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自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

I'm waiting for my man~2019年3月7日 浅草演芸ホール 夜席~

1,800 yen in my hand 

 

待てない私を変えたネタ

狭い部屋の中で私は苛立っていた。郵便物が届かないのである。最近では時間指定という発注者にとっては便利なシステムがあるが、それでも時間通りに来ないと苛立ってしまう。電車が遅れても苛立つ。約束の時間に人が来なくても苛立つ。人として時間には正確でありたい。それが自らの人生を律するのだと考え、一分一秒でも無駄にしたくない。なぜ無駄なことに時間を取られなければならないのか。この会話で今何分時間を無駄にしたのか。価値の無い文章に時間を取られて損をして苛立ち、さんざん待たされた挙げ句、美味しくもない料理を食べさせられて苛立つ。ああ、苛立つ。なぜこんなに待たなければならぬのだ。

と、思っていた時期が私にもあった。今ではそれほど苛立つことは無い。郵便物が届かないのは、交通状態が悪いのだろうと考えたし、電車が遅れたのは安全のためだろうと考えたし、約束の時間に来ないのは、そういう人なのだろうと考えて諦めた。だらだらと一日を過ごすことに喜びを感じ、無駄な会話を楽しみ、価値の無い文章にも価値を見出し、さんざん待たされて美味しくない料理を食べても、その間に色々と物事を考えることが出来て良かったと考えるようになった。

『笠碁』という落語の演目には、待てずに苛立ってしまう私を、いつまでも待てる人間に変えるだけの力があった。今日は、そんなお話を最後に。

 

 浅草演芸ホール 木戸口

降り出した雨の憂鬱な冷たさを傘で防ぎながら、私は木戸の前に立っていた。十名ほどであろうか、19時からの割引入場に備えて列を成している。女性が多く、いずれも美人で、文菊師匠が目当てであることがすぐに分かる。私のような野良猫風情には手の届かない、品のある洋服を召している老夫婦がおり、きりりとした目元に品と色気を湛えた婦人がぼそぼそと会話をしているのが目に入った。

ドン・キホーテのけばけばしく色を変える光に苛まれながら、私はぼんやりと壁に掲げられた文菊師匠の写真に目を向けた。若く剽軽な表情の奥底に、どれほどの研鑽と修行があるのだろうか。聴く者にとっては意味の無いことかも知れないのだが、人前で落語を一席披露する文菊師匠は、徹底して言葉の言い淀みが無く、言い直すということは稀で、一言一句を正確に伝えようとする並々ならぬ気概を感じるのである。また、「えー」とか「あー」などという、余分な言葉が殆ど無い。ゆったりとした間で、はっきりと言葉を発する文菊師匠の精緻さに、どれだけの人が気づいているか分からない。だが、『神は細部に宿る』という言葉にもあるように、文菊師匠は細部に抜かりが無い。その完璧主義なまでの落語に対する姿勢が、日々刻刻と場によって変化し、対応する様を見るのは、格別な喜びであり、同時に文菊師匠に対する畏怖の念が沸き上がってくるのである。

木戸銭を払って中に入場する。幸い、良い席が空いたので着座する。19時からの会が開演である。以下は気になった演者を記載する。

 

古今亭志ん輔 稽古屋

私の中で勝手に熱が上がり、注目の落語家、志ん輔師匠。『夕立勘五郎』で見せた絶品の節の後は、清元である。冒頭は非常に耳が痛い噺で、男であれば誰しもが一度は抱く『女性にモテたい』という感情が迸る。私も顔があるだけで、胴体は豚の如く太り、頭髪は薄くなり、目はスプーンで抉ったように窪み、耳にお経はなく、口はやまやの明太子が二つあると言った状態であるのだが、それでも『女性にモテたい』という気持ちだけはヒマラヤの如く鎮座しており、芸なぞも無くて無いようなものなので、どうしようもない。そんな芸無しの男が、女性にモテるために清元の師匠のところへ行き、女性にモテるための芸を備えようというのが、『稽古屋』という話である。

色気のある女性のお師匠さんに教えられながら、芸を身に付けようとする男は清元を練習する。ここでは女性に対してだらしなくなることはなく、あくまでも芸を身につけようとして、上手く行かない男の姿が描かれる。この不器用な感じが堪らなく面白い。女性にモテようとして、奇抜なファッションをし、女性からの軽蔑の眼差しを受けた在りし日の私を思い出し、少しだけ胸が締め付けられた。

モテない男の僻みとでも言おうか。モテる男は何をやってもモテる。女性に対して失礼だと思えるような言動であっても、顔が良ければ万事問題なし、と言った理不尽な環境に晒されてきた私にとっては、清元を上手く出来ない男に大きな共感を抱いてしまうのだった。もちろん、顔が良いから何をやっても許す女性は、そういう女性なのだと割り切って考えている。(何の話をしているんだ・・・)

絶品のお三味線と、お稽古風景を堪能した一席。これが後、別の記事への伏線となるとは思いもよらなかった。私はこの時、(文菊師匠でこの話を聞けたら・・・)と心の中で思っていた。

 

古今亭文菊 笠碁

割れんばかりの拍手。会場から起こる「待ってました!」、「たっぷり!」、「江戸川橋!」の声。万雷の拍手と歓迎の雰囲気に包まれて、ゆっくりと座布団に着座した文菊師匠。丁寧に磨かれた骨董品のような頭と、太筆で力強く描いたような眉、麗しく伸びた睫毛、きりりとした目元、どんな弾力を保持しているのか興味をそそられる唇、そしてグッと力のある顎の線。役者のような面構え。

お馴染みのマクラで「よっ!色男!」と声をかけたくなってしまうほどの絶品の表情の後で、話題は囲碁将棋の噺。短い小噺の後で『笠碁』の演目に入った。

人と人、それぞれの意地の張り合いを描くのが非常に上手い。言葉の端々に「お前とは古くからの付き合いじゃないか」というような、互いの交友の年月を感じさせる言葉があって、それが喧嘩はするけど仲の良い二人の男を見事に描いているように思える。人生に生涯の友と呼べる人間が一人でも存在していることの喜び。やがて世を去る前のひと時を、同じように過ごした友と分かち合えることの喜び。盤を挟んで互いに白と黒、碁石を持ちながらも、白黒がはっきりする囲碁と、白黒が互いに寄り添い、まるで太陰太極図のような、陰陽の合体に似た風景が描き出される。

一度は喧嘩別れをした二人が、互いに「やっぱり会いたい。会って話がしたい」と思い始め、やがて再び盤を介して互いに囲碁を打つまでの過程が、胸にジーンと来て心に染みてくる。ゆったりと流れるような間、お互いがお互いを気にかけて発する言葉、表情、そして声の調子。何とも言えない二人の深い関係が滲み出ていて、私にもこんな友人がいるだろうかと思い始める。ひと月に一度酒を酌み交わす友人、地元に帰れば馬鹿な話に花が咲く友人。自問自答しながら、自分一人で生きてきた感覚にならずにいられるのは、出会い、そして友となった人々がいるからであろうと思う。

文菊師匠の描き出す二人の男の姿は、どちらも頑固者でありながら、優しさを湛えている。久しぶりに聴いたのだが、互いを思いやる気持ちや、二人の関係性を確かめるような言葉の一つ一つが胸に染みてくる。

最後のオチの後、じんわりと胸に広がる温かい気持ちを抱え、私は浅草演芸ホールを後にした。

 

総括 待ち続ける私に

浅草演芸ホールを後にし、家へと帰る道の間中、私は待つことの喜びを感じていた。何かを待っている状態というのは、非常に幸福な状態である。あれこれを想像している間は、自分の理想通りの物事が進むものだと考える。きっと私には演芸に造詣の深い美人が現れて、毎週落語を二人で聴きに行き、会が終わった後で酒を酌み交わしながら、落語家の芸に対して何時間でも語り明かすような、そんな時が訪れるのだと想像している間は、あらゆる雑事が排除され、ただ美しく輝く風景だけが想像できるのだが、実際に一緒になれば家事育児その他ありとあらゆる行事に苛まれて、演芸を楽しむどころではなくなるだろう、という懸念もある。それでもなお、一縷の望みとも、願望、欲望とも区別の付かぬ思いを抱きながら、私は寄席に通い、今日も一人で演芸を鑑賞するのである。

生涯の伴侶との幸福な演芸談義が出来ぬ今は、こうやって文字を書き、ひたすら自分自身との対話を続けていくしかない。いつ訪れるとも分からぬ伴侶に思いを馳せている間は、こうやって文字を書く喜びに身を浸したいと思う。幸いにも、日々読者が私の記事に目を止めて読んで頂ける現実がある。良し悪しはあれど、読む者がいるならば書き続けなければならない。誰の言葉もなくとも、自分自身が納得した記事が書ければ、今は幸いだと思っている。

素敵な演芸にこれからも出会うのだろうと、寄席の番組表を見る度に心高鳴らせる。出会いは一期一会、そして、出会ってしまったら仕方が無いのだ。私はいつも、何かに出会うことを待ち続けているのかも知れない。そこに、幸不幸はあれど、それでも、私は待ち続けたいと思う。そして、長く長く待ち続け、もしも一瞬でも、待ち続けた対象に出会い、幸運なことに一緒に歩むことが出来たのだとしたら、私に出来る最大の力で、幸福になりたいと思うのだ。

ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの曲を聴きながら、そんなことを思う。ま、ルー・リードの『I'm waiting for my man』は、コカインの運び屋の男を待つ詩であるらしいのだが、コカインは暗喩で、単に無常の幸福なのだろうと思う。