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自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

人と人とに架かる橋~2019年2月23日 神田連雀亭 13時30分回~

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いつもありがとうございます。

 

幾年月もあなたと

万世橋は東京都の荒川を支流とする神田川に架かる橋である。明治5年に取り壊された筋違橋の石材を用いてその翌年に建設され、名を萬世橋(よろずばし)と言ったが、庶民の語感のためか次第に音読みで(まんせいばし)と呼ばれるようになった。明治40年に廃橋となるまでの間、弓状の石造が二つ連なっている様が眼鏡を想起させたことから、眼鏡橋と呼ばれ人々に愛されていた。昭和5年に現在のアーチ橋となり、今では多くの人々の往来を支える橋となっている。

温かい陽光を浴びながら、向かってくる寒風に耐えて人混みを抜け、神田川の穏やかな流れを横目に見ながら、私は万世橋を渡った。その時、私はぼんやりと万世橋の過去と未来を思った。穏やかに流れる神田川と、忙しなく歩を進める人々の間に挟まれて、この橋は幾年月、地と地を結ぶ橋であり続けるのだろうか。一歩足を進める度に、私は数百年前にこの橋を渡った人々に思いを馳せた。橋の下を流れる神田川に映し出された清廉なる光に足を止め、目を細めながら景色に心洗われて微笑む人々の表情、交わされる言葉の艶やかなる響き、そして明日への一歩を力強く踏み出す人々の姿。地と地に架かり、人の生の過去と現在と未来とに架かる橋、万世橋。幾万年先の世にあって不滅の橋であらんことを祈りながら、私は万世橋を渡った。

橋を渡り終えると昭和シェルのガソリンスタンドが見え、それを過ぎてセブンイレブンを正面に見たら右に曲がる。一つ目の角を左に曲がって河豚料理店の『中よし』の辺りに差し掛かったところで、着物姿の見覚えのある落語家に私は出会った。名を桂伸べえというその人は、私を見るなり眩しそうに眼を凝らしながら会釈をした。数千年前にも、私は彼と出会った。そんな言葉が脳裏を駆けて行く。

私は咄嗟に「あ、これから連雀亭行きます」と言うと、伸べえさんは「いつもありがとうございます」と言って頭を下げた。開演時刻に近かったため、なぜ外に出ているのだろうかという疑問を尋ねることは出来ず、先週の深夜寄席の感想も伝えそびれてしまった。もう何十回と会っているのだが、いつも新鮮な気持ちで伸べえさんと出会うことが出来るのは、そこに互いの僅かな変化を感じるからだろうか。日々進歩していく伸べえさんの姿を見ていると、ひょっとしたら随分と前から出会う運命にあったのではないかとさえ思えてくる。高座姿を見る度に、今は何かが許されて同じ空間にいるのだという心持ちになる。人は出会うべくして出会う。その機会を見逃さぬことだ、と私は思う。そして、私は伸べえさんとの間に、落語という大きな川を挟んで、幾年月も廃ることなく架かる橋を感じる。互いの肉体が朽ち果てようとも、同じ空間を共有し、同じ時間を過ごし、微笑んで楽しい空気によって作り上げられた橋は、永遠に廃れずに架かり続ける。

陽光に照らされ、長い年月会っていなかった友人と久しぶりに出会った時のような心持ちを胸に、私はとある場所に着いた。そこは、連なる雀の亭と書いて『連雀亭』。収容人数40名の小規模な会場で、二ツ目の階級である落語家・講談師・浪曲師が出演する。私は『きゃたぴら寄席』と言って、四人の落語家が出演する回に行った。

階段を上って会場に着くと、受付には黒縁眼鏡をかけた春風亭吉好さんがいた。私は今回初めて吉好さんの落語を聴く。

入場料である1000円を払って席に着くと、およそ10名弱であろうか、老齢な紳士が椅子に座している。もう既に通い慣れた私にとっては見慣れた風景なのだが、伸べえさんの出演する回でお客様の入りが多いと嬉しい。理由は分からないがなぜだか嬉しい。

開演時刻が近づき、舞台袖から伸べえさんが出てくる。恥ずかしそうにしながらも、大事なことはきちんと話す。最期は柳亭市楽さんに突っ込まれつつ袖に消えて行く。袖の奥から笑い声が聞こえてきて、楽しいそうな雰囲気がこちらにも伝わってきた。

開口一番は、2017年に二ツ目昇進の方。

 

 林家あんこ『紀州

こし餡の入った白大福のような、もちっとした両頬が可愛らしい林家あんこさん。カリスマ的な風貌と溢れる怪獣愛と、些か詐欺師感を漂わせる(全部褒めてます)林家しん平師匠門下の女性で、風貌の柔らかさと内弟子修行で鍛えた鋼のメンタルがたくましい落語家さんである。いつ餡子が飛び出すか(もう飛び出しているのか)分からないが、開口一番で客席の様子を感じ取りながら、演目へ入った。

しん平師匠譲りの会場を味方に付けて引き込むトークもさることながら、反応が薄く硬い雰囲気の客席に真っ向勝負で挑んでいく姿が勇ましい。落語以外にも多彩な活動をされていて、林家つる子さん、春風亭一花さんと三人で『おきゃんでぃーず』というアイドル(?)ユニットをやったり、寄席では怪獣に変身して踊りを披露したりする。しん平師匠のイズムを見事に継承している姿が勇ましい。

前座時代の過酷なエピソードを挟みながら、見事な弁舌による『紀州』だった。今後も寄席で見るのが楽しみである。

 

桂伸べえ『寿限無

ささっと登場の伸べえさん。楽しそうな表情で何より。先週の深夜寄席から逞しさが増していて、声にも張りが漲ってきて力強い。近況報告も面白かったので、今度お題を投げかけてみようと思う。

すっかりお馴染みの噺だが、伸べえさんがやると面白い。言い立てや言葉の間、テンポがどれも絶妙に面白く、僅かに挟まれるフレーズがことごとく爆笑を巻き起こして、過呼吸になって倒れるのではないかと思うほど、客席がウケていた。毎回、ちょっとづつフレーズも異なっている気がするし、何よりも声の張りが違う。それに、楽しそうな表情で落語の世界にどっぷり浸かって話している感じが、とても気持ちが良い。前の林家あんこさんのネタもきっちり引用してアクロバティックな手法もお手の物。

毎回、見る度に伸びている。心境の変化が感じられるというか、どんどん自由になっているように私には思える。何かを掴みかけている感じと言えば伝わるだろうか。

決して表立って語ったり、様々な人と手を組んで行く落語家という感じではなくて、むしろ行動そのものが周囲の人間を惹き付けて離さない。そんな天性の才能を持った落語家だと、私は伸べえさんに対して思うのである。もう何度も繰り返しているかも知れないが、今の落語界では誰一人として投げることの出来ない、唯一無二の球種を持っている落語家さんである。

精緻な落語の世界をピンセットで一つ一つ積み重ねる落語家がいる一方で、伸べえさんの描き出す落語の世界は、太筆で縦横無尽に描くかのような落語だと私は感じている。豪快さと自由さを併せ持った凄い落語家だと思うのだ。

と、ここまで偉そうに書いてしまったが、好きが高じているとご容赦願いたい。

 

柳亭市楽『ガマの油

伸べえさんというモンスターの後で、安定の本寸法の市楽さん。会場も十分に温まったところで、先ほどの寿限無の言い立てに近い形で、ガマの油の口上を。拍手が来なかったら一撃で寂しくなる演目だが、見事な語り口と細かい所作で拍手喝采。落語通が多い回でやりにくそうな『紀州』を見たことがあったが、今日は新規のお客様も多く、笑いが多かった。特に後半の酔っぱらったガマの油売りの口上と姿はお見事で、市楽さんの多彩な芸を見たように思った。出来ることならば、前回見ることの出来なかった『粗忽長屋』を聞いてみたい。明るくて溌溂とした高座が魅力だが、『景清』や『死神』などの暗い噺にも挑戦されるということで、自らの雰囲気をどうやって活かしていくのか、とても興味がある。

 

春風亭吉好『紺屋高尾』

漫画家のつの丸先生の作品に出てきそうな風貌でありながら、独特のトーンと語り口が新鮮な吉好(よしこう)さん。普段はオタク落語を得意としているらしいのだが、今回は「やりたいネタがある」ということで、演目は『紺屋高尾』。まさかの大ネタに驚いたが、これが実に素晴らしかった。吉好さんの醸し出す柔らかな雰囲気と、久蔵のすっとぼけた感じが見事にマッチしていて、なんだか『良い』のだ。初めて見たので、まだはっきりと断定することは出来ないが、一つのものに対して愛しさを抱き続ける男の、無鉄砲さ、妄想で突き進む愚かさが、憎めなくて温かいのだ。

この話は『一目ぼれした花魁と結ばれる』という内容である。吉好さんの言葉は一つ一つが丁寧かつ、吉好さんのトーンとリズムが確立されていて、ぬくもりの中に愛嬌のある雰囲気があった。思わず「ああ、どうか高尾と結ばれて欲しい」と願ってしまうような、人を好きになるという純粋な感情が、確かな温度を持って胸に迫ってくる。また、円らな瞳がきらきらと輝くと同時に、芝居がかった嫌らしさが無い。どこか朗らかとして、純粋に感じられるのだ。

糸と糸を折り重ねるような丁寧な間、喜怒哀楽が豊かな久蔵の表情。どこか抜けているけれど正直な久蔵、そしてその思いを一心に受けてかんざしと五十両を久蔵に渡す高尾大夫。何とも言えないピュアさがあって、それが吉好さんという人のピュアさで増幅されているような気がするのだ。きっと可愛らしい奥さんと生活している今が、とても幸福なんだろうなぁ。というのが、伝わってくるほどに素朴な愛を感じる一席で、思わぬ発見に驚いた。是非とも、次はオタク落語を聞いてみたい。

 

総括 橋は廃れることなく架かり続ける そして自らの誕生の日を思う。

連雀亭を出、再び万世橋を渡る。何度も通る橋であっても、そこには新しい発見がある。初めて通る橋の先には、まだ知らぬ世界がある。今日、また一つ橋が架かった、と私は思った。人と人との出会いのとき、見えない橋が架かる。言葉という川を眺めながら、架かった橋の上で人と人とは言葉を交わす。先人の言葉に『石橋を叩いて渡る』という言葉がある。対岸へと渡る際に橋が崩れないかどうか、叩いて確かめてから渡るように、人と人との間にも、互いを確かめることも必要なのかも知れないと思う。それでも、私は思うのだ。

 

出会っちまったら、仕方がねぇ。

 

日常のどんな時に、どんな場所で、どんな風に橋が架かるかなんてことは、私にも、私と出会う相手にも分からないこと。けれど、一度出会ってしまったら、もう二度と出会う前の二人には戻れないのだ。同時に、寄席にはそんな、もう二度と出会えない瞬間が何度でもある。否、もう二度と出会えない瞬間しか無い。小田和正の『ラブストーリーは突然に』ではないが、あの日、あの時、あの場所で、同じ落語家を見て何かを感じて笑ったりすることは、一瞬であり、永遠であり、もう二度と渡ることの出来ない橋を渡っていることに相違ないのだ。しかし、橋は何度でも架かる。対岸に立つ落語家(或いは講談師、浪曲師でも良い)に会いたいと願い、僅かばかりの金銭を握りしめるか、或いはチケットを買えば、落語家が対岸に立ち続ける限り、何度でも橋は架かる。幾千年と消えることの無い、未来永劫朽ち果てることのない橋が、演芸に触れる度に、記憶の中に生まれ架かるのだ。

万世橋を渡り終えて、私は一つ、自分の生の喜びを知る。我が生を顧みれば雲の濃淡に従って、光の増したり減じたりする月のようであった。そして今日という日の27年前に、私は生まれた。産声を上げ、名の知れぬ者の手を握りながら、不安と恐怖に泣いたのだろうか。否、この世に生を受けた喜びに泣いたのだと思いたい。この世を生きることの出来る幸福に感動して泣いたのだと思いたい。

28年目を迎えた今、我が生に一片の悔いもなく、胸を張って誇らしく思えるような、笑みに満ちた生を過ごしたい。我、誕生の日に祈りを込めてそんなことを思う。

今日は連雀亭に行って良かった。我が誕生日にふさわしい回だったと思う。

それでは、また。