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ロングショットで見てみれば~2019年4月13日 早稲田松竹 クストリッツァ~

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Life is a tragedy when seen in close-up,

but a comedy in long-shot.

人生はクローズアップで見れば悲劇だが

ロングショットで見れば喜劇だ

 高田馬場の十六文キック

高田馬場にある早稲田松竹エミール・クストリッツァ監督の『ジプシーのとき』と『アンダーグラウンド』を見た。どちらも素晴らしい映画であることは一度見たことがあるので知っていたが、映画館で見るとまた違ったものを見れるだろうと思ったので見た。結果、とんでもなく素晴らしかったので、この記事を書く次第である。

死ぬまでに一度は見なければならない映画というものが人には与えられており、それは小津安二郎監督の『東京物語』であり、川島雄三監督の『幕末太陽傳』であり、黒澤明監督の『七人の侍』でもあるのだが、もう一つ、エミール・クストリッツァ監督の『アンダーグラウンド』がある。私はどうしても『アンダーグラウンド』を見ると、かの有名なマコンドという都市を創造したコロンビアの作家、ガブリエル・ガルシア=マルケスを想起する。マルケスの生み出した偉大なる傑作『百年の孤独』は、本が好きで、物語を読むことが好きな人間であれば、死ぬまでに一度は読まなければならない作品であるが、両作品には人間が生きて行くことの根源的な力、魂の隆起がある。音楽で言えばラテン音楽そのもの。魂が底からせり上がってくるかのような、泥臭く、分厚く、野性的な雰囲気を醸し出しているのが、『アンダーグラウンド』という映画であり、『百年の孤独』という作品だと私は信じている。

ハイロウズの『映画』という曲のような気持ちで、私は高田馬場にやってきた。随分と前から気になっており、楽しみにしていた映画の公開が始まったのである。人気は無いが好きな映画である。否、人気はあるのだが、現在の日本における知名度が無い映画である。ん?

寄席演芸に日頃浸かっているせいか、映画好きな客層の面を見るのは興味深い。朝10時前、早稲田松竹の前には列が出来ていた。収容人数は153席。寄席と比較すると小さく感じられる。チケットは発券機の前に美人が立っており、美人にお金を渡すと発見機にお金を入れてくれ、出てきたチケットを受け取るというシステムであるらしく、混雑の緩和という点で非常に良い。発券機が一台しか無いというのも非常に良い。今日では複数台の発券機の前で、タッチパネルを操作し、自分の座りたい席を選ぶという流れが大型の映画館では当たり前なのだが、小さな映画館であるからこそ、座席は自由席で、発券機の前には美人が立っているという、その様式美に心惹かれる。考えてみれば、寄席の木戸口は一つしかない。人口増加によって迅速な客対応が求められる世の中において、木戸口一つというのは時代に逆らっているようにも見えるが、そこには何百年という歴史の経過があっても、決して朽ちることの無い永遠の様式があると思う。一目で映画館の良さに心打たれつつ、入場する。

 

早稲田松竹 いざ着座

半券を切ってもらい、パンフレット(600円)を購入して入場する。二本立てで1300円という破格の値段であるから、さぞ劣悪な環境かと思いきや、映画館の中は至って普通である。中央のスクリーンに向かって僅かに傾斜している座席が目に入った。ユーロライブや一般的な映画館の傾斜を想像していると、少しばかり差異を感じるほどの傾斜である。ほぼ平坦と言っても過言ではない。詳しくは画像を調べて見て頂きたいのだが、最前列に座ると首を痛めるのではないか、と思うほど平坦である。

映画館の特徴かも知れないが、見やすい位置、音響を感じやすい位置がある。私は初めて行く場所は見やすい位置を事前に調べる質である。うっかり見づらい席に座って首を痛めたくはない。見やすい位置に座して、開演の時刻を待つ。

映画館に行ったのは思い起こせばいつだっただろうか。今は昔の恋人と二人っきりで電車に乗って映画を見に行き、かなりアダルトな内容に帰りの電車で照れくさくて何も言えなかった頃以来であろうか。否、そんなに昔ではない。ポップコーンを買って席に着こうとしたが、手を滑らせてポップコーンをぶち撒けてしまったあの日以来であろうか。否、思い出したくもない。とにかく、いつぶりであったか思い出せない程、私は映画館に来るのが久しぶりであった。

今は自分を満足させうるに足る収入を得、時間さえあれば寄席演芸やその他芸術鑑賞とやらに時間を費やし、こうして趣味で文章を書く身になったが、ほとほと贅沢というのものは『し過ぎる』ということが無い。どれほど贅沢をしようとも、まだ見たりない、まだ感じたりない、まだ慊りない、という気持ちになるのだから、これに無理やり賞を与えるとするならば、演芸症とでも呼ぶできであろうか。愚鈍な豚を太らせるのが金と芸によって生まれる贅沢である。否、当の豚は自らが肥えていることにさえ気付かず、それが贅沢であることすら自覚がない。否、豚というのには些か語弊があるかも知れぬ。千と千尋の神隠しでは無いが、自らの欲望に忠実になり過ぎたが故に、豚に姿を変えてしまわぬように注意したいと思う。

映画館の客層はと言えば、40代~60代が多い印象である。いずれも映画に魅了され、人生の映画ベスト10を既に決めているような表情をしている。日常とは別の非日常に心惹かれ、映画でしか見ることの出来ない、人々の心の輝きを求め、また自らも映画そのものが持つ強烈な力について、否応なしに考えてしまうような、どちらかと言えば頑固な顔つき。また、映像美や映像の切り取られ方にも興味を抱くかのような、カメラマンのような顔つきの人々までいる様子である。

場内が暗転し、諸注意の映像が流れた後、いよいよ本日の一本目が始まった。

 

ジプシーのとき

アコーディオン弾きのジプシーとして生まれた一人の青年の物語であり、生きることの力強さがユーモアと共に強烈な魅力を放つ一作。何と言っても主役のペルハンを演じたダヴォール・ドゥイモヴィッチの演技が素晴らしい。彼の表情が終盤に向けてどんどんと狂気に荒んでいく様は見ごたえがある。冒頭では愛するアズラの事を思う青臭い青年で、アズラと結婚することが叶わず教会で首を吊る場面は滑稽でありながら、青春が無残に砕け散った青年の自暴自棄な状態を見事に表現している。

片足が不自由な妹ダニラと共にペルハンは富豪のアーメドに連れられイタリアの病院に行く。そこでペルハンは治療のためダニラと別れアーメドとともに金を稼ぐことになるのだが、金を稼ぐ手法が汚く、ペルハンは反発する。結局、ペルハンは権力をアーメドから与えられ、結果を出し、金を稼ぐ。この辺りでペルハンの表情にかつての青臭さは無くなり、狡猾ささえ滲むような擦り切れた表情に変わる。ファッション的にも毛糸の帽子とモフモフの服を着ていた前半から、シュッとしたスーツを身に付けるようになり、煙草も吸い始める。まるで田舎者がゴッド・ファーザーに出てくるアル・パチーノになったかのような変わりようである。この変身っぷりに私は共感する。私自身も、田舎から都会へと出てきた身であり、かつての田舎臭い服は全て捨て去り、都会的なセンスに感化され、ある程度都会的な服を身に付けるようになったと自負しているが、郷に入れば郷に従い、郷そのものの様式に取り込まれたペルハンの姿に、そんな私の自負と似た思いを感じたのである。

都会で過ごした人間が故郷に戻ると感じる差というものを、私は感じることがある。ペルハンはかつて育った故郷に戻るのだが、そこは変わり映えのしない風景が広がっている。誰が結婚し、誰が仕事を辞め、誰がどこで何をしているなど、景色や暮らしは変わらねど、人と人との関係性だけが進んでいく故郷。ペルハンは思い人であるアズラの家へ行くのだが、そこには妊娠したアズラがベッドに横たわっている。他の男と寝たのだな!と激高するペルハン。孕んだ子を流すことを目的に、ペルハンはアズラと結婚式を開く。およそ人道的とは思えない行為に及んでしまうペルハンの思考が恐ろしい。純粋な愛を持ち、教会で自ら命を落とそうとした青年が、時を経て汚い金稼ぎに手を染め、愛を傾けていた女の身籠った子を堕胎させようとまでするのだから、ペルハンの置かれた環境がいかに彼の精神を荒ませてしまったのか。これは敢えて書いていないので、是非、映画で見て欲しい。

何が人の心を変えてしまうのか、人によって理由は様々であろう。環境が人を変えるのだろうか。出会った人間が人を変えるのだろうか。私はそうは思わない。詰まる所、人の心を変えるのは、その心を持った自分自身だけであると思う。しかし、判断力とでも呼ぼうか、考える力とでも呼ぼうか、社会において我々が出会う事柄や人々というものに対して、人は正しい処理の仕方というものを持たない。自らの心を指針として、この場所に長く存在することは正か否か、この人間と付き合うのは正か否か、ここで金銭を払うのは正か否か、多くの選択を迫られるが、何が正しく、何が間違いであったかというのは、時が過ぎて見なければ分からないことばかりである。同時に、時が過ぎたところで、あれは正しい選択であったと判断するだけの精神が保たれているか、これも疑問である。人によっては判断する力さえ持たない人間もいる。この映画の主人公ペルハンも、どこかで判断力を失い、どこかで酔い、どこかで自らの心を制御できなくなっていたのではないだろうか。彼の持つ特別な才能について考えるとき、私は彼がより良い世界に羽ばたくことの出来なかった環境を恨んだりはしない。これは映画である。一つの人生は、物語の中で終演を迎える。しかしながら、最後の場面には皮肉めいた人間の根源的なズル賢さを感じる。何がズルくて、何が悪くて、何が良いかということも、当に私には分からなくなっている。否、分かろうとしていない節がある。私は自分の正義を誰かに振りかざすような、そんな優れた人間ではない。今はこんなことを書いているが、いずれ、私にも誰かに道を諭し、これぞ人間の道であるというような、尊い教えを論ずるときが来るのであろうか。どうにも分からない。それでも、どうやらこれが正しい道であるらしい、というところだけは、どうにか発見したいと思っているのだが。

一つの映画が終わった後、私は自分の人生を思う。ペルハンのように生きたりはしないが、ペルハンが妹を思う気持ちや、愛する人を思う気持ち、そして復讐をする気持ちは、私の心には確かに存在している。それは映像と声と共鳴し合って私の心を震わせた。美しい映像、美しい音楽、そして、人間の生きる力が籠った物語。是非、見てほしい。必ず、あなたは何かを感じ、そして自らの生き方について考えるだろうから。

 

 アンダーグラウンド

盛大な葬式と言っても良いかも知れない。冒頭のブラスバンドの演奏から、終盤に至るまで、とにかくお祭り騒ぎのような場面が続く。さらに言えば、人生は全てが劇であるというような、どうしようもない暇つぶしであるというような、そんな雰囲気さえ感じる物語である。この映画の魅力を語るとキリが無いのだが、どうせみんな死ぬのだから、その時が来るまでドンチャン騒ごうぜ。という感じもある。

人はそれぞれに何かを信じて暮らしているし、自分の譲れないラインを他人には絶対に越えて欲しくない生き物である。友を信じ、憎き恋敵に殺意を覚え、地下で武器を作り続けるクロ。クロの親友であり、物語において非常に重要な役割を持つ男マルコ。この映画は二人の盛大なコントと言っても良いかも知れない。そして、二人の関係に花を添えるナタリアの存在。このナタリアがとにかく魔性の女で、物凄い美人であるのだが、こういう魅力的な美人に知性のある男は騙されるのだ、という部分を見事に描いていて、私は物凄くマルコに共感する。

戦争の最中、地下帝国で暮らすクロ。そんなクロを騙しながら生きるマルコとナタリア。やがて一匹の動物によって生活は崩壊し、あらゆる嘘が明るみになるのだが、随所に滑稽な場面が挟まれ、劇中劇のようなものも登場し、全ては虚構の世界なのだが、虚構の中にも虚構が存在するというような、虚構のマトリョーシカ構造が面白く、粋な言葉も差し挟まれる。幾つかの連続した小噺が続いているような映画である。色んな人が亡くなったり、色んなものが生まれたりする。そこには一つの人生が様々に交差する様子があり、過酷な環境下にあっても、野心を絶やさないクロと、持ち前の知性を発揮してのし上がっていくマルコと、二人に振り回されて精神を病むナタリアなど、三者三様の思いが、様々な観点から見ることが出来る。何度見ても面白い映画であることに間違いはないだろう。

この記事の冒頭に引用したが、チャップリンの言葉は人生及び、あらゆる映画に通底する思いを見事に切り取っていると思う。『アンダーグラウンド』という映画もまた、一つ一つは悲劇かも知れないが、最終的に喜劇へと転換させる大きなユーモア、人間の生きるために必要な粋な部分が凝縮されていると私は思う。

戦争という過酷な状況の中で、自らの使命や自らの信じるもの、すなわち心の拠り所を見出しながら、自らの尊厳と誇りに従って生きて行くことの素晴らしさをクロの生き様に託すとともに、そのクロを利用して生きて行くマルコの賢さ。地下ではクロが野心を燃やし、地上ではマルコがクロを利用して生きて行くという天と地での描き方が、実に見事に人間の精神そのものを表現しているようにも感じられる。そして、その二人の大きな原動力になっているのは、魅力的な、あまりにも魅力的な、魔性の女ナタリアであると私は思う。つくづく、男にとって女性というものは、天使にも悪魔にもなる女神なのだと思わされる。女性の立場から見たナタリア像というものを知りたいのだが、いかんせん、ナタリアに私自身も心惹かれてしまっているから、正常な判断は出来ない。

あらゆる場面に見どころがあるのだが、やはり私は最後の場面を推したい。最期の場面に移るまでの静寂、そして幕開けまで、こんなにハッとさせられる場面は無いだろう。同時に、最後の場面で語られる言葉、人々の会話、全てがまるで天国のような賑わいを見せながら、金言めいていて素晴らしい。いずれ私も、あの場所へ行くのだろうか。その時はお祭り騒ぎをしたいものである。と考えてしまうような、とても素晴らしい場面であるから、この場面で席を立ってはならないと思う。

 

総括 人生は悲劇が連続した喜劇或いは喜劇が連続した悲劇

映画館を出ると、いつもとは光の射し方が違って見える。普段と何も変わらない景色のはずなのに、それがどこか違って見えるのは、物語の世界に没頭し、ひたすら映画そのものの世界に浸っていたからであろうか。私は確かに映画を見ていた。座席に座して見ていた筈である。それでも、この胸に残る思いは一体何であろうか。私の見た景色は一体何だったのであろうか。そして、今私が見て、存在している世界は、一体だれが私に見せる映画なのであろうか。この地球そのものは、何か大きな暗い箱に詰め込まれた、誰かの宝物であるのだろうか。

最近、ブラックホールの姿を捉えた写真が話題になり、コラージュであろうが、それを猫の目であるとするような画像を見た。この広大な、膨張を続ける宇宙空間の外で、猫が我々を見ているのだとしたら、そこには一体何の理由があるのであろうか。もちろん、それが分かったところでどうすることも出来ないのだが、そのコラージュ画像の滑稽な様が、私には妙な思いを起こさせたのだった。

生きているのだから楽しみたいと思う心は必然であろう。進んで悲惨な状況に行きたいと望む人間は限りなく少ないのではないだろうか。否、もっと言えば、悲惨や過酷という概念すら持たない人間がこの世界には存在している。紛争地帯に行くカメラマンや密林に暮らす民族と生活を共にするジャーナリストなど、およそ私の生活環境からは考えられない人生を送っている人々がいる。これは詰まる所、心が環境に適応しているからこそ起こる気持ちであると思う。私のような温室育ちのメロンのような甘々の夕張くんにとって、灼熱の砂漠はどう考えても過酷である。反対に、砂漠に棲むサソリやらラクダは、北極のような極寒の地では生きて行くことが出来ない。自然には、その環境に適した生物が生まれ、生活をする。案外、生きるヒントというのは自然の中にあるやも知れない。誰が言ったか忘れたのだが、『山で学ぶことは、社会の中においても役に立つが、社会で学んだことは、山の中では殆ど役に立たない』という言葉にもあるように、自然というのはあまりにも学ぶものがあり、社会に還元することは出来ても、社会から自然に還元することは思いのほか少ないようである。

だが、映画はどうであろう。何か人の創作物というのものは、相互に影響を与えることが出来るのではないだろうか。『映画で学ぶことは、社会の中において役に立ち、社会で学んだことは、映画に役立てることができる』と言えるだろう。一つ言えることは、創作において、役に立たないものは何一つ無いということである。無論、役に立たない部分を作ってしまうことがあることも否定できないが。

今回、『ジプシーのとき』、『アンダーグラウンド』の二作を見て、改めて思うことは、人生は悲劇が連続した喜劇或いは喜劇が連続した悲劇ということである。何もかもが二項対立ということではない。二つで一つであるというような、まさしく太陰太極図であるというような意識が私の中にはある。それは観測者の立ち位置によって変わるものであるかも知れない。ブラックホールも、この宇宙空間も、対極には真っ白な宇宙というものがどこかに存在しているのかも知れない。ホワイトホールというものもあるらしいから、もしかすると的を得ているのかも知れない。

とにもかくにも、こうやって長々と文章を書いたが、一度見てみることをオススメする。死ぬまでに一度は見なければならない映画である。断言する。これはきっと見た者に何か強烈な力を与えてくれる映画である。もちろん、全ての映画は見たものに強烈な力を与えてくれるものである。だが、その力を受け取るためには、見る者の心も整っていなければならない。もしも心の整っていない人が見たら、また一つ大きな荷物を背負ってしまうかも知れない。心の整っている人が見ても、心の平衡が崩れてしまうかも知れない。心の天秤が大きく傾くか傾かないかは、見る者次第である。

だが、私は言いたい。こんなに素晴らしい映画はあまり見たことが無い。出来ることならガルシア=マルケスクストリッツァと語り合いたいくらいである。人間ってどうしようもないけど、愛すべき存在だよね、ということを、色んな物語とともに、色んな話とともに語り合いたい。

幸い、まだエミール・クストリッツァは存命である。ガルシア=マルケスは亡き人であるが、彼のことだから風に乗ってやってくるか、或いはベランダにこっそり現れてくれるやも知れない。人は想像し、それを信じる時、想像は殆ど実体を持つ。あらゆる想像は、想像者の信じる度合いによって濃さを増すと言っても良いであろう。

あなたは何を想像し、何を信じるだろう。ただ一つ言えることは、あなたの想像し、信じた世界は、あなただけの、唯一無二の世界である。言ってしまえば既にあなたは、あなた自身の世界を、あなただけの世界を想像しているのである。

果たしてそれは、ロングショットで見てみれば、悲劇であろうか喜劇であろうか。それを決めるのは全て、あなた次第だ。