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親と子と光と影とさよならと~「山口ちはる」プロデュース さよなら光くん、さよなら影さん~2019年1月28日

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カマンベールチーズを五等分

 

さよならとは、もう会えないという時に使う言葉です

 

どうして?どうしてもう会えないの?

 

きっと、大丈夫 

 みんなと同じように出来ない、私

まだ幼かった頃の記憶である。私は図工の時間が嫌いで嫌いで仕方が無かった。なぜなら、周りの人よりも不器用で、折り紙を折ることが出来なかったし、相手に分かるような絵を描けなかったし、粘土を使ったり、彫刻刀を使ったり、筆や、鉛筆を使って何かを生み出すことが、とてつもなく苦手だったからだ。

どうして、周りの人達と同じように出来ないんだろう、といつも思っていた。算数の時もそうだった。先生から「はい、じゃあ森野くん。この問題の答えを言ってください」と聞かれ、教室の全員の前で発表させられることがあって、これは確実に覚えていることなのだけれど、私は自分の答えに自信が無かったから、思わず「間違っているかもしれないけど、みんな笑わないでね」と言ってから、先生から問われた問題の答えを言った。

途端、爆笑が起こった。

私の答えは間違っていたし、それは明らかに私が悪いのだと思った。私には問題を解く力が無く、私には考える力が無く、周りの人が大笑いするような、そんな恥ずかしい答えを言ってしまったのだと思った。同時に、悔しさがこみ上げてきた。ちゃんと言ったじゃないか。間違っていても、笑わないでくれって言ったじゃないか!と。

私は泣いた。今すぐにでも教室を出て行きたい気持ちになった。恥ずかしさと悔しさが同時に押し寄せてきて、そこから先のことはあまり覚えていない。ただ机に顔を押し付けて、私は泣いていたのだと思う。

そこからの私は、図書室に籠り、本を読むようになった。今でも敬愛する那須正幹先生に出会ったのはその時である。私の小学校時代のバイブルは那須正幹先生の『ヨースケくん 小学生はいかに生きるべきか』である。この本には本当に救われたし、この本の主人公、ヨースケくんが正に、私そのものだと思っていた。

みんなと同じように出来ない自分、同じ教育を受けているのに、みんなと同じ力の無い自分、私はそれを自覚していた。だからこそ、『ヨースケくん』が私の心の支えになっていた。同時に『憎まれっ子世に憚る』という言葉も知って、それ以来は、みんなと同じように出来ない自分に劣等感を抱きつつも、自分の個性を大切に生きようと決めたのである。

そんなこともあって、今回、清水みさとさんが急遽代演になったということで知った『さよなら光くん、さよなら影さん』の上記写真を見て、「あ、見てみたいな」と思った次第である。清水みさとさんは、以前『ありがたみをわかりながら死ね』で、強烈な存在感を放っていたこともあって、今回二度目の鑑賞になった。

結論から先に言うと、大号泣の傑作だった。それでは、その詳細を。

 

 下北沢 小劇場 楽園へ

改築工事の進む下北沢駅を降りると、様々な服装に身を包んだお洒落な人々と擦れ違う。まさにサウンド・オブ・下北沢という感じの、お洒落で、ハイセンスで、色んな人達の個性が誰にも邪魔されることなく伸びているような、そんな雰囲気がある。センスの熱帯雨林とでも呼ぶべきだろうか。そこには様々な草花が、まだ名前すら与えられていない草花が生きているような、そんな雰囲気。

チケットを購入し、開場時刻になって入場。着座。楽園という名にふさわしいかどうかは分からないが、こぢんまりとしたスペースである。丁度小さな小屋を思い浮かべて頂ければよいだろうと思う。ネット上に写真があるかも知れないので、そちらをご覧いただけるとイメージしやすいと思う。

場内にはエリック・クラプトンの『チェンジ・ザ・ワールド』や、イーグルスの「テイク・イット・イージ』などが流れていた。まだ演者が出る前の舞台を眺めるのも面白い。壁には黒板のようなものが四方に掛けられてあり、そこにはチョークで書いたと思われる数式や記号が書かれている。

舞台の中央には木製の長方形のテーブルがあり、その上には人が入れそうな大きな段ボールと、紙飛行機のような模型が置かれてある。舞台の隅には椅子や、小さな机に鍋や食器が置かれている。恐らくは何かの建物の一室だということが分かった。

照明が落ち、暗闇が訪れボワアアンとした音楽が流れ、演劇が始まった。

 

光という少年、そしてパパとおばあちゃん

冒頭はステラとパパの会話から、光という少年とその周辺に纏わる話である。ステラについては詳しい説明は無いが、どうやら近所の人である様子。部屋中に謎を散りばめたり、星を眺めてブツブツ言ったり、知識が渋滞を起こしているような人物が光くんなのだという印象を受けた。学校に行っても、友達に馬鹿にされたりする。テストをしていても、頭の中が数字で埋め尽くされ、混乱して問題を解くことが出来ない。色んな障害に悩まされる光くん。優れた才能を持っていることは分かるのだけれど、それが周囲に理解されず、家族だけが光くんを認めているというような印象を受けた。

光くんには母親がいない。パパはうやむやに母親の存在をはぐらかしたまま、どこかにいなくなってしまう。パパがどこか遠くに行ってしまったことに気づいた光くんの動揺が切ない。

光くんを演じる小林光さんの膨大な台詞と、博識ゆえの早口、そして若干の舌の縺れる感じ。ズバ抜けた知識量を誇りながら、それを上手く表現することの出来ない主人公を見事に演じていた。そして、脇を固めるおばあちゃん役の池田由生さん。この人の声の感じ、発せられる言葉の感じが絶妙に温かくて良かった。パパを演じる縄田かのんさんは、パパというセリフが出てくるまで「ん?この人は何役なんだ?」と思っていたのだけれど、パパというセリフが出て以降は、男らしさを感じる素敵な演技だった。

家を一歩出て学校に行けば、友人達(ニコルズ、ジョン、ドリスタン)にいじめられ、女子たち(キャリー、ナンシー、バーバラ)に守られる光くん。唯一の支えであったパパがどこかに行ってしまったことで、その支えを失った光くんは、パパを探す旅に出る。この辺りの光くんの決意は素晴らしいと思う。かつて『母を訪ねて三千里』というアニメがあったけれど、ここには明確に「パパとさよならしたくない!」という強い意志を持った光くんの姿があった。『523A3470』というパパの伝言、そしておばあちゃんとの会話から、パパの居場所であろう場所へと向かう光くん。

 

ギズバンハイロード駅へ、そして影さんとの出会い

パパに会うために歩き始めた光くんは、街行く人々に声を掛けられずに戸惑う。ようやく声を掛けても満足の行く答えは得られない。駅員に見つかり、逃げ出す道中で、影さんという女性と出会う。

この辺りで影さんと出会うことが後々の大きな伏線になってくるとは、この時は思いもしなかった。おばあちゃんやパパに愛されている光くん。パパとママが喧嘩をし、パパとママから愛されていないと感じる影さん。この光くんと影さんの対比。愛してくれるパパの元へとまっしぐらな光くんと、喧嘩をして別れてしまった両親を探す影さん。二人は同じ目的を持って出会うのだが、その境遇はあまりにも違っていた。

途中、謎の嘘つき狼に出会ったり、警察から逃げたりして、駅を何とか乗り継いで目的の場所に付くと、そこにはオカマの変なおばちゃんがいて、がっかりする光くんと影さん。

何と言っても素晴らしいのは、影さんを演じる清水みさとさんの表情、そして仕草である。『ありがたみをわかりながら死ね』を見た時にも感じたのだが、過去に辛い経験をしながらも、一所懸命に生きている人を演じさせたら天下一品、右に出る者無しの風貌と、戸惑いにきょろきょろと辺りを彷徨う眼。声を発することが出来ず、スケッチブックで相手に意志を伝えるというコミュニケーション方法を持つ影さん。服装も黒に統一されていて、まさに影。私は心の中で「完璧・・・」と呟いてしまった。

それから二人は、パパがアラスカにいるのだと思って、アラスカを目指して冒険の旅に出る。

 

アラスカへの道中、そしてクジラ

アラスカ行きを決意した光くんと影さん。駅を乗り継いでいた時に出会った嘘つき狼の助言に従い、カワウソさんの船に乗るのだが、まんまと騙されて、アラスカ行きではないことを告げられる。ところが、光くんと影さんを騙した嘘つき狼もカワウソさんに騙され、船に乗せられる。そこから、三人?の船旅が始まる。

船旅では、イルカに出会ったり、カモメに出会ったりする。嘘つき狼が時折「うっそー!」と大声をあげながらも船はゆっくりと進んでいく。

途中で、春と冬の喧嘩に巻き込まれる。これは会場も巻き込まれて、「冬の次は?」というところで、春からマイクを向けられたり、地下アイドルのライブばりのテンションで会場参加型のライブが繰り広げられ、それに対抗するように冬が、演歌を歌ってくるという、謎のイベントが発生する。

ここで演者に対して思ったことを書く。嘘つき狼を演じた渡邊力さんは、元気溌剌で冒険には持って来いの明るいキャラクターと、張りのある素敵な声を持っている。表情も明るくて、まさに嘘つき狼にぴったりの役だと思った。春を演じた槇野レオナさんは、とにかく眼力の凄まじさと表情の恐ろしさが素晴らしかった。目の奥に狂気を湛えた感じで、普段は普通に生活をしているけれど、キレたら刃物沙汰になるのではないかと思うほどの、狂気を感じる演技だった。冬を演じられた鈴木芳奈さんは肌も白いし、雪女感があるし、どちらかと言えば深津絵里っぽくて、表情も豊かで素敵だった。カワウソを演じられた嶋崎迅平さんは、コミカルなキャラクターが秀逸で、物語のコミカルさを見事に担っているように思われた。変なおばちゃん役の原武之さんは、身長も高く肩幅も広く、顔も大きくて、オカマ感が見事に表現されていて素晴らしかった。

春と冬の喧嘩から、突然目の前に巨大な鯨が現れる。この辺りの演出もとても壮大というか、ダイナミックで迫力があった。影さんの手から離れ、光くんは鯨に飲み込まれてしまうのだった。

道中、パパから渡された『23の事柄』が随所で挟まれる。これが名言の連発で、光くんの大きな心の支えになっている。『踊る大捜査線』で言えば、和久平八郎さんの『和久ノート』的な役割をする。これが素晴らしくて、出来ることなら脚本が欲しいくらいである(笑)

 

 鯨の中と外

鯨の中で光くんは、アレキサンダー大王?と人魚に出会う。実はアレキサンダー大王は光くんのパパで、鯨に飲み込まれていたことが分かる。

鯨の外では、光くんを心配するおばあちゃんや、変なおばさん、そしてステラと影さん、春と冬、キツネと雷様と嘘つき狼さんと風さんが、光くんを心配している。

ステラと影さんが二人きりになって、クジラに向かって叫ぶ場面があるのだが、この場面で、ステラを演じた亜矢乃さんの言葉が、ビリビリと体に電撃が走るほどに力強かった。なんとなく、ステラは光くんのお母さんなのかな、とこの辺りで察せられた。それほどに声、表情、そして全身でステラは叫んでいた。それを見ていた影さんの何とも言えない表情、そして声にならない叫びで「友達を返して!」と叫ぶ姿に思わず胸が詰まる。

何とか鯨の中から脱出することが出来たパパと光くん。感動の再会である。誰もが光くんとの再会と、パパの出会いを祝福する中で、影さんは唐突にどこかに消えて行ってしまう。

この場面が衝撃だった。影さんが姿を消す場面になった瞬間、

 

 

あ あ

 

あ あ あ

 

それまでの影さんの境遇、影さんがパパとママとどういう関係にあったのか、影さんはどんな思いで、船に乗ったのか、どんな思いで、ステラが鯨に向かって叫んでいるのを見ていたのか、そして、影さんの声にならない叫び。ありとあらゆる影さんに対する思いが一気に込み上げてきて、私の眼からはとめどなく涙が溢れ始めた。

そして、いなくなった影さんを発見した光くん。「どうしていなくなっちゃうの?」みたいなことを聞く光さんに対して、影さんは身を竦め、苦しそうな表情でスケッチブックを一枚一枚めくる。「あなたには待っている人がいるから」、とか「あなたには帰る場所があるから」、「私には待ってくれる人がいない」、「私には帰る場所が無い」みたいな文字が現れ、それを光くんが読み上げる度に、涙が溢れてしまった。

そうだ、そうだ、影さんは、パパとママが自分のことを嫌っていると思っているんだ。この物語にはまだ、影さんのパパとママは出てきていないんだ。周りから愛され、心配されている光くんを見て、羨ましかったのだろうか、悲しかったのだろうか、どんな気持ちだったのだろうか。考えれば考えるほど、涙が止まらなかった。

そして、全ての思いがまるで溢れ出すかのように、影さんは初めて光くんに向かって声を発する。

この声、間、そして全身から振り絞られるようにして発せられた音。清水みさとさんの声は、天性の声だと思う。ありとあらゆる言葉と感情を含んだ声が、その響きが、私の鼓膜を震わせ、そして心を震わせた。それをどう表現していいか分からない。あの声と、間と、そして全身の仕草、そして表情。全てが、語られることの無いものを語っていた。この辺りで、もはや私は真っすぐに物語を見ることが出来なくなった。目が涙で溢れ、影さんへの思いが溢れて止まらない。

最後、影さんは振り絞るように言葉を出して、「あなたなら、きっと、大丈夫」みたいなことを言うのだが、もう、もう、もう。涙。

 

 影さんとの別れ、それから

電車にも乗れるようになった、船に乗ったり、鯨から脱出したり、様々な成長を遂げた光くん。そして、そこに存在しない影さん。光くんが学校に行けば、光くんの不在を心配していたニコルズやドリスタンやジョン、微妙に勘違いをするバーバラや、正義感の強いキャリー、勉強熱心なナンシー。最初の場面とは大きく成長した光くんの姿が描かれる。テストの時間になって、頭の中に数字が溢れても、嘘つき狼の「うっそー!」で数字を掻き消し、見事、悩みを解決した光くん。

家に帰ればおばあちゃんがいて、パパがいる。温かい家族がいる。途中、影さんが再び出てくる。そして「きっと、大丈夫」と光くんと一緒にいって、「さよなら光くん」と影さんが言うと、「さよなら影さん」と光くんが言う。

最後は、屋根の上で家族三人が、星を見る場面で終わる。

 

 総括 親と子と光と影とさよならと

この演劇を見終えて、これは家族の物語なのだと私は思った。他の人とは違う個性を持った光くんを、一所懸命に愛するパパとおばあちゃん。そして、家族という枠の中には入っていないけれど、それでも光くんを大切に思うステラ。様々なことに巻き込まれながらも、たくさんの人達の愛を受けて成長する光くんの姿を見ていると、親と子の理想の姿がそこにあると思った。

同時に、影さんの存在も忘れてはならない。親から愛されることなく、光くんの傍でずっと光くんの成長を見ていた影さん。ここには、親と子の釦の掛け違いによって生まれた悲しい姿があるように思えた。

まさに、光と影の対比のように思えた。親と子の何気ない関係の中で、そこには愛される者の物語と、愛されなかった者の物語があるのだ。この物語では、影さんのその後については語られることはない。それだけに、私は影さんに幸せになって欲しいと思った。だが、結論は出ることがない。結論が出ないからこそ、この物語は広がりを見せるのだと思う。

私自身は、幼少期の悔しさや恥ずかしさを乗り越え、今ではすっかり他人のことなど気にしない人間になったが、色々な出来事を乗り越えたからこそ、今があるのだと思う。両親には物凄く愛されたと思うし、愛され過ぎたと思ってもいる。同時に、もしも自分に家族がいたら、光くんのように愛してあげたいと強く思った。

どんな境遇に生まれ、どんな障害を抱えて生まれたとしても、周りの人が一所懸命に愛してあげれば、気にかけてあげれば、きっと立派な存在になるのだ。この物語のパパのように、いつも息子を気にかけるパパでありたい。そんな日が来るかは分からないけど。

今はまだ親としての立場で感想を述べることは想像することしか出来ないのだけど、両親の愛を受けて、周りからのたくさんの支えと愛があるからこそ、今があるのだ。何気ない毎日を、生きて行くために、そして、誰もが支え合って、愛し合って生きて行くために、この物語は強く存在しているのだと思う。

井伏鱒二は「さよならだけが人生だ」と言った。ならば、さよならの来るその日まで、精いっぱいに生きようではないか。精一杯誰かを愛し、誰かに愛される人生を生きようじゃないか。

きっと、大丈夫。あなたなら、生きていける。

そんな思いを胸に抱き、ぱんぱんに腫れあがった目を擦りながら、私は楽園を後にするのだった。