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豆腐のように瑞々しい心で~2019年1月19日 黒門亭 第二部~

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みんな、豆腐を聴きに来たんですね。

 

寒くなりましたなぁ。 

 

上総屋ぁ!

I didn't want to hurt you

Teenage Fanclubの『The Concept』みたいな気持ちで街を歩いた。寒い冬の中で、失ってしまったものを名残り惜しく思って手を伸ばすみたいな、けれど決して再び手にすることは出来ずに、「そんなつもりは無かったのに・・・」という自分の意図とは全く別の結果になった現状に戸惑うみたいな、そんな気持ちで歩を進める。

何が原因で『The Concept』みたいな気持ちになっているのかは分からない。冬の寒さが死を感じさせるから?何かが終わってしまったような気になるから?と、自分に問うたところで何も答えは出て来ない。漠然と霧の中で誰かに向かって声をかけているかのような、そんな寂しさを感じてしまうから本を読む。

本の世界に逃げ込むと、「お前はまだ言葉も、世界も、そして何も知らないのだ」ということに気づかされる。今は亡き賢人達の言葉が胸に刺さる。また、進むべき道を教えてくれる。人と人との出会いと同じように、私にとって本との出会いは特別なものなのだ。

日陰を歩けばまだ寒い。日向を歩けば僅かに温かい。行き交う人の吐く息は白く、空は青い。様々な色に包まれて、ぼんやりと、ただぼんやりと一つの場所を目指して、私は歩みを進めた。

黒門亭の前に来ると、既にかなりの行列が出来ていた。定員40名の、小さな座敷で、入船亭扇辰師匠が『徂徠豆腐』をやるというので、楽しみだった。

扇辰師匠の高座は『蒟蒻問答』や『紫檀楼古木』、『妾馬』を見たことがある。初めて見た時は、表情と声色が素晴らしくて、もはや一つの芸術を見ているような気持ちになった。全てが何一つとして濁りなく、その眼と表情と声に現れているように思えたのだ。

座敷に座ると、ご常連の方々も多い様子。黒門亭は常連同士の交流が盛んな場所である。残念ながら新参者の私は、その輪に混じることが出来なければ、混じりたいとも思わない。再び、私の脳内で『The Concept』が流れ始める。本当は、常連と仲良く話をする自分を想像したりもする。けれど、言葉にして話すとどうしても全てを伝えきれないもどかしさに苛まれる。自分が本当に言いたいこととは違うことを口走ってしまいそうで怖い。ちゃんと伝えることが出来るか自信が無い。そして、多分私は他の人より、文字に書き起こして、塊で伝えたいという思いが強い。だから、こうやってブログで書いて、一記事が大体6000文字くらいの長文になる。後で読み返した時に、自分が感じたことを思い出せるように書いていくと、結局長くなる。そんな劣等感から、私はこうやってブログを書き始めるようになったのかも知れない。

ご常連の方々に囲まれながら、黒門亭の二部が始まった。

 

林家きよひこさん、柳家花飛さん、柳家小袁治師匠、入船亭扇蔵さんと続いて、トリの入船亭扇辰師匠が登場。万雷の拍手で迎えられた。

 

入船亭扇辰 徂徠豆腐

高座に座るまでの眼と表情、そして所作まで。まるで何かを降ろすかのような、落語の世界、話の世界を丸ごと体に落とし込もうとするかのような、ゆっくりと、確実な動作が印象に残った。一言声を発すれば、それだけで落語の世界へと現実を変えてしまう力を、扇辰師匠は持っている。それは、マクラから演目に入った瞬間に如実に感じられた。

とても寒い朝に豆腐を売る上総屋七兵衛。その所作、表情、眼の皺、口の震え、肩の上がり方。私は扇辰師匠の細やかな所作を見た瞬間に、ぴしっと寒風が吹いたように思い、同時に「あ、寒い」と思った。確かな皮膚感覚として寒さを感じた時に、私の眼前に寒い中で豆腐を売る七兵衛の姿がありありと立ち上がった。これは初めての体験だった。それまで、様々な落語家で寒い状況を表す所作を見てきたが、扇辰師匠の所作を見て初めて、寒風に晒されて「寒い!」と思う自分を自覚した。そのことに自分でも驚いたのだが、その後の扇辰師匠の所作はさらに寒さを表現していた。

しんと冷えた野外で、謎の男(後、荻生徂徠)が冷奴を食べる場面がある。その時の扇辰師匠の所作が凄まじいのだ。体の芯まで冷えるような朝の寒さの中で、寒さに耐えながらも一心不乱に豆腐を食べる徂徠。それを見つめる真っすぐな七兵衛の眼。混じりけの無い純粋な二人の出会いが、静かに輝いているように私には思えた。

豆腐のお代を頂こうとした七兵衛に対して、声を張り上げて徂徠は「上総屋ぁ!」と言う。その威勢を感じたのか、七兵衛はお代はいずれ頂くことにする。何日かそれが続き、冷奴を食べた徂徠が金が払えないことが分かる。七兵衛は徂徠の住む家へと案内され、徂徠が学者であることを知る。

正直な徂徠の性格もさることながら、まるで豆腐を作る時の水のように清らかな心を持った七兵衛の姿が気持ちいい。「だったらあっしが握り飯を持ってきますよ!」みたいなことを言うのだが、それに応える徂徠の心意気も美しくて、何もかもが目に見えることはないが、清く光り輝いているように私には思えたのだ。

扇辰師匠は、言葉の一つ一つ、声色も、口調も、表情も、所作も、全てで物語っている気がする。どう言い表せば良いか悩むのだが、眼に見えているもの以上のものを表現している感じがするのだ。言葉以外の全てを体で表現しているような、優れた身体言語と言えば良いだろうか。物語の芯を丁寧に描き出しているような気がする。それは、単なる名人芸という一言で片づけられるものではなく、まるで七兵衛や徂徠などの人物を、心の底から理解しているような説得力を私は感じたのである。

だから、徂徠が豆腐を食べる場面や、徂徠の家に訪れた七兵衛や、七兵衛に全てを打ち明けた徂徠、その全てに確かな、形にはならない根拠があるように思えたのだ。どう表現して良いか分からない。見れば、それは確かに感じることができる。

徂徠にオカラを届ける七兵衛の心意気や、火事になって自らの家を失った七兵衛と女将さんの姿。その夫婦に家を貸す友人(源さん?)が出てくるのだが、そこにも七兵衛の普段の人柄、周囲への接し方が現れているように思えて、胸が締め付けられた。

大工の棟梁が七兵衛のもとを訪れ「とある方から頼まれて、あなたの家を作ります」みたいなことを言う場面も、一つ一つの言葉に優しさ、人を思いやる気持ちが表れているように思えた。扇辰師匠は、言葉にして描く部分と、言葉にはせずに描く部分の描写が物凄く上手い。惚れ惚れして感動するほどの技量だと思う。技量という安易な言葉では片づけられない。扇辰師匠は扇辰師匠そのもので、落語の世界を理解し、自らの体に落とし込み、表現している。

無事に家が建って、再び徂徠と出会う七兵衛。二人の再開の場面には胸が打たれた。特に徂徠が七兵衛に向かって、声を張り上げて「上総屋!」と言う場面と、何かを思い出したように徂徠を見つめる七兵衛の姿に涙が零れた。情けは人の為ならずという言葉にもあるように、二人の出会いが一周して一つ大きな段階に引き上げられたような、強烈な感動が押し寄せてきた。もちろん、笑いを誘う場面もあって、泣きながら笑ってしまう演目だった。

 

総括 心の豆腐

『晩春』や『東京物語』などで世界に知られ、未だその映像の美学が様々な分野に影響を与え続けている映画監督、小津安二郎。彼の著した『僕はトウフ屋だからトウフしか作らない』というエッセイがある。トウフ屋という言葉の響きの美しさもさることながら、トウフというものにこだわりを見せる職人の魂が、日本人の心には根差しているのではないだろうか。冷たい水にそっと両腕を入れる瞬間の瑞々しさ、白く穢れの無いトウフを掬う所作、そしてトウフを手に持った時の柔らかさ。片手に持ったトウフを包丁で丁寧に等間隔に割いていく所作。全てが清廉という二文字では表すことのできない、素敵な風景に満ち溢れているように私は思う。トウフ屋には、そんな美しい風景を想起させるだけの力があるように思うのだ。

人間はトウフのようにいられるだろうか、などとふいに考えることがある。こんなことを考えるのは、トウフそのものに純粋性を見て取るからである。大豆をすり潰したり、にがりを加えるなどの行程を得てトウフは完成する。トウフの持つ素朴な味こそ、人間の口腹を幸福で満たす味なのではないだろうか。現代は味の濃い物や、様々な調味料を加えた料理が跋扈し、私の友人では「味が薄いと食べた気がしない」とまで言う者もいる。私は勿論味の濃い料理も好きであるが、薄味の食事で満足したいという思いがある。薄味の料理を食べるとどうにも物足りなさを感じてしまうのは、それだけ強く濃厚で刺激的な味に私の精神が弱いからであろう。精進料理のように、なるべく素材本来の味で、無駄な調味料が足されていない、素朴な味で満足できる精神を持ちたい。だが、私は酒に関してもウイスキーを好んでいるから、何か自分の胃の腑をごうごうっと燃やしてくれるような、鈍く重い味を本能的に求めているのであろう。

長い年月をかけて、樽の味が染み出したウイスキーの格別の味を表現する言葉を、私はまだ持っていない。あの、透明な炎を口の中へと流し込むとき、私の心には炎が灯り、五臓六腑は目を覚まし、舌は饒舌となって目は見開かれ、見えぬものが見える時が訪れてくる。そんな悪魔に酔っているうちは、トウフのような瑞々しい心など、夢のまた夢であろう。