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【Day3】慶安太平記 神田松之丞 2019年1月12日 

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男は何かを見つけ、こちらに語ろうとしている。

 

三度、想像の風景

まず、言葉を見つけなければならなかった。客席に座る男は、そう思った。

目の前で語られた出来事を語るための言葉。単語は主語に形を変え、述語によって受け継がれ、動詞によって動きを始め、助詞を従え、修飾語によって脚色され、目の前には無い物語が、確かな実像を結んで立ち上がってくる。人の歩み、人の声、人の表情、人の思惑、人の欺瞞、人の動作、人の生、人の死。客席の男は言葉を探し、自らの言葉で脳に敷き写し、目の前で物語を語り続ける一人の講談師を活写しなければならなかった。目には見えぬものを言葉にし、眼前に立ち上がらせるために、言葉を見つけなければならなかった。そして、ようやくそれらしい言葉が見つかる。

舞台に座し、釈台を前にして語る講談師の眼は、鈍い輝きを放ち続けている。目には見えぬものを見ている。目には見えぬが、会場の300人にその光景を見せようとしている。否、否、否、と客席の男は思った。舞台に座し、言葉を紡ぎ、張り扇で釈台を叩きながら、講談師は物語を見ている。自らの言葉で語りながら、慶安の時代を見ている。確かに、見えていた。それは決して目に見えぬものではなく、確かに、眼前に、在り在りと浮かび上がっていた。事実はそこにあった。講談師の言葉は、全て事実だった。言葉は現実を超えた。誘われた、と客席の男は思った。そうだ、会場の300人が誘われていた。講談師の言葉が発せられたと同時に、講談師の姿は消え、そこに由井正雪が、怪力僧・伝達が、知恵伊豆に阻まれた高坂陣内が、存在していたのだ。悔し紛れに、「鰯の網に鯨がかかったと思いやがれ!」と吐き捨てた、知恵伊豆に向かって憎々しい表情を浮かべた男を見たのだ。それまで、一度も見たことのない筈の光景を、300人が、講談師が、同時に見ていたのだ。

これは想像の物語か?と客席の男は自らに問うた。これは想像の世界か?とさらに問うた。二度、三度、四度、五度。何度も自らに問う度に、客席の男は同じ結論に至った。

これは、現実だ、と。

三度、張り扇が振り下ろされる。釈台にぶつかった瞬間に音は弾けていく。舞台に座す講談師は、驚いたように何かを見つけた。何かを発見した。それは、自らが物語を語る中で出会った、新しい世界だろうか。否、と客席の男は思った。導かれているのだ。慶安の物語によって、自らの語りによって、そして、それを同時刻、同場所、同位置に存在する者達によって。

空間はまどろみ、再び無人の客席。今宵、三度目の物語が形を成す。

 

第八話 『箱根の惨劇』

高坂陣内との出会いによって、それまでの性格が破綻した怪力僧・伝達。語り始めた松之丞の生み出す伝達は、目の前で繰り広げられた様々な物事によって、精神を擦り減らし、自らの役目を無事終えた伝達の自暴自棄な姿を見事に描いていた。ここに、高坂陣内に強烈な影響を受けた伝達の人間らしさが表れていると思う。

前記事で書いた『戸村丹三郎』の性格の変換は、『戸村丹三郎という人間の本性』を起点として、性格が変わったように思うが、『箱根の惨劇』での伝達の性格の変換は紛れもなく前話『宇都谷峠』に登場した高坂陣内の影響であると私は考える。『人間の本性による性格の変換』と『他者の影響による性格の変換』の対比が存在していると私は思った。これは人間の人生における性格の変換にもぴたりと当てはまる。『戸村丹三郎』では、酒や女遊びに明け暮れながらも、憧れの対象に好意を抱き、周囲に対する態度を変え、自らの性格を変える。ここには自己中心的な、主体的・内面的な性格の変換があるのに対して、『宇都谷峠』・『箱根の惨劇』では、一人の謎の男(甚兵衛・後の高坂陣内)との出会いや経験に振り回された男(伝達)が性格を変える。ここには他者からの影響、受動的・外部からの性格の変換がある。この『性格が変わる』という部分を考えることも、講談の魅力かも知れない。私はどうしても「なぜ性格が変わったのか?」という部分を考えてしまう。そこが面白いと思うからだ。人間は単純な生き物ではない。そう簡単に一つのブレない性格を有した存在ではないと思っているからこそ、第六話~第八話は、人間の性格に迫った面白味があるように思った。同時に、一話の中で性格を変える戸村丹三郎と、一話を経て性格を変える伝達。この二つが物語の中で連なっているという事実も、連続読みだからこそ発見できた面白みだと私は思った。

さて、話を『箱根の惨劇』に戻そう。豪放磊落な伝達の荒々しい姿を、松之丞は勢いと威勢たっぷりに物語っている。護摩の灰との決闘場面も実に面白かった。目の前で松の木が撓り、三人(数は曖昧)の男が伝達に押し潰される描写も面白い。なぜその力を前話で発揮しなかったのか、という疑問は残ったが、それもやはり高坂陣内との出会いがあったのかも知れない。人は他者と出会うことによって、想像もしない力を手にすることがありえるのだ。

数々の悪行を目の当たりにし、自らも人を殺めるような人間へと変貌を遂げた伝達の元に、正雪一行が出会うのも納得がいく。類は友を呼ぶ。丸橋忠弥、秦式部、戸村丹三郎、そして怪力僧・伝達。それぞれに生い立ちも生き様も違えど、心の奥底に通底する濁り、淀み、内に秘めた野望が引き寄せ合った結果、由井正雪を中心に一つの集団が生まれ、群れを成し、力を得る。

松之丞の表情は、基礎を正雪として形作られているように思った。そこから様々な性格を持った人物が声色・表情・得意技を変えて登場してくる。この人物描写を一話一話、丁寧に語ることによって、由井正雪という人物が浮き上がると同時に、波紋のように周囲の人間達に伝達し、同時に浮かび上がってくる。

また、話の配列が絶妙である。正しく聴く者を引き付けるための、完璧な配列だと私は思う。正雪の野望誕生から、無鉄砲な丸橋、詐欺師紛いの秦式部、自己中心の戸村丹三郎、そして意図せずして仏道から俗世間へと道を変えた伝達。

秦式部までは、正雪の登場場面が多く、それだけ正雪の姿も浮き彫りになっていたが、戸村丹三郎から伝達までは最後、または後半に登場してくる。正雪の登場の仕方にも物語に深みを増す工夫がなされているように思う。人生における一つの教訓のような出会い方だ。出会うべくして出会っている。善も悪も、陰も陽も、まるで太陽と月のように、光と影のように、物語は一日のように移り変わっていく。

この話には、強烈な他者によって変貌を遂げた一人の男の、人生の分岐点が描かれているように思えた。荒れ放題、ありあまる力を使い放題の、鬱屈した行き場の無い衝動。確か、力が余って竹を割る場面があったと思うが、行き場の無い力・不満に対して方向性を与える正雪の賢さには、驚嘆するばかりである。

人は自らでは抑えきれない衝動を抱いた時、それを自己で処理するか、他者で処理するかという二択を迫られるのかも知れない。この物語において、衝動を抑えきれなかった伝達は他者を殺し、その事実によって悪の道へと歩みを進めることになるのである。

 

 第九話 『佐原重兵衛』

冒頭、夜桜を愛でる場面があった。松之丞は上を向き、愛おしそうに夜桜を見ている。正雪の人間らしい一面が見られる素敵な場面だ。人を騙し、人を殺め、人を手駒にする男であっても、夜の中で月の光に照らされた桜を愛でる気持ちがあるという事実が、正雪という人間の魅力を惹き立てている。松之丞の語りも、リズムも、それまでの人を騙そうというような気持ちは感じられない。目の前にある美しい風景を、ただ美しいと感じている一人の男の存在を語っていた。そこには、幕府転覆を企む男の燃えるような野望は無いように私には思えた。同時に、正雪は夜桜のような存在でもあるのかも知れない、と思った。

日光を浴び、春の風に花びらを舞い上がらせる桜。多くの人々が桜の木の下で日の光を浴びながら酒を飲み、親しい仲間と言葉を交わす。そこには、紛れもない陽の気配が漂っている。青空に映える桜の薄く滲むような淡い赤が、酒によって上気した人間の表情を思い起こさせる。

対して、夜の闇の中で月の光に照らされた桜には、音も無く静かに燃える炎を感じさせる。夜桜には微塵も淀みは無く、静かに、ただ凛としていながら、物言わぬ熱を持った生命の輝きがあるように私は思った。日の光を浴びることなく、冷たい月光を浴びながら、それでも何一つ欠けることの無い輝きを放つ桜を、正雪が愛でるということが、正雪そのもの、慶安太平記そのものを象徴しているように感じられた。

だから、直後の槍の不意打ちには、正雪という人間の生命が絶たれてしまう危うさを私は抱いた。思わず心の中で「危ない!」と叫んでしまうほどだった。善と悪に境は無いのかも知れないと思っている自分がいたのかも知れない。悪行を重ねる正雪に心惹かれてしまうのは、夜桜を愛でるという行為だけに留まらない、人間としての良さを発見しているからなのだろう。松之丞の語りは、悪を単なる悪として描き終えてはいないと私は思う。悪を悪だと言うことは簡単だが、それでは聴く者に嫌悪感しか抱かせることが出来ないと思う。悪とされる人間にも、善の心がある。同時に、善とされる人間にも、悪の心がある。善悪の境は無く、陰陽は一体であるというような語りを、松之丞はしているように思う。それは、人の感じ方の程度の問題であるから、一概に断定することは出来ない。だが、私は槍で突かれた後の正雪の態度に、はっきりと陰陽は一体である、というような印象を抱いた。

槍の不意打ちを受けた正雪は、一切動じない。それは、正雪の確固たる意志を表現しているように感じられた。こんなところで死ぬような運命には無い、という自信。そして、自らに槍を向けた人間には、何かしらの思惑があったであろう、という推察。松之丞は冷静に、ゆっくりと、正雪の言葉を紡ぐ。ここに、一人の男の揺るぎない思いの強さを私は感じた。

松之丞の語る正雪は、どんな出来事が起こっても幕府転覆という大きな野望のために、全身全霊で行動する。自分を信じ、周囲を冷静に眺めながら、自らに槍を向けた人間さえも仲間に取り込む。それだけ、人を魅了する魅力が籠った語りと表情を、松之丞は冷静に語っている。人の心の奥底をくすぐるような、感情と気迫の籠った声。それは決して威勢よく啖呵を切るような稚拙なトーンではなく、むしろ、短刀をゆっくりと首元に近づけられているかのような、静かな気迫。映画『スタンド・バイ・ミー』でエースに銃を向けるゴードンのような、無言の気迫を松之丞の語りから感じた。本当に怒る者は、怒鳴り散らさずに、静かに淡々と語るのだというリアリティが、発せられる語りの随所で光っていた。

 

 第十話 『牧野兵庫(上)』

冒頭の正雪と牧野の出会いは実に印象的だった。袖擦り合うも多生の縁というが、正雪と出会った牧野は、その後の人生を大きく一変させる。甚兵衛と出会った伝達が様々な出来事に巻き込まれて正雪の仲間になるのに対し、ここでは唐突に正雪と出会った牧野が仲間になる。正雪が意図して牧野に出会ったのか、それとも偶然に出会ったのかは分からないが、前半の松之丞の語りは、それまでの染み出すような憎悪や苛立ちというものは感じられず、むしろ人と人が出会う偶然の奇妙さを、さらりとしていながらも鮮やかに描き出しているように思えた。

牧野が大病を患い、正雪が看病に訪れる場面も印象的である。一体、正雪という男は牧野という人物の何を見抜いたのか。私は、前半の松之丞の語りから、牧野の純粋さ、真面目さ、人間としての優しさを正雪は見抜いたのではないか、と思った。もしも牧野が短気な人間であれば、正雪との出会いでは「何しやがるんだ!こんちくしょう!」と怒鳴っていたかも知れない。僅か数語、語り口、表情で牧野兵庫という人物の誠実さを描いた松之丞には驚嘆する。正雪が牧野を仲間にする理由が、何となく冒頭の出会いの場面から私には推察された。

看病に訪れる正雪には、その後の企みを感じさせるような感情は感じられなかった。むしろ、誠実な牧野に対して誠実な看病で接する正雪の姿が描かれていた。

後半、牧野は仕官となる。その為に、正雪の憎き相手、徳川頼宜の前で砲術を披露することになるのだが、その牧野の姿を見て、正雪は笑っているように思えた。それは、牧野が頼宜の側近になり、自らの野望が達成されるという期待の笑みではないように私には思えた。むしろ、純粋に牧野の仕官を喜んでいる正雪の姿が、松之丞の語りから感じられたのである。自らの野望以上に、牧野の仕官を喜んでいるように正雪が感じたのは、牧野に対する正雪の誠実な姿を見ていたからかも知れない。牧野を看病する正雪の姿に、一切の偽善が無かったからこそ、正雪の野望を打ち明けられた牧野は感銘し、正雪の仲間になったのだと思う。正雪の行動に微塵の浅ましさも感じられないという部分もさることながら、松之丞の語りに浅ましい性格を持った正雪が描かれなかったからこそ、この話には清々しさがあると私は思った。

牧野の放った大砲が見事に目的を達成するとき、一つの達成を迎えた正雪の優しい表情が見えた。もしかしたら、自分には叶わなかった夢を叶えた牧野の姿に、自分が歩むことの出来なかった一つの人生を正雪は見たのかも知れない。松之丞の語りから、私は蒼天の下、遠く離れた的に見事に砲弾を命中させた牧野の喜び、頼宜の感心、そして正雪の牧野に対する喜び、そしてさらに、その奥に存在する大きな目的を見つめているような、様々な表情を見た。

 

第十一話 『牧野兵庫(下)』

晴れて頼宜の側近となった牧野兵庫の逞しい姿が描かれる。牧野兵庫という人間の性格の変換も、前話と合わせて強烈に印象に残った。

冒頭は、頼宜の側近として活躍を見せる牧野の姿が描かれる。私はこの部分で戸村丹三郎を思い出した。憧れの存在の傍で、精いっぱい活躍をしながらも否定され、挫折感から怒りを抱いた戸村丹三郎に対して、牧野兵庫は精いっぱいの努力が認められ、みるみる内に出世していく。この対比も面白い。酒と女に明け暮れた自己中な戸村と、誠実で大胆な牧野。連続読みで体験することによって、それまでに聞いた話に深みが増すととともに、新しい話にも深みが増す。慶安太平記という物語の、話がそれぞれに呼応している感じが何とも面白い。

特に、B日程で挟み込まれたという『大蛇退治』は、牧野という人間を大きく変えた出来事だと私は思う。頼宜の命を救うという、これまでに無いほどの主君への行動。大蛇を切る牧野の心が、この瞬間に変わったのだと私は思った。それまでは頼宜に褒められて嬉しい思いを抱いていた牧野が、頼宜の命を守る存在である自分を自覚、或いは、そういう存在だと自らを思い込むきっかけとして、大蛇退治が存在していると思った。大雨の中、真っ二つに切られて絶命した大蛇を睨む牧野の眼光の鋭さが、松之丞の表情と相まって印象に残っている。前話から大蛇退治まで、正雪と出会った頃の誠実な牧野の、誠実さの方向性が頼宜へと定まった瞬間に胸が震えた。同時に、ここからの牧野の語りを松之丞は変えている。

完全に自らの方向性を定めた牧野は、頼宜の絶対的な信頼を勝ち得、頼宜に「牧野は傍においてはなりません」というようなことを言ってきた男を、殺害する。

その殺害を実行する牧野の声、表情の残忍さが鮮やかである。前記事でも書いたが、人間の性格がダイナミックに変わっていく。物語の前半と後半とで、陽から陰へと変わりゆく起伏がとても大きい。牧野が槍で上記の男を殺害する場面は、誠実さを野心へと変えた男の残酷さがはっきりと浮かび上がっていた。

どんなに誠実な人間であっても、立場や環境によって性格が一変してしまうのだということを感じた。ここまでの物語で繰り返しになってしまうかも知れないが、登場する人物が様々に性格を変えて行く。その性格の変換が私はそれぞれにきちんと理由があるように思えて、非常に興味深く、実に面白く聴いた。

松之丞の語りも、性格の変換を見事に描き切っていた。正雪と出会った頃は、真面目で優しい表情をしていた牧野が、自分の失脚を頼宜に嘆願した忠臣を殺害する時には、濁りの無い怒りの眼で、槍を突き刺すのである。ゾクゾクするような人間の心変わり、表情の変換、そして声のトーンの高低。光から影へと移り行く様が、人間本来の本性を暴いているかのようで、胸が震えた。

 

総括 人間の本性、その光と影

芥川龍之介の『蜘蛛の糸』では、現世での善行によって神から垂らされた蜘蛛の糸に縋りついた男が、地獄から這い上がろうとするが、他者に対する罵詈雑言によって、その糸が切れ、地獄に再び落ちる。子供心に、人間の心の浅ましさを感じた物語であるが、慶安太平記を十一話まで聞いて、物語に通底する人間の本性のようなものを、何度も繰り返し、形を変えながら聞いているように私は思った。

蜘蛛の糸』の主人公のように、善いとされる行いをする人間であっても、他者に対して悪言を垂れる。一人の人間の中に善悪が混在しているということが、非常に現実感を伴って感じられる。慶安太平記では、より多くの判例というか、人が善から悪へと傾いているようで、実はその悪も善であるというような、二項対立の性質ではなく、全ては二つで一つなのだ、ということを私は物語から感じた。

300人が揃い、一人の講談師の語る物語を聴きながら、それぞれに感じることはあるだろうと思うが、私はここまで書いて、上記のように思ったのである。善悪は二つで一つ。そして、唯一、由井正雪の野望は未だどうなるのか分からない。丸橋忠弥、秦式部、戸村丹三郎、伝達、佐原重兵衛、牧野兵庫。それぞれにそれぞれの善から悪を描き、最終的に由井正雪の下で幕府転覆の夢を抱き、行動している。

ついに、頼宜の傍に付く者も現れた。第四夜では、一体どのように由井正雪、そして由井正雪の下に集った人間達が行動をするのだろうか。

物語は何度も何度も大きな起伏を描きながら、最後へと向かっていく。B日程中日。一つの真理と、由井正雪の野望達成に向けた道が見えたところで、今宵はお開き。

さて、慶安太平記。これからどうなっていくのだろうか。