落語・講談・浪曲 日本演芸なんでもござれ

自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

短歌ください~笹井宏之氏とThe Smiths ある一つの短歌について~2018年12月22日

https://www.engeidaisuki.net/?p

駅の通路に落ちていた片方だけの赤い手袋を見た時「あっ、私だ」と思った。

 

家路へ急ぐ人々は『私』に目もくれず足早に去っていく。私は一瞬立ち止まって『私』を見つめた。

 

誰にも拾われることなく冷たい地面で動かない『私』は、買ってくれた人の手の温かさも、もう片方の手袋の使い道も、一生知らないままでゴミ箱に捨てられるのかも知れないと思い、それまでのことを思い出す。

 

どこかの工場で生まれて、同じような形をしたもう片方の手袋と一緒に、「あったかい手の人に買ってもらえるといいね」とか話し合いながら、どこかのお店の棚に並べられて、買われることを待ち望んでいて、自分の体は赤だから買ってくれるのは女の子かなとか想像しつつ、小さな女の子に買ってもらうことができて、もう片方の手袋と「やったね、ずっと使ってもらえそうだよ」とか心の中で思いながら、女の子の持ってた鞄の端っこでワクワクしていたら、ふとした弾みで鞄から『私』は落っこちて、「あ、待って!」と思ったけれど声にならず、もう片方の手袋の悲しそうな顔と、女の子の嬉しそうな顔を眺めながら、静かに自分の運命を呪いはじめる。

 

どんどん考えは陰鬱になってきて、女の子は目移りしやすいから、片方だけの手袋は捨ててしまうだろうとか、何か本来の用途とは違う使われ方をするだろうとか、成長とともに手が大きくなるから、いずれにしろ捨てられる運命なんだと自分を説得しようとするけれど、買ってくれた人の手の温かさを知らずにゴミ箱に行くのかなとか、その人が大好きな人に会う時に、一緒に連れ添っていたかったな、とか思って涙が出てくる。涙じゃなくて毛糸が風に乗ってさらさらと流れて行く。

 

それを見つめる私は、昔、両親から「自分がされて嫌なことは人にしちゃ駄目」と言われたことを思い出した。それは「相手の立場になって物を考えなさい」と言う意味だと私は解釈している。だから、手袋を見た時に「あっ、私だ」と思うことも不思議ではないのだけれど、普段はそういうスイッチを入れていないのに、ふとした瞬間にスイッチが入って胸が苦しくなった。そういえば、阿闍梨千日回峰行の際に、擦り切れて行く草鞋を見て「これは自分だ」と思ったことがあると何かの本で読んだ。そうか、今私は阿闍梨だったのか、と思う。あじゃぱー。

 

私は『私』を拾って駅に届けた。「落とし物です」と言おうとした時に、なんか変だ、と思った。『落とし物』って、わざと落とされた物の気がする。『落とされ物』も違うと思う。『落ち物』だと幽霊かよ、と思う。だから「落ちてました」と言って渡すことにしている。その方が私としてはしっくり来る。『物』と言い切らない方が良いような気がした。実体としては手袋なのだけれど、私はそれを『私』だと思っているから、一番正しいのは『私が落ちてました』なのだけれど、駅員の怪訝な顔が想像できたから、手袋を見た時の判断は相手に任せて、主語を言わずに「落ちていました」と言う。

 

出来ることなら持ち主に見つけてもらって、手のぬくもりを『私』に知って欲しいし、持ち主が大好きな人と会う時に、手に付けている『私』であってくれたらな、と願っている。物でも人でもなんでも、私は『私』が一番良い状態でいてくれたらいいな、と思う。翻って私の人生ってどんな状態なんだろう。一番良い状態なんだろうか。

 

 

 

 分からないから、短歌ください。

 

 

 

短歌とは何か

 

さて、冒頭を物語風に書いてみた。ここからは、短歌について書きたいと思う。

 

短歌とは『五・七・五・七・七』の31文字というのは、存じ上げている方もいらっしゃると思う。このたった31文字に∞の∞の∞の

 

 

 

(″・∞・″)の!

 

 

 

可能性が秘められているのだから、たかが短歌と侮ることなかれ。松坂慶子ばりのあれも短歌、これも短歌なのである。私のエピソードも含めて、素敵な短歌を幾つか紹介していきたい。

 

 

 

モリッシーの詩と笹井宏之氏の短歌

 

 

 

笹井宏之氏については、様々な観点から色んな人が話題にしていて、短歌に関わっていた人、短歌を初めて知った人、そのどちらにも強烈な存在として在り続ける歌人であると私は思っている。

 

笹井氏の一つ一つの短歌には、The Smithsのような、今まで誰も触れて来なかった部分が数多く含まれていると思う。The Smithsのギタリスト、ジョニー・マーのような美しいギターの音色と、ボーカルのモリッシーの内省的で繊細な歌詞。The Smithsというバンドに存在することで、自らの存在価値を見出したモリッシー、そして、そのモリッシーの才能に気づき、バンドへと誘ったジョニー・マー。二人の美しい出会いと同じように、笹井宏之氏は短歌と出会うことで、世界と繋がりたいと思ったのかも知れない。

 

 

www.youtube.com

人にやや遅れて歩む君の背の月光陽光決して霞まず

 

自分という存在を他者と比較して評価する視点、その視点をモリッシーは『天国は今、僕が惨めだって知ってる」と『天国』に置く。笹井氏は『月光陽光』に置く。どちらも自分より遥かに高い部分から自分を見つめる視点がある。モリッシーの場合は、実社会での視点と天国という視点の二つを詩の中で対比させているが、笹井氏は短歌の形式に即した言葉選びで、『月光と陽光』という二つの光を対比させることで、その二つの光の射し方や、光の強さを映像的に想像しやすい形で表現している。さらには、モリッシーは詩の中で、主人公の独白のように「僕が惨めだって知ってる」という言葉を選んでいる。これは詩の主人公が勝手にそう決めつけるような出来事が、主人公の身の回りで起こっているからこそ生まれるからで、詩はあくまでも自己肯定の念に貫かれている。一方、笹井氏の上記の短歌は、『人にやや遅れて歩む君の背』を見つめる存在が不明である。『人にやや遅れて歩む君の背』を見ているのは誰か。神様か、親しい友人か、私か。短歌を発した存在の主語が無いからこそ、冒頭の『人にやや遅れて歩む君の背』という言葉によって、映像が浮かび上がってくる。私の場合は、大勢の人々が前を走っていて、少し猫背気味でとぼとぼと歩く私自身の姿が見えた。

 

自分の体験を少し記す。私は小学生の頃、マラソン大会が大嫌いだった。殆ど無意味だと思っていた。クラスの全員で数キロを走って、順位の優劣などを付けられてしまうことが嫌で嫌で仕方が無かった。マラソン大会の順位は下から数えた方が早いのが私の常だった。クラスの友達からも「森野は体力無いな」とか「森野は走り方が変」と言われ、親の仇かと思うくらいに怒りを覚えたが、それ以上に、自分に体力が無いことが周囲に知られてしまったことの恐怖の方が大きくて、以来、マラソン大会では必死になって走ることをやめた。自ら進んで遅い順位になることを選んだ。遅い順位になる自分を肯定していた。一所懸命走ったって何の意味もない。一位になったからといって女の子にモテる訳ではない。

 

ところが、やはり順位の優劣が付く競技が行われた後は、徐々にヒエラルキーが生まれてきて、マラソン大会で上位に入った友達(と呼べるか分からないが)はあからさまに私を『体力の無い奴』として扱い始めた。小学生の頃の私は、何かの競技で上位に入ることが、その後の学校生活の安定を左右するものだとは考えもしなかった。

 

私はマラソン大会に限らず、様々な競技で下位に入る者達と仲良くなったし、上位に入る者達を毛嫌いするようになった。さらにはテストでも順位が付けられ、頭の良い奴はとにかく威張っていたし、私は残念ながら不勉強な人間であったため劣等感に苛まれながら、五科目の内どれか一科目でも一位を取ろうと思ったが、頭の良い奴はどの教科でも高得点を叩き出してくる。ディープ・インパクトハルウララくらいの差が、小学生時代に既に生まれていたのである。

 

そんなころを思い出すと、競技で上位に入る奴、頭の良い奴から浴びせられる視線が、笹井氏の短歌でいう『月光』になった。冷たくて鋭い視線が私の背に射していた。反対に、互いの傷を舐め合うかのように、マラソンで必ずビリになる友人や、嫌いな物が食べられず給食の時間が終わっても泣きながら食べ続けていた友人や、鉄棒で一回も逆上がりの出来なかった友人から浴びせられた視線が『陽光』になった。

 

それは社会に出る前も、出た後も変わらない。不出来な私に向けられる『月光陽光』は一点の曇りなく私の背に射してくる。そのことを改めて自覚させてくれた笹井氏の短歌に、私は自分と同じような思いを見出して勝手に感動していた。笹井氏と会って話がしてみたいな、と思いネットで調べてみると、亡くなられていることを知った。

 

以前にも笹井氏については記事で触れたことがある。どれだけ書いても笹井氏の魅力を語りつくすことは出来ない。だから、一度手に取って読んで頂けると幸いである。最近では短歌のムックが創刊されており、『ねむらない樹』という題名で書店に置かれている。笹井宏之氏の名を冠した短歌の賞が開催されており、興味のある方は是非とも応募してほしい。もっともっと、この偉大なる歌人の存在が世に知られたら良いなぁ。と思うばかりである。

 

 

 

Intermezzo

 

他にもたくさん紹介したい短歌はたくさんあるが、あまり長い記事だと読者も疲れてしまうだろうと思う。毎度、4000文字付近で記事を書いているが、未だに適正な文字数というものが分からない。なんとなく「この辺りで区切ろうかな」と思ったところで区切るようにしている。

 

また素敵な短歌をご紹介したいと思います。それでは、また。

=523

ブログ村ランキングに登録しています。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログ 落語へ
にほんブログ村