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ファイティング・スピリット~2019年7月27日 第11回 落語ぬう 新作打ち上げ花火~

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北条政子

 

ビックリガード

 

顔だから

 

夜露死苦

 

バンバカチョップ

猛暑だよ、もうどうしよう

暑い。とにかく暑い。蒸し暑くていけない。この暑さから逃れるために、全人類が全裸になればよい。とまでは考えないが、それほどに暑い日である。

梅雨が長引いたせいで、最近は憂鬱な気持ちで日々を過ごしていたが、ようやく夏がやってきたような、夏の頭部が見えてきたような、そんな日になった。

私はこの暑さの中で、とくに日焼け止めクリームを塗るでもなく、ひたすらに歩いていた。目的はただ一つ。本屋を巡る事である。

特に欲しい本があるというわけではないが、古本を眺めていると、自分が生まれる前の時代にタイムスリップするような感覚がある。特定の時代の、特定の時期に刊行されていた雑誌を手に取ると、その頃に人々が何に熱中し、何を面白いと感じていたかということが、何となくではあるが理解することが出来る。

珍しい希少な本が欲しいと思うことが多々ある。電子書籍が出版されている時代であっても、私は本という『物質』にこだわるタイプである。本の質感、ヨレ、ヤケ、ヨゴレ具合に、電子書籍には無い、人の温かみを感じるからである。

また、本の匂いというものも良いのである。これは完全にフェチであるが、ヨゴレとシミの具合を見るだけで、「おお、これは良いぞ」と興奮する人間である。また、古ければ古いほど、日本語の使い方が今とはまるで違っており、背表紙などは達筆で書かれていて、何だか訳が分からないという文字の書かれ方をしている本がある。それもたまらなく知的好奇心をくすぐってくるので、きっと私と一緒に古本屋を巡ると、楽しいと思いますよ、お嬢さん。(突然のアピール)

タイトルに惹かれ、購入した本が一冊。東君平先生・著『100杯目の水割り』。名前を全く存じ上げていなかったが、どうやら絵本を書いている人であるらしい。

古本との出会いは、新品の本には無い感動がある。この時代に、既にこんなことを考えている人がいたんだ!という驚きもさることながら、こんな時代だからこそ、こんなことを考えられたのかも知れないな、と思う本に出会うこともある。

温故知新という四文字の奥行きが、古本屋に行くとどんどん広く、長くなっていくのである。是非、機会があれば神田神保町に行って頂きたい。

さて、その足で私はお江戸日本橋亭へと向かった。

古書の古き良き時代の雰囲気から、一変して最新の、日本の未来を感じさせる雰囲気のある場所へと辿り着いた。

今宵は、『新作打ち上げ花火』と題して、四人の真打が登場である。

一体どんな新作が聴けるのか、楽しみにしながら会場へと入った。

 

三遊亭ぐんま 銭湯最前線

寄席で見かけることはあっても、実際に落語を聞くことは無かったぐんまさん。白鳥師匠の二番弟子で、一番弟子の青森さんは今年二つ目に昇進している。

まず一声聞いて驚いた。あくまでも私好みなのだが、

 

 とっても声が良い!!!

 

古今亭志ん生師匠や春風亭小朝師匠の系譜に連なるような、高~中音域が艶やかなトーン。耳に心地よく、どこか愛らしさを感じさせる声。つくづく思うのだが、声が良い人はそれだけで得をしていると思う。あくまでも好みの問題だが。

そんな三遊亭ぐんまさん。まだ前座の階級ではあるが、実力は既に二つ目級であると思えるほど、流麗な語り。土壇場のアドリブで会場が割れんばかりの大爆笑に包まれ、本人も驚いた様子。白鳥師匠のスピリットを見せつけ、前座ながら圧巻の高座を務め上げた。

銭湯は私も良く行くので、『銭湯最前線』というネタは身近な話であった。登場する爺さんに出会ったことは無いが、随所に銭湯らしい小ネタが挟まれていて面白かった。ひょっとすると銭湯ネタだけを集めた会が開かれたりするのではないか。玉川太福さんにも銭湯ネタが幾つかある。浪曲にしても面白そうだと思った。

マクラからネタへの絶妙の繋がりも素晴らしく、きっと二つ目、真打になるまでの間に、物凄い人気を得るのではないだろうか。

将来が有望な前座がここにも一人、会場に爆笑を巻き起こしていたのだった。

 

 三遊亭白鳥 悲しみはビックリガードに向けて

もはや語るには及ばずの、現代の新作落語家の中でズバ抜けた創作力を持つ白鳥師匠。平成から令和の三遊亭圓朝と言っても、過言ではないくらいに素晴らしいネタを数々作り上げている。また、白鳥師匠の作った噺を、たくさんの落語家、のみならず講談師、浪曲師が演じられていて、その幅の広さ、普遍性は、この先も評価され続けていくだろう。

そして、そんな白鳥師匠の源流には三遊亭圓丈師匠がいることを忘れてはならない。今回のネタは、圓丈師匠の『悲しみは埼玉に向けて』のスタイルを借りた、白鳥師匠の自伝的ネタだった。

詳細は書けないが、落語マニアであればあるほど面白い一席である。同時に、白鳥師匠の高座に触れてきた人にとって、特別な一席だったのではないだろうか。

滔々と過去を振り返りながら、自らの人生を語る白鳥師匠。そして、次々と会場では爆笑が巻き起こる。もはや爆発である。語っている白鳥師匠も嬉しそうだった。

滅多にお目にかかれない、寄席では披露されることが無いかも知れないネタ。貴重な一席に、腹と頬骨の痛みを感じながら、万雷の拍手に送られて颯爽と帰っていく白鳥師匠。スピリットは今もなお、燃えているのだった。

 

柳家小ゑん 顔の男

喉を少々痛めてしまったようで、いつもより落ち着いた語りの小ゑん師匠。お体にはお気をつけて、早い回復を望むばかりである。

そんな小ゑん師匠の、あまり喉を使わず、その代わりに顔を酷使するネタが始まった。詳細は書かないが、これが物凄く面白く、生の高座の醍醐味を存分に味わうことが出来た。

顔に絡めたお話というのは、他にもあるのだろうか。言葉以外が重要なネタと言えば、蒟蒻問答が思いつくが、それ以外には何かあるだろうか。

喉を傷めていても、顔で会場に爆笑を巻き起こす小ゑん師匠。そのファイティング・スピリットに胸が打たれる。もっともっとマニアックな話を聞いてみたい。一日も早く回復され、また元気な鉄道やはんだ付けの噺が聴きたい。

 

 仲入り トーク 三遊亭たん丈 三遊亭圓丈 古今亭駒治

しばらくの間の後、駒治さんと圓丈師匠が登場。話題はたん丈さんの真打昇進とのことで、たん丈さんが登場。たん丈さんと言えば『ナマハゲ小噺』の印象が強い噺家さんで、ナヨナヨっとした感じが絶妙に落語っぽさを醸し出している。

殆どたん丈さんの真打に向けた心構えなどのお話になっていた。圓丈師匠の真打昇進の話や、しくじりが聴けたのは貴重だった。是非ともお弟子さん全員の真打昇進まで、お元気でいてほしい。

 

 古今亭駒治 さよならヤンキー

トークで若干疲弊したかに見える駒治師匠だが、真打となってより一層逞しさが増したような気がする。溌溂とした好青年のオーラがある。

以前、スタジオフォーの四の日寄席終わりに、近くの蕎麦屋で蕎麦を食っている時に遭遇したことのある駒治師匠。その時はまだ駒次さんだったけれど、類稀なる創作能力と、もはや『駒治節』とも呼ぶべき、畳み掛けるリズムは健在。一度乗ったら速度をグイングインと速めて、超特急でありながらも、耳馴染みが良く、はっきりと聞き取れる滑舌の良さ。そして唐突に現れるホロリと泣ける人情のエッセンス。

また、真打昇進披露興行の時の、お客さんの真面目さも印象深い。真面目で、実直で、精悍な駒治師匠らしい語りに、会場はうねるように爆笑が巻き起こっていた。

演目の詳細については語らないが、兄弟や家族、そしてヤンキーの、それぞれの人情と思いが交錯した、素敵な一席である。

私は何年か茨城に住んでいたことがあるが、その時の思い出が蘇ってくる温かくて笑える素晴らしいお話だった。

 

三遊亭圓丈 イタチの留吉

もはや何の違和感も無い、台の上に乗せられた台本。そして、それを読みながらの圓丈師匠の語り。まさに、この語りを、客席にいた満員のお客様は見たかったのだと私は思った。

そこには、笑いへのファイティング・スピリッツがある。

高座に上がる度に、記憶力の衰えを口にしながらも、語り続ける圓丈師匠。

その、高座に上がる、ドカンッとしたスピリットを、

私は見たかったのである。

高齢になろうとも、裃が切れなかろうとも、記憶力が衰え、単語が出なくなろうとも、高座に上がり、言葉を発し、ひたすらに、自分が面白いと思うことを、客席に向かって放ち続ける姿。

そこに、私を含む大勢のお客様は惹かれているのだ。

伝説を築き上げた人は、一つ伝説を築き上げただけでは終わらないのだ。

また新しい伝説を、また新しい伝説を、また新しい伝説を、次々に生み出していく。

そんなことが、果たして人間に可能なのだろうか。

可能だ、と圓丈師匠の姿は言っているような気がする。そこには、あくなき高座への思いがあるように思えるのだ。それは決して、高座の上で血の滲むような姿を見せるということではない。ただ、自らの身体を受け入れながら、それでも心は身体に抗いながら、挑戦し続ける。全ては、自分が全身全霊をかけた高座のために。

私が圓丈師匠の立場だったら、絶頂期でスパッと辞めているかも知れない。衰えていく姿を人に見せていくことは、恥ずかしいと思ってしまうかも知れない。だが、その考えの先に、圓丈師匠は突き進んでいるのだ。

と、美談のように語ってはいるけれども、圓丈師匠の苦悩は計り知れない。現代の新作落語家の全ての指針となっている圓丈師匠は、決してその地位に胡坐をかくことなく、どこまでも、どこまでも新作を追い求めている。死ぬまで、追い求めるだろう。

なぜ、その姿勢が私の心を打つのか。きっと、自分にはまだ、それほどまで突き詰められるほどの覚悟が無いからだろう。自分にはコレだ!というものを、信じられるものを、持っていない空っぽさ。圓丈師匠の高座を見る度に、揺さぶられる心。

「お前の信じたものを、突き進めよ」

そう言われているような、しみじみと、素晴らしい高座だった。

偶然にも、同日、春風亭百栄師匠が同じ演目を行っていることに、何か特別な運命を感じた。

柳家喬太郎師匠も、林家彦いち師匠も、その他多くの噺家さんたちが、圓丈師匠が生み出した落語を演じている。今もなお、圓丈師匠のスピリッツは、大勢の噺家に受け継がれているのだ。

そんな圓丈師匠の姿を、久しぶりに見て、自分の心に熱い炎が灯った。

 

総括 前へ、前へ、前へ

どんなに苦しいことがあっても、痛いことがあっても、諦めずに前に進み続けることの大切さを、私は圓丈師匠の高座から感じた。

どれだけ年を重ねても、面白い人は面白くあり続ける。会場にいた人達が、面白さを支えているように思えた。客席にいた人達の顔はみんな、圓丈師匠の作品の一部になりたい、圓丈師匠と空間を共にしたいという、素敵なお顔をしていた。

そう、きっとそうだ。圓丈師匠が「みなさん、呼んでみましょう」みたいなことを言ったとき、会場にいた誰もが、その言葉に呼応して、一つの言葉を叫んだ。その瞬間の、圓丈師匠の嬉しそうな表情、そして、その場にいたお客様の嬉しそうな表情。どれもがどんな輝きにも増して輝いているように思った。

これだ、きっとこれだ。私はそう思った。全ては演者と観客が作るのだ。面白い人は、その面白さを理解してくれる人々によって支えられている。爆笑問題の太田さんに、田中さんがいるように。噺家には、大勢の、素晴らしいお客様がたくさんいるのだ。もちろん、中にはちょっと乱暴な人もいるかも知れないけれど、まぁ、そんな時もある、と大目に見ることにしよう。

お江戸日本橋亭を出た私は、明るい夜の街へと消えて行った。自分はどんな風に歳を取りたいか、どんなふうに死にたいか。そんなことを考えていた。そして、私は願いが一つ叶うとしたら、それは何だろうかと考えて、答えが出た。

『毎日を笑って過ごす』。そんな願いが少しでも、叶うように、私は落語を含む、多くの演芸を見るのだろう。

素晴らしい一夜。打ちあがった花火は、とてもとても輝いていた。

あー、面白かった!!!