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自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

おしまいの無い永遠の旅路へ~2019年8月24日 新宿末廣亭 深夜寄席~

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さーちゃーん!!!

 

「せいねんがっぴー」でお馴染み

 

死ぬんですぅ!ぼくはしぬんですう!

 

ここからが面白いところ 

I'm praise man

人の悪いところを見つけるよりも、人の良いところを見つける。そして、それを多くの人に知ってもらう。私にとって、それがブログを書き続けるための大きな指針となっている。

思えば、160記事を越えて多くの記事を書いてきた。その全てが誰かを賞賛している。というか、賞賛しかしていない。今では、すっかり人の良い点しか見えなくなった。というか、良い点を見れば見ようとするほど、自分が幸福になっていくことに気づき、記事を書くことを止められなくなった。

一体なぜ、自分でもこんなに幸福なことがずっと続くのかさっぱり分からない。ただ、なぜだか人を褒めたり、人の良い点を表す言葉を探していると、実生活を含めあらゆることが幸福になっていくのである。実におかしなことであると思う。

元来、私は臆病な人間である。人前で話すことは苦手であるし、何か自分のことを言葉で伝えようとしても、なんだか上手く伝えられる自信が無い。また、人から褒められることにも慣れていない。褒められても「自分はまだまだ・・・」という気持ちになって、一向に満足するということがない。常に人の良い点をちゃんと言葉で表現できているのか不安でいる。誰かに認められても、まだまだ、全然、未熟であるという思いが強く、書いても書いても、満足するということがない。むしろ、マンネリ化していないか、とか、適切な言葉だっただろうか、と不安になることもある。それでも、一応の目途が立って記事をアップする。色んな人が見てくれて、評価をしてくれる。嬉しい。確かに嬉しいのだが、その嬉しさに甘えていられない自分がいるのである。

これはきっと、おしまいの無い永遠の旅なのであろう。なまじ文章を書くことが、幼い頃から出来てしまったがために、こうやって文章を書いて誰かに伝えたいという思いを抱くことになったのだ。そして、そこからずっと今でも『誰かに自分の思いを伝えたい』という、その思いに突き動かされて、言葉を探し、私は記事を書くのだ。

どんなことでも、人にはそれぞれに楽しみ方というものがある。短い言葉で思い出を表現する人もいれば、何も言葉にせず胸に秘めている人もいる。私がただ、ブログを開設して記事を書いて、演芸を楽しみたいと思っている人間だというだけの話だ。

それでも、きっと私の思いは、色んな人に共有できるのではないか。私が考えて紡いだ文章は誰かに届くのではないか。追体験とまでは行かなくても、私の思ったことが書かれた記事を読んだ人が、私の考えに新たな発見をするのではないか。そんなことを思ったら、書いてみる価値もあるだろうと思った。

既に演芸関連の記事を書く人のブログを幾つか読んだ。批判している者、枕を詳細に書く者、端的に自分の思ったことを書く者、幾つかのブログを読んで、私はどんなブログ方針で書くべきかが分かってきた。まだ、他の誰もやっていないブログを、まだ他の誰も気づいていない記事を、書こうと思った。

それが、このブログとなった。

私は『賞賛者』の立場になることに決めたのだった。どんな演者からでも、良い点を見つけ出し、言葉にする。そう決めた日から、今日まで、何度か挫折しそうになったり、不適切な言葉を書いてきたかも知れないが、読者に支えられて、なんとか今日まで来た。

まだまだである。私はまだまだなのである。スタートにも立っていないのである。しかしながら、書き続けてきたことで、私は今、他の誰よりも人の良い点、日本演芸に携わる人々の良い点を、見つけ出し、言葉にしてきた人になっているのではないか。

そう思ったところで、どうという話ではない。これからも、私は書き続けるのだ。そして、いつか現代の噺家の、良い点だけが集まった本が出せたら本望である。どうやって出すかは分からないけど、目の前のことを一歩一歩続けて行こうと思う。

さて、今宵、四人の二つ目が深夜寄席の高座に上がり、二つ目として最後の深夜寄席を行う。9月下席から始まる真打昇進披露興行に向けて、準備で大忙しのなか、互いに切磋琢磨した噺家の今の姿を見ることが出来るとあって、大勢の人が押しかけていた。

そうだ。誰もが何かに向かって突き進んでいる。どんなに足取りが遅くとも、歩み続けている限り、前に進むのだ。そんなことを思いながら、受付にいた柳家わさびさんに「おめでとうございます」と言って入場。

 

 初音家左吉(9月下席より 古今亭ぎん志) 無精床

トップバッターは初音家左橋師匠の一番弟子、愛称は『さーちゃん』でお馴染みの初音家左吉さんである。真打昇進とともに、愛称である『さーちゃん』を呼ぶことが出来なくなってしまうのは、何だか寂しいけれど、新しい名前の『ぎん志』もカッコイイ。というか、左吉さんは見た目もカッコイイ。ロックンロールが好きな感じが伝わってくるし、何より、左橋師匠に弟子入りするというセンスが最高だと思う。金糸雀の如く、歌うような鉄板ネタを幾つも持ち、ぎらりと光った丸い目と、整った顔立ちで女性人気の高そうな左橋師匠の弟子になるということが、左吉さんの何よりのセンスというか、ぴったりな選択だと私は思ったのである。

左橋師匠の男前ぶりを左吉さん流に継承している感じが、見ていて清々しい。古典ネタにも独自のヒネリを効かせて、滑らかに歌うようなトーンで流れて行く語り口。この演目は、簡単に言えば『無精な店主のいる床屋で起こる騒動』という感じなのだが、絶妙な軽さと、クールな佇まいが最高である。

真打になって、どんな演目を見せてくれるのか。新作もやったりするのだろうか。どんな風に左吉さんが落語の世界を切り開いて行くのか、楽しみだ。

 

柳家ほたる(9月下席より 柳家権之助) 居酒屋

お初の噺家さんで、師匠は寄席の爆笑派、柳家権太楼師匠である。深夜寄席開演前の段階から面白く、行列に対して「壁際に寄ってください。沢田研二でお願い致します」と言ったり、列が動き始めると「皆様、クラウチングスタートでお願い致します」と言ったり、「おっ、面白そうな人だ」と思う発言が、寄席の開演前から既に始まっていた。

落語が始まる前も、落語が始まってからも面白い柳家ほたるさん。権太楼師匠譲りのゴン太な感じもありながら、独自のセンスが光る一席だった。

随所に権太楼師匠の影響を感じる間やトーンがあったり、権太楼師匠の物真似がめちゃくちゃ上手かったりするなど、多才な噺家さんである。真打の興行ではどんな演目をトリに演じるのか、今まで見て来なかったことを後悔するくらい、面白そうな落語家さんである。

演目の簡単な内容は、『居酒屋で酔った客がくだらないことを言う』感じで、この絶妙にくだらない感じ、何のためにもならない感じが面白かった。

 

柳家わさび ダメな人間

柳家さん生師匠の弟子であるわさびさん。真打になっても名前はそのままである。

まず思うのは、

 

 いやー!!!

 すげぇわ!!!

 

である。

もはやわさびさん唯一無二と言っても良いフラ(雰囲気)。わさびさんにしか出来ない話し方のトーンであったり、醸し出す雰囲気が物凄い爆笑を巻き起こしていた。

なんというか、『点滴の最中にこっそり病院を抜け出して落語をやっている人』と言えば良いだろうか。そんな風貌のわさびさん。その瀕死の雰囲気から繰り出される、全てが振り切れた全力の落語が、めちゃくちゃに面白いのである。恐らくはとてもクレーバーな人で、自分という存在がどう見られているかを気にしている一方で、新作落語の先駆者達の背中を見ながら、自分にしか出来ない落語を追及している噺家であると私は思った。

そんなわさびさんの魅力が、全開にまで溢れ出していると感じたのが『ダメな人間』という一席である。凄い新作である。こんな新作を生み出すまでに、どれだけの試行錯誤があったのか分からないし、どんな思いでネタを書いていたのか、想像が付かない。それでも、この一席を作り上げたわさびさんの新作落語家としての未来は、決して『ダメ』ではなく、『良い』筈である。

たとえば、大勢のいる教室で一人だけ誰とも交わらずに、こっそりと自分の世界を作り上げながらも、スクールカーストの上位に位置する人々に一瞥をくれるだけで、ひたすらに自分自身を磨き上げて行くタイプのように思えた。自分の信じていたり、憧れている噺家に対して、熱狂的なまでの情熱を捧げる一方で、自らはそんな存在と同じことは出来ないのだと悟り、ならば自分にしか出来ないもので、多くの人々を熱狂させようと、自らの道を切り開いていくような噺家だと私は思った。

万人受けするかは分からないけれど、おそらく、生まれつき病弱で、なかなか学校に行けなくて、病院に入院している人達と仲の良い人であったり、クラスの生徒達の輪に入れず、自分の存在意義を見失っている人には、絶対にオススメの噺家さんである。恐らく、全ての噺家の中で、わさびさんだけが救うことの出来る人達というか、わさびさんだけが笑わせることの出来る人が存在するのではないか。そんなことを思ってしまうほどに、わさびさんの魅力が溢れ出した一席だったのである。

それまで、私はわさびさんは春風亭百栄師匠作『露出さん』くらいしか聞いて来なかったけれど、改めて聞いてみて、こんなに凄い人だったとはと衝撃を受けた。

なんていうか、色んな人の話を聞く感じでは、『可愛がられる後輩』という感じがわさびさんにはあるように思えるのだ。春風亭一之輔師匠だったり、柳家喬太郎師匠だったり、柳家わさびさんが憧れる先輩達は、同時に柳家わさびさんを愛しているのではないか。そんな雰囲気が何となく感じられて、凄く、良いのである。

『ダメな人間』という演目も、敢えて内容は語らないけれど、絶望を笑いで何とか希望へと逆転させていく、光のような人情がそこにあるように思えた。最後の瞬間にハッとするような一言があって、それだけでも柳家わさびさんの創作能力の高さ、視点、着眼点の素晴らしさが分かる。

くそう、もっとシブラクで聴いておけばよかった。と、今更後悔しても遅いのだが、今後は、柳家わさびさんにしか出来ない新作が続々と生まれてくるような気がする。そして、それは多くの人に笑いをもたらし、多くの人を救うのではないかと思う。

 

笑いって、救いだね。

 

そんなことを感じた、素晴らしい一席だった。

 

柳家喬の字(9月下席より 柳家小志ん) のっぺらぼう

深夜寄席のトリを飾るのは、柳家さん喬師匠門下の8番弟子、喬の字さん。高座姿から性格が見えないミステリアスな噺家さんだと私は思っている。普段の私生活とかどんな感じなのだろうか。何とも言い表せない不思議な噺家さんである。

柳家小太郎さんであったり、柳家やなぎさんだったり、高座から何となく人柄が想像できる噺家さんもいるのだが、喬の字さんに限っては不思議と、どんな人柄なのか言い表す言葉が見つからない。何とも、言えないのである。むしろ、それが喬の字さんの魅力なのかも知れない。

トリの演目選びは完璧だと思った。この演目は『のっぺらぼうの繰り返し』というような内容で、正に真打としての在り方を問うような一席だと私は思った。

なんというか、『おしまいのない旅路』を、この『のっぺらぼう』という演目から感じ、喬の字さんの隠れたメッセージがあるように思ったのだ。噺の中に何度も登場する『のっぺらぼう』。そして、どこまで行っても続くのっぺらぼうの無限ループ。これは、噺家が高座に上がり続けることを暗示しているのではないか。

いつもまっさらな、のっぺらぼうの顔のような気持ちで、高座に上がる。のっぺらぼうからは、どんな表情かも、どんな人間かも感じることが出来ない。目と鼻と口などがあって、初めて「なんとなく、この人はこんな感じの人かな」ということが推測できる。イケメンだったら性格が良いだろうとか言える。いかにも悪そうな顔の人だな、とか、無意識のうちに、何の根拠も無く決めつけてしまうことができる。だが、『のっぺらぼう』だけは、そんな風に言葉で言い表すことができない。

これも私の想像だが、恐らく、喬の字さんは、そんな『のっぺらぼう』に自分を投影していたのではないか。冒頭に記したように、喬の字さんから感じられない人柄であったり、何となくの雰囲気、それがのっぺらぼうに近いのではないかと思ったのだ。

前座の醸し出す雰囲気とは違うのである。前座の場合はまだ入り立てで、噺が肚に入っていないまっさらさがあるけれど、真打になる喬の字さんの醸し出す雰囲気は、何と言えば良いのか、私も上手く言葉が見つからないのである。

もっと、高座を見たり、普段の姿を見れば分かるのだろうか。真打になって何年かしたら、何かが分かるのだろうか。ミステリアスに包まれながらも、素敵な決意の一席だと私は思った。

 

 総括 おしまいの無い人生

死ぬまではおしまいの無い人生の門出に立った四人の噺家を見て、私は改めて様々なことを思った。前座時代を過ごし、二つ目時代を過ごし、そして真打になった人に最後に待っているのはご臨終である。その間に様々な賞を取るかも知れないが、待っているのは死である。

死を考えるとき、ぼくは自分が幸福に死にたいと思っている。出来るだけ安らかに、家族に見守られながら、「良い人生だった。何も分からなかったけど」と、そんなことを言って死ねたら、良いなと思う。

そうだ。人は何も分からないのだと思う。分かった気になって死ぬことは出来るけれど、潔く、考えて考えて、生きて生きて生きてきたけど、結局、何も分かんなかったなー、でも、良い人生だったことは確かだな。と、言えたらいいな、と思う。

耄碌して、自分は全知全能の神だとか、ボケて、俺は落語家だ。とか言わないようにしたい。近所を徘徊して誰かに迷惑をかけることなく死にたい。

何も分からないからこそ、自分が好きなことを突き詰めていきたいのだ。もちろん、生きていくために金銭を稼いでいきつつ、自分の好きなことに没頭する。それが、何よりも、良い生き方なのではないか。

毎日笑って過ごせたら、それだけで幸福である。金が無くたって、何も望まなければいいのだし、何も望まなくても、幸福でいるためには、笑いの多い場所にいるのが、一番ではないか。

そう、笑いの多い場所にいればいいのである。どんなに苦しい状況であっても、笑いの多い場所にいたら、それだけで幸福だろうと思う。

誰がどんな生き方をしようと、人生を決めることが出来るのは自分自身である。「お前のせいで人生めちゃくちゃだよ!」なんて言葉を吐く人は、自分で自分の人生をめちゃくちゃにしていることに気づいていないのではないか。最終的には全て、自分の心と行動が、全てを決めるのだと私は思う。

今宵、深夜寄席の卒業公演を行った四人にも、これから様々な困難であったり、苦しいことがあるかも知れない。それは主に金銭的なものであるかも知れない。でも、それさえクリア出来たら、否、そんなものをクリアしなくても、落語を含む多くの演芸の世界は、それが続く限り、幸福なのではないかと思う。

どんなどん底からも、這い上がれるだけの力は全て、落語にある。講談にある。浪曲にある。

そう、全ては

 

 演芸にあるのだ。

 

そんな力を感じた深夜寄席だった。

そして、私自身も、落語の魅力、講談の魅力、浪曲の魅力。演芸の魅力を発信し続けて行きたい。私だけの言葉で、私だけの表現で、日本演芸の素晴らしさが伝わるように。

あなたが素敵な演芸と出会えますように。

そして、少しでも、

あなたの人生が豊かになることを祈って。

それでは、また。