情、そして見えない愛情~2018年12月4日 浪曲いろは文庫 木馬亭~

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久しぶりに浪花節を聞いたなぁ、あれが本物の浪花節だよ

 

良かったよ!

 

60代になったら内蔵助を演じられるのかなぁと仰られていました

 

俺が死んだら、葬式であのビデオ流してね

 

浪曲にガンガンにやられて木馬亭を出る。しばし時間を潰そうかと浅草寺辺りを彷徨いながら、適当な店に入って飯を食べる。終始考えていたことは、木馬亭から出る際、後ろの席に座っていらっしゃた豊子師匠のことだった。確かお客さんの誰かが祝儀を渡していて「どうして?私出ていないのに」という豊子師匠の言葉が聞こえてきた。出ていなくても凄い三味線を弾くことは、浪曲を愛する者なら誰もが知っている事実である。

そんな豊子師匠。一番弟子の沢村さくらさんが上方からやってきて、さぞ嬉しかったのだろうと私は感じた。当たり前である。親が子を思う気持ちと同じ、祖父母が孫を思う気持ちと同じ。もしかしたらそれ以上の、師匠と弟子の強い絆があるのではないかと考えてしまった。先日の文菊師匠の独演会で聞いた『我以外、皆師なり』という言葉にも通じるように、さくらさんにとって豊子師匠は師匠だし、豊子師匠にとってもさくらさんは師匠でもあるんじゃないかと思った。

ここからは私の希望的想像だが、パイプ椅子に座って、木馬亭の舞台を眺めている豊子師匠は、弟子の沢村さくらさんの音を聞いて、きっと喜んだと思う。東京を離れて十数年、上方で修業をしてきた弟子の音を聞いて、豊子師匠の胸にやってきた感動の大きさは、私のような新参者の若造が語ることなど到底不可能な、言葉では表現しきることの出来ない、とても大きな感動だったと思う。

どんな日々があっただろう。私は二人が向かい合って三味線をする姿を想像する。豊子師匠は自らの姿を見せることで、自らの芸をさくらさんに伝えた。そして、さくらさんは豊子師匠の三味線に惚れ、弟子になろうと決意した日から、曲師として今日まで弾き続けてきたのだ。

命には限りがある。伝えなければならないものの全てを伝えることが出来るかは分からない。それでも、豊子師匠や孝子師匠は、自らの行動で浪曲の世界を歩き始めた若い浪曲師、曲師たちに示しているのだ。自分たちが同じように受け継いだ浪曲という芸の魂のバトンを、今、渡すときなのだと。

色んなことばかり考えて目がうるうるしてきたので、開場時間になって再び木馬亭に入った。お客の数は40人ほどだろうか。着座すると、浪曲に詳しそうな方が「もっと入ってもいいのになぁ」と仰られているのが聞こえた。客席を見ればほとんどは50代~60代の方々で、夫婦でいらっしゃっている様子の方々も見受けられた。

大阪に行く交通費を考えても、木馬亭で関西の浪曲を聞くことが出来るのはとても貴重な機会だ。たまたまTwitterで見て予定が空いていたので来て見たのだが、周囲のお客様の話を聞いていると、生粋の浪曲ファンが多いのだなぁと思った。

落語ファンの方々の場合はおおよそ「あの人のあの演目いいよね」という感想が目立つ。落語そのものの性質なのかも知れないが、熱狂するほどの名人!名調子!みたいな熱いお客さんは少ないように思う。むしろ、落語家そのものの醸し出す雰囲気に惹かれている方が多いのかな、という印象である。

講談ファンの方々は、語り口と迫力に惹かれ、「あの話は、あの講談師で聞きたい」というような、鉄板の話が出来上がっているなかで、それをどう解釈して語っているかというところに、魅力を感じているお客様が多いように思う。講談には講釈本が存在していて、それがもう磨きに磨き抜かれた傑作の話が多い。同時に忠臣蔵清水次郎長伝など、日本人の心を震わせる伝統の話も多数ある。それを如何に語るか、どんな風に解釈しているのか。そこに魅力を感じた感想が多いように思う。

最後に浪曲ファンの方々は、「声はこの人、節はこの人、啖呵はこの人、曲師はこの人」というように、それぞれの細分化された力に惚れている人が多いような印象である。関東節と関西節がある中で、持って生まれた声の才能を活かす者もいれば、巧みな節を唸る者、物語の登場人物が発する啖呵で魅せる者、絶対的な三つの能力に対して、客はそれぞれに惹かれた者を聴いているように思う。多くのお客様は『節』に感動されることが多いように思う。また、『声』は難しい部分がある。生まれながらの才能ももちろんだが、浪曲を唸り続けて行くことによって出来上がる声というものもある。

落語・講談・浪曲、それぞれに魅力は多い。自分が一体何に惹かれているのかを考えてみるのも面白いと思う。

 

さて、定刻になって浪曲いろは文庫が開演。舞台袖から真山隼人さん、五月一秀さん、沢村さくらさんが登場。浪曲いろは文庫のことについて語られていたが、正直覚えていない。

三人が舞台袖に下がると、開口一番の登場。

 

天中軒景友/さくら『若き日の信長』

ロック好きな人のような髪型で登場。去年の7月に入門したばかりの浪曲師。まだまだ声は出来上がっていないし、ロックが好きだったんだなぁというようなお声。これからどんな風に声が出来上がっていくのか楽しみ。渋くてダンディなお声の持ち主です。

 

五月一秀『隅田八景』

渋いお顔立ちと声。話の筋があまり分からなかったので申し訳ないのだが、終演後にお客さんの感想を耳にすると「酒飲みのおじさん二人が言い合う話」だそう。初めての演目は筋が頭に入っていないから、なかなかとっつきにくく、何となく雰囲気で察するしかない。特に派手なことの起こらない地味な展開だったような記憶がある。節の部分もどう評して良いか難しい部分があった。寄席で聞いた浜乃一舟さんを聞いた時に感じたような、何とも言い難い古典のような響きの味わいがあって、私のような新参者だと隼人さんのような張りのある声の方が、理解しやすかったのかも知れないと思う。渋い節でありながらも痺れたのは、Youtubeで見た京山幸枝若師匠の『竹の水仙』だ。前半を見た時はしみじみとした節だなぁと思っていると、物語の展開とともに後半の節になると染み渡ってくるような、ジーンとした味わいの節になる。冒頭からド迫力の感じの節は分かりやすさもあるが、しみじみとしつつ徐々に盛り上がっていく節も味わい深い。

まだまだ私の浪曲経験も浅い。これからじっくり聞き続けようと思った一席。落語も講談も浪曲も同じ。最初から心惹かれる芸もあれば、聞き続けて行くうちに好きになる芸もある。客としての成長が必要不可欠だ。

一席終わった後で、客席から「いやぁ、久しぶりに浪花節を聞いたなぁ。これが本物の浪花節だよ」というようなこと嬉しそうに言う、紳士の声が聞こえた。私の中には『浪花節』の定義が無くて、きっとその発言は『浪花節』を体験したことがあるからこそなのだと思う。後々になってきっと、私はあれは『浪花節』だったのかと気づくだろうと思う。そのためにも、どんどん聞いていこう。

 

五月一秀/沢村さくら/真山隼人 『神崎東下り』 掛け合い浪曲

神崎と言えば、講談に『神崎の詫び証文』という話がある。立ち寄った店で丑五郎という悪漢に絡まれた神崎与五郎という赤穂義士に纏わる話だ。浪曲ではどのようになるのだろうと思って聞いていると、なんと『掛け合い浪曲』という初めての形式。これがまた実に壮観というか、左に五月一秀師匠、真ん中に曲師の沢村さくらさん、右に真山隼人さんという布陣。この布陣を見た瞬間、なんだかぱっと明るいというか、とてつもないものが迫ってくるのではないかという予感がする。

配役は五月一秀さんが丑五郎。見た目は丑五郎のイメージからは遠いが、声の調子からも丑五郎が適任のように思った。けれども、神崎が隼人さんというのは、ちょっと無理があるのではないかと、失礼ながらに思ってしまった。私の中の丑五郎像は勝新太郎、神崎像は早乙女太一である。本人そのものという訳ではないが、ざっくりそんな想像で聴いている。

三味線が鳴って二人が唸り始めると、これがもう、5.1chドルビーサラウンドを凌ぐほどの大迫力。先ほどの『隅田八景』での節よりも数倍力と張りのある声で、高い調子で唸る左に立つ一秀さんにまず痺れたかと思うと、お次は張りがあって力強い隼人さんの節がやってきて、左右の耳から節が突き抜けてきて、思わず心の中で、

うおおー!やっべぇええ!!!

という気持ちになり、語彙力を失うわけだが、さらにさらに中央からさくらさんの三味線の音が響いてくるのだから、これはもはや浪曲の『長篠の戦い』、信長の鉄砲三段構えにも引けを取らない節が迫ってきて、完全にノックアウトである。

ところどころ一秀さんが「台本に無いことが始まっております」というようなことを言っていて、どこまでが本当で、どこまでが台本なのかさっぱり分からなかった。隼人さんは一所懸命に神崎を演じているのだが、途中で我慢の限界だったのか愚痴をこぼす始末。一秀さんも「あれっ」とか「おやっ」、みたいなことを言っていて、緊張感があってとても面白かった。まさか掛け合い浪曲がこんなにも面白いものだとは!すっかり掛け合い浪曲の魅力にハマってしまった。

特に浪曲師の個性も分かりやすいし、『神崎東下り』と言えば結構シリアス寄りかなと思っていたけれど、一秀先生のお茶目な丑五郎感、隼人さんの恐らく似合ってないとは思いつつの神崎。そして二人を何とか繋ごうと三味線で導くさくらさん。初めて見たけれど、三人の仲の良い関係性が見えてとても面白かった。良かった!

そして、確か冒頭のトークだったのだが、一秀先生も隼人さんも『中村富士夫』が好きだというような話をされていた。私は知らない浪曲師だったのだが、客席の紳士達からは「おおー」というような驚きの声があがっていた。

他にも、例え先輩でもガンガン突っ込む隼人さんの姿とか、いいなぁ。と思う。自分の節に自信があって、先輩の胸を借りながらも突っ込むところは茶化しつつ突っ込む。やっぱり芸人はそうでなくっちゃ!と思わせるような心の強さを私は隼人さんから感じた。円山応挙の幽霊図でも感じたことだが、隼人さんは浪曲が体に染み込み、浪曲で体が作られているんじゃないかと思った。

結局『神崎東下り』はコミカルに終わった。凄く面白かったし、演者も楽しそうにやっていたのが印象に残った。

一席が終わって、次の舞台をセットしているときに起こった出来事は、結構印象深く記憶に残っている。それは、三つある。

一つは、老夫婦の会話。僭越ながら耳に入ってきてしまったので覚えているのだが、とある紳士の言葉が聞こえてきた。

浪曲師はね、若いころから浪曲をやっていると、背が伸びないんだよ」

というようなことが聞こえてきて、声を出す反動で骨が縮むのかなと思って聞いていた。考えてみれば、こんな状態なのかな?と思ったり、

 

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ざっくりとした図ではあるのだけども、そんなことを思ってしまった。考えてみれば、浪曲師の方々で節が良い人は皆さん小柄である。一体その体のどこから響いてくるのかと思うほどに小柄である。きっと声量に抑えれて縮んでしまうのかも知れないと勝手に思いつつ、二つ目の話を聞く。

「俺が死んだら、葬式の時にあのビデオ流してね」

 

この言葉の後で、ちらっと「曲師さんとの~」というのが聞こえたので、曲師との出会いの場面を取った映像なのだろうか。自分の葬式のときに、自分が愛した浪曲師、曲師との出会いの場面を流すほどに、その紳士は浪曲が好きなのだろうと思った。そして、紳士が語り掛けるご婦人は何も言わずに頷いていた。紳士は、恐らく自分が先にいくのだということを思って発言したのだろうと思う。お前より先にあの世にはいかないよ、という言外の意味を感じてしまって、浪曲を愛し、聞き続けてきた人の情緒のようなものを感じてしまった。演芸とは演者と客が一緒になって成長していくものなのかも知れないと思った。だからこそ、私は今の若い人たちに演芸に触れてほしいと思う。自分の感性に合う芸人を見つけ、一緒になって成長していく。例え、若い頃に一度か二度しか見ることが出来なかったとしても、40年、50年後に再びその芸を見た時に、襲ってくる感動は言いようもないほどに大きいものなのだ。

芸と芸を受け渡す芸人だけでなく、それを見ている客の中にも、様々な魂の成長、伝承が行われているのだということを知ってもらいたい。それが、生きていくことなのかも知れないと思うからだ。

あなたが出会ってきたもののなかで、感じたことや思ったことは、あなただけの特別なものなのだ。だから、決してその思いや感動を自分の中に閉まってしまわないでほしい。出来ることならば、自らの感動を後世へと伝えてほしいと願うばかりである。そして最後にやってくる別れの日まで、精一杯に生きようじゃないか。

 

最後の三つ目。それは舞台から聞こえてきた豊子師匠の声、そして行動である。自分の一番弟子のさくらさんの晴れ舞台を、良い物にしよう、最高の舞台にしてあげようという気持ち。客席から聞いていて心配になるくらいに、豊子師匠は舞台を走り回って設営をしていた。心配の気持ちはもちろんあったし、客席からも「あんまり豊子師匠に無茶させないで!心配になるから!」みたいな言葉が飛んで、それに景友さんが応える声とか、全てが芸の伝承のためにあった。何も言わずに行動する豊子師匠の姿勢に全ての人達が感動していた。だから拍手が起こった。あの時、誰もが舞台裏で走り回る豊子師匠を感じていた。

伝説と呼ばれる存在になったとしたら、誰でもふんぞり返って、偉そうにして、若い人たちを顎でこき使うようになって、「近頃の若い者は」というお決まりの言葉で、若い世代を否定する人たちの話を聞く。何かと否定と批判と不満と愚痴ばかりを零して、自分が偉いんだ、自分が絶対なんだ、自分こそが正義なんだ!と声高に主張する人たちもいる。それはそれで良し。でも、私は豊子師匠の姿を感じた時、本当に伝説と呼ばれる人は、ふんぞり返ったり、若い人たちを顎でこきつかったり、否定や批判や不満や愚痴、辞書に載っているありとあらゆる他人を傷つける言葉の一切を使うことはない。むしろ、澤孝子師匠とも共通するが、

 

『若い世代の人たちの成長を望む心』

 

これがまず第一にあるのだと私は思う。普通であれば、余生くらいはゆっくりと過ごしたいと、それまで溜め込んでいた様々な鬱憤を晴らして、我儘に好き放題に生きることの方が人間として当たり前のことなのかも知れない。でも、私はもっと高尚なものを見たように思うのだ。

浪曲の時代を受け継ぐはずだった国本武春師匠が突然亡くなって、さらにその上の世代が抱いた危機感は、若き浪曲師、曲師たちの入門に支えられて、なんとか種火のように今日まで受け継がれた。若き浪曲師、曲師たちもまた、名人と呼ばれる浪曲師と曲師の芸に惚れて、浪曲の世界に飛び込んできたのだ。

古今亭志ん生師匠曰く「無くても無くても良い演芸」が、こんなにも盛んに絶えることなく続いているということの奇跡を、私は感じた。

それでも、芸人たちはみんな、芸の世界に惚れ込み、自らの芸で人々を魅了してきた。豊子師匠や孝子師匠は、その芸を絶やさないために、若手の成長を望んでいるのだと思うのだ。前の記事にも書いたが、それは決して言葉だけで片づけられるものではない。自らの行動と芸で示す。それが芸を共に歩むものへの、一番の伝達手段なのだ。

先ほどの老紳士の「豊子師匠は凄いね。弟子のさくらさんのために一所懸命なんだね」というような言葉が聞こえてきて、思わず私は涙腺が緩くなった。今、どれだけの人がそれを感じることが出来るというのだろうか。

歳を重ねながら、とっくに引退してもおかしくない年齢になりながら、それでも舞台に関わり続け、若手の舞台作りに一所懸命になる豊子師匠。

「ここは真っすぐじゃないとカッコ悪いから」

「これ、斜めになってるけどいいの。カッコ悪くない?」

「よし、出来た!」

そんな風な言葉が、今でも脳裏に焼き付いている。幕が下がっていて姿は見えなかったけれど、弟子のために、若い浪曲師のために、そして未来のために、一所懸命になっていた豊子師匠に向けて送られた拍手ほど、温かいものは無かった。

芸を極めし者は、その芸だけではなく、行動の全てが称賛すべきものなのだということを、私はしっかりと受け止めた。浪曲師にも、曲師にも、落語家にも、講談師にもなっていない、一介の評論家を自称するこの若造が、心打たれた出来事が数多く起こった会だ。後に、豊子師匠は沢村さくらさんの遠征3日間。全てに駆け付けてくれたのだという。忙しい身でありながら、一番弟子のために時間を作ってくれる豊子師匠の心意気。文字だけでは伝わらないかも知れない。是非、木馬亭に足を運んで頂き、その魂と心意気に触れてほしい。師匠と弟子、その関係の美しさに涙が出る。

 

真山隼人/さくら『南部坂雪の別れ』

最初のマクラで、隼人さんが国本武春師匠のことについて話をされていた。浪曲少年として、やってみたい演目があると、そして、まだ年相応ではないかも知れないけれど、どうしてもやってみたい。亡くなられた武春師匠が、60代になったら大石内蔵助を演じられるのかなぁと仰られていた『南部坂雪の別れ』をやります。というようなことを仰られていて、そこには肉体として武春師匠はいないだけで、精神として武春師匠がいるように私には思えた。武春師匠の魂は今、隼人さんだけではなく、太福さん、はる乃さん、そして神田松之丞さんにまで受け継がれているのだ。もしも、今の武春師匠が見ていたら、どんなに嬉しい思いだっただろう。その時の武春師匠の芸は、どれだけ素晴らしいものだっただろう。どれだけ考えたって私たちはもう武春師匠の生の高座を見ることは出来ない。それでも、その魂を受け継いできた芸人達の中で、確かに武春師匠の魂は生きている。私はそう思う。叶うことならば一度、見て見たかった武春師匠の生の芸。どんなに願っても叶わないのならば、何度でも文字を書こう。そして、今の世代に受け継がれた武春師匠の魂を、なんとか感じて行きたい。

演目について、どう語れば良いのだろう。これは胸に秘めた思いをじっと抱えながら、覚悟を決めた男の別れの物語であると思う。神田愛山先生曰く『忠臣蔵は別れをテーマにしている』とある。言葉にすることは容易い。その別れには、様々な人間の心模様が交錯しているのだ。それは、決して言葉では表現されることのない余白。むしろ、色々なものが入り混じっていて、簡単には言い表せない感情。だからこそ、聞く者が思い思いに想像をすることが出来て、それぞれに感動のある物語になるのだ。

人の心の奥底を見ることは出来ない。顔では笑っている人が心の中では泣いているかも知れない。泣いてはいるけれど心で笑っている人がいるかも知れない。それを知る術はそれまでの行動や発言から、察することだけである。

色んな心の食い違いのもどかしさ。その全てを目にした時に襲ってくる思いは、感動という一言では表せないほどに様々な言葉が沸き起こってくる。

隼人さんの力強く熱い節と、それを横から見つめるさくらさんの姿。このとき初めて、衝立がなく曲師そのものを見ることが出来たのだが、沢村さくらさんの姿が物凄かったことが記憶に残っている。

それは、隼人さんをじっと睨みつけるかのように見ながら、三味線を弾いていたのだ。否、隼人さんを見ていたのかは分からない。何か浪曲師の動作の、さらに先にある何かを私は見ていたのだと思う。それは浪曲の情緒、すなわち浪情(ろうじょう)だと私は思った。これは、それを言い表す言葉が無いため、私が勝手に作った造語である。沢村さくらさんの目線の先には、浪曲師から発せられ、自らの三味の音と一体になった『浪情』が溢れていたように思えた。それを捉えようとして、眉間に皺を寄せて三味線を弾く沢村さくらさんの姿が、凄くカッコ良かった。そして熱かった。

後半は畳み掛けるように節と言葉とテンポが早くなる。その勢い、まるで波に飲み込まれるかのような勢いの中で、隼人さんはさらに唸り続けて高みを目指して声を出す。さくらさんは一瞬たりとも気を抜かずに、ギリギリのラインを狙いながら音を鳴らして、物語の浪情を掻き立てる。

 

すごい、すごい、すごい、すごいぞおおお!

 

と盛り上がっていく途中で、さくらさんの三味線の弦が一本切れたのが見えた。それだけの大熱演。これはあの瞬間でしか味わえない程激しい浪情だったと思う。

終わってから、物凄い勢いに飲み込まれてしまい、しばらく立つことが出来なかった。円山応挙の幽霊図で感じた気迫と同じ、緊張感。まさに浪曲師と曲師の掛け合いを見たように思えて、大熱演、大迫力、気迫の一席だった。

それはきっと、豊子師匠の愛情に応えようとする隼人さんとさくらさんの気持ちがあったのだと思う。あの瞬間、あの音、あの声、あの節。上方の浪曲の凄まじさを体感した一夜になった。

終演後、出口に立っていた隼人さん、さくらさん、一秀さんに向けて、お客様が皆さん口々に「凄かった!感動した!」というような声が聞こえてきた。あの会場にいた生粋の浪曲ファンたちの全員が感動していたように思う。

もしもあなたがまだ、浪曲に出会っていないのだとしたら、浪曲の情緒、浪情を知らないのだとしたら、是非、一度木馬亭に足を運んでほしい。

そこには、人間の情緒が溢れている。浪曲師と曲師の気迫の一席を聴いて、是非全身に電撃を走らせてほしい。これは嘘ではなく、本当に痺れる出会いがあるのだ。

そして、私はもっともっと関西の浪曲師、曲師さんを知りたいと思った。12月29日、とある方の紹介で浪曲を見に行く。それももちろん記事にしたいと思う。

落語・講談・浪曲を語る等ブログ。御贔屓頂いている皆様のためにも、より一層、寄席に足をお運び頂けるように、そして痺れて感動して頂けるように、努めて参ります。

真山隼人さん、五月一秀さん、沢村さくらさん。素敵な浪曲の世界を教えて頂き、ありがとうございました!

 

さてさて、今週も素敵な演芸との出会いを祈りつつ、それでは皆様ごきげんよう