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酒と恋と許されたい心と~2019年3月10日 浅草演芸ホール~

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酒というのは人の顔を見ない 

 

酒 その愛すべき飲み物について

酒とは恋である。などと妄言を吐く人間の言うことは信じてはならぬ。だが、酒を飲めば人に恋するのは当たり前のことで、酒は心の奥底に眠っている恋心を箒を掃くようにくすぐるから、生理的な反応として「俺はあんたに恋をしている」と告げるのは、もう仕方がないことであって、言ってしまえば酒の中には天使に変わる悪魔が潜んでいるので、恋だの愛だのは全てこの天使に変わる悪魔が司っているので、誰もが酒を飲んで誰かに恋をするのは酒の宿命でもあり、この悪魔の役割であるから、酒とは恋であるということは、あながち妄言とも言い切れない部分がある。

過去に悲しい失恋をした者が酒を飲むと、それこそ破滅しかねない。ロシアでは酒に溺れて愛する女性を射殺する男や、酒やけで自殺する男が後を絶たないという。それもその筈で、寒い環境の中で飲むアルコール度数の強い酒は、五臓六腑を焼き尽くさんばかりに熱を持って広がって行く。それは恋心が全身を燃やし尽くそうとしていることに等しい。「俺はこんなにお前を愛しているのに、お前は全然わかってくれない」という強烈な自己中心的願望に苛まれ、「どうしたら俺はお前から愛されるのか」という答えの出ない問題に直面し、「こんなに俺を駄目にするお前が憎い」という、可愛さ余って憎さ百倍というように精神が変換されてしまう。これは天使に変わる悪魔が、天使に変わることなく酒を飲んだ者を酔わせた結果である。男はとにかく酒を愛する生物で、酒を一口飲めば生き物全てを愛すると同時に、「お前を愛している」と言わずにはいられない動物に変わる。この動物が酒を飲み続けると、最終的には天使に変わった悪魔によって浅い眠りへと誘われ、翌朝に酷い怠さと吐き気を伴って目覚めることになる。

結局、酒を飲んで恋に落ち、その恋が実らず、自分の心が満たされなかった男は悪魔となる。自堕落な悪魔。酒によって惨めな思いをとことんまで叩きつけられた悪魔に成り果てる。彷徨えど彷徨えど満たされない恋心に全身を震わされ、誰か愛してくれる者がいないかと、ハイエナのように血眼になって街を歩くことになる。酒を飲んでいる時には、無常の幸福感、全人類を愛したいという高揚感に満たされているのに、それを他者から必要以上に享受しようとするが故に、酔い過ぎて失敗する。男とはとことん、自堕落な生き物である。

もちろん、これは私に限っての話であるが。

酒を飲み終えて一人きりの家に辿り着くときは最低の絶望感を抱く。つい先ほどまで、仲間と酒を出汁に馬鹿な話に花を咲かせ、仕事で生じたストレスを完膚なきまでに叩き潰し、荒野の塵と化したはずなのに、一度店を出て酔っぱらって帰宅すると、「ああ、俺は誰からも愛されていない」という気持ちのまま、孤独感で文章を書くハメになる。文章を書いて何とか消費しなければ収まらない程、誰かを愛したいし誰かから愛されたいと思い、半ば発狂寸前で指を動かしてキーボードを叩かなければいけなくなる。これも全部酒が恋であることがいけない。私は恋を飲んでしまっていたのである。恋は中和してはならない。色んな恋を胃の中で混ぜてはならない。恋を飲んで、陽気なジャズなぞを聞いてはならない。そんなことを全て犯して、私はこの文章を書くことを決めた。酒とは恋なのだ。自らの判断を圧倒的なまでに狂わせ、恋への渇望をより激しいものにし、恋を頭の中に入れる以外に何一つとして、この酔いを醒ます方法は無いのだ。なぜ私は一人で部屋の中にいるのかなど、微塵も考えてはならないのである。

 

酒に溺れた男の噺

やがて、私は酒によって間違いを起こした男の噺を思い出す。酒によって吉原へ行き、女房と子供を捨てて吉原の女と付き合うが、上手く行かずに捨てられ、悔い改まって酒を断ち、仕事に精を出して成功した一人の男の噺を思い出す。

私は、男に強い共感を覚える。男とはいい加減な生き物である。自分に都合よく生きる生き物なのである。だからどうしようもない。こと酒を飲むと正常な判断は失われ、理性すらも取り払われ、本能に忠実に生きる野蛮な動物になる。だから私は、噺の中の男に共感する。同じだ、と思う。男とは元来、酒によって間違いを犯す生き物なのである。本当に信じられないくらい人に対して乱暴になる生き物なのである。それは前記したように、酒という恋を飲んでしまったが故の、恋への激しい渇望のためである。誰かを愛したら、それと同等かそれ以上の愛を返してもらえなければ、不満と怒りに身を焼き尽くされ、悶え苦しむのが男なのである。だから、極限まで酔っぱらった男は、昔の彼女に電話をしたりして、「もう一度始めからやり直さない?」などと最低の一言を放つようになる。

翻って、女性の立場から見れば、こんな酷い男はこの世界にはいないのではないか。酒を飲んで自分と子を捨て、数年後に「やり直そう」などと言ってくる男は、張り倒してやりたいと思うのが現代の感覚であるだろう。それはひとえに、女性が一人でも生きていける社会が確立されたからであると言える。人類の歴史から見て、たった一人で生きて行くことの出来る現代は、とても稀有な時代だと言える。というか、何千年何万年と人類が目指してきた一つの到達点が『今』だと言える。かつては、何人かが組になって狩りを行い、その報酬を分け合っていた。食料に関しても一人で自給自足の生活をしていくことは殆ど困難であった。何か美味い物を食べたいと思ったら、その美味いと思う基準にもよるが、大勢の人間と協力して食べ物を見つけなければならなかった。戦争の頃などは、ひもじさを凌ぐために芋の蔓を食べたり、誰か裕福な家庭の家に行って食べ物を与えられなければならなかった。『火垂るの墓』を見ても分かるように、兄妹の二人だけでは生きていけない社会が確実に存在していた。貧しいが故に、人は集団になって食事を分かち合わなければならなかった。

ところが、現代はそこから飛躍的に進歩した。コンビニに行けば24時間食料が置いてある。湯さえ沸かせばカップラーメンが食べられる。自動販売機に金を入れて飲みたい物を選んで押せば、それを飲むことが出来る。社会が裕福になり、人は一人でも食べていけるようになった。誰かと一緒に働いて食料を買わなくて良くなった。すなわち、誰かと食を分かち合うことをせずとも、生きていける社会が出来上がったのである。

もちろん、子供がいる家庭は別である。子供は金を稼いで社会を生きて行く力が無いから、その力が備わるまでは親が養っていかなければならない。夫婦共働きという家庭が存在しているように、夫婦が揃って働くことが出来る社会もある。無論、これはまだ局所的であるという意見もあるが、詳しい調査を行っていないため定かではない。

想像するに、かつては母と子だけの生活は、かなりの困窮を極めたのではないだろうか。すなわち、夫が不在で、夫の収入に頼って生きて行くのが、かつては当たり前のことであったのだろうと思う。時代は少し進歩して、夫の収入だけに頼って生きて行くことも、婦の収入だけに頼って生きて行くことも出来るような社会になったと言える。が、本当のところはまだよくわからない。それは局所的・一部だけであるという気もしなくもない。これも詳しい統計を取っていないから定かではない。

要するに、酒に溺れて妻子を見捨てるような駄目男は、現代の女性にとっては切り捨てご免の存在であるということである。お前なんぞいなくても、私が子供を養っていく。養育費はきっちり貰う!というのが、現代を生きる女性が男に出来る最も最善の手段ではないだろうか。

考えてみれば、酒に溺れて妻子を見捨てた男は、裁判沙汰になって養育費を支払い続けなければならない立場になってもおかしくないのである。

それでも、だ。

私は男であるし、男のように酒乱でもあるから、男の気持ちが良く分かる。馬鹿な過ちだったと気づいたころには、とっくに手遅れであるということは、もう存分に味わっている。何度失敗しても懲りないのは、それがその人間の業という他ないからである。酒を飲めば誰かを愛してしまう。それが男というものなのだ。

もう一度言っておく。

 

 

こと私に限っての話である。

 

 

 古今亭文菊 子は鎹

幻の一席、と言っても過言では無いだろうと思う。去年ずっと文菊師匠を聞いてきたが、殆ど演じられることの無かった演目である。いつも通りの登場、いつも通りの枕から、三道楽の噺をしたときに一瞬「あ、火焔太鼓かな」と思いきや、「大工の熊五郎」の噺を始めた瞬間に、

 

子は鎹だ!!!!

 

と衝撃が走った。ついに出会えた。と思ったのである。同時に、これは文菊師匠にとって『諸刃の剣』なのではないかと思った。なぜなら、文菊師匠のお客様には聡明で、美人な女性が圧倒的に多い。知性と品格を兼ね備え、酸いも甘いも噛み分けて顎が外れかけた経験を持った方々が多いと推測している。そんな女性陣に向かって、酔っ払い男の復縁の経緯を語る文菊師匠の姿は、結構なギャップなのではないだろうか。

だが、文菊師匠は下手に泣かせようとすることはない。徹底的なまでに熊五郎の後悔と更正を描いていた。過去に過ちを犯した男が、女房と子供の大切さに気付き、大工の仕事に精を出し、周囲から一定の評価を得たところから物語は始まる。この物語に感情移入できるかどうかは、全て熊五郎の描き方にかかっているようにも思える。大工としての技量、人として再出発を決めた覚悟、そして、愛する我が子に出会い、愛する我が子を思う気持ち。全てが実直な性格に満たされていて、文菊師匠の描く大工の熊五郎の姿には、二度と酒に溺れないという強い思いがあるように思われた。同時に、別れた女房に別の男が出来たか心配するところも素敵である。もしもほんの少しでも可能性があるならば、やり直したいという男の思いに、胸がぐっと締め付けられる。それは、過去の自分と今の自分は違うのだということを、女房に知って欲しいという気持ちの現れであるように思えた。

音源で聞いたよりも、物語のキーマンとなる子供、亀吉の声は子供感が抑えられ、わざとらしさを感じなかった。それがリアリティを持って聞く者に響いてくる。亀吉の言葉の一つ一つには、今の暮らしと、ようやく出会えた父に対する喜びが溢れているように思えた。文菊師匠の清らかな眼と、可愛らしい亀吉の所作。それと重なるような熊五郎の優しい眼差しが印象的であった。二人の間で交わされる言葉のひとつひとつが、胸にとん、とん、とんっと迫ってくる。酒に酔って吉原の女に現を抜かした男に、少しでも幸せになってほしいという気持ちが湧いてくる。それは、私が男であるからかも知れない。もしも熊五郎と同じようなことを行っても、許されたいと思う心があるからかも知れない。それは一方から見れば、信じられないほど汚い心かも知れない。だが、悔い改めて今を生きる熊五郎の姿は、そんな過去を全て受け入れた上で、精いっぱい生きているように思えたのだ。誰にでも間違いはある。それが取り返しのつかない過ちになることもある。それでも、人は誰でもその過ちを悔い、許され、再び生きたいと願ってしまう生き物だと思うのである。少し偏った意見であるだろうか。

熊五郎と亀吉の会話の後で、母と亀吉が会話するシーンが胸に迫る。愛する我が子を社会の中で、必死になって育て上げてきた母の姿が胸を打つ。女手一つで育て上げた子が、自分に隠し事をするようになったことへの、母親の悲しみは計り知れないだろう。だが、隠し事をする理屈も子には通っているのである。だからこそ、このもどかしいやり取りに涙が出てくる。そして、それを遂に打ち明けてしまう子と、それを聞いた母親の表情が胸に迫ってきた。文菊師匠、渾身の場面であると思う。今後、年を重ねて行くたびに、より一層凄味を増してくる場面ではないかと思った。

この場面によって、捨てられた妻の方にも、夫を愛する気持ちが強くあるのだと確信できる。きっと、過去にどうしても好きにならざるを得ないほどの体験があったのだろうと推測された。どんなに酷い仕打ちを受けても、それを補って余りあるほどの魅力が、大工の熊五郎にはあったのではないだろうか。信じてもらえないかも知れないが、男女の仲というのは、往々にしてそういうことが起こりうる。「なんで付き合ってるの?」と聞くと、「分からない。成り行き」と答える人がいる一方で、はっきりと「彼のこんなところが好き!」と言える女性が数多くいる。私は思うに、一緒に過ごした時間だけ、互いへの思いは深まっていくと思う。その時間が増え続けると、ある一点で反発が起こり、次第に互いへの苛立ちに変わっていくのかもしれない。これは、私のささやかな人生経験からくる憶測である。

最終的によりを戻す夫婦。その仲を取り持つ亀吉。文菊師匠の描き出す登場人物は、どれも奥深い経験をその表情に潜めている。一つ一つの言葉や所作をとっても、『子は鎹』の一席は、絶品の一席であった。

そして、この一席が文菊師匠が浅草演芸ホール 上席でトリを取る千秋楽の一席となった。

以下に、この10日間の演目を記載する。代演による演目も記載する。

 

浅草演芸ホール 3月上席 トリ演目 敬称略

1日 文菊 転宅

2日 馬石 二番煎じ

3日 文菊 三方一両損

4日 文菊 厩火事

5日 文菊 七段目

6日 文菊 死神

7日 文菊 笠碁

8日 志ん輔 幾代餅

9日 文菊 稽古屋

10日 文菊 子は鎹(子別れ・下)

 

これが、未来の名人の熱の籠った気合の10日間である。

 

総括 古今亭文菊という落語家

文菊師匠の魅力は語りつくせない。本来は、非常におこがましい行為であるとさえ思いながら、こうして文章を書いている。なぜなら、誰も文菊師匠の素晴らしさを声高に言っていないからである。それは有名な落語評論家においてもそうだ。あんなに素晴らしいのに、時代は目を背けているような気がしている。それは、恐れ多くて語ることが憚れるということであろうか。そんなことは私は百も承知である。私は断言するが、今後十年、二十年、三十年後の大名人になる人物、それが古今亭文菊師匠であるだろうと思っている。徹底して古典落語にこだわり、精緻な古典落語の世界を艱難辛苦の末に作り上げようとしている。生粋の落語家であると私は思っている。

何十年後かに、誰かがこのブログの記事を読んでくれて、誰か一人でも「ああ、古今亭文菊師匠が大名人になることは、この時から聞く者に伝わっていたのだな」と思って頂けたら幸いである。故に、これは未来に残す記事でもあるのだ。

今を生きる落語家の中で、誰もが唸り、落語という芸の神髄を見せてくれる落語家は、私にとっては古今亭文菊師匠である。面白いと思う落語家はたくさんいる。笑いたいと思う落語家で一番素晴らしいのは桂伸べえさんだと思っている。人それぞれ、自分の好きな落語家を見つけること、それが人生を楽しむこと、演芸を楽しむことではないだろうか。きっと誰もがいずれ、「この話は、この人で聞きたい」と思うようになるだろう。そんな落語家に出会えることを私は祈り続けよう。

今宵は酒を飲みながら、Zoot Sims『On The Korner』を聴きながら一記事書いてみた。ただの酔っ払いの妄言だと思って、さらさらと読んで頂けたら幸いである。