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我々は何に争わされているのか?~争いモンスターとの付き合い方~2019年2月18日

  車内での偶然

電車の中で二人の青年の話を聞かなかったら、そんなことを考えることもなかっただろうし、ぞなもしの友人が私の質問に返事を返さなかったら、こんな記事を書くことも無かっただろう。

私の乗った電車の座席は満席で、目的の駅まではまだ少し時間があったため、私は仕方なく吊革につかまってぼんやりと窓の向こうを眺めていた。座席には二人の高校生らしき青年が座り、電車が動き出すなり左にいた青年がポケットからスマホを取り出すと、何やら人差し指を動かし始めた。それを見た右側の青年がスマホをのぞき込むと、

「あっ、それクラロワじゃん」と嬉しそうに笑った。

クラロワとはなんだろうと私は思った。アセロラや知恵の輪やザギトワなら知っているが、クラロワは聞いたことが無かった。すぐにスマホを取り出して調べると、正式名称が出てきた。どうやら『クラッシュ・ロワイヤル』の略称であるらしかった。

兵隊を使って互いの王様を攻撃し、先に王様の体力を減らして倒した方を勝ちとするゲームであるらしく、正方形の上下の端の中心に髭を蓄えた、人の好さそうな顔をした王様が座している。正方形の真ん中には川が流れていて、川を渡るための橋があり、それを渡ってお互いの陣地にいる王様に兵隊を送り込み、王様を攻撃するというシステムらしい。

どうやら左の青年はクラロワというゲームの達人であるらしく、右にいた青年はスマホの画面を眺めながら、「うわっ、めっちゃすげぇじゃん」とか「圧勝じゃん。無傷じゃん」などと興奮した様子だった。左の青年は、「まっ、最強のカードがあるからね」と自慢げにカードの説明を始めた。

「エレクトロウィザードを持ってれば、大体の相手には勝てるよ。出てきた瞬間に周りの奴等を気絶させられるし、二体同時に攻撃もできる。しかもコスト4で召喚できるから、かなり使いやすい。移動速度も速いし、地上と空中のどっちも攻撃できるからね。無敵よ」

どうやら、カードを使うと兵隊が召喚される仕組みであるらしい。あらかじめ配られたカードがあり、それぞれカードを召喚するためのコストと呼ばれるものがあって、そのコストの溜まり具合によって、召喚できる兵隊が異なるようだった。

右の青年は感心した様子で「マジか、そいつはやべぇな」と言った。私は心の中で(この青年の語彙力がやべぇな・・・)と思いながらも、何となく会話を聞いていた。

 

 ぞなもしの友人のゲーム観

以前、私のブログにも登場したぞなもしの友人(この人の古典を聴いた!~1月5日 神田連雀亭~ - 落語・講談・浪曲 日本演芸なんでもござれ)に、私は「クラロワって知ってる?」とメッセージを送ってみた。しばらくして、ぞなもしの友人から返事が返ってきた。

『そんなん誰でも知ってるぞな。知らないのは君か宇宙人くらいぞな。ただの戦争ゲームぞなよ。僕は好きじゃないからやってないぞな。それよりPUBGの方がうんぬんかんぬん』

ぞなもしの友人のメッセージを見たとき、私はどうやら先ほどまで宇宙人だったらしいと思ったと同時に、『戦争ゲーム』という言葉が引っかかった。

かれこれゲームから遠ざかって十年近くなる。そもそもスマホでゲームをすることが一切ない。要するに完全な宇宙人であった私だが、ぞなもし友人の『戦争ゲーム』という言葉とともに、クラロワというゲームに対して、別の思いを抱くことになった。

私はさらにぞなもしの友人にメッセージを送った。

『ついさっき地球人になったよ。クラロワって戦争ゲームなの?カードで王様を攻めるんだから、将棋みたいなもんじゃないの?』

すると、ぞなもしの友人は

『まだまだ森野氏は宇宙人ぞな。クラロワはれっきとした戦争ゲームぞな。戦略がどうのこうの言われてるぞなが、結局、強いカードを持ってる奴が一番強いぞな。課金して強いカードを手に入れれば、簡単にランキング上位ぞな。最近のゲームは大体そんなもんぞな。そんなことより、PUBGをやらないかぞな?PUBGはクラロワみたいなクソうんぬんかんぬん』

メッセージを見て、私はしばし窓の向こうを眺めながら考えに耽った。

最強の武器を持っている者が一番強い。今、この世界で一番最強の武器を持っている者は誰だろうか。ドナルド・トランプだろうか、金正恩だろうか。

最強の武器を買うためには金が必要である。今、この世界で一番お金を持っている者は誰だろうか。どうやらAmazonのCEO、ジェフ・ベソス氏であるらしい。ということは、ジェフ氏はお金さえ使えば、最強の武器を買うことの出来る立場にある。もう既に最強の武器を手にしているのかも知れないが。

ぞなもしの友人が言うように、クラロワは戦争ゲームであるらしかった。お互いに命を奪い合うために兵隊を送りこみ、戦略を練り、最強の兵隊を送り込む。自分の王様が殺されれば悔しがり、相手の王様が死ねば喜ぶ。

私はふと思った。何が楽しいのだろう。

そのままの問いをぞなもしの友人に送った。返事はすぐに返ってきた。

『クラロワはつまんないぞな。血が流れないぞな。グロくないぞな。ゲームというのは、普段できないことが出来るから面白くて楽しいぞな。血がブシャーと飛んだり、内臓がドバアアっと出たり、車が大クラッシュしたり、ビルが燃えたりするから楽しいぞな。この面白さが分からないぞなか?』

私はただ一言『わかんないね』とだけ送って、それでぞなもしの友人とのやり取りは終わった。

 

争わない民藝

ぞなもしの友人の言葉をぼんやりと考えながら、私は柳宗悦氏の『無対辞』の言葉を思い出していた。民藝館で見た柳宗悦氏が蒐集したという民藝品は、ただそこに存在するだけで、美しくあった。それは何ものとも争っていないように思えた。そのもの自体であるが故に正であるというように、私には思えたのだった。

誰とも競い合うことなく生きるということが、人間の一つの生き方であると私は思う。幼い頃は「誰々ちゃんよりも早く走れるようになりたい」とか「誰々ちゃんに負けないように勉強しなくちゃ」とか、他人と比べて自分の能力を誇らしく思っていた頃もあった。むしろ、そうした競争意識が人を成長させることも十分にわかる。出来ることなら勝負には常に勝ち続けていたい。負けて悔しい思いなどはしたくない。

勝負ごとに負けると、決まって周囲から「いいか、その悔しさをバネにしろ。もっと練習するんだ」と言われていた。その頃は「はい、先生。頑張ります!」だったが、今は「いや、悔しくもなんともないです」という気持ちである。向上心は欠片も無いと思われるだろうが、私は誰とも争いたくないのである。要するに誰とも勝負しない生き方をしたいのである。

なんてつまらない人生だ!と思われる方もいるかも知れないが、私は少なくとも「私は私。この世界で誰とも争うことのない人間なのだ」と思っている。そう記せば「ふっ、お前は分からないだろうが、お前は操られているんだよ。より大きな存在にね」と言ってくる人もいそうだし、「争わずに生きられるわけないじゃん」と言ってくる人もいるかもしれない。

柳宗悦氏の言葉を借りるとするならば『高い代価なるが故にものを誇るのは浅はかな趣味である」という言葉に尽きるだろう。高級な毛皮を身に纏い、何十億という宝石を身に付けてそれを誇ることは、決して思慮深い趣味ではない。同じように、金持ちが人間として必ずしも素晴らしいとは限らないのだ。

私が柳宗悦氏に共感するのは、そうした『競争主義』であるとか『拝金主義』というような概念に対して、『何ものとも争わず、全てを肯定する思想』を氏が持っているからである。見た目は地味でも、一見すると何に使うか分からないものでも、それはその存在であるが故に美しいと私は思うのである。

今でこそ、誰とも争いたくないと思うが、世間を広く見渡してみると、戦争とまではいかなくても、小さな争いは日常茶飯事であるようだ。

私はそこで、一つの問いが浮かんだ。

 

 我々は何に争わされているのか?

幼い頃からずっと、競争することが日常であった。100m走なり、テスト勉強なり、様々に人は争わされる。スマホのゲームでさえ人と争って勝ち負けを決める。勝てば気持ちが良く、負ければ気持ちが悪い。誰かに勝つということは、それだけ気持ちの良いものだという意識が、私の中には植えられたのだろう。いつの間にか。

私はオリンピックの競技を見ていても、昔は「日本勝て!日本負けるな!」と血眼になって応援していたが、もうすっかりそういう気持ちが無くなって「日本が勝とうが負けようがどうでもいい」という気持ちになった。それよりも選手が一所懸命になっていたり、美人が汗を流して肩で息をしている姿を見る方が興奮する。

私はそれまでの経験によって『競争主義』の観念に縛られていたのだと思う。人よりも抜きん出れば金持ちになれるとか、美人と結婚して毎日行為に及ぶことは、男として最上の幸福であるとか、友達はたくさんいる方が良いとか、そういう様々な情報を繰り返し繰り返し言われ続けたことによって、自分でも「お金持ちになれれば幸福」とか、「美人を抱けたら幸福」とか、「毎日誰かとお話できたら幸福」と思うようになっていたのだ。無意識のうちに。

そうだ。結局、私は何に争わされていたのか全く分からないのだ。そいつの正体は全く分からないのだ。気が付いたら、そいつはいなくなっていたのだ。スマホのゲームの中に潜んでいたり、学校教育の中に潜んでいたり、日常のありとあらゆるところに、透明な姿で潜んでいるのだ。

勘違いしないでほしいのだが、大事なのはそいつとどう付き合うかということである。誰かと争うことが悪いとは言わない。争うことだって十分に必要なのだ。重要なことは、争うことに対して自分がどう捉えて生きて行くか、ということである。

私は争うことはキッパリ諦め、自分が自分の思うままに好きなように生きることを決めたし、幸いにもそのように生きることの出来る環境にいる。

あなたはどんな風に、そいつと向き合っていくか。仮に名前を付けるとするならば『争いモンスター』との付き合い方が重要である。争いモンスターは事あるごとにあなたを争いへと誘い、勝てば無常の喜びを、負ければとてつもない悔しさをあなたに与える。そして、その与えられたものに対して、あなたがどう反応するか。それは、あなた自身にしか分からないのだ。気を付けてほしい。『争いモンスター』はいつでも、あなたが争うことを待ち望んでいるのだから。

 

総括 私の好きなゲーム

目的の駅に辿り着き、電車を降りて、高校生の嬉しそうな表情を眺めながら、私は自分がやるとしたら、どんなゲームをやるだろうと思った。真っ先に思い浮かんだのは『テトリス』だ。正方形のブロックを積み上げて、ブロックが横一列に揃うと消えるゲームだ。もしかしたら、『テトリス』にも争いモンスターが潜んでいるかも知れない。だが、一人でテトリスをする分には、誰とも争うことは無い。

自然に目を向ければ、植物は争っていない。木々も争っていない。自然は、何ものとも争っていないのだ。そう考えると、争わないものは『自然』なのかも知れない。

結局、今日、私は目的とする駅で降りて、入りたいと思っていた場所に入れずに家に帰った。でも、何の怒りも抱かなかった。単に縁が無かったのだと諦めて、家でゆっくりと本を読むことにした。入りたい場所に入れず、そこで過ごす筈だった時間がぽっかり空いたことによって、私はじっくり本を読むことが出来たし、ぐっすりと寝ることが出来たし、色んなことを考えることが出来た。

誰とも争わずに、自分の考えに従って生きるのは随分と楽しい。傍から見て「つまらないわ」と思われても、私は一向にかまわない。誰とも争わずに生きられた今日は、とてもとても幸福な一日であった。

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