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自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

MANAZASHI・RADIOACTIVE~2019年6月16日 クリスチャン・ボルタンスキー 『Lifetime』~

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死は愛の眼差しによって目覚める

 

あらゆる意味において、強烈な滑稽さを有している

 

風は子供たちなんです

 

死者の心臓の鼓動だけを集めた島

 快晴の日には

天気がとても良かったので、出掛けたいと思い、とある人のツイートをきっかけに、国立新美術館に行って、それまで聞いたことも目にしたこともなかった、クリスチャン・ボルタンスキーという人物の作品を見た。

ただそれだけのことなのに、ただそれだけのことに収まらなかった。自分用に思い浮かんだことを心の中に纏めて置こうと思っていたのだが、思いがけずリクエストを頂いたので、この記事を書いて公表することに決めた。

これから記すことは、あくまでも私個人の沈思黙考の結果と思って頂きたい。よって、これが正しいとか正しくないとか、間違っている、間違っていないということではなく、あくまでも『私はこう思った』という感想に過ぎない。そんな前置きをせずとも、熱心な読者であれば私がどういう考えのもとに記事を書いているかは理解してくれるであろうと思う。願わくば、後にボルタンスキーの作品を見に行った際に、『森野はああ書いていたけれど、私はこんな風に思う』と思っていただければ幸いである。私は美術作品を語る専門家ではないので、サミュエル・ベケットとの類似点など一切見出せないが、少なからず、私は私が知っている範囲で、クリスチャン・ボルタンスキーの作品について、感想を述べる。

(※展示作品のネタバレが多いため、事前に知りたくない方にはここから先を読むことをオススメしない)

ちなみに、クリスチャン・ボルタンスキー氏の画像をネットで見たのだが、私の好きな映画監督アルフレッド・ヒッチコック人間国宝の講談師、一龍斎 貞水先生にシルエットが似ていると思った。どこか三人には『白象感』があると思っている。

 

 

 

 

DEPART~出発~ 最後の時

青い照明で『DEPART』という文字が壁に掲げられている。何事にも始まりと終わりがあるように、ここにはシンプルな出発が掲げられていた。

同時に、人間が生まれてから、死ぬまでのカウントが始まった。それを感じさせる『最後の時』という作品には、人生の時間が、数字という記号によって表現され、時を刻み続けている。このカウンターは、ボルタンスキーの死によって止まるのだと言う。

 

 咳をする男 なめる男

まず入場して驚くのは、クリスチャン・ボルタンスキーの最初の映像作品『咳をする男』と『なめる男』のショート・ムービーである。

いきなり顔の分からない人間らしき男が、苦しそうに咳き込む映像が、小部屋に設置されたスクリーンに映し出される。それを見ても、私は特に嫌悪感を抱かなかった。むしろ、『なぜボルタンスキーはこの作品を作ったのか?』という疑問が浮かんだ。暗い一室で、ひたすらに咳き込み、顔はボロボロで正直男かどうかも分からない。口からは血を吐き、ゲホゲホ、ゴホゴホ、ウエエ、ゴッホエエ、という音だけが不規則に鼓膜を揺さぶる。

永遠の苦しみ』の一つの象徴として、『咳をする男』は存在しているのだろうか、と思った。映像を見る者には様々な疑問が浮かんでくると私は思う。

なぜ男は咳をしているのか?

なぜ男の咳に、私は「苦しそうだ」と思うのか?

男の咳が止むことはあるのか?

男の家族は?男はなぜここにいる?

男は死ぬのか?

幾つもの疑問が浮かんだところで、答えが出ることは永遠に無い。あくまでも見る者は『咳をする男』の様子を見ることしか出来ない。

映像を見ていた一人の女性が友人に向かって「なんだか、可哀そうだね」と言った。一人の少年が「気持ち悪い」と母親らしき人物に言った。私は「なぜそう思った?」と聞いてみたくなった。

例えば、咳をする男は、極悪非道の罪人かも知れないし、或いは善人な人間で、誰かに毒を飲まされたのかも知れない。だが、そんな情報は一切見る者には与えられていない。仮に咳をする男を映しながら、テロップで『この男は幼い少女を10人殺した殺人鬼で、罰として毒を飲み咳をしているのです』と表示されたら、誰もが咳をする男に対して『当然の罰だ』と思うだろう。だが、何度も繰り返すが、この映像からは『男が咳をしている』こと以外は、何一つ分からないのである。

それでも、見る者は様々に意味を付している。現に、私も意味を付している。『永遠の苦しみ』と書いたが、咳をすることが果たして『苦しみ』であるかも分からない。くしゃみをすれば気持ち良さを感じるように、この男にとっては血を吐き、咳をすることは『喜び』であるかも知れない。

咳をする男』には、見る者を問うような趣がある。私が普段、当たり前のこととして認識している事柄を、試すような作品であると思った。『咳をするのだから、苦しんでいる』→『苦しんでいるし、血を吐いている』→『だからもうじき、男は死ぬだろう』。こんな風に、私は最初に思った。だが、映像を見ているうちに、それらは私が勝手に思い込んでいるだけに過ぎないと思った。咳をしている男という情報以外には、何も知ることが出来ていない自分を自覚したからである。

同時に、私は心の中で『この男の咳が止めば、男は死ぬだろう。死ぬところが見たい』と思った。それは、咳をする音を耳にし続けることの不快さを私が感じていたからだろう。「だろう」と書いたのは、私自身は「気持ち悪い」と思ってはいなかったのだが、『死ぬところが見たい』という思いには、そんな気持ちが含まれていると思ったからだ。

何か自分の心の安静を求める力が働き、咳が止めば、あらゆることが気持ちよく収まると私は思った。自分の中で「この咳は永遠じゃないんだ。終わりが来るんだ」と思えば、安らかな気持ちになれると思った。それは人間の人生にも通ずるのかも知れないと思って、僅かに鳥肌が立った。井上法子さんの短歌を参考にするならば、『永遠でないほうの咳』だったと思うことができたら良かった。

だが、映像は唐突に終わる。結局、男の咳が止まったのかも、男が死んだのかも分からない。ただ私は、咳をする男を見ただけに過ぎない。

日常生活でも良く起こることだとも思った。外見の綺麗な美人を見れば「うわー、綺麗だなぁ。きっと良い性格なんだろうな」と勝手に思い込む。正にそれと同じことが、『咳をする男』、否、あらゆる芸術鑑賞には起こるのではないだろうか。

我々は、見たものに、見たもの以上の意味を付している生き物であり、意味を付す度合いは人によって違う。それは一体なぜだろう?

そんな一つの哲学的な問題を与えられたような作品であった。さて、あなたは『咳をする男』を見て、どんな風に思うのだろう。

気持ち悪いと思って、足早に去るのも、それはそれで良いだろう。

 

続く『なめる男』も、ひたすらに女性の人形をなめる男の映像が流れる。前述の『咳をする男』と同様に、ただ舐めている以外のことは何一つ分からない。

単なる変態なのか、人形好きなのか、孤独な男なのか、どれも判別できない。判別できないのだが、私は最初に『人形を愛する純粋な男』という意味を付した。きっと誰からも愛してもらえることができず、人形を愛することしか出来ない男なのだと想像した。そして、一方通行である愛の儚さを思った。或いは、愛する女性に対して、男には叶えたい願望があり、それが生身の人間では叶わないがゆえに、人形で解消しているのかも知れないと思った。

いずれにせよ、答えは出ない。

全体を見終えて、改めて『咳をする男』と『なめる男』について考えると、そこにはとてつもない『滑稽さ』があると私は思った。恐らく、ボルタンスキーの作品には『滑稽さ』が通底しているのではないか、と私は思った。

咳をし続けることや、なめ続けることの、不思議な馬鹿馬鹿しさを感じたのである。それは、決して嘲っているのではなく、むしろ、「なんでそうなっちゃったんだろう」という哀れみの気持ちが強い。なぜ咳をするに至ったのか、人形をなめるに至ったのか、その過程が排除され、結果のみを見ているからこそ、私はそんな風に思ってしまったのである。また、その思いは一生解決することはない。私の疑問は、何一つとして解決されないまま、虚無へと消えて行く。その滑稽さに、私はただただ笑うしかない。

 

粘土による復元 罠 D家のアルバム

思い出の滑稽さ』をまざまざと見せつけられる作品群であると私は思った。ボルタンスキー自身が、記憶を頼りに粘土による復元を試みたスプーンや長靴。どれも、見ただけでは本当にスプーンか長靴か、さっぱり判断できない。自分の記憶にある筈のスプーンが、粘土によって形を成そうとすると、全く異なる物質となって出現し、時間の経過とともにあっさりと記憶とはまるで違う物体に変化する。思い出や記憶というものは、何と曖昧なものであろうか。

三島由紀夫中村光夫との対談で『ことばというものは終わらせる機能しかない』と言ったが、記憶から生まれた粘土製の物達は『別のものとして生まれ、別のものとして終わらない機能』を有していると思った。生まれも育ちもまるで記憶と異なる物質が、ただ時間の経過とともに崩れて行く。一瞬たりとも元の状態を保存しないまま、目には分からない変化かも知れないが、崩れ続けて行くのだと思うと、思わず笑ってしまうほど、滑稽な物体がここには出現していて、私は一人でクスクスと肩を揺らして見た。

しかし、後に『両親は記憶の中に理想の私を所有していた』という考えがやってきた。自らの理想とする子を産み落としても、理想通りの人間にならなかったとしたら?

記憶から生まれ、別のものとして誕生し、その瞬間から崩れていく粘土と、理想から生まれ、その理想と解離しながら死へと向かう人間がいるとしたら、両者に隔たりはあるのだろうか。と、考えたが答えは出ない。

』と題された何の目的もなく生み出された物体を見ても、自分とは一切関係の無い人生を送った『D家のアルバム』を見ても、私は込み上げてくる笑いを顔の筋肉を動かして消費することしか出来なかった。とにかく滑稽で面白いのである。そこに並べられた記憶の物質及び、記録された写真と私との関連性の無さが笑えるのである。『』と名付けられているが、罠として用いられたかどうかも、どういう罠かも分からない代物の、無意味な面白さ。

時系列順に並べられた見知らぬ家族の写真を見ても、そこに何一つ自分の思い出が介入する余地が無く、誰一人として思い入れが無いという事実の滑稽さ。誰が何という名前で、どういう人物であって、今はどうしているのか、幾つまで生きたのか、一切情報が無いままに、写真を見る感覚の面白さ。見知らぬ人の家に勝手に入り込んで、たまたま見つけた家族のアルバムを見ているような気分になって、ある種の罪悪感を抱きながらも、「楽しそうだ」とか「幸福そうだ」という感想しか生まれてこないことの、シンプルな読解の自覚。同時に、相手に対して深く思い入れを持つためには、相手の情報を得なければならない、というシンプルな考えが、まるで反射するかのように生まれてきた。

もしも、私が『D家のアルバム』の中に、誰か一人でも自分と近しい存在、すなわち、良く知っている人物を発見したら、私はその人の姿を追うだろう。もしも、D家の全員を知っていたら、とても愛着を持ってアルバムを見ることができるだろうし、ひょっとしたら他人に説明したりするだろう。だが、そこには歴史的にもDNA的にも、同じ人間であること以外の類似点を見出せない家族の写真がある。相手のことを知っているということが、自らに対して及ぼす影響の強さを感じる、そんな作品群だった。

 

 余談

櫛野展正のアウトサイド・ジャパン展』を見に行った際、『けうけげん』という人が、架空の芸人の絵とネタを説明する動画を見た。架空の人間であっても、説明を付すことによって、それがまるで実体を伴って感じられる。ひょっとしたら、現実世界にも存在しているのではないか、と思えるような芸人が幾つかいた。それらは、けうけげんさんによって、意味を付されたからこそ意味を持って理解することができた。座標で言えば、XY軸に意味を付すことでZ軸、奥行きが生まれて立体的になる感覚である。

その作品及び説明から考えると、ボルタンスキー氏の写真にはXY軸はあっても、Z軸は無い。否、Z軸は見る者が作らなければならない。そんな風に感じられた。以上、余談終わり。

 

 影

滑稽な作品群の後は、『』と題された作品を、三つの小窓から眺めることができる。棒に吊るされた様々な銅板?に光が当たり、壁に影が映し出されている。風が僅かに吹いており、銅板の揺れに合わせて影が揺れる。

どこか子供の遊び心を感じるような、そんな作品に思えた。

光に近いものは大きく、逆に光から遠いものは小さい影。幻想的な空間に浮かび上がっているのは、一体何を意味しているのか。それは、影という存在の儚さだろうか。物体と影は、どちらが本物なのであろうか。私が影を投影しているのか、それとも影が私を投影しているのか。そもそも投影って言葉があるからには、私が影を投影しているのではないだろうか。そもそも投影とは?

子供の頃に見たような、幻想的な世界がそこにあるように思えた。もしも子供が出来たら、同じような作品を作って見せてあげたい。

 

 

心臓の音 合間に

天井から吊るされた電球は、ボルタンスキーの心臓の音と共に明滅を繰り返す。そのすぐ傍にあるカーテンには、ボルタンスキーの7歳から65歳までのイメージが投影されている。

いつ止まるかも分からない心臓の鼓動。一瞬訪れる暗闇。変化し続けるボルタンスキーのイメージ。それはまるで、ボルタンスキーの体内に自分が存在しているかのようだ。大音量の心臓の音を聞きながら、私はボルタンスキーの鼓動を全身で体感している。これが、私の愛する人の鼓動だったら?と考えたとき、新しい性癖が自分の中に生まれそうで怖くなった。

心臓の鼓動は、その人が生きている限り刻み続けられるものだ。その刻み、リズムを録音し、電球の明滅と結び付けたボルタンスキーのセンスに、私は鳥肌が立った。鼓動さえ録音していれば、その録音データの消滅或いは再生する物の消滅さえない限り、ほぼ永遠に聞き続けることが可能である。それはすなわち、死に行く者の鼓動を永遠に保存できるということだ。

私の中に沸き起こったのは、『自分の心臓の鼓動を録音したい』という欲求と、『自分を愛してくれた人の鼓動を録音したい』という欲求である。

漫画で『あなたの鼓動を見させて』という作品がある。主人公は好きな男の心臓の鼓動を見るためにカラスやネズミ、実際の人間を切って心臓の鼓動を見る練習をするのだが、それに近い感覚を私は抱いた。心臓の鼓動は、その人だけの唯一の鼓動なのだ。

そう考えると、人間の心臓の鼓動は、一つの『自画像』になる。鼓動そのものが、その人そのものであると言える。さらに言ってしまえば、一人一人には心臓という『楽器』が与えられている。その楽器の音は、その人以外の誰のものでもない鼓動を刻み続けている。そんな単純な発見をしたボルタンスキーの眼差しに、私は言いようのない興奮を覚えた。私は自分の好きな人の心臓の音に合わせて、ギターを弾き、唄を作ってみたいと思った。もしくは、私の心臓の鼓動と、愛する人の鼓動を繋ぎ合わせて、世界に一つだけのリズムを作ってみたいとも思った。そんな妄想を走らせるほどに、ボルタンスキーの発想は強烈だった。

電球の明滅とボルタンスキーの鼓動、そして変化し続けるボルタンスキーの投影されたイメージを眺めながら、私はその驚愕の発想に、しばし立ち尽くしていた。

 

モニュメント プーリム祭

薄霧に包まれた静かな墓地に迷い込んだかのような場所に、子供らしき写真、幻想的に光る電球、そしてびっしりと敷き詰められた笑顔の人の写真がある。そのどこにも、私と関係のある人物の写真はない。

子供の頃、墓地に行くと自分に関係するお墓の位置や、形や場所は何となく記憶することが出来た。けれど、その他のお墓を見て、そこに書かれた『〇〇家之墓』という文字を見ても、お墓の豪華さは分かっても、どんな人物であったかということは何一つ分からない。それでも、豪華であることから、きっとお金持ちで立派な人だったのだろうと想像することが出来た。

同じようなことを、ボルタンスキーの作品から私は感じた。祭壇を模したかのような台座の頂点に、名の知れぬ少年の顔写真、そしてそれを照らす電球の光。その形が見るものに与える高尚さ。写真が乗せられた台座(ブロック型)は、どこか崩れそうなほど脆く見える。

歴史に名を残した人物であれ、名も無き人物であれ、個の死を湛えるようなモニュメントを私はぼんやりと眺めていた。ブロックの数は、写真に写された人物の年齢を表しているのだろうかと思って数えたが、どうやらそこに関連性は無かった。

死を阻む。と言えば聞こえはいいかも知れない。モノクロの少年らしき人の写真は、その佇まいに静かな荘厳さを湛えている。写真を見るだけでは、人であること以外は何一つ分からないのに、電球とブロックで飾られるだけで、その写真の人物がどういう人物であるか、ぼんやりと意味を付し始める自分がいる。その時、自分とは全く関係の無い少年の顔が、確かに意味を持って自分と繋がっていくような、不思議な体験をした。ここに飾られた少年には、何か特別なことが起こったのだろう。そんな確信が頭を過った。

電球ばかりに目が行き、それほど注意してはいなかったのが、幾つか作品を見ていると、黒い電源コードが意志を持って飾られたものなのではないかと思えてきた。一見すれば雑に束ねられたように見えるコードだが、まるでそこに、電気以外のもの、例えば生気や血が静かに流れているような、『脈』であるかのような感覚があった。特に『皺くちゃのモニュメント』を見た時に、それを強く感じた。

人間の運動や思考には電気信号が発生しているという話を聞いたことがある。脳が「左手の人差し指よ、動け!」という信号を出して、それはコンマ何秒という僅かな時間で伝達され、殆ど意識しないうちに信号を動作に変えている。今、私が考え文字を打っていることも、全ては脳から発せられた電気信号によって行われている。そう考えると、電気とは人間の生命維持活動において重要な役割を担っているのではないか。また、死者の心臓を再び復活させるために、電気ショックを与えたりもする。そう考えると、『モニュメント』という作品に電球と電源コードがあるということは、写真に映し出された人物を生かすための素材として使われているのではないか、という考えが起こってくる。奇妙に『』を感じたのは、電源コードが人間の手などに浮き上がる血管を想起させたからであろうと私は思った。

また、自らの鼓動を電球の明滅に重ねたボルタンスキーの発想から、やはり電球は心臓の一つの比喩ではないか、という気がしてくる。『モニュメント』において写真の周りに飾られた電球は、心臓というよりも、むしろ『』なのかも知れない。脳は人間の全神経に信号を送っている。となれば、幾つかの電球の集合である脳から、電源コードという神経を通して、繋がり合っていることには何か意味がある気がする。

これは滑稽な想像だが、人が何かを閃いた時に『電球が光る』イメージが用いられることがある。今ではあまり漫画やアニメで見る機会は無くなったが、案外、そうしたイメージから、電球が用いられているのかも知れない。答えは分からない。もしも、万が一、ボルタンスキーに質問する機会があったら、「あなたが写真の周りに飾る電球は、人間の発想や閃きの際に用いられる電球を、その考えの基礎としているのではないですか?」と尋ねてみたい。仮に「そうだ」と返ってきたところで、何がどうした、という話ではないのだが。

電球と電源コードが、作品に命を吹き込んでいるかと思われるが、それは、少し違うのかも知れない。むしろ、見る者が作品に命を吹き込んでいると私は思う。

それは『174人の死んだスイス人』や『死んだスイス人の資料』を見た時に感じたことである。汚れた金属製の箱の真ん中に貼られた、名の知れぬ人の写真。壁に大きく飾られたスイス人の写真。それらは、人であること以外に何の情報も見る者に与えない。顔だけを見ることしか出来ず、そこから先には一歩も進めないのだ。その人の歴史も、記憶も、性格も、ありとあらゆるものが削ぎ落されて、顔写真だけであるということが、物凄く滑稽で面白いものに思えるのは、私が普段目にする、自分と繋がりのない『人間』に対して抱いている感情と同じものを感じたからであろう。

それは、最初に見た『咳をする男』や『なめる男』に共通する感覚である。たとえ同じ人間であっても、微笑んでいても、私に分かることは『人間であること』だけである。そこに虚しさは沸き起こって来ない。既に写真の中の人物は死んでいるのだから、虚しさが沸き起こってくる余地も無い。だが、仮に私と接点があったり、私が写真の人物について深く知っていたら、そこには虚しさが沸き起こってくるだろう。「ああ、なんで死んでしまったんだろう」とか「あの人は、とても素敵だった」という感想も沸き起こるだろう。詰まる所、私という人間だって、写真になって数千年が経ったら、私が『死んだスイス人の資料』を見た時に感じたことと同じことを、私の写真を見た人に思われるのである。そう考えると、滑稽である。同時に、私は後世に名を残したいと思うのである。『死んだスイス人の資料』や『174人の死んだスイス人』のように、『人間であること以外、何も分からない』存在に絶対になりたくないのである。

だが、多くの人間は『死んだスイス人の資料』や『174人の死んだスイス人』になる可能性を秘めている。後世に名を残す人物にならない限り、また、後世に名を残すだけの記録を保持できる物がない限り、数多くの人間は、死の歴史的な理由を持たないまま、死んでいき、やがて忘れ去られてしまうのである。

それは、私は物凄く嫌である。出来ることならば、後世に名を残したい。

そう考えると、ボルタンスキーの『モニュメント』には、死の歴史的な理由を持たない者が、尊重されているような雰囲気を感じる。そこに、救いがあるのではないか。『モニュメント』と『死んだスイス人の資料』の配置には、そんなことを考えさせる意図が込められていたのではないか。ますます、ボルタンスキーに問いたいことが増えた。

まだまだ考えられることはたくさんあるが、静かな墓地と感じられた場所について語るのはここまでにしよう。読者がこの場所に訪れ、何を感じたかに私は興味を抱き始めた。というのも、ここまで私は、一方的に私の考えを述べているだけに過ぎないからだ。出来ることならば、作品を見て、読者が何を感じたか、聞いてみたい。

 

幽霊の廊下 ぼた山

この辺りから撮影可能エリアに入ったため、幾つか写真を撮影した。

 

幽霊の廊下』と名付けられた空間には、左右に白い布があり、そこに幽霊と思われる影が映る。影は風によって消えたり浮かび上がったりする。別段、何かを感じた訳ではない。だが、その幻想的な感覚は、どこか映画『ホリデイ』でキャメロン・ディアスが子供たちと可愛らしいテントの中で、飾られた星を眺めているような、そんな感覚に近い。怖さというよりも、可愛らしさを私は強く感じた。

恐らく、私はこの廊下を通って『死者』になったと思った。廊下の先には『ぼた山』と呼ばれる、黒い服が山積みされた作品があり、それは戦争で焼け死んだ人間を想起させた。だが、そこには黒い服しか無い。それを着ていた人間の姿はどこにもない。着る者を失った服が、群れを成して山を形作っている。行き場を失い、山となった過程を想像する。どうしても『』のイメージが付きまとう。

それは、『ぼた山』の天井に吊るされた『スピリット』を見たからかも知れない。ハリー・ポッターの映画で死者が薄い白で表現されているように、『スピリット』の薄いヴェールに映し出された人の顔は、まるで上空を魂が浮遊しているかのように見える。もしかしたら、『ぼた山』を形成する黒い服を身に付けていた人物かも知れない。想像は一方通行で、魂からの返答はない。

 

発言する

『ぼた山』の周りには、黒い服が掛かった作品があり、その前を通ると問いかけられる。「ねぇ、光を見た?」とか「ねぇ、怖かった?」みたいな言葉を問いかけられる。それはすぐに『死者への問いかけ』であると私は思った。同時に、その黒服の発言に対して、私は言葉を返すことが出来ない。なぜなら、『発言する』という作品に返事をするためには、私は死んでいなければならないからだ。『死者への問いかけ』は死者でなければ返事が出来ない。生きている私にはただ、いずれ誰かが私に問いかけるであろう、返事をすることが出来ない問いを聞くこと、そして、「分からない」と思うことしか出来なかった。

生から死へは簡単に移動できるが、死から生へは簡単に移動できない。だが、『幽霊の廊下』を抜けた私は、死者になっているのだった。それは、作品の中の空間において、概念的な意味で死者になっているに過ぎなかった。

 

アニミタス(白)

スペイン語で『小さな魂』を意味するアニミタスアニサキスでもアノニマスでも兄満たすでもなく、アニミタス。

カナダ北部の気候の厳しい場所で撮影されたらしく、スクリーンには真っ白な雪景色の中で、棒に吊るされた風鈴が鳴っている。ボルタンスキーの生まれた日の星の位置と同じ配列で風鈴は並べられているという。

解説を読むと、『神話を作り出すという願望を表している』とある。それを読んでから映像を見ると、風鈴の設置された場所に漂う魂が、まるでボルタンスキーについて語り合っているように思えた。

固定されたカメラで長時間撮影された景色。刻一刻と時間は変わり続けているのだが、それはずっと眺めていても差異は無いように感じられる。だが、ボルタンスキーは実際にその場所に赴き、風鈴を吊るし、長時間撮影を行った。その事実を考えると、ボルタンスキーはその場所に漂う魂や風に、風鈴の音という声を与え、自らについて語らせたのではないだろうか。私には風鈴が風に揺れて音を鳴らすということ以外の様々な意味が感じられた。一つの清廉さの中で時に騒々しいほどの音を鳴らす風鈴の音、小さな魂の語り合う姿を感じたのである。

古来、日本では仏壇に鈴(リン)が置かれている。鈴を鳴らす行為には邪気を払う意味の他に、死者への供養と祈りを極楽浄土に届けるという意味が込められている。『アニミタス』の映像では、風が鈴を鳴らしている。撮影された場所で、その瞬間に吹いた風が、鈴を鳴らしている。映像の映し出されているあいだ、供養と祈りが極楽浄土へと届けられるのだとすれば、『アニミタス』という作品は、クリスチャン・ボルタンスキーの死後のために作られたものであるようにも思えた。心臓の音を録音することや、名の知れぬ人物の写真を祭壇に模して作品化することや、死者への質問をする黒服など、ボルタンスキーには『死後の自分への問いを投げかける姿勢』があるように思えた。それは、いずれ跡形もなく全ては消え去るという一つの無常観を表しているのかも知れない。

神話として語られることによって、クリスチャン・ボルタンスキーは一つの象徴になろうとしているのではないか。世界中で語られる神話に登場する神々は、どれもシンプルな象徴として登場している。水の神はポセイドン、風の神はアイオロス、悪神ロキなど、人々は神を信じ、今日まで神を語り続けている。

想像だが、無常観の一つの体現として、ボルタンスキーの作品はあるような気がしてならない。私が想像もすることの出来ない年月が過ぎると、私という人間の歴史も、思考も、どんな人物であったかも、全ては排除され、ただ一人の男が、この世界に生きて死んだ。という単なる事実だけが残る。『Lifetime』、すなわち『一生』という名のこの回顧展は、いずれ終わりを迎える。その無常さを、ボルタンスキーは見た者が生きている間、それぞれに感じ、語り継いでくれれば良いと考えているのかも知れない。

人は生まれ死ぬ。いずれ人であったこと以外は何一つ分からなくなる。ならば、自分が少しでも生きた証を作品に残そう。死を阻んで見せよう』という意志のもとに、自らの魂を風鈴と土地の魂に委ねるために『アニミタス』を、自らが刻み続けた心臓の鼓動を『電球の明滅と録音された心臓の鼓動』に託しているのではないだろうか。

ボルタンスキーという一人の芸術家は、死に抵抗し、死を阻むために作品を生み出したと思うのだが、では、その抵抗、すなわち死を阻む行為は、何を持って成功とするのか。作品を生み出しただけでは、死を阻み、死に抵抗したことにはならない。死を阻むためには、常に、その行為を見た存在を必要とする。今日まで英雄として語られる人物が英雄で有り続けるのは、その英雄を誰よりも近くで見てきた名も無き人々が語り継いできたからである。

だから、私は次のような言葉が浮かんだ。

愛の眼差しが全てに命を吹き込む

 

 

 ミステリオス 白いモニュメント 来世

三つのスクリーンには左にクジラの白骨化した映像、中央にクジラとコミュニケーションをとるためのラッパ状のオブジェ、右には青い海が映し出されている。

最初に見た時は、何を意味しているのかさっぱり分からなかった。解説を読んだところで、いまいち内容を掴むことが出来なかったが、ここまで書いて何となく言葉が浮かんできた。

左で白骨化したクジラは、ボルタンスキーであり、見る者全員の死体の象徴であると私は考えている。パタゴニアではクジラは時間の象徴で、白骨化したクジラはすなわち、止まった時間を意味していると私は考える。人は死によって時の刻みを止める。それでもなお、ラッパ状のオブジェからはクジラとコミュニケーションを取るための音が不規則に発せられる。だが、右の海には一向にクジラの現れる気配が無い。

人は死ぬと、時間を得ることが出来なくなる。少なくとも現代に流れる時間に、自らの肉体と命を置くことが出来なくなる。その事実への抗いが、この作品には表れているように思えた。無限の時間があれば、無限の思考が生まれ、無限の体験と、無限の知識を得ることが出来る。人生は有限であるがゆえに、あと一歩考えが及ばなかったということが起こりうるし、やっておけばよかった、という後悔が残る。だが、時間が無限であれば、一歩考えが及ばなかったということは起こらないのではないか。やっておけばよかった、という後悔が残らないのではないか。だが、そう考えると、やはり無限というのは退屈なことになってしまうのではないか、という考えが起こってくる。

私は、『白骨化したクジラ=止まった時間』と、『クジラと会話するためのツール=時間を得たいという欲求』と、『クジラが現れるであろう海=時間が動き出すかも知れない予感』という三つを同時に眺めているのではないか。と、作品を見ながら思った。

この記事の冒頭に写真を載せた。思いがけず良い写真が撮れたと自画自賛している。特に中央のラッパ状のオブジェのスクリーンに向かって、まるで求め彷徨うかのように歩き出そうとしている人物の姿、そしてそれを見つめる眼差し、それがとても気に入っている。誰の理解も得られなくとも、この写真を撮ることが出来て私は良かったと思っている。

 

スクリーンの後ろには、白いビルやお墓のような白いモニュメント、そして赤と青の電球で彩られた『来世』と掲げられた作品がある。ここでようやく、私は死の世界を抜け出し、再び生を受ける段階に移ったのだと思った。輪廻転生では無いが、生まれ変わる予感を、私は回顧展の中で感じたのである。

 

黄昏 保存室 黄金の海

来世』の掲げられた壁の下を通ると、『保存室』と呼ばれる衣服が壁にびっしりと敷き詰められた部屋に入った。右には『黄金の海』、左には『黄昏』という作品が展示されている。匂いに敏感な方は、衣服の放つ匂いがキツイかも知れない。

黄昏』という作品を見たとき、私は電球と電源コードは精子を表しているように思えた。来世という言葉からの連想として、見る者は再び精子となって世界に放たれる。そんな風に想像をして、『黄昏』の電球の先を見てみたが、特に卵子らしきものは置かれていなかった。解説を読んでも、何となく私には精子に見えてならなかった。

壁に並べられた衣服は、私が着るかも知れなかった服であると思えた。様々な柄と大きさの衣服を見たとき、私は自分に似合う衣服を無意識のうちに探していた。『来世』という言葉が強烈に後を引くように私に影響を及ぼしていたから、そんな風に思ったのかも知れない。ここには、無数の、歩むかも知れなかった別の人生が提示されているように私には思えた。

黄金の海』は床に敷き詰められたエマージェンシー・ブランケットが、天井から吊るされた電球によって照らされている作品で、電球はぶらぶらと揺れている。まだ心臓の鼓動を与えられていない電球、明滅しない電球だな、と思いながら眺めていた。

困難に立ち向かう強い意志を、私はこの作品から感じた。それは、人生という荒い海に乗り出した、あらゆる命を湛えるような、静かな黄金の輝きを表現しているように思えたのである。

たとえどんなに苦しい状況にあったとしても、絶えず光は命を照らし続けている。むしろ、命の輝きは常に私の内にあるのだ。それは、電球の輝きのように。そんな風に感じられて、私は『黄金の海』から荘厳なエールを感じた。

 

その後、ピック その後

いよいよ最後の作品が近づいてきた。揺れる電球の灯に照らされて、薄く消え入りそうな不確かさの中で、幼い子供の写真が照らされている。僅かに穴が空いたり傷がついている写真を眺めていると、人の一生の不完全さ、未完成を予感させるような作品だと思った。同時に、滑稽な考えだが『どれにしようかな 天の神様の言う通り』という子供の数え歌を思い起こさせた。

明滅しない電球は、まだ魂と肉体を与えられていない心臓のように思え、ぶらぶらと幾つかの傷のついた子供の写真の周りを動きながら、その魂の拠り所を選んでいるように見えた。やがて電球は一人の幼い子供を選び、その子供は世に生まれてくるのではないだろうか、と考え、写真に穴が空いていたり、傷がついているのは、生まれてから死ぬまでに起こる様々な事柄の不安の象徴なのではないか、と思った。または、その穴は誰かによって埋められるために存在しているのかも知れない。

翻って自分の人生も、『その後、ピック』や『その後』という作品のように、『選んだもの』なのか『選ばれたものなのか』、考えてみたが答えは出ない。もしも、ボルタンスキーの作品のように、電球がぶらぶらと揺れた場所で、無数の少年の顔写真が並べられた空間があり、その一つが選ばれて世に生まれ、今の私となったのだとしたら、何とも言えない不思議な感覚である。同時に、人の人生で最も写真を撮られる時期が多いのは、生まれた時と晩年なのではないかと思った。

今ではどこでも自撮りをしている人達が多いが、今のように時代が進歩していなかった頃は、写真はそう簡単に撮ることができるものではなかったから、生まれた頃と晩年が多かったのではないか、と勝手に想像した。とすれば、生まれた頃の写真は、生まれる前の写真と言っては可笑しいかも知れないが、『その後』のような穴の空いた写真と違って、綺麗な状態で世に保存される。『その後』の不完全さは、生を受け撮影され写真となることによって、完成させられるのだと考えると、なんだかしっくり来る。

読者の中にこれから子供が生まれる人がいるとしたら、その子供の顔写真は既に現世に生まれてくる前のゾーン、すなわち来世ゾーンに飾られているのかも知れない。そこでは電球が揺れ、『どれにしようかな』と誰かが悩みながら、自分の顔を選んでいるのかも知れない。そんな想像が頭の中に浮かんで、私は一人で笑った。

 

 Arrivee 到着

さて、気まぐれな私は、敢えてこの場所に辿り着いた時のことは記さないでおこうと思う。それは、読者に委ねたいと思っているし、正直、この『到着』に辿り着いた時に私の胸に起こったことは、私だけの秘密にするか、親しい人だけの秘密にしておきたい。

ただ、私はこの『到着』の後に、『エスパス・ルイ・ヴィトン東京』に行き、『クリスチャン・ボルタンスキーの可能な人生』というドキュメンタリー映画と、彼のインタビュー、そして『アニミタスⅡ』を見たことだけは記しておきたい。そこで感じたことも、私は敢えて書かないでおこうと思う。

全てを書けばよいとは思わない。ボルタンスキーの最新作の展示は11月中旬まで続いている。いずれ、求められれば、その時に記すことにしよう。

 

総括 眼差しの放射性

ボルタンスキーの言葉で、『愛の眼差しが全てに命を吹き込む』という言葉を目にしたとき、私は『Lifetime』と名付けられた回顧展に展示された、全ての作品に通じる哲学を与えられたように思った。

今回、たまたまとある方のツイートを目にし、何の気なしに行って正解だった。こんなにも、考える言葉が自分の中に生まれてくるとは想像もしなかったのである。

改めて作品を鑑賞して、自分の眼差しは、放射性を持っているということに気づいた。自分の眼差しが放たれ、作品に射し込むとき、同時に作品から反射して放たれたものを私は言葉として受け取っているように思った。ボルタンスキーがどんな人物で、どんな考えを持っていて、どんな作品を作ってきたかを知らなくても、考える言葉と、作品に向き合うだけの時間があれば、案外、容易にボルタンスキーという人物は想像できるし、仮にそれが制作者のボルタンスキーと全く異なっていたとしても、その想像によって形作られたボルタンスキーもまた、作品を作ったボルタンスキーと何ら変わりのない人物であると私は思うのである。

国立新美術館の展示は9月2日までで一般は1600円。ヴィトンの7階の展示は11月17日までで無料である。是非とも、足を運んでほしいと思う。

願わくば、クリスチャン・ボルタンスキーの作品を見た人が、どんなことを想像するのか、とても興味がある。どんな芸術作品も、あなた独自の眼差しによって、あなたの心の中に完成するのだから、臆することなく、言葉にしてほしいと思う。

今回、私は次のような言葉を思い浮かべた。

死は愛の眼差しによって目覚める

愛の眼差しは全てに命を吹き込む

オススメとしては、国立新美術館の回顧展を見た後に、『クリスチャン・ボルタンスキーの可能な人生』というドキュメンタリー映画を見ると良いかも知れない。このドキュメンタリー映画は、ボルタンスキーという人の創作哲学を考える上で、とても重要な作品であると思う。ただ、ヴィトンの7階の壁に、小さなディスプレイで1時間近い映像が流れるため、なるべく人がいない時間を狙って見にいった方が、他者から不思議な目で見られずに済むと思う。

回顧展は意外と人が少ないので、さくさくっと見ることが出来た。今がチャンスだと思う。

さて、そろそろ記事は終わりである。解決されることのない、山積みとなった問いかけを思う限りに書いたつもりである。

とても長くなってしまったが、後悔はしていないし、むしろかなり後半を省いたから、ある程度コンパクトにまとまっていると思われる。

ここまで読んでくれたあなた、本当にありがとう。熱心な読者を私は大切にしたいと思っている。

それでは、素敵な情報を頂いた方に感謝し、同時に「感想を聞きたい」とメッセージをくれた方に感謝し、この記事を終わりたいと思う。

あなたが素敵な芸術に出会えることを祈りながら、さよなら、さよなら。