落語・講談・浪曲 日本演芸なんでもござれ

自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

あなたと出会ったその日から~2019年3月3日 浅草演芸ホール~

私の世界が変わりました。 

  

思い出浅草演芸ホール 初めての文菊師匠

まだ古今亭文菊師匠の古の字も知らなかった頃、

私は劣悪な環境で有名だという浅草演芸ホールに初めて訪れた。

所々破けた椅子、前列には紙コップに日本酒を注ぎ、顔を赤らめた年配の紳士、隣の友人と会話をする婦人連中、やたらと落語家にツッコミを入れるヤジ飛ばしの親父(すぐに退出させられていた)など、眩暈がするような劣悪な環境で、私はぼんやりと高座を眺めていた。

「あたしが喋ってるの、いい?」

今でも覚えているが、座布団に座った橘ノ圓満師匠に話しかけた紳士が軽く窘められていた。これは集中して高座を聴く場所ではないな、と私は思った。

浅草演芸ホールに初めて訪れるまで、私は上野鈴本演芸場にもっぱら通っていた。気品があって格式高く、出てくる演者も粒ぞろい。確か喬太郎師匠や一之輔師匠が出ていた会だと思うが、その頃はまだ記録として記事を書いていなかったから、詳細なことは思い出すことが出来ない。

落語初心者だった私は、ネットで紹介されている『この落語家を聴け!』を頼りに、柳家喬太郎師匠や柳家三三師匠を聴いていた。それでも、まだあまりピンと来なかった。寄席に行き、初めて聞く話はどれも面白かったが、強烈に惹かれるというほどの落語家に出会いもせず、だらだらと数か月が過ぎた。

鈴本演芸場の格式の高さに飽きて、噂の劣悪なスラム街・浅草演芸ホールで落語を聞いてみようと思い立ち、いざ来て見たら酷いというものではなかった。先にオチを言ったり、話しかけたりする客席で溢れかえっていたし、若い女性など殆どいなかった。

上記したように、これは落語を集中して聴く場所じゃないな、と思って落胆しているところに、空気をぴしゃりと変える落語家が現れたのである。

正直に書くが、その落語家は私には光っているように見えた。

初めて目にしたときは、二代目中村吉右衛門が出てきたのかと思った。

その落語家は、『長短』をやった。もう寄席で飽きるほど聞いた『長短』。

だが、その時の『長短』は凄まじかった。

私は思った。

 

 この人だ!!!

私の求めていた人だ!!!

 

劣悪な環境の中にあって、観客が息を飲むほどの端正な所作。気の短い男と気の長い男の個性が、くっきりと鮮明に浮かび上がってくる。何より、煙草を吸う仕草がカッコイイ。ゆっくりの動作と手早い動作の緩急に痺れた。

その僅か10分~15分で、私は「見つけたぞ!見つけたぞ!凄い!」と興奮していた。寄席に通い続け、ようやく自分の感性というか、自分がはっきりと『好きだ!』と言える落語家に出会った瞬間であった。

興奮のあまり、メクリの名前を見ていなかった私は、プログラムに目を落として、そこに書かれている文字を見た。

『古今亭 文菊』

それが、文菊師匠の高座を見た最初だった。

 

浅草演芸ホール トリ興行

2019年3月1日から10日間、古今亭文菊師匠は浅草演芸ホールで夜席のトリを務めている。

本興行、私は昼席の彦いち師匠から入った。以下は気になった落語家さんを列記していく。

 

古今亭駒子 本膳

真打昇進には行けなかったが、昇進前に連雀亭で聴いた『締め込み』が素晴らしかった駒子さん。独特の語り口と魅力があり、その語り口が秀でた素敵な一席である。

駒子さんの落語を聴いていると、登場人物がお互いを思いやっているような、不思議な優しさがあって、声のトーンとともに耳にスッと入ってくる。とても素朴でありながら、人に対する優しさや素直さが滲み出ているように思えて、これからどんな味を醸し出していくのか楽しみな落語家さんである。

この本膳という落語の内容は、簡単に言えば『本膳の作法を見よう見真似で失敗する』という話である。見て真似をする人の素直さや可笑しさが面白く、絵本を見ているような心持ちになるのは、駒子さんの優しい語り口があるからではないだろうか。

恐らく人情噺でも優れた才能を発揮すると思う。田舎者の言葉のトーンが不思議に心地良かった。

 

 五街道雲助 持参金

脂が漲る円熟の芸。ギョロリとした瞳から、口角の上がりに上がった笑顔、そして声と語り口。凄まじいばかりに熟成されたウイスキーのような語り口。大人の色気、遊びを知り尽くしているかのような粋な風貌。『濃い』面白さを味わえる雲助師匠の一席。

この話は簡単に言えば『女房を貰うついでに金を貰うのだが・・・』という内容で、三者三様の思惑というか、感情の機微がとても面白い。また、女房の描写も面白くて、この女房をどういう風に捉えているか、演者ごとに聴き比べてみるのも面白いかも知れない。どことなく、雲助師匠の語りには『しょっちゅう行われていそう』な雰囲気が漂っている。今日も誰かが女房と金子10両を合わせて、貰い手がいないか探し回っているというような、日常の中で当たり前の行為という感じが伝わってきて、なんか悪い世界に住んでるなぁ、という雰囲気がするのだが、それが何とも言えないワイルドさと軽さを表現しているような、そんな気持ちになるのだ。

行為としてはかなり大胆な行為(女と金を合わせて貰ってくれないか?と持ち掛けられる)なのだが、当事者に全く罪の意識が無いというか、金が目当ての男と、女房と金を合わせて誰かに上げたら?と提案する男と、無計画に子供を作ってしまって困った男がそれぞれに、それぞれの思いで話を持ち掛けることのどうしようも無さが、雲助師匠の語り口だと、それぞれが悪い企みを抱えている感じで面白い。

左談次師匠を偲ぶ会で絶品の『付き馬』を見て以来、雲助師匠の魅力が私の中で開花してしまって、もう『ざるや』以外であれば、何を聴いても面白いと思えるかも知れない。今後も、出会える機会があれば色んな話を聞いてみたいと思った。

 

古今亭志ん輔 夕立勘五郎

志ん輔師匠は寄席で何度か見たことがあったが、今まではそれほどピンと来なかった。ところが、今回の一席を聴いて度肝を抜かれてしまい、志ん輔師匠の魅力を発見してしまったように思った。

袖から気だるくふらふらと歩いてきて、座布団に座してもまだロバのようにふわぁあっとした様子なのだが、浪曲の語りになった途端に絶品の『落語家がやる浪曲』を披露された。浪曲が大好きな私にとっては、鳥肌ものの素晴らしく、絶妙な浪曲感で、その芸の幅広さというか、登場のやる気の無さから一転、浪曲に対する緻密な分析力、節に対する細部への配慮が感じられて、「うおお、これは浪曲を本気で愛している人の節だ!」と痺れてしまった。

もちろん、前記したように『落語家がやる浪曲』という感じである。これは、決して嫌味ではない。上手下手の話ではない。一般的な関東節とはなんたるか、という勘所を見事に抑えた節だと思った。さらに言えば、この『夕立勘五郎』という演目自体が、浪曲に対するパロディのようなネタなのだが、前半に浪曲好きも納得の絶妙に、『落語家がやる浪曲』という節を披露した後で、ネタに入ってからは徹底して『田舎者がやる浪曲』で節を唸る。

浪曲を少しでも知っている人であれば、抱腹絶倒の素晴らしい一席だった。

何と言うか、志ん輔師匠の浪曲は、胸を張って「どうだ!俺は浪曲を知ってるんだぜ!」という感じではない。「いやー、今回は100点取れないかも知れないなぁ」と周りには言いつつも、裏では猛勉強してテストに臨み、「うーん、なんとか100点取れたよ」と、さも努力した素振りを見せない感じというか、その姿勢に滲み出る知性を志ん輔師匠から感じたのである。(多分、言いたいことはそんな感じ)

 

 古今亭菊龍 ちしゃ医者

改めて思うのだが、文菊師匠のトリを支えるベテラン真打勢が凄まじい。

「待ってました!」の掛け声とともに、静かに得意ネタに入った菊龍師匠。

淡々とした語り口でありながら、見事な情景描写。スッと物語に入り込む技、そして醸し出される雰囲気。

まだ初見なので詳細な判断は出来ないが、菊龍師匠の語りは細部まで緻密でありながら、言葉数少なに情景を浮かび上がらせる、目立たないが凄まじい言葉の精査があるように感じられた。それでいて、その緻密さを感じさせない雰囲気、そして語りのリズム。

まだまだ演目を見ていないので何とも言えないが、機会があれば見てみたい。

 

古今亭文菊 三方一両損

はいはい、ネクストレベル~

と、思いつつ、文菊師匠の登場。やはり華がある。

そして、私の予感は外れていないと思う。この一席を聴いて確信に変わった。

文菊師匠は、大きな大きな目標を据えている。

それは、寄席では収まらない長尺のネタ。

当然、ネタ卸し直後から小さな会で披露している『百年目』がそれだ。

『百年目』を大きな目標に据えた文菊師匠は、さらに寄席の尺に収まる

ネタに磨きをかけている。古典の雰囲気を精緻に、まるで一つ一つの

パズルを一日一日、嵌めては外し、嵌めては外しを繰り返しているように思う。

同時に、そのパズルがどれほど巨大なものか、そして、自分はそのパズルの

どこまでを見ることが出来るのか、試行錯誤しているように私には思えるのだ。

見据えている地平が変わったと言えば良いだろうか。より高い位置で

地平を見渡すための体力を作っているように私には思えるのである。

三方一両損』や『百年目』、『厩火事』などに代表されるような、

教え諭す者と改心する者の両者を描こうと、その任を担おうとしているように思う。

それは、傲慢さによって相手に教え諭そうというのではない。

むしろ、客席にいる全員と同じ目線で物を言うことが出来るように、挑戦している。

だから、自らの見た目を自虐的にマクラで語ることによって、

観客との柵を何とか取り払おうとしているように私には思えるのだ。

三方一両損』という話は、簡単に言えば『江戸っ子の粋さが激突する』、とても心持ちがスカッとする内容である。

とにかく文菊師匠の張りのある声で発せられる啖呵。これが何よりも素晴らしい。いつか『大工調べ』を聞いてみたいと思っているくらいに、声と啖呵が絶品である。

同時に、細部に対する気配りも忘れない。上がったり下がったりで米の値上げの話をしたり、財布を受け取らない男と、財布を渡そうとする男の意地の張り合い。表情、間、声のトーン。全てが粋だ。

どうしてこんなに心が清々しいのだろうか。恐らく、文菊師匠が何よりも落語の世界に身を浸し、一つ一つの言葉を精緻に組み上げているからだろう。

今後、大きな予感として、小さな会では長尺のネタを果敢に掛けて行くのではないだろうか。独演会でも積極的に大ネタを披露されると思うし、独演会でしか聞けない裏話も出てくると思う。40歳という節目、不惑である。

何かに惑うことを止めて、一つ、目標を据え、それに向けて大きくギアを変えている。間違いないと思う。

浅草演芸ホールで初めて文菊師匠と出会ったその日から、文菊師匠は日々、進化し続けている。

十年、二十年、三十年先に、一体どんな芸を見せてくれるのか。

今から、楽しみでならない。