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あなたが生きてる 心が嬉しい~3月6日 桂伸べえ独演会~

 

  Failure is unimportant.

  It takes courage to make a fool of yourself.

  

喜び勇んで舞う花粉

一日の最後に好きな落語家の独演会があるということが、とても喜ばしく心高鳴る今日この頃。目に見えねども飛ぶ花粉が目に染み、なめくじが出たかと疑うほど這った跡が鼻下に残る。胡椒も唐辛子も無いのにくしゃみが出る。電車に乗っているときに意図せず大きな声でくしゃみなぞしようものなら、隣人がその大音量に飛び起きて天井を突き抜けて行ってしまう。まるで緊急脱出ボタンを増設したような心持ちである。

花粉の無い国に行きたいと思うが、そうも言ってられない。花も花なりに風と手を組み、天道様のお力添えを頂き、粉を飛ばしたくて飛ばしているのだから仕方がない。普段は趣があるな、と見ている杉の木なぞは根こそぎ切り落としてやりたいと思うが、杉は日本の御神木として崇め奉られてもいるから、安易に切ればしっぺ返しを食らってしまいかねない。強い生命力のある杉の木を前にして、人間に出来ることはちっぽけなもので、せいぜい花粉を水にするとか、良く分からない化学とやらに頼るしか無いのかも知れない。本当に花粉というものに我慢ならないのならば、どうやっても防衛以外の手段は考えられない。『スギ根絶』など考えてはならない。相手は自然である。マスクや保護メガネをかけて、芸能人気分を味わう喜びが与えられているのだ、と考えて花粉を軽くあしらうのが良いであろう。

そんな花粉のように、人様の鼻なり目なりに触れ、涙やくしゃみなどを引き起こすような存在になれたら、幸福なことであろうと思う。もはや国民の病とまで言われ、毎年多くの人々が悩まされる花粉症であるが、考えてみれば、そんな花粉のような存在に心当たりがある。それは落語家である。落語家は花粉症に比べれば、くしゃみよりも笑い声が出る。目に染みず心に染みて熱い涙が溢れ出す。そして、わざわざ飛ばずとも客の方から積極的に触れようとするのだから、花粉よりも性質は良くない。言わば落粉症とでも言おうか。落語家の飛ばす芸(花粉)に刺激され、泣いたり笑ったりしてしまう症状で、これはあまり世間には周知されていない。というか、私以外には誰も言っていない。

さて、そんな目からレモン汁が零れ、鼻からなめくじが這い出す私のような人間が、花粉症に悩まされながらも行ってしまう会がある。

桂伸べえ独演会である。

スギの木ほどの強い生命力があるわけでもなく、どちらかと言えば風にさらされて折れる細枝という感じではあるのだが、妙な雰囲気がある桂伸べえ独演会。今まで様々な落語家の独演会なり落語会に行っているが、何とも言えない心地よさと、人間国宝の言葉を借りるとすれば『落語は笑わせるものではなく、笑ってしまうもの』という言葉通りの会であり、自分でもトランス状態(?)に達して、なぜか笑ってしまうという、とても不思議な会なのである。

熱心な読者諸氏であれば、私が如何に桂伸べえさんという落語家に心酔し、その類稀なる才能に感動しているか、ご理解いただけると思うのだが、ご存知の無い方に改めて紹介するとすれば、桂伸治師匠門下で、島根県出身の落語家さんである。

寄席などで披露される軽い噺、例えば『饅頭怖い』や『寿限無』などは絶品で、『熊の皮』や『狸札』においても、もはや伸べえさん独自としか形容しようのない、唯一無二のフラを持った落語家である。言葉のリズムは、新品の絵具が入ったチューブをグググっと押して、だらしなく飛び出る液体を眺めている感覚に近い。もっと言えば、苺に練乳を掛けている時の、練乳がたらたらと出ている様を眺めているようなテンポである。声については、今はあまり祭りなどの屋台で見かけることは無いが、屋台で綿飴が作られている様を見ているような、ふわふわとした感じである。

そんなリズムと声が、落語の最中に突拍子もなく変調する。苺に練乳をかけていたら、いきなり脇からタバスコをかけられたかのようなリズムになったり、綿飴を作っていたかと思えば、突如火力が上がってべっこう飴になってしまうかのような声の張りが起こったり、要するに、予測を裏切る突拍子も無い言葉が随所に挟まれて、その突拍子の無さに驚いて笑ってしまうような気がしている。

そして、大ネタももちろん凄い。今回の独演会はほぼ『桂伸べえ 大ネタ決定版の会』だったので、以下にその詳細を記載する。

 

 桂伸べえ 寝床

三笑亭茶楽師匠から習ったという『寝床』。実は前日譚があるのだが、それは敢えて記さないことにして、大ネタでは伸べえさんの強烈な個性が随所に挟まれる。

再び料理の例えになって申し訳ないのだが、仮に料理本があるとする。その料理本には詳細な具材が記載されていて、それに従って料理を作れば、まず間違いなく美味しい料理が出来上がる。中には一工夫も二工夫も加える者もいれば、自分好みに具材を足す者、不要な部分を削って質素にする者、レシピ通りに忠実に作る者などがいるだろう。

こと桂伸べえさんに至っては、正しいレシピに従って作ってはいるが、フライパンの形状が違ったり、ガスも電気も使わず、火打ち石で木くずに火を灯している感じと言えば良いだろうか。胡椒で言えば粗挽き、ウインナーで言えば粗挽き、という感じである。その通常通りに行かない感じが、面白いのである。

よく、野菜などは形の美しく無いものは製品として出荷されないということがある。だが、本来、野菜というものは形が美しく無いものであったという。そうした、原初的な面白さが、桂伸べえさんからは滲み出ているのである。決して形の美しいものが悪いという訳ではない。何を美しいと感じ、美しくないと感じるかは、人それぞれである。

『寝床』に関して言えば、もはや腹の捩れるほど笑わせてもらった。寝床という話は簡単に言えば『旦那が下手な義太夫を披露しようとして揉める』という噺である。伸べえさんの真骨頂ともいうべき、様々な人物の話題が出てくる話で、旦那の人柄が飛びぬけて面白い。下手な義太夫を聴かせようと意気込むのだが、肝心の義太夫を聴く人達が様々な言い訳をして、義太夫を聴く会に行けなくなる。それを知った旦那の拗ねっぷりが最高なのである。また、声のトーンが絶妙で、物凄いひねくれっぷり、拗ねっぷりなのである。この話は、『宿屋の仇討ち』に次いで思い出深い一席となった。

聴いている最中は、脱腸するかと思うほど腹が捩れ、体をくの字に曲げて聞いていたので、伸べえさんの顔を見ることが出来なかった。会場は、独演会始まって以来の大入りで、爆笑に次ぐ爆笑だった。こんなに面白い『寝床』は今まで聞いたことがない。

この面白さは、週刊文春などで取り上げられている『顔面相似型』を見ている感覚に近いかも知れない。私の中には確固たる『寝床』という話の形が出来上がっているのだが、伸べえさんの落語は、私の抱いている『寝床』の形に、物凄く似ているようで違う。私の思っている『寝床』の形と伸べえさんがやる『寝床』の形の乖離に、面白さがあるのだと私は考えている。その乖離に面白さがあるからこそ、私は思うのである。

 

この話、伸べえさんがやったら、

 

 どうなっちゃうんだろう!?

 

これが桂伸べえさんを聴く一番の大きな理由かも知れない。もちろん、他にも色々と理由はあるが、一番大きいのは『どうなっちゃうんだろう!?』という感覚である。品位や伝統や時代性など、テクニカルな面では様々な落語家さんが活躍している。

ポルシェやハイヤーやベンツやBMWに乗りたくなる時もあれば、急に走らなくなる軽自動車に乗りたいという気持ちにもなる。ハーレーに乗りたいと思う時もあれば、モンキーに乗りたいと思う時だってある。大事なのは、その乗り物に乗って自分が何を感じたいか。であると思うのだ。

つまり、伸べえさんには固定観念になりつつある落語の概念を、根こそぎ変えてしまうとてつもない力がある。落語の基礎はもちろんだが、その基礎に上塗りされる伸べえさん独自の個性が、何億という星の中にあって輝きを失わずに光っているように、私には見えるのである。

 

桂伸べえ 棒鱈

以前は、その独自の語り口が田舎侍の方言っぷりをかき消しているようにも感じられたのだが、ここに来てさらに進化した『棒鱈』の一席。この話は『酔っ払いと田舎侍が喧嘩する』という内容で、ここでも伸べえさんのパワーワード、センスが見事に光っている。

とにかく田舎侍の田舎侍っぷりに磨きがかかっていて、それがさらに面白さをブーストしていた。とてつもなく傲慢で自信家の田舎侍が出来上がりつつある感じがして、とても面白かった。田舎侍の典型的な性格に、現代的な感覚を追加することによって、侍としての傲慢さに磨きがかかるとともに、その侍を毛嫌いする酔っ払いがさらに引き立つ。ライティング能力が上がればリスニング能力が一緒に上がるという感じである。

絶対寄席では披露できないような、強烈なパワーワードが中心に据えられ、生理現象に対するツッコミも挟みつつ、独自の空間を生み出している桂伸べえさん。その言葉のテンポ、センスもさることながら、何よりも声が良い。狙った感じではなくて、その場の空気感と自分のテンションで発している感じが凄まじく面白い。

また、会場の空気も非常に良かった。なぜだか知らないのだが笑ってしまう不思議な緊張と緩和があった。何が緊張を生んでいるのかと言えば、『この人、ちゃんと落語できるのかな』という不安と、『あ、大丈夫だ。面白い』という緩和が小刻みに、まるでハンドブレンダーでバナナジュースを作っているかのように、何度も押し寄せてくるので、ワクワクして思わず笑ってしまう。

何度聞いても、一度として同じ形で繰り返されることは無いからこそ、伸べえさんの純粋な楽しさや面白さを味わうことが出来る。特に『熊の皮』はそれが顕著で、絶好調の伸べえさんは、寄席では絶対に披露できないほどのパワーワードを連発する。それが『熊の皮』という話の、スタンダードに慣れきってしまった私には、とても面白く感じられるのである。

ますます面白さに磨きがかかり、田舎侍に対する違和感も薄れてきた感じである。とても面白い。素晴らしい一席で仲入り。

 

桂伸べえ 錦の袈裟

与太郎を地で行く桂伸べえさんの、ほんわかとして面白い一席。江戸情緒たっぷりの『錦の袈裟』がインプットされていた私にとっては、与太郎の不慣れな感じが面白くて、江戸情緒よりもむしろ、ちょっと変なことを考え付いた人達が吉原に行く、という感じが絶妙に面白い。出てくる登場人物達も、伸べえさんの独自の世界で生きている住人達で、それは誰のものにも似ておらず、もはや伸べえさんにしか出来ない落語が確立されている。天才的なフラと、物語に浸かって話の世界で楽しむ伸べえさんの活き活きとした姿は、笑いと同時に感動すら覚えてしまうほど面白い。

自虐的なワードもさることながら、登場人物達がそれぞれに時代にそぐわないツッコミやボケをする場面があって、その突拍子も無く随所に現れる言葉の一つ一つが、全く外すことなく全て面白いのである。会場も伸べえさんを万事受け入れているから、伸べえさんの一つ一つの工夫に必ず爆笑が起こる。同時に、嬉しそうな笑みを浮かべて語り進める伸べえさんは、一種の興奮状態であるかのように、饒舌に物語を語っていく。

一体何が面白いのか、分からないのに腹を抱えて笑えるのだから、本当に不思議なものである。未だに、どうして面白いのか自分でも説明が付かず、「~だろう」という感じでしか、言うことが出来ない。それほど、落語という定規では測ることのできない、強烈な力とフラを持った落語家だと私は思っている。

普通のことを普通にやろうとして普通じゃなくなっている。そんな感じなのだ。そこに意図というか、一切の企みが感じられないところが伸べえさんの魅力なのではないだろうか。

そんな魅力が開花し、不思議なわちゃわちゃ感が面白い。最高の一席。

 

総括 抱腹絶倒の一夜

桂伸べえさんの独演会は、笑うことができる。どんな状況にあっても、面白くて笑うことが出来る。会社で嫌なことがあったとか、野良犬のように生きてきたとか、酷く疲れて憂鬱な時に、伸べえさんの落語は物凄いパワーでエネルギーをくれる。

深夜寄席で桂伸べえさんの『宿屋の仇討ち』に出会って以来、一度として「あ、今日は外れだな」と思ったことが無い。一席一席、高座を見る度に「今日は今までで一番最高の一席だった」と思うことが出来るのである。こんな落語家は滅多にいないと思う。まだ出会っていないのだとしたら、是非出会って欲しいと切に願う落語家さんである。

何の固定観念も持たず、落語の品だの風格などは一度捨て去って、ただただ落語そのものの面白さを開花させている桂伸べえさん。口を開いて言葉を発しただけで面白いのだ。唯一無二のフラ、そしてたゆまぬ研鑽と努力、どんどん逞しくなって、面白くなっていく桂伸べえさんから目を離すことが出来ない。

終演後、私は満たされていた。頭の中ではぐるぐると「なんであんなに面白いのだろう」という言葉が駆け巡っていた。結局、書いても良く分からない。でも、よくわからなくて良いのだと思った。私の中には、確実に『この面白さに近い』というイメージが出来上がりつつあるのだが、高座を見る度にそのイメージが変容し、膨張し、挙げ句の果てに再び「なぜかわからないが面白い」という結論に至ってしまう。どうにも心が嬉しいのは、そんな永遠に解くことの出来ない面白さに出会ってしまったからだろう。

私は伸べえさんが生きている今が、とても嬉しい。あの会場で、桂伸べえさんの独演会を聴くために、多くの人が集まった。そして、開始以来、念願の大入りを達成した。とても嬉しい、祝福の一夜だったと思う。同時に、これは私の予測なのだが、伸べえさんの魅力にハマっていく人は今後増えて行くだろうと思う。あんなに面白い人を、落語好きな人々が放っておかないと思うのだ。

桂南なん師匠、三遊亭笑遊師匠に次ぐ、強烈なフラと暴れっぷりを受け継ぐ、今、最も素晴らしいフラと、独自の感性を持った桂伸べえさん。

今後がとても楽しみで、私の心が嬉しがっている。

会場を出る。頬骨の伊丹十三と、腹の伊丹十三を抱えながら、私は夜の街へと消えて行くのだった。

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