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滑稽な稽古~2019年3月9日 浅草演芸ホール~

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Practice, Practice, Practice 

 

いえ、あの、道を・・・

 

  はじめての習い事

幼少の記憶である。私は生まれつき肺が弱く、病気がちで、体育なども隅で眺めていることが多く、皆勤賞から最も遠いところにいる子供であった。運動会が近づくと憂鬱で、仮病で休むことばかりで、どうせ勝てないのなら練習しても無駄だと諦めて、無理に良い順位を勝ち取ろうと努力をすることなく、へらへらとしながらやり過ごしていた。胸の奥がチクチクと痛んだが、勝てないものを勝とうと努力することが、当時の私にとっては、無意味なものであるように感じられたのだった。

身体的なことで周囲の人間に勝てないと悟った私は、必然と呼ぶべきか、突飛な行動で周囲の注目を集める子供になった。太陽と月の気持ちになって会話文を書いたり、初恋の相手との思い出の場面を絵に書いたり、下級生を騙して女子更衣室の扉を開けさせるなど、様々な愚行をしていた。そんな愚行が積み重なり、私はとうとう誰からも相手にされなくなった。

今でこそスクール・カーストという言葉があるが、私はあっちゅう間にアチュート(人間扱いされない層)になり、なんちゅーことやと思いながら、バラモンに憧れを抱いて日々を過ごしていた。そんな私は、体格の良い者から殴られたり、蹴られたりすることが多々あり、病弱であることを心配した両親の手助けもあって、スイミング・スクールに通うことになった。

バスに乗ってスイミング・スクールに行くのだが、道中は憂鬱で仕方が無かった。運転手は鬼のように恐ろしく、少しでも席から立って騒ごうものなら、烈火のごとく怒鳴り声が飛んでくる。今では懐かしいと思えるし、あの運転手はどうなったのだろうと気になるのだが、当時はバスの運転手が嫌いで、挨拶さえしなかった。

スクールに到着すると、お決まりの体を清める通路を通って、準備運動の後、いよいよプールに入水となる。泳ぎに不慣れな私は、プール内に台を重ねて浅くした場所で、泳ぐための訓練をした。私の泳ぐ姿はプールに併設されたガラス張りの部屋から覗くことが出来て、最初は母親が心配したのか見てくれていたのだが、泳げるようになってくると、殆ど見に来ることは無くなった。というより、私が見に来ないで欲しいと頼んだのかも知れない。努力して不慣れな自分を見られたくないという気持ちを、私は常に両親に対して抱いていた。今でもそうだ。あまり恥ずかしいところは見られたくない。

私の周りには同世代の子やさらに小さな子もいて、とくに会話をすることは無かったが、無意識の内にライバル心が芽生えていた。というのも、スイミング・スクールには昇級制度があり、一定の水泳技能を身に付けると、級が上がる仕組みになっていたからだった。私は何とか同じ学校ではない見ず知らずの人と差をつけるため、必死になって泳ぐ練習をした。どこへ行ってもアチュートになることは勘弁であった。この時の体験からであろうか、人は自分に適した輝くべき場所があり、その場所を発見さえすれば輝けるという考えを今でも持っている。

努力の甲斐もあって泳げるようになってくると、いよいよ台は取り払われて通常の25mプールを泳ぐことになった。それでも、ビート板の補助付きで私は自力で25mを泳ぎ始めた。大観衆とまではいかないが、互いに競い合っていた人や先生が私の泳ぎを見ながら、「がんばれ!がんばれ!」とか「息継ぎ!息継ぎ!」などの言葉をかけてくれているのが分かった。私は無我夢中で泳いでいた。少し楽しくもあった。学校に行けば、自分よりも体格のいい人間に馬鹿にされ、頬を打たれたり、授業で間違いを言えばあざ笑われたりしている私が、たった25mの冷たいプールを、ビート板に支えられながら、自分の両足で力強く前へと踏み出していることが、何よりも誇らしかったのである。いいぞ、泳げるぞ、絶対に25mを泳ぎ切るぞ!と息を切らしながら私は泳いだ。そんな私の楽し気な表情をカメラマンが撮影していて、その時の写真が何とも言えないのだが、残念ながらお見せすることが出来ない。

ようやく25mを泳ぎ切った私は、先生に「よくやったね」と褒められ、とても嬉しかった。頑張れば誰かが認めてくれるという喜びがそこにはあった。

ふと、ガラス張りの部屋を見ると母親がこちらを見ていた。小さく拍手をしていた。母の目は確かに「よく頑張ったね」と言っているように私には思えた。私も目で「ママ、頑張ったよ」と思ってにっこりと微笑み返した。

スイミング・クラブを終えて、母の車に乗り込んだ私は、25mを泳ぎ切った満足感からか、色々なものを欲しがった。「アイスが食べたい」とか「お肉が食べたい」と駄々をこねた。すると、母は「分かった」とだけ言って、私にアイスを買ってくれ、夕食には焼肉を作ってくれた。家に帰ると父がいて、25mを泳ぎ切ったことを伝えると、「そうか、じゃあ今度は海だな」と言って、いきなりハードルを上げたので、母は「それはまだ駄目」と父を窘めた。弟は不思議な表情で私を見ながら「あんちゃん、なんかしたの?」と聞いてきたので、私は「泳げるようになった」とだけ答えて肉を食べた。

色々と辛いこともあったが、私のはじめての習い事は、スイミング・スクールであった。泳ぎを教えてくれた先生のことは、申し訳ないがあまり覚えていない。泳ぎを教えられたというよりも、自ら泳ぎを体得していったような記憶が私の中にはあって、それは紛れもなく記憶を無意識に書き換えているのかも知れないのだが、あまり記憶にないので、何とも書きようがない。

そんな当時を思い出したのも、浅草演芸ホールで文菊師匠の稽古屋を聞いたからであった。

 

古今亭文菊 稽古屋

どんな演目をかけるのか、毎日が楽しみな文菊師匠の寄席。この日は、渋谷らくごで若手二ツ目の芸を受ける形でトリを取る会があり、その後での寄席トリである。私はしばらくスマートフォンに表示された渋谷らくごの公式アカウントを眺めながら、演目発表はまだかと待っていた。開始のベルが鳴ったと同時に、渋谷らくごで文菊師匠がやった演目が表示された。

『らくだ』

その三文字を見た時、私の心にはぐぐぐっと緊張が走った。思わず心の中で、

 

らくだかぁああっ~~~!!!

 

と唸ってしまったのは言うまでもない。体が同時に別の空間に存在できるのであれば、私は渋谷らくご浅草演芸ホールのどちらにも存在したかった。それでも、私はこう思った。若手を二ツ目の芸に受けて立った後で、どんな一席を一日の最後に見せるのか。そこに文菊師匠の意志を感じようとして、私の心にぐっと力が入った。

いつものようにふわふわと袖から現れ、「待ってました!」の声に迎えられて着座。若干、枕でお話される声の感じが、いつもより通っている。それもそのはずで、この一席までに二席もやってきたのだから、声は絶好調に慣らされている。お馴染みの枕から演目へ入った瞬間に、私は以前志ん輔師匠で聞いた『稽古屋』を文菊師匠で聞けるという喜びに打ちひしがれた。

モテない男がモテるために清元を習いに行く話である『稽古屋』。志ん輔師匠で聞いた時には登場しなかった『ミーちゃん』なる幼い少女が出てくる。このミーちゃんと清元のお師匠さんと、モテない男の三人の様子が絶妙に面白かった。極限まで芸に真剣な個性際立つ清元のお師匠さん、泣いたり笑ったりしながら清元を一所懸命に踊るミーちゃん。それを脇で見ながらふざけているモテない男。滑稽な稽古風景に会場が割れんばかりの笑いに包まれており、私の体感では文菊師匠の落語でこれほどまでに爆笑が連発したネタは初めてだったと思う。

同時に、こんな稽古風景が何かの救いになるのではないかと思った。私はスイミング・スクールに通っている時は、泳ぎの技能を高めることに集中していた。ふざけたりおどけたりすることは少なかった。稽古屋のミーちゃんのように、第三者から邪魔をされるなんてことは無かったのである。

一所懸命に泳ぎの技術を高めてきた先生は、その立場や役割として、泳ぐための方法をあの手この手で教えなければならない。私は幼い頃から先生が嫌いで、それは自分の役割に即している感じが、どうにも好かなかったのである。稽古屋という話に出てくる先生も、踊りに真剣でミーちゃんの一挙手一投足に厳しい。目が怖いし、言葉の端々に踊りの先生としての威厳が詰まっている気がして、私がミーちゃんだったら先生のことは嫌いになっていると思うし、毎日稽古に通うのも嫌になるだろう。そんな時に、自分の芋を勝手に食べたり、かっぽれを踊り出す男を見たミーちゃんは、稽古に集中するどころか、そちらに気を取られて稽古どころではなくなってしまう。何かを身に付けるということは、大変な集中力が必要であることと、様々な誘惑が周囲には潜んでいるのだということを、同時に教えてくれるようなネタであった。

文菊師匠は女形が上手い。稽古屋の清元のお師匠さんを見て改めて、文菊師匠の女性の描き方が緻密で、様々に描き分けられていることが感じられた。陽気な男と真剣なお師匠さんの対比が、くっきりと見事に感じられて、面白くて仕方が無かった。

ミーちゃんが登場する前の、清元のお師匠さんの声も素晴らしく、声も顔も良い文菊師匠の端正な魅力が、十二分に発揮された素晴らしい一席だった。三味線の音と相まって、お得な感じもした。

抱腹絶倒の一席を終えて、私は浅草演芸ホールを出た。

 

総括 日々稽古

家に帰る道すがら、ぼんやりと昔のことを考えていた。色々と習い事には悩まされることが多かったし、行きたくないと思う日が何度もあった。もっと考える力があれば、ピアノやヴァイオリンなどがやりたかった。だが、貧乏な暮らしの中で楽器を買う余裕などどこにも無かった。中学校を卒業するころになってやっと、ギターが一本買えるようになった。自分で曲を作っていくうちに、色々なジャンルの音楽を聴くようになった。考えてみれば、師匠に習って何か身体的な技能を身に付けようとしていたのは、中学生のころまでだったと思う。社会人になってからは、右も左も上も下も分からぬ私に、先輩方がとことんまで教えてくれたので、今はその恩に報いるために日々を過ごしている。

まだまだ私のような若輩者には及ばぬ領域がある。ならば、日々稽古である。好きこそものの上手なれ。という言葉にもあるように、好きなことであるから頑張れるという気がする。そこまで好きでもないが、嫌いなわけでもない、丁度いいお仕事を、これからも続けて行こうと思うのだった。

同時に、演芸を語り続けて行きたい。本当は野暮なことだと思われることでも、小林秀雄氏が『モオツアルト』と書いたのだから、それと同じような領域で物が書けるようになりたいと思っている。

まだまだまだまだ日々稽古。滑稽な稽古はこれからも続いていく。