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【Day5】慶安太平記 神田松之丞 2019年1月14日

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男は、両手を組んで頭を垂れている。 

 

現実の風景

開演前、私はロビーで待つ人々の表情を眺めていた。エレベータの扉が開き、流れ込むように人々があうるすぽっとのロビーへとやってきた。そして、壁に並べられた一人の講談師の写真を撮影している。ロビーの脇に置かれたテーブルを挟んで、静かに語り合う人々の姿がある。窓際では、ぼんやりと窓の向こうの景色を眺めたり、スマートフォンを操作する人々がいる。

これまでの四日間、慶安太平記を聴き続けた人々は、どんな思いで今日という日を迎えたのだろう。そして、最後の一日に臨む人の顔をどうしても想像できなかった私は、単純な興味から、会場にいる人々の顔を目を合わせないようにして眺めていた。

様々な表情がそこにはあった。年齢も様々だった。講談師の写真を見つけるなり、「撮っておかなければ」という使命感に突き動かされた表情、今日で終わってしまうのか、という寂しそうな表情、友人と楽しく話しながら券を切ってもらう人の表情、とても真剣な表情で、「今見ているものは、とても凄いものなんだ」と信じて疑わない表情、母親に手を引かれ、純粋な眼で「松之丞って凄いね」と微笑む表情、「パパも連れてくれば良かったね」と子供に向かって微笑む表情、一人の講談師をずっと見てきた人の「ここまで来たんだね」という成長を喜ぶ表情、一体どんな最後が待っているのだろうという期待の表情、静かに心の奥底に物語を留めようとして瞳を閉じ、これまでの物語を反芻するかのような表情、なんだか有名な講談師らしいね、そうね、その名の通りね、と語り合う男女の表情。

 

そうか、神田松之丞は、この人達の全ての目と表情を見ているんだ。

 

五日間、同じ場所で、同じ時刻に、同じ席に座り、一人の男に纏わる話を、一人の講談師から聞く。そして、物語の世界に誘われて、それぞれに何かを見て、何かを得て、現実へと戻っていく。

その場でしか語られないこと、その場にしかないものが確実に存在していた。300人近い客と、一人の講談師と、それを支える大勢のスタッフ。全てが【慶安太平記】という物語を軸に回っていたのだ。

私は、ロビーにいた人々の表情を見ることが出来て、とても幸せだった。想像できなかったことを目にすることが出来て良かった。そして、その表情の全てが【神田松之丞という講談師】を愛する表情だったことが、何よりも嬉しかった。物販に並ぶ人の声が聞こえ「これでもう三冊目なんですよ」と言いながら、Pen+を買う人の姿も見たし、恐らくPen+の人なのだろう男性の、嬉しそうな「ありがとうございます」という表情も見た。

あの日、あの場所で、誰もが素敵な表情をしていた。語り合う者もいれば、噛み締めるように最後の日を迎えた者もいた。どんなに生活や境遇が違っていたとしても、一人の講談師を見るぞ、という気持ちは同じだった。

そして、それほどまでに人々を魅了する神田松之丞という講談師を羨ましく思った。こんなに様々な表情を、自らの芸で魅了していることの素晴らしさ。きっと、神田松之丞自身も想像していなかったに違いない。否、それは分からない。もしかしたら、想像していたのかも知れない。自らの講談で、人々を魅了する今を、本当は我々が魅了されるずっと前から、想像し続けていたのかも知れない。

とするならば、今、その想像は現実のものとなったのだ。大きな大きな神田松之丞の野望は達成されたのだ。では、今宵はどんな物語が語られるのか。慶安太平記を四日間聞き続けてきた者達は、由井正雪の野望の最後を今宵、目撃することになる。同時に、神田松之丞の未来を、目撃することになるのだ。

 

第十六話『丸橋と伊豆守』

丸橋忠弥の浅はかさと、松平伊豆守(知恵伊豆)の思慮深さの対比を、語りのリズムと声色で松之丞は表現していた。丸橋の愚かさの表現にコミカルさは無く、不意の油断を突かれて狼狽する人間らしい姿を感じた。同時に、ほんの些細な変化、違和感を見逃さない知恵伊豆の視線が、ゆっくりとした語りと相まって知性のある人物であることを物語っていた。

策略が露見すれば、全てが台無しになるという緊張感が物語全体に張り詰めていた。それは連続読みによって、正雪がこの第十六話まで、どのような行動をしてきたかを誰もが知っているからだと思った。丸橋と知恵伊豆との対面の場面では、まるで丸橋になったかのような緊張感を私は抱いた。

日常生活においても、何か良からぬことを考えている者の姿は表情や行動に出やすい。私にも身に覚えがある。弟に黙って冷蔵庫のアイスを食べた後、弟から「兄さん、僕のアイスを食べなかった?」と聞かれた時、私は「パピコ食べてないよ」と思わず言ってしまった経験がある。泣く泣く弟にハーゲンダッツを買うことになった。

私が正雪の仲間だったら、すぐに策略は露見するだろう。無論、仲間にすら入れてもらえないと思うが。

知恵伊豆からの問い詰めを何とかやり過ごした丸橋が、緊張の糸が解れたのか、妻に幕府転覆の策略をべらべらと話す場面には、ふつふつと丸橋に対して怒りが湧いてきたし、「なんでこんな奴を仲間になんかするんだ!」と正雪に対して思った。丸橋の妻は良く出来た妻で、昔の話を引き合いに出して丸橋を咎める。この場面における丸橋の愚か者ぶりには、これまでの連続読みも相まって、殆ど怒りしか感じなかった。正雪が予見した通り、幕府転覆という野望が崩れるとすれば、まず丸橋からであろうということが、説得力を持って理解できる。そんな丸橋の愚かさと、周囲の人間の思慮深さの対比が見事な一席だった。

 

第十七話『奥村八郎右衛門の裏切り』

連続読みの醍醐味、ここに極まれりというような、連続読みだからこそ、強烈な印象を放つ一席だと私は思った。なぜなら、この話で正雪の野望の全てが露見するからである。

冒頭は落語の『笠碁』のようだと思った。丸橋と奥村が囲碁をし、丸橋は「待ったなしでやろう!」と言うのだが、最終的に「待った!」と言いだして、奥村と口論になる。そこからは落語のようにはいかず、丸橋が奥村の額を傷つけ、柴田だったと思うのだが、仲裁に入る。この時も丸橋の愚かさが際立っていたが、何よりも奥村の怒りの感情が見事で、尊厳を傷つけられた武士の怒りを、松之丞は表情と声で見事に表現していた。その怒りを抑え込む様子などが非常に現実味があり、顔を傷つけられるということが、どれほど恥であるかを松之丞は声と、語りで表現していたように思う。

そして、奥村が抑え込んだ怒りが、後半、見事な伏線となって爆発する。

幕府転覆の前夜、家族に別れを告げようか迷う奥村。家の前まで来て帰ろうとするところで、女中に呼び止められて、するすると中に入ってしまう場面があったと思うのだが、その場面に「いよいよか・・・」と胸がとても苦しくなった。

これまでずっと隠され続けてきた野望が、どの瞬間に露見するのか、得も言われぬ緊張感が漂い始める。ゆっくりと、じっくりと、松之丞の語りは、その炎の火力を徐々に徐々に強めて行くかのようだった。

額の傷を見つけた奥村の父の動揺。ぐっと怒りを堪えていた奥村が「転んだだけです」というような誤魔化しをするのだが、奥村の父がその言葉を信じず、奥村の兄を呼びつけ、奥村の兄も奥村を信じない。このヒリつくような言葉の交差。思わず心の中で「言うな、言うな」と呟くのだが、次第に事はヒートアップし、奥村は縄で縛りつけられる。奥村を見つめる奥村の父と兄の表情が、胸に苦しい。家族という関係性の中で、自らの大きな野望を言うまいとする奥村と、額に傷を付けられ、武士の尊厳を踏みにじられた我が子を思う父と、弟を思う兄の気持ちがぶつかり合う。段々と声のトーンも力を増していく。この辺りの語りの抑揚の凄まじさに、ドクドクと心臓の鼓動が早まって行くのを私は感じた。

そして、奥村は遂に感情を爆発させる。「大事の前の小事なのです!」というようなことを言った時の、「ああ、遂に言ってしまったか・・・」という衝撃が、胸にずしりとのしかかってきた。奥村の言葉に戸惑う父と兄の表情。そして、そこから全てを話す奥村の「どうしていいのか分からない」というような、戸惑いの語り、家族の前で野望を隠していた罪悪感、混乱と悲しみの表情を浮かべながら語る奥村の姿に、私は「仕方がないのかも知れない」と思った。それほどに、家族の関係性というものは、お互いに隠し事の無い関係だったのかも知れないと思ったからだ。

まるで、積み上げてきた城が一瞬で音を立てずに崩れて行くかのように、奥村の言葉以降は、全てが知恵伊豆に知れ渡ることとなる。大きな失望と同時に、奥村を攻め切れない家族との関係性に胸が詰まる。神の前で唯一恥の無いものは、人の心の真なのかも知れないと思った一席だった。

 

 第十八話『正雪の最期』

大きな失望と、奥村が野望を吐露した場面の後で、待っているのは正雪の最期である。実の師を他人に殺害させ、殺めた他人を殺害した正雪。丸橋忠弥に出会い、秦式部に出会い、戸村丹三郎に出会い、伝達、佐原重兵衛、牧野兵庫、柴田三郎兵衛、加藤市右衛門に出会った正雪。その正雪が、資金集めのために鉄誠道人。全ての野望は、最初に出会った丸橋に端を発して瓦解していく。

正雪は、こうなることすらも見据えていたのではないか。と思うほどに、最期はジタバタと暴れ狂うことなく、ただ静かに自らの立場を理解し、運命を理解したかのように文字をしたため、自害する。この潔さの中に、正雪の言いようの無い魂の意志が込められているように思ったのだ。

あと一歩というところまで来て、全てが無に帰す悲しみがどれほどのものか、私は想像することしか出来ない。岡潔の言葉を借りるとすれば、「ケアレス・ミスの無い論文に、たまに一つミスがあれば、それは致命的な欠陥となって、全てが思い違いをしているかのような気にすらなる」というものがあるが、正雪はこのミスを最初から見抜きながら、行動をしていたのではないかと思うのだ。

それは、丸橋に出会った時から薄々と感じており、柴田と加藤を仲間にした辺りで徐々に形を成し始め、鉄誠道人を金の為に殺害した辺りで、正雪は「自らの野望は果たされない」と心のどこかで確信したのではないか、と私は想像する。その後の伊豆守の暗殺失敗も含めて、先行きに立ち込めた暗雲を、正雪は見ていたのだと思う。

どれだけの才能や力があっても、それだけでは未知を見ることは出来ない。だが、正雪は自らの行動を眼前に捉えながら、その未知を一瞬、見てしまったのではないかと思うのである。それは正雪の心に残った唯一の良心が、「この野望は果たされない」と正雪に思わせたのだと私は思ってしまうのだ。

『第十四話 鉄誠道人』と『第十五話 旗揚げ前夜』までの間で、私は正雪に何かしらの心の変化があったのではないかと想像するのだ。『第十五話 旗揚げ前夜』以降、第十八話まで正雪は登場しないが、鉄誠道人を殺した事に対して、正雪は何の罪悪感も抱かなかったのだろうか。私は抱いたと思うのだ。あまりにも残忍過ぎる自分の行いを、正雪の中のもう一人の自分が咎めた瞬間があったのではないか、と想像するのである。

それは、決して物語として語られることはない。だが、心のどこかで正雪は「あの時、鉄誠道人を殺めたことは間違いだった」と悔い改めたのではないか。むしろ、私はそんな風に思っていて欲しいという願望がある。正雪の心の変化があったからこそ、最期は潔く自害したのではないかと思うのだ。本当に残忍な人間であれば、血の一滴すら尽きるまで戦っていただろうと私は思うのである。

さて、随分と野暮なことを書いてしまったが、由井正雪の最期は、静かな鮮血と、次々と落ちていく頭と、狂わんばかりに刀を振り上げ、振り下ろす坊主の姿が強烈に印象に残った。まるで、北野武の映画を見ているかのようだった。行動は派手に見えるが、そこに漂う透き通るような静寂を私は感じた。言葉で言い表すことは難しい。凄惨ともスプラッターとも違う。静寂の生々しさというべきか、死の無音というべきか。最期を迎えた正雪一行の死は、あまりにも潔く、清らかにさえ思えた。

正雪の最後の言葉は、聞いた者の心に深く刻み込まれている。「良き夢であった」というようなことを聞くと、夢に生き、その夢のために、あらゆる知恵を発揮した正雪という男の、言いようのない表情が見えた。その表情は、これまで一度も見たことが無いほどに、澄んでいるように思えた。

 

第十九話『一味の最期』

松平伊豆守の面前で、酷い仕打ちを受ける正雪一味の姿が描かれる。正雪の一味だけではなく、その家族にまで拷問が行われることの惨たらしさ。幼い子ですらも苦しめられる場面には胸が苦しくなる。そこへ自首のためにやってきた佐原重兵衛が伊豆守に放つ言葉には、『正義もまた悪なり、悪もまた正義なり』というような、人間の心の在り方を問うような強い意志が感じられた。

由井正雪という一人の男に魅せられ、その野望に加わった一味達が傷つけられる場面。そして、その思いの強さをひしひしと感じる前半から、最後は磔にされた丸橋忠弥の面前で、首を切って自害する柴田三郎兵衛、そして槍で突かれ絶命する加藤市郎右衛門が後半に描かれる。第十二話・第十三話で描かれた三人の関係性が、痛烈に胸に響いてくる場面だ。野望崩壊のきっかけを作った丸橋であるが、この場面で彼に対する怒りは消え、むしろ人間らしい姿に胸を打たれた。

いかに当時の浪人達が幕府に不満を抱えていたのか、その不満を行動へと移す代表であった由井正雪。何か大きなことが企てられる時には、それ相応の理由があるのだということが分かった。そして、どうすれば由井正雪の臨む未来は誰も傷つけることなく訪れたのだろう。全ては起こった出来事から推測することしか出来ないが、当時は由井正雪の行動こそが、唯一の手段だったのかも知れない。

全てが綺麗さっぱりと片づけられる。そして、由井正雪とその一味の最後の死が、幕府を突き動かしたのだと、松之丞は語る。くしくも、正雪とその一味の死によって、幕府は正雪が思い描いた未来へと進んでいくのである。

一人の男の死が、幕府を変えたのだという事実があることが、私は救いになっていると思う。同時に、他の方法は無かったのだろうかと考えてしまうが、それを思いついたところで、どうすることも出来ない。現在は過去のあらゆる事実によって成り立っているのだ。そして、未来も現実と過去の積み重ねによって成り立つ。

ここに、慶安太平記の全5夜、19席が幕を閉じた。

 

 総括 語り継がれていく偉業

終演後、私は再びロビーに立ち、五日間の通し公演を聴き終えた観客の表情を見ていた。皆一様にとても満足そうな表情をしていた。何か打たれた鐘のようにジーンとしている者もいれば、仲間と語り合う者もいた。皆一様に笑顔である。「凄かったね」とか「パパに見せたかったね」という親子もいれば、静かに会場を去っていく者もいる。物販に並んで、松之丞さんからサインをもらいながら、何かを話しかけている人もいる。千差万別。十人十色。300人が300人それぞれに、思い思いの表情をしていた。それを見るのも楽しかった。

五日間を終えて、私は神田松之丞という一人の男の、偉業を目撃したのだと改めて思った。全体を通して言えば、『戸村丹三郎』、『宇都谷峠』、『鉄誠道人』、『奥村八郎右衛門』、『正雪の最期』が特に印象的な演目だった。中でも『戸村丹三郎』は私としては凄まじい演目になった。恐らく、このままいけば2019年のベストになるかも知れない(気が早すぎる)

私自身も、このレポを書き終えて、改めて自分の表情はどうか、と見てみたのだが、相変わらずのんきな狸面で、締まりのないゆるゆるの帯みたいな表情である。

これから、何十年と講談界を牽引し続け、実力と名声を欲しいままにしていくであろう神田松之丞。そんな現役最高峰の若手講談師を見ることが出来て、とても満足だった。出来ることなら、もう少しゆっくりしたペースで連続物を聴いてみたいのだが(笑)

この記事もようやく【Day5】を書くことが出来た。神田松之丞さんが読んでいるかは分からないけれども、野暮と思いながらも感想を書いた。公開しているが、後悔はしていない。

これからも、私は演芸を書き続けるだろうと思う。自分のモチベーションの続く限りであるが。出来ることならば、この記事の写真のように、長くモチベーションが続くことを祈るばかりである。そして、美人の多い落語会に誘われたいものである(唐突に何を言っているんでしょうね)

それでは、素敵な演芸との出会いがありますように。祈りつつ。

 

 エピローグ 想像の風景・結

男は、語り終えた、と思った。前夜祭を含めて11日間、俺は語り切ったのだ、と思った。言いようの無い感情が、俺の中に沸き起こっている、と男は思った。同時に、俺の思いは届いたのか、と男は自らに問うた。会場の300人に届いたのか、と男は自らに問うた。

届いた、と客席の男は言った。確かにそれは、届いた、と客席の男は言った。そうか、と舞台に座し、釈台を前にした男は言った。そして、嬉しそうに微笑んだ。

今宵、一つの物語を俺は語り終えた。物語は終わったが、俺の現実は続いていく。俺はまだまだ、この世界に生きている。そして、俺は講談師として、これからも生き続けて行く。俺の目指す遥か高みへと、俺は生涯をかけて歩み続ける。

釈台をぽんっと軽く、男は叩いた。ぽんっぽんっと二度叩いた。それから、三度、四度、五度と叩いた。俺は生涯で、何度、張り扇で釈台を叩くのだろう。俺は生涯で、どれだけの物語を語ることが出来るのだろう。俺は生涯で、どれほどの人に、講談の魅力を伝えられるのだろう。

そんなことは分からない。分からないからこそ、挑むのだ、と男は思った。目が覚めて、生きて、座布団に上に座し、釈台を前にし、張り扇を叩けば、俺は語るのだ。物語を語るのだ。そして、目の前のお客様のために、全身全霊で物語を語るのだ、と。

そうだ。俺がずっと描き続けてきたこと。俺がずっと繰り返し、繰り返し続けてきたことを、これからも変わらずに、俺は続けるのだ。俺は、講談師なのだ。

客席の男は、舞台に座す一人の講談師に向かって声を掛ける。

「待ってました!」

その言葉に応えるかのように、講談師は張り扇を握り、ゆっくりと振り上げた。

振り下ろした張り扇が、釈台にぶつかった刹那。

乾いた音ともに、全てが霧散する。

一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、未来が見えた。

老齢なる講談師が、大勢の人々を魅了する姿が。

そして、講談の明るい未来が。

今宵、一つの物語が幕を閉じ、

今宵、一つの人生が幕を開け、

今日から再び

物語は始まるのだ。

生きている限り

存在する

言火は

永遠の

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