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あの日からずっと生きている~2019年3月8日 シブラク 立川左談次 追善興行 第二部~

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草の戸も 住み替はる代ぞ 雛の家

奥の細道 松尾芭蕉

 

あいつは変わり者で誰も相手にしないというように,変わり者という言葉が,消極的に使われる場合,この言葉は殆ど死んでいるが,例えば,女房が自分の亭主の事を,うちは変わり者ですが,と人に語れば,言葉は忽ち息を吹き返す。

『考えるヒント 小林秀雄

 

言葉の生き死に

言葉は時折、死んだり生きたりするらしいことを、私は小林秀雄氏の著書から学んだ。インターネットなどで文章を見ているだけでは、言葉が生きているか死んでいるかを判断することは難しい。特に140字では尚更である。私はどうにも140字という規則に自らの思考が制限されているように感じ、歯がゆい思いをしてばかりである。どうせ生きているのだから、ありったけの文字数で語ってやりたいと思うのが私である。それだけ語りたいという思いがあるのだ。

さて、ではどうやって言葉の生き死にを判断したらよいか。それは、人が発する言葉に含まれる、感情の音を感じることにあるだろう。人と会話をしている時に、相手が上の空な態度で聞いていれば、自分の口から飛び出した言葉の軍団達は見るも無残に撃沈していく。屍を乗り越えて発した言葉であっても、相手の心がこちらに向いていなければ、相手の心の函谷関は不抜である。どんなに文字を書き連ねようとも、読む気を読者が失えば、この後に書かれる文章も読まれることなく、沈没の戦艦になってしまうのである。

生きている言葉と死んでいる言葉を最も分かりやすい形で知りたいのならば、落語を聴けば良い。落語家の言葉はどれも生きている。一言として死んでいない。たった一人で語っているにも関わらず生きているのは、言葉に生命を宿すための術を落語家が会得しているからである。

もちろん、我々が日常生活の中で発する言葉が死んでいるという訳ではない。むしろ、無意識の内に生きた言葉を発している人の方が私の周りには多いように感じられる。それでも、時折、死んだ言葉を耳にすることもある。一体何を我々は感じ取って言葉の生き死にを判断しているのかと言えば、人は言葉が発された時の、僅かなニュアンスを感じ取っている。冷淡な感情であるか、燃えるような情熱の感情であるか、そのニュアンスを感じる機能が人間には備わっていて、その機能は人によって様々である。

「今の君の言葉は死んでいるね」とか、「今のは生きた言葉だ」と言ってくれる人は少ない。というか、殆どいない。というか、そう意識して言葉を発したり聴いている人が少ない。

落語を聞くか、講談を聞くか、浪曲を聞くか、人の言葉を聞き続けることによって機能は向上する。同時に、自らも言葉を発することで、言葉が生きているか死んでいるか判断する力が向上する。なぜなら、生きた言葉を聞くことで、あなたの心が震える瞬間があるからである。誰も、死んだ言葉では心震えたりはしない。むしろ、心が傷つけられて、見えない痛みに苛まれてしまう。生きた言葉は心を活かし、死んだ言葉は心を殺すのだ。

そこで、問おう。

あなたの発するその言葉は、生きているだろうか、死んでいるだろうか。

 

渋谷らくご ロビーにて

言葉が生きている落語家の笑顔が、壁に掲げられている。

立川左談次、その人の笑顔である。

一目見た時から、その笑顔の、笑顔としての笑顔、ど真ん中の笑顔に撃ち抜かれて、私は今まで見た誰よりも、はっきりとした笑顔を見たと思っている。

渋谷らくごでは、立川左談次師匠の追善興行として会が行われている。会場限定販売の三枚組CDには、2017年の9月に行われた左談次師匠の五日間の高座が収録され、2500円で販売されている。私を含め大勢の人々がCDを買い求める姿を目にし、この場に肉体として存在していない左談次師匠に思いを馳せた。

私は左談次師匠の生前の高座は二度だけ拝見させて頂いた。厩火事と妾馬の二席である。たった二席だけでも、その後に様々な人々の話を聞いているうちに、左談次師匠という一人の落語家の姿が見えてきた。

なぜ、あれほどまでに愛されたのかと考えると、それは、何とも野暮なことなので書くことはしないが、左談次師匠を語る人達の言葉は決まって『生きている』のだ。小林秀雄氏に言わせれば、『消極的な意味で』言葉が使われることが無い。むしろ、左談次師匠という存在に寄り添い、確かな温度を持って発されているのだと誰が聞いても分かる。湯豆腐を食すように、発された言葉の温かさを舌が感じ、笑みとなって顔が綻ぶ。それは、乱暴だと感じられる言葉であっても同じである。『猫ふんじゃった』という、猫から苦情が来てもおかしくない歌であっても、ピアノの練習曲なり、幼稚園生の歌なりで使われたり歌われたりしているような、そんな温かさがある。

CDを買い、大勢の人々と共に私は渋谷らくごの会場へと入った。

 

あの日、あの場所、あの席へ

2017年9月11日、ユーロスペース、C-7に私は座った。そして、月日が流れて、2019年3月8日、ユーロスペース、C-7に私は再び座った。私はこの席を忘れることは無かった。なぜなら、その日のことは良く覚えているからだ。柳家わさびさんが『ちりとてちん』の赤い七味を入れ忘れた訳じゃないこととか、遊雀師匠がマクラでわさびさんの着物をいじりつつ、絶品の定吉を披露したこととか、とても優しい笑顔の左談次師匠の八五郎のこととか、マクラも無く、まるで喜多八師匠が乗り移ったかのような『らくだ』を披露した小八師匠のこととか、全部を忘れたくなくて、私は席と角度まで覚えていたのだった。

だから、再びその席に座したとき、言いようの無い感動が胸を襲ったのだった。たまたま空いていたというのも不思議な運命を感じる。月日が流れ、左談次師匠がこの世を去っても、まだ生きて、同じ場所に座すことが出来た自分の境遇に、何か見えない運命があるように感じられて、私はただ目を閉じて、あの日の時間と今の時間を確かめるように息を吸った。

あの日、最後にトリを取った落語家が、やがて出囃子とともに袖から出てきた。まるであの日の続きのように。

 

柳家小八 もぐら泥

小八師匠の言葉の中には、喜多八師匠が生きている。言葉のそこかしこにちらほらと、喜多八師匠が顔を出す。喜多八師匠の姿を間近に見つづけてきた小八師匠の、照れくさそうなのに、師匠への愛を隠さない、はにかむような笑顔の表情が、どこか寂しそうなのに、好きになったんだから仕方ないよね、という気持ちに彩られていて、言葉の一つ一つが耳に届くたびに、喜多八師匠の生きた証がここにある、という気がしてくる。喜多八師匠への思いや、喜多八師匠の高座姿や、喜多八師匠の考えや、喜多八師匠の日々とか、マクラで一つ一つの思い出をポケットから出すみたいに語る小八師匠の姿は、昔の恋人に思いを馳せているかのように、儚くて尊い。それは、私が勝手にそう思っているだけなのかも知れない。それでも、小八師匠はもっともっと、喜多八師匠と一緒にいたかったんだろうなぁ。と思った。ずっと袖で師匠の落語を聞いて、自分が惚れた師匠の傍にいて、自分の芸とか生き方とか全部に、小言でもいいから一言、言葉をかけて欲しかったんだろうなぁ。と思った。本当は喜多八師匠の考えと自分の考えは違うのだと言いながら、結局、喜多八師匠の考えに影響を受けてしまっている自分に問いかける小八師匠の言葉と声と表情が、なんだか忘れられない。

『もぐら泥』という一席は、お金という目当てを得るために泥棒に入ろうとしたら、失敗して自分の持っていたお金を取られてしまう話で、小八師匠の醸し出す空気には、日常の中に流れる素朴な感じがあって、さりげない言葉や所作を聴いたり見たりすると、まるでその場にいるかのように思えてくることがあった。

泥棒が盗みに入ろうとする場面の、片手の動きの現実感に、掴もうとして掴めない者のもどかしさを感じてしまった。もしも、本当に泥棒に入ることが出来ていたら、この話は面白くならない。中にいた夫婦を見てすぐに泥棒が逃げ出してお終いである。掴めそうで掴めなくて、結局酷い目にあってしまう泥棒が少し可哀想に思えるのは、何かを掴むことが出来なかった悲しみを、私がどこかで体験したからだろうか。

盗みに失敗して、腕を縛られる泥棒は、色んな言い訳をする。時に脅してみせるのだが、言葉の隙を突かれて言い包められてしまう。ハリボテの言葉は、すぐに吹き飛んでしまう。私も色んなハリボテの言葉を発して、その場しのぎで切り抜けてきたことがある。だから、泥棒が酷い目に合っていると、なんだか昔の自分を見ているようで笑えるのだ。

この話には、何かを掴もうとして掴めなかった人間の悲哀がある気がする。そんな風に感じたのは、小八師匠で聞いたからだろうか。燕路師匠で聞いた時は、もっと可愛らしくて、コミカルな印象を抱いていたのだけれど、演者によって聞こえ方や感じ方が違うというのも、落語を楽しむ醍醐味なのだと思う。

よく、何かを見ても何も思わなくても良いのだ。という人がいる。最もらしい感想を述べたところで、それはどこかで使い古された言葉の集積、と考える人がいる。それはそれで良いと思う。ただ、私の場合はどうしても、何かを見て何かを思ってしまい、そして文章として書いてしまう性格であるらしい。これが普通のことかどうかは分からない。それでも、私はきっともぐら泥に出てくる泥棒のように、お金ではなくて、何か別のものを掴みたいと思って、手を伸ばしている。もしかしたら、大失敗をして酷い目に合うかも知れない。それでも、私は泥棒に入りたいくらいに、何かを思って文章を書きたいのだ。何も感じないことが悪とは思わない。何かを感じたのに、それを表現せずに、黙っているのは、私には耐えられることではないのだ。

きっと、小八師匠も何かを掴もうとしている。というか、誰でもみんな何かを掴もうとして、失敗したり、奪われたりしているんじゃないだろうか。それでもめげずに、何かを掴もうとしているんじゃないだろうか。ジョー・ストラマーじゃないけど『月に手を伸ばせ。たとえ届かなくとも』という気持ち。大事。

 

柳家小里ん 素人鰻

左談次師匠曰く『江戸っ子』で『江戸の頃の語り口』を持っている小里ん師匠。初めて見たのは浅草演芸ホールで、その時は『親子酒』をやっていた。見た目から溢れ出る名人の風格、地に根を張った巨木が風に誘われて語るかのような、地の口跡。水をうったように静まり返り、芸に引き込まれた演芸ホールの客席が印象深い落語家である。

2017年9月10日。小里ん師匠は左談次師匠の『短命』の後で高座に上がり、『試し酒』をやった。これは私の想像だが、小里ん師匠は落語のネタによって、左談次師匠を惹き立てたのではないか。

『試し酒』に出てくる大酒飲みの久蔵、5升の酒を飲み干す賭けに乗るように持ち掛けられるのだが、「少し考えるので待って欲しい」と言って出て行ってしまう。しばらくして帰って来た後で、様々なことを口にしながらも、久蔵は5升の酒を飲み干して賭けに勝つ。賭けに負けた者に「なぜ飲み干せたんだ?おまじないか?薬か?」と問われて、「いやぁ、酒を5升も飲んだことが無かったから、表の酒屋で試しに5升飲んできた」というオチである。

心の底から落語が大好きで、落語に心酔している左談次師匠の姿を、小里ん師匠は見ていたのではないか。想像に過ぎないが、そんな左談次師匠の高座に上がる前の、ネタを試しに試して、稽古に稽古を積んで、舞台に上がって大勢の人々の笑い声を全身に浴びて返ってくる左談次師匠を見たとき、小里ん師匠はそこに、『試し酒』に出てくる大酒飲みの久蔵を重ねていたのではないか。だから、あの日、小里ん師匠は『試し酒』で、賭けの前に一度試し、自信をもって賭けに挑む久蔵を観客の前に披露したのではないか。高座を直接見ることは出来なかったが、小里ん師匠の心の奥には、左談次師匠への思いがあったのではないだろうか。

月日が流れて、再び高座に上がった小里ん師匠。左談次師匠との思い出を語りながら、『素人鰻』の演目に入った。

武士から士族となった男が、慣れない鰻屋の商売に手を出して困窮する。そこに板前職人の金さんなる人物がやってきて、男の手足となって鰻屋を手伝う。この金さん、腕は一級品だが酒癖が悪く、酒を飲むと酔っぱらって暴れ出してしまう。

とうとう金さんを店から追い出した男は、自分一人で鰻を捌こうとするのだが上手く行かないという話である。

だんだん酔っぱらっていく金さんの姿を、実に見事に小里ん師匠は描き出していた。細かい動作にも笑いが起こり、本物の酒飲みが座布団の上で酔っぱらっているようだった。酒癖の悪い金さんの姿に、どうしても左談次師匠の姿が重なって見える。直接、酒席に居合わせたことは無いが、小里ん師匠は金さんに左談次師匠を重ねていたのではないか。

左談次師匠の後に上がり、口演された『試し酒』で、陰ながら努力をする久蔵に左談次師匠を重ねた小里ん師匠は、今日、腕は一級品だが酒癖の悪い金さんに左談次師匠を重ね、左談次師匠という人間の姿を現す。そして、そんな金さん(左談次師匠)が去った後で、困り果てながらも意地になって鰻を捌こうとする男に、小里ん師匠は自分の思いを重ねていたのではないだろうか。これも、私の想像に過ぎない。

酒さえ飲まなかったら、誰よりも立派な職人として自由に生きられる筈なのに、酒が大好きで酒に溺れる金さんの姿に、人間らしさが滲み出ているように思う。植木等さんではないが、『分かっちゃいるけど、やめられない』ということが、どうしても人々を悩ませている。でもそれは、人間が何かを愛してしまったら仕方がないことなのだ。何か一つでも、酒でも、音楽でも、男性でも、女性でも良い。好きになったら、自分でも驚くほど盲目になって、全く制御不能になってしまって、手が付けられない性格に人間は変貌してしまう。それだけ好きなことや、好きなものに出会えるということは、とても幸福なことではないだろうか。そして、柳家小里ん師匠も、立川左談次師匠も、大好きな、大好きな、人生で最も大好きな落語に出会い、落語家になったのだと思う。だから、私はどうしても金さんという人間が愛おしくて堪らないのだ。頭では分かっていても、心と体が全く別の動きをしてしまうことは多々ある。理屈じゃなくて、感情で動く。そんな金さんの姿が愛おしいのだ。

武士から士族になった男も、同じように愛おしい存在である。金さんの実力を認めながらも、最後は金さんを追い出して、自分で事を実行しようとする男。きっと、彼の頭の中には常に金さんのことがあったのではないだろうか。自分で試行錯誤して、鰻に惑わされる男の姿は、滑稽であると同時に、悲哀があって胸に迫って来る。何が正解かも分からないまま、男は途方に暮れて「鰻に聞いてくれ」と言ってオチ。

私にはなんだか「落語に聞いてくれ」と言っているように思えた。鰻(落語)に対して絶品の捌きと腕を見せる金さん(左談次師匠)と、鰻(落語)の捌きに苦戦する男(小里ん師匠)という対比が見えないでもない。無論、鰻(落語)の捌きに苦戦するなんてことは小里ん師匠は絶対にありえないのだが、どれだけの月日を経てもなお、落語を語ることの果ての無さを、小里ん師匠は鰻を捌けない男に自分を重ねていたのではないか。

少し深読みが過ぎたかも知れないが、改めて小里ん師匠の高座を見て、そんなことを感じてしまった。私には、そんな風に考えられるようなネタだった。

ここまで、それぞれ左談次師匠の後に上がった二人の落語家が高座に上がった。その後で、再び左談次師匠が高座に上がる。まるで何かを示すかのように。

 

立川左談次 妾馬(映像)

春風亭枝次さんの高座返しの後で、立川左談次師匠が高座に上がった。スクリーンに投影されているが、私は高座を何度か見て、もしかしたらそこに座って、照れくさそうに笑う左談次師匠が見えるかも知れないと思った。左談次師匠は自分の映像を見ながら「なんだかやつれてますね。死にそうな顔だ」とか、「ここはあんまウケなかったなぁ」とか、ツッコミを入れてくれるような、そんな景色が見えて、左談次師匠が肉体として高座にいないことが、私はとてももどかしかった。早くひょっこり舞台の袖から顔を出して、客席にいる人達を驚かせてほしい。「びっくりしたでしょ。驚いちゃった?」とか言いながら、またいつものように、軽くて柔らかな語り口で落語を語り始めてほしい。どんなにシリアスな状況にあっても、笑い飛ばすような、笑顔に満ち溢れた高座を、もう一度見せてほしい。どこでお酒を飲んで、誰に絡んでいるんだろう。談志師匠と二人で話に花を咲かせているんだろうか。だとしたら、その花の一輪だけでも、私の心の花瓶に差してはくれないだろうか。みんな、左談次師匠の高座を待っているんだから。いつでも水は汲むから。枯れないように見続けているから。

映像で見ると改めて、左談次師匠の表情がくっきりと感じられた。特に、何とも言えない笑顔になる時の表情の変化に、何度も心がドキッとして、2017年9月11日、C-7席で見た時のことを思い出す。そうだ、この笑顔だ。と何度も確かめながら、マクラと『妾馬』の話を聞いた。

私は左談次師匠で『妾馬』という落語を初めて聞いた。確かあの日は、何をやるかも分からずに、たまたま時間が空き、左談次師匠に興味があって行った。そして、演目を見ながら、ロビーで色んな人が「めかうま、めかうま」と言う声が聞こえ、私の脳内では『メカ馬』に変換されていて、どんな演目かも調べず、分からないまま聞いたのだった。

再びC-7に座して、私は何度も確かめるように左談次師匠の『妾馬』を聞いた。忘れていた部分も多くあったけれど、笑顔だけは忘れることは無かった。田中三太夫さんに向かって「下がっておれ!」というところが、凄く懐かしくて思い出深い。あの日の空気感がCDに収まっていて、何度も聞けるということが、とても幸せである。

八五郎と大家さんの会話や、田中三太夫、お殿様、妹との会話。こんなに魅力的な八五郎は後にも先にも聞いたことが無い。凄く軽口を叩いているのに、愛嬌があって憎めない。ぞんざいな口を利くのに、筋が通っていて粋である。変に畏まった言い方をしようとして、ちぐはぐになって自分でも何を言っているかさっぱりになる八五郎。自分のそれまでの生き方や考えを曲げることなく、自分の思う正しさで生きている八五郎の言葉は、乱暴な言葉なのに生きている。身分を重んじる武士達の中にあって、煌めくほどの輝きを放っていて、お屋敷に上がった八五郎の発する言葉は、活き活きと生きていて、爽快な気持ちになる。

妹に会い母親のことを語る八五郎の言葉は、温かくて、粋で、人情味に溢れていて、それでいてさらりと、感傷的にならずに、どこまでも八五郎の軽さが風のように吹いていて、この場面になるとどうしても涙腺が緩んでしまう。

八五郎が出世するのは、人を生かす言葉を放ち続けているからだろうと私は思う。それは、大家を前にしても、田中三太夫を前にしても、殿さまを前にしても、妹を前にしても、変わることのない一つの信念に貫かれた生き方と、その生き方に即した言葉が、八五郎そのものを形づくっているからこそである。

同時に、左談次師匠も八五郎と同じように、変わることのない一つの信念に貫かれた生き方と、その生き方に即した言葉で形作られているからこそ、言葉が生きている。生きた言葉を我々は聞いているのである。粋であり、活きであり、生きである言葉が、あの時、あの時間、あの場所で光輝いていたのだ。

何度も何度も笑顔が花開く。立て板に水の語り口が、客席に笑顔の花を咲かせて、その花を見て左談次師匠は微笑んでいる。最期、引きの映像が流れた時、自分の後頭部と服が見えて驚いた。あの日と服装も同じだったようである。

まるであの日に戻ったかのように感じられた時間が過ぎて、再び照らされた高座の座布団を枝次さんが返す。きっと、そこに座って私たちの笑顔を見ながら、にっこりと微笑んでいたに違いない。

最後のトリを飾るのは、左談次師匠の二番弟子。

 

立川談吉 阿武松

飄々とした佇まいで、高座に上がる談吉さん。左談次師匠との思い出を聴いている時に、印象的な所作があり、その所作を見て「両手で収まる範囲なんだな」と思いつつ、その右手と左手の距離の単位は何かな、とか思いながら、左談次師匠が五日間の最後に選んだ演目、『阿武松』を語り始めた。

何度か連雀亭でやっているという情報を目にしていたが、『阿武松』を聞くのは初めてだった。歌うように語り、語るように歌う流麗な語りの源に、立川左談次師匠がいる。談吉さんは、立川談志師匠と立川左談次師匠の二人の傍で修業をした落語家さんだ。もしも私だったら、物凄い客席からのプレッシャーに押し潰されてしまいそうなほど、色々なことを考えられてしまう落語家さんであるとも思う。『談志師匠の意志を継いで』とか『左談次師匠の思いを継いで』とか、本人の望む望まざるとに関わらず、そんな思いで高座を見る人が多いのではないか、とあくまでも予想だが、私は思ってしまう。

だが、談吉さんは、そんな気負いや熱意を高座で見せることは無い。あくまでも自分に忠実に物語を語っているように思えるのだ。芸で受けた恩は芸で返す。そんな談吉さんの姿勢を私は高座から感じた。

語りの調子はまるで楽器の演奏のように、一つ一つの言葉に音が宿り、音階が生まれ、言葉が旋律となって生きている。不思議なくらいに自分を消して、談吉さんという人物が霧のように隠れて、そこにはただ流麗な旋律に乗って語られる物語だけが存在しているように感じられる。

どこまで想像しても、立川談吉さんの人と成り立ちが見えて来ない。その底の見えない振る舞いを、私はどう表現して良いか書きあぐねている。むしろ、これほどまでに談吉さんという人間の性格が演目に現れないということが、一つの標準を形作っているように思われる。似た人物で思い浮かぶのは、春風亭朝七さんも、性格が見えて来ない『江戸標準』の落語家であると私は思う。

二人に共通しているのは、音、旋律、リズムである。

誰でも談吉さんの高座を一目見れば、その音楽のような心地の良い言葉に魅了される。同じように、誰でも朝七さんの高座を一目見れば、その徹底した音の均一さに魅了される。語り手の性格が塗布されていない、標準の語りは、そこに様々な音の大小や感情の起伏が含まれていないからこそ、魅力的であると思うのだ。

そう考えると、談吉さんは『立川標準』なのかも知れない。立川談志師匠の高座と立川左談次師匠の高座を間近で見てきた談吉さんは、他の立川流の落語家の中で、もっとも標準な立川流の語りで語っているのかも知れない。

これは朝七さんの記事でも書いたが、『標準の語り』は、一定の高さでボールを投げ続けるような、とても難しいものだと私は思っている。一つでもボールの高さがズレたら、それを見た者は、投げ手の感情を読み取る。疲れているのかなとか、飽きたのかな、とかそんな感情を読み取る。

感情も性格も読み取らせない、標準としての語りを堪能することによって、落語の物語としての面白さが浮き立ってくる。些細な言い淀みや言い間違いがあっても、するすると耳に飛び込んでくる音、そして言葉は脳内で整理されて物語の妨げにならない。純粋な物語としての面白みを、聞く者に最大限委ねる語りが、『江戸標準の語り』を持つ朝七さんと、『立川標準の語り』を持つ談吉さんには備わっているのではないだろうか。

と、ここまで書いて、談吉さんの魅力は『標準の語り』にあるのかも知れないと思った。奇を衒ったり、感情を表したりしない、個の魅力が霧に隠れた語り口。あるのは音と旋律とリズムだけの、楽譜と楽器だけのような単独の演奏。ピアノとピアノ奏者、曲師と三味線、風鈴と風、鳴る物と鳴らす者の二つだけで紡ぎ出される物語の、シンプルな魅力。立川談志師匠の風を受け、立川左談次師匠の風を受けて、磨き上げられた標準の語りを、立川談吉さんは極めようとしているのではないだろうか。

決して大仰な言葉もなく、ただただ飄々と、落語と語り以外に付き纏う様々な曰くを、何も感じさせないあっけらかんとした高座を聴き終えてしばらくの後、私は改めて談吉さんの魅力を発見したように思った。本当に不思議な落語家さんである。

談吉さんという標準を聞いた後で左談次師匠の高座を聞いても、私には標準とどれだけ誤差があるかは分からなかった。むしろ、標準としてブレずにあり続ける談吉さんの佇まいがとても魅力的に思えたのだ。立川談志師匠、立川左談次師匠、そして立川談吉さんと、まるでトレーサビリティの確保された立川標準の語りを堪能したような気分である。そこに、次は立川談修さんが加わるのだから、一体どれだけトレーサビリティが続き、標準として校正が取れるのかは分からない。

しみじみと、最高の一席だった。左談次師匠の語りと生き様は、談吉さんの語りに息づいていた。

 

総括 左談次師匠が残したもの

会場を出て、ロビーに掲げられた左談次師匠の笑顔を見る。満面の笑みだ。これ以上無いくらいの笑みだ。いいなぁ、と思っていると、ふいに私の頭の中に、以下の言葉が流れ込んできた。

 

月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。

 

どうしてそんな言葉を思い出したのかは分からない。誰の何だかを忘れていた私は、インターネットで上記の言葉を調べ、松尾芭蕉の『奥の細道』の冒頭文であることを思い出した。言葉の先を忘れていたので、そのままするすると読み進めていると、最後にこんな句があった。

 

草の戸も 住み替はる代ぞ 雛の家

 

その句を見た時に、私は立川左談次師匠の思いが、松尾芭蕉の上記の句と同じような思いであるように感じられた。月日は永遠の旅人で、人も雲も動物も、全てのものがある場所からある場所へと旅をする存在だということが、はっきりと感じられた。

この句に表現されている思いが、まるで左談次師匠の気持ちであるかのように私は思った。これまでの人生のことや、これからの人生のことや、肉体が朽ち果てた後のことに思いを馳せた句を、この時、唐突に私は思い起こしたのである。

もうすぐ、三月も下旬を迎え本格的な春がやってくる。一人住まいの家を出て、最後に句を残して去って行く松尾芭蕉立川左談次師匠)の姿が見える。うっすらと姿が消えたかと思うと、それまで芭蕉が住んでいた家の中で、両親の優しい眼差しを受けながら、嬉しそうに笑う少女と雛飾りが見えてきた。その賑わいの、温かい陽光のような輝きを彩るように、桜がひらひらと舞っている。

一つの魂が旅に出て、幾つもの魂が一つの場所に住まう。景色は移り変わって、家は住み替わっていく。そんな永遠に繰り返されていく人の営みの中で、私はただ、文章を書いて、記憶を書き留めようとしている。

この記事を書き終えるにあたって、立川左談次師匠に出会い、高座を見ることが出来た運命に、限りない感謝をしたい。そして、立川左談次師匠の高座に出会った多くの人々の言葉も、私は聴いてみたいと思う。

立川左談次師匠が残した音源、弟子、そして受け継がれていく意志。再び3月がやってくるとき、私は思い出すだろう。そして、忘れることはないだろう。

なぜなら、魂も記憶も、そして言葉も。全てがあの日からずっと生きているのだから。