粋な東男に~2019年8月4日 浅草演芸ホール 夜席 三遊亭笑遊トリ ~
粋な東男を、京女に見せてやろうぜ
とことん
落語が好きだ。死ぬまで好きだ。これだけは間違いの無いことだ。『脚が狼を養う』という諺があるが、『落語が私を養う』と言っても過言ではないくらいに、休日や平日のぽっかり休みに、私は落語を求めて歩き、落語に生かされている。
どんな落語に出会いたいかと問われても、難しい話である。最近では、ネタ出し(予め落語家が演じる演目が公表されている)の会も多いが、私はむしろネタ出しされていない、偶然によって出会うネタに強い魅力を感じている。その場の空気感であったり、その時の気持ちであったりが、自然と、演じられたネタに集約されていくような感覚を味わうことが出来るからだ。
例えば、どこか料理店などに行って、コースを頼んだとする。予めメニューに記載された料理が出てくるのを待つよりは、『シェフの気まぐれコース』などと書いてある方が、「一体何が出てくるんだろう!」というワクワク感があって、楽しめる。メニューが分かり切ったコースだと、ある程度想像してしまうし、自分の心がメニューの一品一品に対して準備をしてしまうのだ。きっと、これはこんな味かななどと考えてしまうと、もはやワクワク感は失われ、業務的な食事になってしまう。
コース料理には、『ペアリング』といって、料理に合う飲み物(ワイン、ビール等)が提供される。これも、一品一品シェフによる説明が入ったりすると、その理論や考え方を知ることができ、また、料理が飲み物によって引き立つことを実感できたりするので、二重にコース料理を楽しむことが出来る。もちろん、自分が飲みたいものを飲みたい時に頼むのも良いが、せっかくであれば、シェフの至高の思考に触れてみたいとは思わないだろうか。
残念ながら、浅草演芸ホールでは落語家に合う飲み物は提供されない。「今、この落語家は『青菜』という演目を始めましたので、柳陰をお飲みください」なんてことは、誠に残念ながら、無い。「きく麿師匠が『だし昆布』を演じ始めたので、こんぶ茶をどうぞ」なんて、親切で配慮のあるスタッフは誰一人としていないのが現状である。もちろん、そんな場もあるにはあるのかも知れないし、もし存在するとしたら尋常ならざる興味があるが、果たして笑うことができるか心配である。きく麿師匠の『だし昆布』を聞きながら、こんぶ茶を噴かない自信が私には無い。
現状は、飲食可能な寄席に限って言えば、飲み物は自分で選ぶしかない。そのセンスは観客に委ねられている。私は大抵、水かお茶であるが、中にはアルコールの類を飲む者もいる。落語とアルコールの関係性について詳細に研究をしたわけではないが、私自身の体感からすれば、『お酒を飲んで聞いた落語は、その時はめちゃくちゃ面白いと感じるが、酔いが覚めた後に何もかも忘れている』という状態になるので、もともと記憶力の無い方や、落語家が演目に入った途端に演目をメモする癖のある人にはオススメである。
アルコールを摂取すると、人は陽気になる。摂取量に比例して陽気になると思われる。酔って陽気になることは誠に結構なことである。私自身は何度も陽気になって、しくじった経験があるので、今は美味い酒だけ一~二杯飲むようにしているが、中には安酒で、度数の高いものをガブガブと飲んで、酒に酔って酔狂なことをしでかす輩もいるのである。
それは、まさに、コース料理が出てきたとしても、お構いなしだ。
とりわけ、浅草演芸ホールのような場所には、そんな『アルコールによって陽気になった人々』が蠢いている。まるでゾンビかと思う。今しがた地中から這い出てきて、訳も分からず「ウオオー」や「イエアーイ」などと言いながら、千鳥足で彷徨い、両手をだらりと垂らし、目は虚空を見つめ、口からは涎を垂らし、ボロッボロのキャップと、薄汚いサンダルと、秩序を失ったワカメのような髭を蓄えた、愛すべき『アルコール・ゾンビーズ』達がうじゃうじゃと闊歩する街が、浅草演芸ホールである。
アルコール・ゾンビーズは『驚安』や『ペンギン』や『PANDORA』という文字に過剰反応する習性を持ち、血走った眼と不揃いな歯をギラつかせながら歩いている。噛まれたら大変である。即座に血清を打たねばならないので、もしも噛まれた人は『浅草ロック座』に逃げ込むことをオススメする。そこには、海底に行っても見つからない鮑が見れるので、それを拝見するだけでゾンビ化を防げる。が、間違ってもアルコールを摂取し、鮑に触れようなどと考えてはならない。もしも触れようとしてしまったら、それこそ一生クリミナルである。
さて、どういうわけか結構な頻度で、浅草演芸ホールにアルコール・ゾンビーズが紛れ込むことがある。浅草演芸ホールの一つの特徴と言っても良いのだが、夜席には大変多くのアルコール・ゾンビが侵入してくるのである。私も噛まれないように気をつけてはいるのだが、遠くから見ていると、なかなかに迫力があって面白いのである。
この日は、夫婦揃ってアルコール・ゾンビという大変珍しいことが起こった。メーカーは分からないが金色のビール(恐らく750mlの缶ビール)を両手に持ったゾンビが、桂小南師匠が登場された辺りから、突然、騒ぎだしたのである。
ああ、ヤバイ、噛まれるぞ。というスリルを味わいながらも、桂小南師匠は冷静に対処していく。ゾンビ夫婦を相手にしている最中、地震が起こったにも関わらず、桂小南師匠は動じない。動かざること山の如しの落ち着きようで、圧巻の『紙入れ』を披露して去っていった。
桂歌春師匠は優しく注意したのだが、それでもゾンビ夫婦は怯まない。どうやら、人間の言葉を理解していないようであった。
最も驚いたのは、三遊亭遊三師匠が『青菜』を演じられた際に、酔っぱらった旦那ゾンビが立ち上がり、数回スクワットをした後、他の客に絡もうとし始めたのである。やたらと遊三師匠の眼が客席に向かうので、何かと思ったら、夫ゾンビが観客に噛みつこうとしていたのである。これは浅草ロック座の鮑だろうか、とヒヤヒヤしていると、係員が止めに入って、そのまま退出させられた。そんなことも露知らず、妻ゾンビは眠りこけている。後に笑遊師匠のトリを前にして退出させられた妻ゾンビであるが、何とも幸福なゾンビ夫婦の姿に、私は涙が出そうだった。人間らしさを失い、屍になっても、酔って騒がなければならない運命が可哀想でならなかった。出来ることならば、素面で、缶ビールなぞ持参せずに演芸を楽しんで頂けたら幸いである。コント青年団さんとか、『ゾンビ・チャチャ』に屈せずに芸を披露されていて、超カッコ良かった。どうか皆様も、アルコール・ゾンビに出くわしたら、寛大なる慈悲の心で、塩をぶっかけて心のロザリオで突き刺して浄化させてあげてください。
というわけで、トリのお話。
袖から登場したとき、私は思わず叫んだ。
待ってしました!!!
これをここで言わずして、
何が男か。
何が落語好きか。
何が演芸好きか。
そんな思いが、私の中で爆発した。というのも、笑遊師匠の登場までの間に、暴れ放題に暴れたゾンビーズ達が、全て浄化されたという心晴れやかな気持ちがあったからである。本当だったら、コント青年団さんだって、桂小南師匠だって、桂歌春師匠だって、素っ頓狂な奇声とゾンビ・チャチャに邪魔されることなく聴きたかった。
私にしては珍しく、怒っていた。
(くっそう。こっちは笑遊師匠を含めて高座に上がる人達の言葉を待ってるんだぞ!ぼくは非力だけど、誰とも比べ物にならない、落語愛だけはあるんだ!きっと楽屋だって、「なんか酔っぱらっているお客さんがいるから、気を付けてくださいね」みたいな言葉が交わされているかも知れないんだ!そんな風な空気で上がってくる笑遊師匠が、どんな気持ちでいるか分かっているのか!けしからんぞ!ゾンビーズめっ!)
だったら、である。
だったら、私が、
最後に、
これを言って、
全てを丸く収めよう。
というか、これを言わなくちゃ、
何もかもが、終わっちゃう。
残念なままに、終わっちゃう。
そんなのは、
嫌だ!!!
だから、ありったけの思いを込めて、私は、
待ってました!!!
と叫んだのである。
その後のことは、詳細には書かない。ただ、私は笑遊師匠の、最高にカッコ良くて、痺れるくらいに熱い、素晴らしい高座を見た。ただただ震えて、それまでの何もかもが、熱く、熱く、情熱に満ちていて、きっと、笑遊師匠の中にも、何か込み上げてくるものがあったのかも知れない。
『粋な東男を、京女に見せてやろうぜ』
かっけぇな、かっけぇ。もうね、三遊亭笑遊師匠は、
最高にカッコイイ!!!!!
二年前の夏。私は同じ場所で『祇園祭』を聞いた。客席の入りは寂しかった。興味本位で入ったサラリーマンを、笑わせよう、楽しませようとする笑遊師匠の姿が、めちゃくちゃカッコ良かったことを、今でも覚えている。あの瞬間に、私は三遊亭笑遊師匠に惚れたのである。そこには、確かな熱い魂があって、それはとても、カッコ良かったのである。
そして、二年が経って、あの時よりも客席は僅かだけど増えていて、私は「待ってました!」を言うことが出来て、そして、笑遊師匠の『祇園祭』はさらに進化を遂げていた。何もかもが、素晴らしいじゃないか。
最後のオチを言い終えて、笑遊師匠と目が合ったとき、これは私の勝手な思い込みだが、「ありがとね」と言っているような、優しい瞳をしていた。私がもっと若くて、今よりももっと好きなことを見つけていなかったら、弟子入り志願していたかも知れない。
そんなことを思いながら、私は両手が痛くなるほどの拍手を笑遊師匠に送った。
総括 粋な東男に、俺はなるっ!
浅草演芸ホールを出て、家に帰る道すがら、擦れ違うアルコール・ゾンビーズ達が目をトロンとさせて、永遠の眠りにつこうとする様を横で見ながら、私は三遊亭笑遊師匠の高座を何度も思い返していた。私も、二年前とは違って、色々な落語家の芸に触れてきた。言葉にしてきた。それでも、日々、進化していく落語家さん達の芸に、毎日、毎度、見る度に、驚かされているし、感動しているし、痺れている。
かつて私は『落語界のマッドマックス』だと三遊亭笑遊師匠のことを書いた。なぜか道楽亭さんがそれを微妙に変えてチラシにしていたりもした。
今、思うのは、三遊亭笑遊師匠は『落語界の宝』であると同時に、『落語界の粋な東男』でもあるということだ。あんなに熱くて、人情味に溢れた東男の高座は他に無い。どれだけ客の入りが寂しくても、たった数十人のためであったとしても、笑遊師匠の、本気の高座には、特別な輝きがある。
私は、これからもずっと三遊亭笑遊師匠の高座に触れていたい。独演会は最高である。出来ることならお近づきになりたいが、まだそこまでの勇気はない。でも、お手紙を頂く度に、独演会に足を運んでいる。そして、三遊亭小笑さんや三遊亭あんぱんさんのような、特別な個性を持ったお弟子さんも力をつけている。小笑さんに関しては未だに苦手だけれども(申し訳ない)
私も、粋な東男になりたい。人の気持ちを温めて、自らも温かく、熱く、人情に厚い、カラッとした男になれるだろうか。
果たして、私は粋な東男になれるだろうか。
いやいや、そうじゃない。
私は粋な東男になるのだ。
粋な東男とは何か、この目ではっきりと、
学んだのだから。