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自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

心臓の鼓動(2)~2019年9月14日 渋谷らくご 14時回 隅田川馬石 お富与三郎通し公演~

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親の心 子知らず

 

貸してたんだ

 

悪い奴です

 

いやさ お富ぃ~

 

サクサクノーサボタージュ

ユーロスペースに来ている。昨日の衝撃を引きずったまま、私はユーロスペース来ている。昨日見かけた人は殆どいない。誰が好き好んで貰うのかというポストカードの二枚目を、私は貰っている(失礼)。家の棚に馬石師匠が増える。次々に増殖する馬石師匠。浸食される棚。減っていくのは財布の中身だけである。

通し公演のうち一話でも聞いてしまったら、他を聞かないというのが私は耐えられない性分である。面白いと思ったら必ず頭から読むことにしている。どこを切り取っても楽しいことには間違いないのだが、やはり頭から読まねばスッキリしない。

だから、馬石師匠のポストカードが増え、財布の中身が減ろうとも知ったことではない。ポストカードは大切に棚にしまい、財布の中身はお仕事を頑張るだけのことである。

さて、今回はメンツも渋い。初心者向けと銘打ってはいるが、正直、通好みの回であることは否めない。それでも、全員の演者に落語の奥行きを感じさせる凄まじい力がある。パンケーキやタピオカミルクティーを飲んでいる場合ではないのだ。

 

 台所おさん 片棒

おさん師匠の醸し出す雰囲気の和やかさ、第一声の「おさんです」になぜか笑ってしまう。目の前で妊婦がお産を始めた想像をしてしまうからだろうか。妊婦のお産を見たおさん師匠が「おさんです」と言っている風景を想像してしまうからだろうか。たった一言なのだけれど、ばああっと風景が見えてしまうが故に笑ってしまうのか。自分でも何だか分からないのだけれど、笑ってしまうのである。

そんなおさん師匠は、師匠である柳家花緑師匠のことを語りながら不思議な関係性を語っていく。唯一無二のフラを持ち、温かくて親しみやすいおさん師匠の雰囲気に会場がグッと包み込まれていく。

自分の身代を譲ることを決めたケチベエが、三人の息子の誰に譲るかを判断するため、「自分が死んだらどんな弔いを出してくれる?」と聞くのだが、どれも満足な答えにはならない、という『片棒』の一席。

『弔い』という暗い印象の話題なのだが、三人の息子たちの陽気さと、それに翻弄されるケチベエの対比が面白い。おさん師匠の雰囲気が醸し出す、独特の貧乏感(褒めてる)が、本当にケチでケチで、切り詰めて切り詰めて身代を大きくしたんだなぁという雰囲気が伝わってくる。語りの中に貧乏でも強く生きる人の心意気を感じるのは、おさん師匠ならではだと思う。私が勝手に思っているだけかも知れないが、おさん師匠の語りには朴訥とした雰囲気、まるで冬に染まった森の中を歩いているような気分である。木には葉は無くとも、その力強さに胸打たれるのである。

金や銀の陽気さも、どこか貧しさの中で逞しく生きる健気さがあって、ドラマ『おしん』でも見ているかのような、母性本能(が私にあるか分からないが)をくすぐられてしまう。何とも言えない優しい雰囲気に包まれて、ゆったりと笑った一席。

 

柳家小里ん 不動坊

その見た目から放たれる名人の風格に、徐々に虜になってきた私がいる。粋だねぇ、乙だねぇ、と思う生き様を私は小里ん師匠から感じるのである。小里ん師匠、雲助師匠、一朝師匠の世代は、古典落語好きには堪らない素晴らしさを持っていて、古典落語の魅力にどっぷりとハマってしまったら、絶対に聞きたくなる噺家である。

最初は私も面白さが分からず、「なんかつまんないなー」と思っていたのだが、一年、二年と聴いて行くうちに、「と、どんでもねぇ!!!」と思うようになった。あれは一体どういう理屈でそうなるのか、私自身もさっぱり分からないのだが、齢を重ねたものだけが持つ、独特の雰囲気と言葉のセンスに痺れるのである。特に小満ん師匠なんかは素晴らしくて、隙あらば見に行きたい。

小里ん師匠の不動坊も、出てくる登場人物の間抜けっぷりが面白い。働き者の男の元に大家がやってきて、「嫁をもらう気はあるか?」と尋ねる。訳を聞くと、講談師の不動坊火焔が死に、未亡人となったお滝を妻に迎えないかという話。お滝は不動坊の借金を返さなければいけないのだが、誰かその借金を返せる人と縁を結びたいという。

普通だったら、借金のある女との縁談は断りそうなものだが、働き者の男は可笑しな理屈でお滝と結婚することを決める。その話を聞いて黙っていられない長屋連中が、不動坊の幽霊と偽って、破談にしてやろうと企むという話である。

あらすじだけでも、結構アクロバティックというか、現代では考えられないようなイタズラ企画なのだけれど、登場人物の全員がちょっとずつ可笑しな考えを持っているから面白い。

お滝との結婚に浮かれる働き者の男が、銭湯で妄想に耽る場面や、破談の企みを実行する長屋連中の失敗ぶりが見どころの面白い話である。

思い返せば、高校生の時分、私は夏祭りなどで同級生のカップルを見つけると、なんだか悔しくて邪魔をしてやりたいという気持ちがあった。あれが一体どこからやってくるのか自分でも分からない。僻み嫉み妬みは恐ろしいもので、色々と悪さをしてやろうという考えは巡ったのだが、結局、「〇〇と▽▽が祭りのときに一緒に歩いてたぜ」という噂を流すだけに留まった。後年、自分に彼女が出来たときは、あまりの浮かれっぷりに勉強も部活も手に付かなくなり、別れを切り出された時には全身の毛が抜けるような絶望感に苛まれたが、今、こうやって何とか孤独に生きることが出来ている。

さて、何の話だったか。そうそう不動坊の話。かなり派手な話ではあるのだが、人間のヤンチャさ、滑稽さが不思議に面白い話である。中学・高校のいたずらな恋を思い出す一席だった。

 

柳家小八 ねずみ

喜多八師匠との思い出を語る小八さん。忘れてくださいと言ったけれど、微笑ましすぎて忘れられない。いいなぁ、私も喜多八師匠を見たかったなぁという思いがふつふつと沸き起こってくる。小八師匠の中で生きている喜多八師匠の姿に思いを馳せながら、演目は『ねずみ』、ここまでどの演者も尺の長い噺で、気合の詰まった回である。

街を歩いていると一人の子供に「宿に泊まらない?」と誘われた男。行って見ると何やら訳ありの宿。訳を聞いて男はねずみを彫る。聞けば男は彫りの名人左甚五郎。甚五郎の彫ったねずみによって商売繁盛するのだが、商売仇は虎を彫ってねずみの動きを止めてしまう。再び宿を訪れた甚五郎がねずみに向かって一言申すと・・・というお話である。

滔々とした落ち着きのある声と、力の抜けた語りが魅力的な小八師匠。何とも言えない脱力感に包まれながらも、元気ハツラツオロナミンCな子供や、その子供を見つめる腰を痛めた父親の目線が優しい。気取る様子もなく、静かにねずみを彫って去っていく甚五郎や、甚五郎の作品を見た田舎者たちの姿など、声量の大小や表情の濃淡を繊細に描き分けて、物語の強弱を見事に表現している小八師匠。

特に、父親が語る貧乏な『ねずみ屋』を営むことになった噺は、しんみりとした雰囲気がある。甚五郎をどのように描くかもさることながら、父親の語りが特に見どころのお話であるように思う。

甚五郎の活躍が光る一席だった。

 

 隅田川馬石 お富与三郎 その二 〜玄治店の再会〜

昨晩の鬼気迫る迫真の表情を見ているだけに、穏やかに微笑えむ馬石師匠がちょっと怖い(笑)徐々に客が減っていく怖さを感じながら連続物に挑む馬石師匠。

さらっと前回の予習をしながら、演目に入る。

与三郎を殺そうとした源左衛門を止めたのはエドキンという髪結い床の男。与三郎を殺さずに金儲けをした方が良いと提案する。源左衛門は納得し、与三郎を簀巻きにして木更津の親類のもとに連れて行く。

それから三年の月日が経ち、体中に三十四個所の傷を受けた与三郎は、一目を憚って縁日に出かけるのだが、周りの人々から稀有の眼で見られる。『切られ与三』などと異名が付く。かつては見ただけで女が帯を解くほどの美男子だった与三郎も、三十四個所の傷を負って誰も見向きをしない。それどころか誰もが避けて行く。縁日で使う10両の金を貰ったが、一切使わずに帰る途中、植木鉢を抱えた女と擦れ違い、与三郎はかつてのお富ではないかと疑う。気になって後を追うと玄治店という店の主人多左衛門の妾になっていることを知る。

ゴロツキの蝙蝠安に連れられて金をねだりに妾の家に行く与三郎。お富さんであろうかと気になりながら、妾の家に行くと、そこにいたのは紛れもなく、あの日別れたお富の姿である。多左衛門の妾になったことを許せない気持ちを溢れさせ、「いやさ、これお富~」と鳴り物入りで名台詞を放つ。そこまでが今宵の一席だった。

昨晩の衝撃が凄すぎたのか、今回は至って平安な、切羽詰まるような場面は無いにしろ、命を取り留めて金儲けの出汁にされ、顔に三十四個所の傷を負って『切られ与三』とまで言われるようになった与三郎の転落っぷりが可哀想である。運命がそうさせるのか、お富と出会ったときも、またしても金持ちの妾になっていることが許せない与三郎。お富に惚れ、とことんまで翻弄される与三郎の気持ちが痛いほど分かる。別れた直後に彼氏を作るような女なんて、好きになっちゃ駄目!魔性の女なんだから!と思いつつも、与三郎は諦めきれずにお富に惚れ込んでいく。

お富もまた、誰かの妾になることは生きていくために仕方の無いことだったのだろうか。それでも、ちょっと不純すぎやしないか。男なら一度自分に惚れた女は、生涯自分に惚れ込み、他の男となんか付き合って欲しくないと思うのだが、それは淡い幻想であろうか。私が与三郎だったらお富を切って自分も死んでいるかも知れない。

生きていくことの数奇な運命に翻弄されながら、何と言ってもこの話の一番の見どころは、再びお富に出会った与三郎が放つ台詞であろう。お囃子と相まって、絶品の艶やかさ。言葉の意味は何となくでしか分からないけれど、粋で、色気のある与三郎の名調子が、馬石師匠の柔らかくて耳馴染みの良い声と相まって心地よく聞こえてくる。

第一話との雰囲気の差が段違いの、華やかな一席で、昨日の怖さは一体何だったのかと思うほどに明るい一席だった。ちょっと安心した。いつもの馬石師匠が戻ってきた気がした。

いよいよ明日、物語は中盤である。これからさらに、どのように物語が展開されていくのか。お客は増えていくのか。見どころ満載の『お富与三郎』である。

 

 総括 連続して見ずとも

『お富与三郎』をトリの演目に据えながら、脇を固める演者も演目も、凄まじく太くて渋い一夜だった。昨日のことがまだ脳内に残っているだけに、続きである今日の一席を聞くことが出来た意味はとても大きいような気がする。何せ、あんなに痛めつけられていた与三郎が、ぱっと粋にお富の前に現れて名調子・名セリフを言い放つのだから、陰と陽を見せつけられて心が中和される。

何よりも馬石師匠のマクラと演目とのギャップが凄まじい。軽くサイコパスを疑ってしまうほど、演目に入った途端に切り替わる眼と表情に驚く。底知れない馬石師匠の連続物の凄味。是非味わってほしいと思う。あと、ポストカードの写真に添えられる言葉が、微妙に合ってるんだか合って無いんだか分からないところが面白い。

たとえ連続して見なくとも、冒頭の馬石師匠の簡単な解説を聞いていれば、すっと頭の中にそれまでの情景が浮かんでくるだろう。連続して聴いている人は、よりはっきりと物語の筋を感じることが出来る。

残り三公演。一体どんな最後になるのか、楽しみでならない。