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自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

重畳の春宵~2019年3月27日 人形町らくだ亭~

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気が合えば 目は口ほどに物を言う

 

美人は百薬の長にして、酔えば命を削る鉋にもなる

 

平成メランコリック

最近は飲んだくれてばかりである。春がそうさせるのだ。春の宵なぞは格別で、酒器を持つ手が波打つほどの心持ちにさせてくれる。一口酒を飲めば桜のように顔がぽっぽと上気し、うつくしい人と酒を酌み交わせば途端、私は雄弁家となって歴史と世界を回転させる。肴なぞは不要で、言葉と酒と美人がいれば、もはやそれ以上は何も望まぬ。平成が終わろうが知ったこっちゃない。酒を飲む無形の時間こそ至福である。ゲンゴロウだか元号だか知らぬが、どちらも無視である。

しかしながら、僅かばかり平成について考えてみようと思う。振り返ってみれば平成という時代は実に憂鬱な時代であったと思う。バブル崩壊、テロ、自然災害、偉人たちの死。どれを鑑みても一つも明るい話題が無い。平成が始まって数年経つと、誰もが携帯に熱中し、会話を重んじなくなり、人と人との関係が希薄となり、知りたいことはすぐに知ることが出来るようになったと私は思う。なんだか寂しさを感じるのは、人に対する警戒心が自分の中にあり、他者に容易に心を開かず、また他者に容易に介入しないという、自重の精神があるからであろうか。それは過度であるのだろうか。私にはとんと分からぬ。

 

初・日本橋公会堂

さて、めまぐるしくも浅はかな思考に時間を費やし、私は人形町らくだ亭へとやってきた。久しぶりの落語であり、久しぶりの小満ん師匠と喬太郎師匠である。出ている演者の全員が好みである。

人形町らくだ亭、場所を日本橋公会堂。格式高い外観と内装。客層も年配の方々が多く、いずれも気品があってセレブリティなフェイス。久しぶりのホール落語でもあったため、若干気圧される。庶民派の寄席と比べると、大ホールでの落語は少し緊張する。約440名を収容できるホールに、びっしりと人が集まっている光景は壮観であるが、ゲラゲラ、ガッハッハと笑う場というよりも、オホホホとか、ふふふふと笑うような印象が強い。

場所と演者は重要で、私は大きなホール落語が苦手である。年配の方が多く、初心者が多く、全体の統一感というものが無い感じがするのだ。なぜそう感じるかと言うと、演芸を聴く時には、観客に対する暗黙の一体感が私は存在していると思うからである。それはその日によってまるで違っており、確実に演者の芸と聞く者の心に影響を及ぼしている。こんなことを書くと、「そんなの嘘だよ」と思われる読者がいるかも知れないが、私のささやかな演芸体験から言わせてもらうとするならば、そういうことは確実にあるのだ。

だから、些かの不安を抱きつつも、私は席に座った。全席指定である。

 

柳家寿伴 平林

めくりを照れながら捲った後で、開口一番は寿伴さん。寄席で見た頃は、声が高くて少し作った声の印象を受けたのだが、久しぶりに見るとぐっと声のトーンが落ちてきて、より飾らない声の出になっているような気がする。演じているかのような、妙な違和感もなく、絶妙のテンポで語り進めて行く。

平林という話は、簡単に言えば、文字を読めない人が手紙を届ける話である。その過程で色々とあるのだが、寿伴さんの型は鈴々舎馬るこ師匠の型だと思う。馬るこ師匠がどの師匠から教わったかは分からないが、演出に重なる部分があった。

陽気で明るくホール落語らしい所作で開口一番を務めあげていた。

 

春風亭昇也 寄合酒

後ろに反って海老ぞりのような勢いで登場の昇也さん。春風亭昇太師匠のお弟子さんの中では一番のやり手であり、セールスマンをやらせたら一流まで上り詰めるであろうと思えるほどの実力者。流れるような口調、快活な声のトーン、そして会場を巻き込んで盛り上げるエンターテイナーぶり、出来れば秘書にしたいほどのトーク術を持ち合わせている。寄席でも絶好調に滑らかな語りと、会場を味方に付ける手腕は素晴らしいし、それはホール落語であっても健在で、今回の番組の中で唯一の芸協だったのだが、見事に芸協魂を見せつけ、後に続くベテラン師匠方を勢い付けさせていた。

酒を飲むために運び込まれる肴と、それに伴って起こる人と人とのやり取りが絶妙なテンポで進んでいく。耳に心地よく、間が気持ちが良い。真っすぐな道をスキップしているような気分になってくる。少し照れながらも会場の一体感を見事に掴んで拍手を巻き起こし、絶好の勢いで舞台袖へと去って行く。

「唯一の芸協」という昇也さんの発言で笑いが多かったので、落語好きな人が多く集まっていた会のようである。

 

春風亭一朝 蒟蒻問答

安心安定、一朝懸命の一朝師匠。昇也さんの寄合酒でぐっと一体感の増した会場で、気持ちの良いマクラから、丁寧に細部を描写した蒟蒻問答へ。この話はざっくり言えば蒟蒻屋が僧になって問答する話である。あっさりと、それでいて確実に細部を描写し、最後に笑いを起こして去って行く。

ホール落語であると、実に一朝師匠は小さな印象を受けた。そんな中で問答の所作の大きさはホール落語で映えていたように思う。実際に目で見えているもの以上に、多くのものを見せてくれる一朝師匠。素晴らしい一席で仲入り。

 

 柳家喬太郎 うどん屋

語るまでもなく面白い喬太郎師匠。ホール落語で映えるのは、意外と体が大きいところであるかも知れない。前出の一朝師匠二人分くらいの大きさに見える。ホール落語に適した体というとなんだか変だが、大きなホールであっても身体的な存在感を放つ喬太郎師匠。食べ物のマクラも絶品で、寄席ほど弾けていない感じは、やはりホール全体の雰囲気がそうさせたのだろうか。新作で爆笑をさらっていく姿も素晴らしいが、古典でも緻密な所作と言葉で独自の面白みを表現する喬太郎師匠。今更私が語らなくとも、面白さも実力も認知されている素晴らしい落語家である。

 

柳家小満ん 盃の殿様

まさか喬太郎師匠が終わった後で退出する人がいるとは、夢にも思わなかったけれど、心の中で太文字の

 

 勿体なぁっ!”!”!”!”!”!”!”

 

が叫ばれたけれど、まぁ、それについてはノーコメントである。

さて、今回のトリを語る前に少しだけ余談を。

 

 憂鬱と美人

男にとって最も憂鬱な気分を吹き飛ばしてくれる存在と言えば、それは美人である。と最初に書くと、多くの読者は「また美人の話か」と頭を抱えてしまうだろうし、熱心な男性読者からは「そんなことねぇよ」と言われてしまうかも知れないが、敢えて書く。美人ほど憂鬱に効く存在はいないと思う。雑誌の表紙を飾るグラビアアイドル、棚に陳列された写真集、水着姿で飛んだり跳ねたりする美人、その光景を見るだけで心が躍るのは、それが憂鬱を吹き飛ばす魅力を持っているからである。例をあげるとすれば、私は馬場ふみかさんの写真や小倉優香さんの写真を見ると、一にも二にも心が躍る。こんな美人と話が出来たら幸せであろうなと思うし、そんな毎日が訪れたら短命であろうとも思う。握手なぞ出来たら卒倒である。

これほどまでに美人が私の心の憂鬱を払い、同時に実らない恋という悲しみで私の頭を悩ませるのは、一重に美人そのものが、そういう存在であるからである。タミフルを飲めばインフルエンザは治るかも知れないが異常行動を起こす可能性があるように、美人に出会えば憂鬱は治るかも知れないが異常行動を起こす可能性があるのだ。一つ勘違いしないで欲しいのは、この世の女性は全て美人であって、故に、世に存在するありとあらゆる女性は、男性の憂鬱を払い、同時に悩ませる存在であるから、心配しないで欲しい。

考えてみれば、平成メランコリックなどと題して序文を書いたが、私のメランコリックを破壊したのは、常に美人であった。美人の言葉は私の心を満たし、美人の所作は私の心を奪い、美人の瞳を見つめるとき、私は殆ど石像であった。と書くと、どうにも品の無い男が立ち上がってくるが、人生に常に美人が傍にいることは、薬にも毒にもなるということである。

Twitterを見ていても、遠くブラジルの男性が日本のセクシー女優を愛するために日本語を覚えたりしている。美人は国境を越えて人々を魅了している。残念ながら、多くの美人は自分が美人であることに気づいていない。美人は周囲の人間の認める数によって決まるのではない。自分が美人であると信じて疑わなくなった瞬間に、美人となるのである。そのことに多くの女性は気づいていないのである。これは実に嘆かわしい問題であって、もしも美人であることに気づかず、また自分が美人であると思えない可哀想な女性が読者の中に一人でもいるのならば、私が直接の指導を・・・・・・

 

さて、戯言はこの程度にしよう。

絶品の語り口である小満ん師匠。もはや他の追随を許さないほど粋。カッコイイ。痺れる。ダンディズム。溢れ出る知性。言葉の中に唐突に現れてくるパワーワード。どれをとっても一級品の風格。痺れるような間と、言葉が生まれる瞬間に立ち会うと、心がワクワクする。

忘れたくない名フレーズを頭の中で何度も繰り返す。そんな粋な名言が連発する小満ん師匠の落語。喬太郎師匠で帰ったお客さんが可哀想でならない。本当のメインディッシュ、ここにあり!だ。

『盃の殿様』は、簡単に言えば、憂鬱になった殿様が美人に出会って回復する話である。ここでも、目に見えている以上に多くの物を私は見ていた。前述した『憂鬱と美人』で書いたように、美人というのは、その存在だけで男性を奮い立たせる。冒頭に引用した『気が合えば 目は口ほどに物を言う』というのも、『目は口ほどに物を言う』という部分がとかく強調され、消極的で否定的な言葉で使われがちだが、『気が合えば』の一言を足すだけで、色っぽい男女の視線の交差に様変わりする。こんな粋で、色っぽい言葉で、小満ん師匠の落語は埋め尽くされている。だから、絶対に聞き逃してはならない。ぼんやり聞いていると気づけないが、気づけばこれ以上無いほどの面白さが込み上げてくる。

私のようにベラベラと蘊蓄を語る若造に比べ、小満ん師匠は一言一言が金言である。どれだけ粋な経験をすれば、あんなに痺れるような言葉を放つことが出来るのだろうか。ワクワクとゾクゾクのとまらない、重畳の時間が過ぎていき、終演。

小満ん師匠をもっと追いたい。そんな思いを抱く夜であった。

 

 総括 春の心

ふとした弾みで参加した人形町らくだ亭。雰囲気も厳かだが温かく、久しぶりのホール落語だったがとても楽しむことが出来た。小満ん師匠はやはりとてもカッコ良かった。長生きしてほしい。

落語家の訃報が相次ぎ、高座姿を見ることが叶わなかった落語家がいる中で、今、高座に立っている多くの落語家さんの、一瞬一瞬の芸の素晴らしさを体験することは、とても重要なことであるように私は思う。それは、ただ単純に娯楽という枠に収まらない。むしろ、今後の人生の教訓を与えられるような体験である。落語家さんの訃報を目にする度に、近しい人々の言葉が目に入り、高座姿を思い出す度に、心がぎゅっと締め付けられる。

無形の、その計り知れない価値を、私は春の宵に思う。四季は巡り、再び春が来る。種は芽吹き、ありとあらゆる可能性がある。その可能性の中から、私は何を自らの心に刻み込むのだろうか。

あなたにもきっと、あらゆる芸に触れる可能性がある。そして、その芸を受け入れる心がある。何かは終わり、何かは始まる。春の心があなたの中にあるならば、可能性を見つけよう。あなたの全てを可能にしよう。

日々、芸は生まれている。あなたの無形の財産を一つでも積み重ねて行こう。私のブログは、そんな一つの心の記録である。