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金言宣言~古いお話を一席~ 2019年4月12日

キングコング

 

King Kong

 

金言 金口

 

King Konk

 

琴言 困苦

 

 アイワーズ

私は語り手である。あらゆるものの、なにもかも全ての。景色を見れば言葉が咲き、人に会えば話が咲き、一人でぼんやり想像を咲かせて、時間を割いて、思い出を探って、潜って、泳いで、浮上。人生、今宵も目的地。

時に酔いどれの詩人となり、時に物語の語り手となり、時に演芸の海を泳ぐ航海士となり、時に夜の船頭となり、時に酒の注がれた器に飛び込んで、一人だらだらと溺れて行く。幾百もの形を成し、幾千もの時に流れ、幾万もの静と動を繰り返しながら、臆することなく挑戦し続ける人生の頂きには、絶景と望外の思いが待ち構えている。これぞ不可思議な無量大数

垂れ流される言葉に心が動かされることはない。自分に理解できるものだけを理解するのに飽きて、自分に理解できないものを理解するときの快感に苛まれ、何が善悪、何が成否などと考えながら、結局、答えなど無いというどんつきにぶち当たり、どうにもその壁が壊せなくて腹立たしい。言葉なんぞはとうに、ありきたりなものに、陳腐なものになってしまったのか。陳腐なサンプルにシンプルをすこぶる感じるのだが、それでも、圧倒的に君を動かす言葉が書きたいので、私は文字を書いている次第である。すなわち、書き始めた時点で私の目的は既に達成されている。私の言葉が書かれ、それを君が読み、君が「こんな言葉の連なりは初めて見た」となれば、それこそが私の勝利であって、私が文字を書き始めれば、どこかにその初めての言葉の連なりは出現するであろうし、それは猫がゾウと一緒に横断歩道を渡るような、極めて稀有な現象であるから、出来ることならば膨大なテキストの中から、私が言おうとする意味と意志を見出して頂きたい。私の意図を外れ、言わずとしていることを言わず、言わずとしていないことを言わず、言わずはI wasで愛はずっとワーズ、すなわちwordsであるから、I wasは愛ワーズであり、Iはwordsなのである。つまり、私は単純に複数の言葉である。

複数の言葉を用いて語ることで、私は私を出現させている。文字を書き、演芸を語り、随所に芸そのものとは別の、実感を記すことによって、私はその時、読んだ人間の脳内に出現する。それは、良い形であれ、悪い形であれ出現するから、読みたくない、と思ったものは即座に読むことを止めねばならず、それでも読むということは、嫌が応でも私を、脳内に出現させてしまうことになる。影響なぞこれっぽちも無いと思うだろうか。果たしてどうかな、金言宣言。

 

人馬継立

人が古典落語を見て、その時代の風情を信じるとき、殆どその人はその時代にいる。否、存在し続けている。何かを信じるとき、そこには他者の介入など必要としないほどの力が存在している。私はよく、神社仏閣などに行き、手洗い場で手を洗っていると、見知らぬ老婆から「あんた、それ駄目よ~ダメダメ、全然ダメ~」と人非人扱いするかのような目と言葉で心を傷つけられる。杓子の使い方が違うだの、礼の作法が違うだのと、老婆はとかく口を挟んでくる。このとき、恐らく互いにはっきりと「神に呪われろ」と思い合ったに違いない。私は私で、「あんたの言う作法とやらが一体どれだけ高尚かは知らないが、俺は一切そんな作法なぞ信用していないぞ」という気持ちが沸き起こるのだが、それとは反対に、「正しい作法とは何か」と考える心が、殆ど同時に起こる。それは現状に対する不満・怒りと、未来においての回避策を即座に練るという、心のはたらき故である。だから私が偉いのは(偉そう)、心では「なんだこのクソババア」という気持ちと「正しい作法が出来ない自分がみっともないな」という気持ちが、同時に誕生するところである。それが喉元を過ぎて言葉になると、「あっ、すみません」になるのだから、私の言葉を発する能力というのは、殆どゼロである。ぜっろーである。

さて、老婆の方はどうであろうか。これは想像することしか出来ない。推測するに、老婆の脳内、あるいは身体には、神を前にして身を清める作法が、完璧に備わっているのであろう。そして、老婆は殆どその作法を、唯一絶対の作法にして、人類万物共通の認識として、信じている。おぎゃあと生まれた赤ん坊から、棺桶目前の老人まで、全ての存在が神を敬う前の儀式を身に付けていると信じている。故に、私のような小僧っ子が、自分の信じる神への作法から逸脱しているのを見た時に、ふつふつと沸き起こった悲しみの気持ち、憐みの気持ち、愚かな者を見つめる気持ちとして、「だめよ~、全然ダメよ~」という言葉に変わり、表現しきれないほどの憐みの眼差しで私の心に斬りかかる。もはや殿中松の廊下並みの不意打ちを食らいながら、私は謝り、老婆はただただ愚かなるものを見つめる眼をし、溜息を吐くのである。

同じようなことが、落語の鑑賞者にも言えるのである。ごく稀に、自分の中に存在する絶対的作法、絶対的常識で他人に対して言葉を発する人を見かける。私はなるべくなら関わりたくないと思う。どうせ100年もすれば嫌な奴は全員死ぬ。でも米丸師匠は死ななそう。それはさておき、些細なことで発狂したり、社会情勢についてグダグダと言葉を放ち、とにかく何かを潰そうとする落語好きを見ると、この人は落語そのものが好きじゃないのかもな、と思う。社会やら人の価値観に対して、なんて無駄な言葉を発する人なのだろうと不思議に思うときもある。そういう人の眼というのは、大体つり上がっているし、顔が非常に怒っているような表情になっている。これは嘘だと思われるかも知れないが、事実である。私が危険だな、と思う発言をする人の顔はかなりひん曲がっている。電車などで様々な面相の人を見るが、殆ど間違いなく「こいつは危険」という顔が見分けられる。というか、私自身も、そう信じている。人は、何かしら自分の中に信じるものを持っていて、それは一度固まってしまうと、なかなか柔らかくはならない。自分自身の考えを肯定し、自分こそが正義だと信じ、自分は誰よりも現実が分かっていて、未来を考えているのだと信じる。それは単なる思い込みとは違う。思い込みと信じるという心の作用は、雲泥の差がある。それでも、自分を信じ、他人にとやかく言う人が私は怖い。その人にとっては善意の行為であるかも知れない。あるいは悪を断罪する正義の言葉であるかも知れない。「キサマ!手洗い場の作法も!礼の作法も知らずに!神社仏閣に来やがって!呪われろ!徳を失え!えええい、やああ、みみみみみみみみみみ~~~~」となって言葉をかけられても、私としては「すみません」しか言えぬのだが。

信じるというエピソードで言えば、他にもこんな話がある、金言宣言。

 

隅田川由来、金落しの一席

これは何かの古い本に書かれていたのだが、隅田川に由来する話である。隅田川と言えば、荒川の流れをくむ川であるが、この隅田川。昔はよく土左衛門が上がったのだという。土左衛門というのは力士の名で、色白で膨れ上がった体が水死体に似ていたらしく、隅田川で上がった水死体を見た人々は、語呂の良さもあっただろうが、土左衛門と呼ぶようになったという。

土左衛門と言えば、水死体。すなわち生きていない人間、亡骸である。隅田川では、よく土左衛門が上がり、その度に人々は処理に追われていた。隅田川というのは、昔は大変な自殺の名所でもあったそうである。今日では、そんなことを考える必要は無いが、隅田川を見るとどうしても、私は川の淀みもあり、また、橋が多く架かっていることもあり、身を投げる人が多かったのではないかと想像する。

ある日のこと、隅田川にかかる吾妻橋の真ん中で、一人の青年が隅田川を眺めながらじっとしていた。周りの人々が気がかりに思って青年を見ていると、青年は今にも川に飛び込まんとしている。落語の方では、川に飛び込もうとする人々や、実際に橋から川へと飛び込む人々も登場するが、今回の話はそうではない。

よく見ると、青年は金を落としている。自分が飛び込むように見えたが、実際、青年は金を落としていたのである。

「なぜ落としているのだ?」と周囲にいた一人の男が尋ねると、青年は「落としたいからだ」と答えた。青年が落としたいというのだから仕方のないことかも知れないが、周囲の人々は呆れている。どんなに金があっても、金を落とす人と落とさない人がこの世界には存在するようである。

問題は、隅田川に落とされた金の行く先である。一体どこへ行くのかと言えば、金は流れずにそのまま青年が落とした真下へと沈む。よく井戸や水たまりへ小銭を投げ入れる人々がいるが、金が落とした位置から全く外れることは、一円玉で無い限り、まず無い。当時の銭は重量もあり、たとえ川であっても、どこか遠くへ流れるということは無かった。

さて、この金を落とす青年。何日も何日も橋の上から金を落とすということで、周囲の人々の話題になり、青年の落とす辺りの地面には、随分と金が埋まっているだろうという話になった。一人の男が、酔っぱらったせいもあるだろうか、青年が金を落としている辺りまで泳ぐと言って、服を脱ぎ捨て褌一枚となり、隅田川へと飛び込んだ。隅田川の水深は深いところでおよそ5mほどある。また、隅田川は随分と汚く、どれほどの深さかも当時ははっきりと分かっていなかった。金に目が眩んだ男は、酔いのせいもあってか金を探すことに夢中になっていた。途中、息苦しいなと思って上へあがろうとしたのだが、水があまりにも汚かったため、上も下も分からない。そのまま窒息して土左衛門になった。次から次へと川に飛び込む者が現れ、青年の落とす金目当てに多くの人々が土左衛門になった。

読者は、なんのために青年は金を落とすのか気になっているだろうか。冒頭に記したように、この青年は「金を落としたいから落としている」のだ。この青年はすなわち、散財をしているのである。毎回、幾らの金を落としていたかは分からないが、金を落とす自由は橋の上にいる青年にある。殆ど金を落とす自由を与えられていると言っても良いだろう。また、それを見た人々が、青年が落とす金を拾おうとする自由も同じようにある。故に、青年が落とす金を拾おうとして土左衛門になる人間が出てきたとして、果たして、青年に罪はあるのだろうか。結局、橋から金を落としていた青年は、何の裁きも受けなかった。金を落とすことを周囲の人間が咎めることはなく、むしろ金を拾って豊かに暮らすことを夢見た人々が、続々と隅田川へ飛び込み、そして土左衛門になった。

しばらくそれが続くと、周囲のものは恐れを抱き、金を拾わなくなった。すると、不思議なもので、橋の上にいた青年も忽然と姿を消していなくなってしまった。

この話が最終的にどうなるかというと、あるとき、異常気象による干ばつによって隅田川が干上がったことがあった。その時、そういえば橋の上で金を落としていた男がいたな、と思い出した老人がおり、当時の記憶を思い出し、橋を歩き、男が金を落としていた辺りから、川を眺めて見た。なんとそこには、金が一銭も無かった。

流れてしまったのか、誰かが拾ったのか、何かの餌になったのか、定かではないが、不思議な話であった。

これが隅田川に由来する、金落しの一席である。

 

 金言宣言

私の記事も、結局のところ、橋から金を落とす青年と何ら変わりはない。私は「書きたいから書く」のである。それを読んで土左衛門になろうが、何を感じようが、私には関係の無いことである。これは、無料の話であって、すなわち私は時間を割いているのであって、私には何のメリットも意図も無い。これは想像することも野暮だが、橋の上から金を落とした男に、人を土左衛門にしたいという心はあったのだろうか。それは、結局、分からない。

この記事で私は金言宣言と題して書いた。当初、人生の恩師の話について語ろうと思ったのだが、急に惜しくなり、昔に何かの本で読んだ話を記憶を頼りに記してみた次第である。

本当に面白いことはインターネットには無い、などと書いたことがあるが、面白いと感じるか否かは読み手の自由である。全ては読み手にゆだねられている。なるべく、意味の齟齬が無いように、配慮した。

どうにもまとまらないが、信じるというのは、素晴らしいことでもあり、恐ろしいことでもあるようだ。読者には、隅田川に飛び込み、金を拾うようなことだけは注意されたし、と言いたいが、ここまで読んだ人はもう既に、川に飛び込んで金を拾おうとしているのも同然である。

それでは、また、いずれどこかで。