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神は細部に宿り、意志の解れを繕う~2018年12月22日 古今亭文菊独演会~

あたしは金魚を眺めたいんだよ。

 

みゃおうっ!!!! ???

 

長年連れ添う女房だよ

 

また、夢になるといけねぇ

  

目が覚めて時計を見れば午前四時。書きかけの記事を書きながら、今日はどこへ行こうかと考える。三連休は特にどこへ行くという計画も立てていない。人生は行き当たりばったりで、流れる川の如し。一人ぼっちの寂しさを紛らわせるために本を読んでいるが、心で泣いてるぜ。と、思うことはなく、行くわ文菊小劇場。

短歌と池袋演芸場の記事をアップしてから、身支度を整えて家を出、ぶらりぶらりと街を歩く。しんと静まり返った街がようやく目覚めようとしている。まるで深海の魚から浅瀬の魚に進化するみたいに、私自身も仄暗い水の底から地上へと顔を出す。ま、深海魚が急に浅瀬に浮上したら大気圧でパンパンに体が膨れるらしいけれど。

冷たい風を体に受けていると、私はビル・エヴァンスのピアノの音みたいな寒さだな、と思った。スコット・ラファロという天才ベーシストを不慮の事故で失った後、『Moon Beams』を発表した頃の、寂しさを紛らわせようと決意し、再び鍵盤に指を置いたエヴァンスのような冷たさ。耐えきれずカフェに入って温かい珈琲を飲んだ。

身に染みる寒さは、どうやら色んなことを私に考えさせるらしい。きっと心の奥底で『何かが終わるんだ』という感覚があって、感傷的になるのはそれが原因らしい。これまでの人生を振り返って、来年はどんな年になるのだろうかと考えていると、期待もあれば不安も生まれてきて、結局何も考えないことの方が幸福なのかも知れないと思い始める。苦味のある珈琲を飲み、短歌の本をぺらぺらと捲りながら、私は言葉を探した。考える時間はたくさんあって、言いたいことを全部頭の中でまとめて、何となく着地点が分かったら、ぼんやりと記憶して、後で書き出す。なるべく自分の言葉で語れるように、言葉を選ぶ。

 

定刻になって、なかの小劇場に向かう。ぞろぞろと人が集まっている。見慣れた常連から新しい客人まで、美人でお洒落でお綺麗で麗しい女性達が大勢いて、私のような田舎小僧は粥でも食って国へ帰ろうかな、と思う(嘘)のだが、文菊師匠に縋りつきたい一心で入場し、着座する。

今日は『芝浜』をやるということで、一席目は何を選択してくるんだろうと思った。会場が『芝浜』を待ち望んでいる空気の中で、どんなふうに文菊師匠は応えてくれるんだろう、と私は想像してしまう。

ただ座布団へ向かって歩く姿でさえカッコイイ文菊師匠。出囃子の『関三奴』の艶やかで狂おしい音色を纏いながら、ちょっと中腰でゆっくりと舞台袖から現れ、両腕を綺麗にみぞおち辺りの高さに上げてくの字に曲げ、低空飛行で離陸するかのようにして高座へと歩いていく。座布団に座る時も、若干、左半身を後ろに逸らしてから、扇子で両膝の着物が座布団との間で綺麗に挟み込まれるように払ってから着座し、扇子を目の前に置いて結界を作ってから、「はい」と一言小さく呟いてお辞儀をする。青々とした坊主頭を見ると、なぜか心が清らかになるのは、心の奥底にある情緒のせいだろうか。顔を上げれば太筆で描いたような眉毛と、真っすぐ曇りなく光る眼と長い睫毛。くっきりとした鼻と、きりっと結ばれた口元は王 羲之が書いた『一』かと思うが如くに力強い。ふとした瞬間ににっこりと笑う時の口元などは、男である私にとっても魅惑のバミューダトライアングル。たまにミッキーマウスが連想されるほどの愛らしさ。と、書くと褒め過ぎだろうか(笑)

というわけで、文菊師匠の登場シーンを先に書いたが、開口一番はこちら。

 

桃月庵ひしもち『狸札』

以前にも書いたかも知れないが、芸人の『おさる(モンチッチー)』を思わせる顔つきと、着物が茶色のせいか『太いゴボウ』感も否めなかったが、確実に逞しくなっているひしもちさん。見た目は病弱かつ幸薄そうだが、しっかりとしたテンポでの『狸札』。これからどう化けて行くか。タヌキだけに。

 

古今亭文菊『猫と金魚』

 

猫と金魚 演目と演者 蜜のあわれ

先に書いたような動作で登場の文菊師匠。これからは着物の色とかも記憶しようと、記事を書いていて思い始めた。意外と高座姿に興味をお持ちの方々が多いようなので、今後はそちらも記していければ、と思う。残念ながら『猫と金魚』での文菊師匠の着物の色は覚えていない。うっすら「緑、だったかな?」くらいの記憶しかない。(※のち、シルバーのお着物と判明)

この『猫と金魚』、私の記憶に残っている落語家さんでは、別の師匠で同じ演目を見たことがある。どちらも寄席で見たことがあり、両者は互いに番頭が旦那の言葉を上手く理解しない滑稽さに重点が置かれているように私には思えた。文菊師匠の『猫と金魚』は以前にもどこかで聞いたことがあったのだが、完全にパワーアップされていた。

それまで考えもしなかったのだけれど、文菊師匠の演じる旦那の『金魚を愛している気持ち』が言葉からぐっと伝わってきて、番頭に「私は金魚を眺めたいんだよ」みたいなことを言った時に、湯殿の棚に両腕を重ねておいて顎を乗せ、目の前の金魚鉢の中で泳ぐ金魚を眺める可愛らしい旦那の姿が浮かんできて、「ああ、この人は本当に金魚を愛してるんだ」とふと思ったのである。室生犀星の『蜜のあわれ』に出てくるオジサンと金魚のような、そんな関係まで想像してしまった。今まではそんなことを考えたことが無かっただけに、文菊師匠の言葉とトーンは、私にとって発見の『猫と金魚』だった。

旦那のはっきりとした『金魚への愛』が、番頭の勘違いの面白さを際立たせることにに役立っているように私には思えた。きっと番頭は『金魚に対する愛の無い』人なのかも知れないな、と思ったのである。

 

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なぜ人は苛立ち、ミスが起こるのか。

演目に触れる前に少し私の話をする。私は他者に物を依頼することがある。他者にやって欲しいことを説明して実際にやってもらうのだが、言葉の認識のズレや説明不足によって様々なミスが起こる。世の中のミスは全て『互いの意思疎通が正しく行われなかった』ことで起きていると私は思っている。

もしも、自分の思った通りに動いてくれない番頭のような人間が周りにいたら、腹立たしくて苛々して、怒鳴ってしまう人間がいるだろう。なんでこんな奴のために時間を使わなくちゃいけないんだ!とか、こいつに物を教えてやっているが、俺はこいつから給料をもらってないぞ!よこせ!とか、常識知らず!と言う方もいるかも知れない。それは、相手の性格を理解していないから苛立つのではないか、と私は思うのである。自分の思う通りに行かなかったり、自分の考えと異なる考えを持つ他者に苛立ったり、文句を言わずにはいられない性分の人もいる。でも、それは相手に期待し過ぎなのではないか。もともと期待などせず、気長に待つか、その人の性格を理解した上で言葉を選ばなければ、怒鳴ったところで相手は委縮して、最後は「もう辞めます」というような状態になってしまいかねない。『猫と金魚』には、実社会で起こりうる上司と部下、互いの認識の不一致によって、冒頭から様々なハプニングが起こるのだが、なぜか番頭に苛立つこともなければ、旦那に理不尽さを感じることはない。この不思議に迫ろう。

 

『猫と金魚』の難しさ、文菊師匠の緻密さ 

実は『猫と金魚』という演目は番頭と旦那、どちらの言い分も正しいと私は考えている。正しく説明をしない旦那に戸惑う番頭は、現代で言えば『指示待ち人間』みたいなものだ(もはや死語かも知れないが)。言われたことしかやらず、言われていないことはやらない。それが悪いという訳ではない。番頭は金魚に対して感心が無いから、金魚が床で跳ねていようが、水の入っていない金魚鉢に金魚を入れようが、旦那の言葉通りに実行しているのだから、問題無いだろう。と思うのである。さらには取扱説明書もなく、口頭だけの説明であるから、ますます番頭は旦那の言葉の意味をそのまま受け取ってしまう。

反対に、旦那は金魚に愛を持っているから、金魚鉢に入った水の中で泳ぐ金魚が旦那の中で1セットになっている。それは旦那にとって常識だから、番頭に「金魚鉢を湯殿の棚の上に置いておくれ」と言う言葉には、金魚鉢に水が入っており、その中で金魚が泳いでいることが前提条件になっている。この話を聞く者の多くは金魚に対して愛を持っているから、旦那の側に共感するだろう。故にどちらの言い分も正しい。では、何が面白さを生んでいるかと言うと、番頭が金魚鉢と水と金魚を個別に考えている部分ではないか。

この話には、番頭が『金魚と金魚鉢と水を別々に考える人間』だということを聴く人に理解させなければならないという難しさがある。旦那との掛け合いの中でそれを上手く表現できないと、先に書いた『指示待ち人間感』が番頭に感じられて、ダメな番頭に白けてしまいかねない。その点が文菊師匠は実に緻密だと思った。真打の芸をアマが評論して大変恐縮なのだが、先に挙げた某師匠は、番頭の性格を勢いで表現し、リズムも早く、どこかトボけた印象が強いのだが、文菊師匠は旦那の金魚愛を示す言葉を発した後で、番頭に「猫が容易に触れないような高い場所に金魚鉢を置いて欲しい」と要求するのである。ここで、番頭は悩んだ末「じゃあ銭湯の煙突の上に」みたいなことを言う。この僅かな言葉と間で、旦那と番頭、互いの金魚に対する思いの違いを表現し、さらには番頭の発想の方向性が旦那とは違うということを対比させる。二段構えで番頭が『金魚と金魚鉢と水を別々に考える人間』だと観客に納得させているのである。だから、番頭に勢いを付けなくとも、滑稽さが際立って話が白けないのであると私は考える。

「金魚は?」、「金魚鉢は?」、「水は?」と畳み掛けるように聞く番頭も、既に聞く者にとって『金魚と金魚鉢と水を別々に考える人間』と理解されているから、聞いていて腹が立たず、苛々もせず、むしろ「ま、そうなるよね~」と滑稽さに面白くて笑ってしまうのである。あるいは「もーう、何この人、勘違いしちゃってぇ、可愛いんだからぁー」みたいな、愛らしさすら感じさせてしまうのが、文菊師匠の『猫と金魚』である。それは番頭も番頭で、真面目に旦那の言葉を実行しようとする姿勢が感じられるからでもある。金魚に対して愛が無いからこその真面目さを持つ番頭が、金魚に対して愛を持つ旦那とぶつかるから、この話は面白いのだと私は思う。ところが、このぶつかり方に気を付けなければ、次の展開に大きな影響を与えることになる、と私は思う。

 

寅さんを爆発させる仕掛け

『猫と金魚』のさらなる難しさは、番頭の性格を勢いで押し切ってしまうと、後に登場する寅さんが引き立たなくなると私は考えている。その点、文菊師匠は凄い。金魚に一切の愛を持たない真面目な番頭を表現したことによって、今度は無鉄砲で勢い任せの寅さんの性格がくっきりと浮かび上がるようになっている。番頭と寅さんの性格が勢いで重複することが無いからこそ、観客は「また変な人来ちゃった」と思って話に惹き込まれていく仕掛けがある。

寅さんは旦那と同じように金魚を愛しているが、今度は猫に対してとにかく勢い任せで対峙する。見栄っ張りで抜けているけれど、頼まれ事とあれば必ず引き受ける人情味ある寅さん。ところがどっこい、猫に返り討ちにされてしまう。この無鉄砲な寅さんの姿こそ、勢いと明るさで表現するべきところだと私は考えている。

某師匠の『猫と金魚』では、私が感じた限りでは、番頭は若干キレ気味に「水はどうすりゃいいんですか!」みたいな、旦那への怒りと戸惑いを勢いで表現する感じだったと記憶しているが、それは後々の寅さんの無鉄砲さを霞ませるというか、番頭の滑稽さを上回るほどの勢いを持って話が進むことは無く、むしろ同じレベルの奴が再びやってきたという感じだった。ところが、文菊師匠は、寅さんに気合が入っていたし、勢いで乗り切ろうとする寅さんと、それに期待する旦那との対比が面白くて、最後のオチまで気持ちが良いくらいのリズムで進んでいく。徐々に加速していくようなリズムがあって、話の盛り上がりのピークに番頭との会話で敢えて達しないという、実に緻密かつ巧妙な仕掛けがなされていて、文菊師匠の落語は本当に奥が深い。ただぼけっと聞いているだけでは気づかないくらいに、実にさらりと重要なことをやってのけるのだから、ただただ驚くしかない。ま、私が勝手に思っているだけかも知れないが。

実生活では番頭のように自分が思ったことと認識がズレてしまう人や、寅さんのように期待以上を望まれても期待に応えられない人もいる。頼んだこと以上のことをしてくれたけれど、実は余計なことだったとか、実は虚栄で内実は全く実力が伴っていなかったとか、それでも、相手の真面目さや性格を理解していると、不思議と腹の立つこともない。人間万事塞翁が馬、なんて教訓を考えてしまうほどに、案外『猫と金魚』という演目は深いのかもしれない。

上記に書いたようなことから、『猫と金魚』という演目に対して、私は目から出た鱗が再び眼球に戻って化石になるくらい、驚いたし発見した。そういう部分にアンテナを張っていたからこそ分かったのかも知れないが、他の演者の演目を脳内にインプットすることによって、また、様々な演者で同じ演目を聞くからこそ発見できる落語家の素晴らしさというものがある。もっともっと文菊師匠の魅力に近づいていきたい。

最後に、少し余談を。(違法かも知れないのでご注意)

 【バナナマン設楽】「すぐ怒る人間は自分の経験値がないから」いつも怒っているひとはカッコ悪い… - YouTube

この動画を見た時に、旦那が番頭に対して怒らないのは、番頭を理解することの出来る経験が、旦那にあったからかも知れないと思った。もしも因業な人間だったら、番頭は金魚を床でピチピチ跳ねさせた時点で、即刻クビである。だが、旦那はクビにしない。長い目で見ることの重要性を知っているからなのかも知れない。想像するのも野暮かも知れないが、文菊師匠の演じる旦那には、そんな苦労の末に立派な資産を築き上げた、一人の偉大なる経営者の姿を見てしまうのだ。

 

古今亭文菊『芝浜』

茶色の羽織を着て低空飛行で座布団に着陸の文菊師匠。渋谷らくごのラジオで聴いたお馴染みの枕から演目へ。初っ端、とんでもないハプニングが客席で起こったが、まぁ、良し。途中、外部からのハプニングもあったが、まぁ、良し。文菊師匠の演目に一点の曇りなし。起こることは起こるのだと思っていれば、起こったところで怒らない。

渋谷らくごのラジオで聞いた『芝浜』を録音しており、それをテープだったら擦り切れるくらい聞いた私にとって、結論から言えば『生が最高』とビールみたいなことを言ってしまうが、それくらいに『生が最高』。

私は『芝浜』は旦那よりも女将さんの甲斐甲斐しさに共感してしまう。好きでくっついた二人。旦那の為に尽くす女。決して都合の良い女という存在ではない女将さんの姿。家計を案じ、夫を案じ、二人の未来を案じる女将さんの健気さ。私が女だったらこんな気持ちを持って男に接したい、とか、男と生まれたからにはこんな素敵な女性と連れ添ってみたいとか、まぁ、邪念は湧く訳なんですが、とにかく女将さんが物語の立役者になっていると私は思っている。

 

『猫と金魚』→『芝浜』への妙技

さて、『芝浜』に登場する旦那は、前半は大酒飲みで働かず、楽して暮らしたいと女将さんを心配させるが、後半では立派に改心して仕事に精を出し、「楽するためには働かなくちゃいけねぇ」とまで言うようになる。それは、旦那自身の経験によって発せられる言葉であるからこそ、胸に響いてくる。

『芝浜』の後半辺りで、私は文菊師匠がなぜ最初に『猫と金魚』を選んだかが何となくわかった。意思疎通の交差が共通点だったのだと私は思った。

『猫と金魚』では、旦那と番頭の互いの心が、水平にならず微妙にズレていた。例えるなら、片目を閉じて左右の人指し指の先を合わせようとすると、上手く合わせられないみたいに。あるいは、釦の掛け違いみたいに、互いの意思疎通が微妙にズレたからこそ、交差してしまった。その差異が面白かった。

一転、『芝浜』は夫婦の関係性によって成り立っている。互いが互いの性分を理解しているからこそ、旦那は女将さんに皮肉を言っても嫌味っぽく聞こえないのである。また、女将さんも旦那の良さを認めているからこそ、甲斐甲斐しさに嫌らしさが無い。『猫と金魚』ではまだ未熟だった二人の関係性から、『芝浜』では緊密な二人の関係性へと移行する。この対比の妙。意図しているかいないかは分からないが、演目選びでさえ文菊師匠は抜かりないと私は勝手に思っている。

 

夫婦の関係の強さ

前半は旦那の傍若無人っぷりが炸裂して、寒い魚河岸で震えているところなどは「奥さんに酷いこと言うからだ、ざまあみろ」というくらいに私は思う。冒頭で、女将さんが河岸に行く旦那に向かって火打ち石を打つ場面があるのだが、細かい所作に、女将さんが旦那を思う気持ちが現れている。ラジオでは見ることが出来ない所作もまた、物語に重要な効果を発揮している。

財布を拾って遊んで暮らせるぞ!と喜ぶ場面を見ると、大丈夫かなぁ、と思うのだが、ぐっと女将さんが旦那の暴走を押しとどめる。再び目を覚ました旦那が、財布を拾ってきたのは夢だったと納得する場面は、実に二人の夫婦の関係性の力強さが表現されていて、私は一瞬「あ、結婚したい」とか邪念を覚えるくらいに、魅力的な関係性なのだ。

互いが互いを愛している関係だからこそ、旦那は女将さんの言葉を受けて、情けなくなり自暴自棄になって「もう駄目だ、一緒に死のう」となる。この時の文菊師匠の表情が、何とも言えない素晴らしさなのである。言葉以上のものを語っているので敢えて言葉にはしないが、是非生で見た時に表情を見逃さないでほしい。

旦那の言葉を受けて、女将さんはしばしの間の後、旦那の頬を叩き「いい加減におしよ!」と怒鳴る。これは女将さんが旦那の力を信じているからこその行動だと思った。この時の女将さんの表情も凄く良くて、「あたしの惚れた男は、そんなことで根をあげる男じゃないはずよ!もっと力がある人じゃないか!」みたいな、旦那を信じる気持ちにぐっと来る。私は女将さんの行動は一世一代の勝負だったんじゃないかと思うのだ。本気で相手を思っていなければ、こんなことは出来ない。吉原の遊女だったら「ふーん、あっそ。勝手に死ねばー?じゃあ、ばいばーい」くらいの軽い気持ちで去っていくだろう。それではこの話は台無しである。死を決意するほどに女房を信じる旦那と、頬を叩くくらいに旦那を信じている女将さんとの対比が、実に美しくて、私の目からは鼻水が流れ始め、鼻からは目が飛び出始めた。

 

短い挿話と文菊落語の魅力

がらっと人が変わったように仕事に精を出す旦那。ここで差し込まれる短い場面が、個人的には「ああ、さすが緻密な文菊師匠だ」と驚嘆と感動のスペクタクル映画だったわけだが(意味不明)

内容は敢えて書かない。ラジオでは無かった演出で、これが旦那の力を客人に最適な形で理解させていると私は思った。良い場面である。是非、出会って感じてほしい。

後半の盛り上がりは、何と言っても女将さんが旦那に嘘を打ち明けるシーンだろう。ずっと三年間後ろめたさを隠し通し、ひたすらに夫の成長を望んだ女将さん。なかなか出来ることじゃないよ、と思う。その思いに対して夫は一瞬苛立つのだが、そこは夫婦の関係性の強さで、考えを改める。この辺りは、夫婦の経験が無い私でも感動してしまう。特に女将さんの言葉が良いし、女将さんを認める旦那の言葉も良い。互いの心が見事にきちんと揃っている感じ。そこに清らかな秩序が見えて、女将さんの強さと同時に、旦那の温かさが感じられて、なんだか心がくすぐったい。

最後のお決まりの言葉まで、夫婦の関係性が時に解れそうになりながらも繕われていく文菊師匠の落語。文菊師匠の落語は、実に登場人物の性格が豊かで、奥深くて、温かくて、清らかであると私は思う。実に緻密だけれども、人間の深みや個性を表現する言葉、そして互いが互いの呼吸に合わせて進んでいくテンポと間。どれをとっても格別の時間を過ごすことが出来て、演技が臭くなくて丁度良い温度で演じられている。今日は文菊成分、大注入の二席だった。

 

最後に

総括すると、今日の独演会の文菊師匠はかなり気合いが入っていたように思う。ご新規の方も多く、会場も実に温かくて、『猫と金魚』の時はかなりノっているように私には見えた。会場入りする姿もスマートで、狐色のコートとマスク姿は、一瞬「アル・パチーノ?マフィア?」くらいに思ったのだが、寄席で見る文菊師匠も十分凄いが、独演会でしか見ることの出来ない文菊師匠は確実にある。独演会って本当にファンにとっては重要な会だと思う。寄席ではある程度、商用化された感が演目に感じられるのだが、独演会は伸び伸びと演者が思うがままに演じられているから、演者としても楽しいだろうと思う。伸べえさんの独演会なんかは特にそうで、伸べえさんが物凄く伸び伸び(伸べえだけに)やっているからこそ、聞いているこっちも楽しくなってくる。互いが互いを信じている、認めているからこそ、演目はより引き立ってくるのだ。芸は演者と客が作る。当たり前のことだが、この素晴らしさを改めて感じる会だった。

さて、この後私は貞橘会に行き、最後は夜席 鈴本演芸場に行った。これも実に素晴らしかった。それは、次の記事で。

 

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