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心臓の鼓動(5)~2019年9月17日 渋谷らくご 20時回 隅田川馬石 お富与三郎通し公演~

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生きててよかったぁ。

 

心音

人には恋をしたときだけに鳴る心臓の音がある。それは一生のうち、何度鳴るかはわからない。悲しいかな、多くの男女はその音が鳴ったことに気づかないまま恋に落ちる。

恋に落ちたあとで、互いの心音を近くに感じるとき、お互いがお互いのリズムを確かめ合うことの弾けるような快さと、温度を伴って押し寄せてくる波が肌を撫でる安堵感に、人は心臓の鼓動を高鳴らせる。だが、一度でも互いの心音がかけ離れてしまえば、指揮者を失った楽団の演奏のように、互いの心音はリズムを失い、不快と不安の波に飲み込まれ、やがて恋は音もなく消えていく。

だからこそ、恋に落ちた男女が互いに求め合うのは必然のことであろう。互いに互いの心音がそばに無ければならないのだ。たとえ、それが世間にどう思われていようとも、互いの心音によって成り立つ幸福を知ってしまったら、心音のリズムを失うことなど人にはできない。

渋谷の街は、男女の崩されることのない心音で溢れている。残念ながら、その心音を私は知ることが出来ない。私には私にしか聞くことの出来ない心音があって、それはどうやらまだ、鳴る相手を互いに見つけていない。

かつて江戸の時代に、一人の男と一人の女、それも互いに美男美女。数奇な運命によって互いに惹かれ合い、心音を重ねあった男女がいた。

男の名を与三郎。女の名をお富。

男女の物語。語るは隅田川馬石。現代に生き、現代に語る、この一人の得体の知れない不思議な噺家は、遠い昔の物語を自ら編集し、毎夜高座に上がり、なぞるように、人の歩みの如く、一つ一つ確かめながら、今宵まで語ってきた。

そしていよいよ、最後の一席を語るために一人の噺家が高座に上がる。隅田川馬石。この男の計り知れない魅力を、一人、客席にいる男は見続けてきた。

客席にいる男は、自らを振り返る。

今年の初めにも同じようなことがあったな、と男は思い出す。

その時は、一人の講談師が語る、一人の男の人生を見たのだった、と男は思い出す。その時も五日間であった、と男は思い出す。

そして、その五日間を俺は語ったのだ、と男は思い出す。

俺は書き記したのだ、と男は思い出す。

今宵、一人の噺家が語る、男女の人生を見て、俺は何を語るのか。

そして、何を語って来たのか。

男は、自らの運命を思い出す。

男は、動き出した自らの運命に震える。

男は、語る場を得たことを確かめる。

かつての俺は、今の俺をどう捉えるだろう。

男は、じっと目を閉じた。

この場所で鳴る、多くの心音は今、一体どんな音を鳴らしているのか。

客席の男は、隅田川馬石という名の、一人の噺家の語る男女の物語を待ち望んでいる。この五日間、ずっと待ち続けていたのだ。

お富与三郎。

二人の運命やいかに。

 

 春風亭昇々 妄想カントリー

昇々さんに関しては、駄目な詐欺師の心持ちである。

カモを見つけても、騙ることが無い。

 

玉川太福/みね子 佐渡に行ってきました物語

かなり久しぶりになってしまった太福さん。私の浪曲熱の再燃があるかどうかは別にして、新作はやっぱり面白い。

でも、この五日間ですっかり馬石師匠の真剣味のある芸にハマってしまったから、太福さんでは任侠物を聞ける機会があることを望むばかり。

 

三遊亭兼好 天災

スピーディな語りと、随所に挟まれる可愛らしくて印象に残るボディランゲージ。なんて可愛らしいんだろうと思う。オリジナルで挟み込まれる小ネタも面白く、自信が漲っている感じが素晴らしい。お声がとにかく最高だし、ウサギがぴょんぴょん跳ねているのを見ているような可愛らしさがある。さらっと淀みなく立て板に水の語りができるほど、身に芸を落とし込んでいるんだろうなぁ、と思う。

個人的には相合傘と、殴ることによって何かしら忘れさせようとする短気な男が好きである。

大安売りや三十石など、ボディとお声を存分に活かした素敵で面白い噺の多い兼好師匠。これは暇さえあれば見に行きたい。が、私は面白いものは面白い人で、ある程度好みが出来てきたし、真剣なものは真剣な人で、この人で見たい!というのがはっきりしつつあるので、全ては気分と時間次第。

でも、安定して会場を味方に付けて、バッチリ笑わせる技量は凄い。なんて芸達者なんだろう。お人柄の良さが滲み出る高座だった。悪口も洒落っ気があって憎めない。

 

隅田川馬石 お富与三郎 その五~与三郎の死~

袖から馬石師匠が現れたとき、私は言いようのない感慨に打たれた。今日という日まで、お富与三郎という男女の物語を語ってきた馬石師匠。毎回、丁寧に扇子と手拭いを置き、簡潔なあらすじを述べながら一席ずつ語り終えて四日が過ぎ、ついに五日目、最後のお話を語ることの感慨。

今夜で終わってしまうのかという悲しみもあれば、また新たな馬石師匠を知ることができたという喜びもあり、また、落語というものの幅の広さを改めて実感してきた四日間であっただけに、最後もこの場に居ることができた運命に感謝する心持ちであった。

今業平と呼ばれた与三郎が木更津でお富と出会ったことに端を発し、全身に三十四個所の傷を受ける無残な仕打ちののち、一目を憚って江戸で暮らしていたところ、玄治店でお富と運命の再会を果たす。喜びも束の間、あらぬ嘘を吹聴した目玉のトミを殺害した二人。蝙蝠安に殺しの場を目撃され、強請られることに耐えられなくなった二人は玄治店を明け渡すが出刃を振り回しての騒動は絶えない。やがて奉行の無宿狩りにあって、与三郎は佐渡島流し、お富は無期懲役となって互いに離れ離れ。

島で死ぬのは嫌だと、与三郎はお富に会うため元後家人の後家鉄と坊主の松とともに、島を抜け出す。道中鉄は海に飲み込まれ姿を消すが、二人は何とか地蔵ヶ鼻に辿り着き、そこで漁師の弁慶なる人物に助けられる。江戸を目指す二人。泊まった宿屋で周囲に正体がバレた二人は、互いに二手に分かれて逃げ出すのだが、坊主の松は捕まり命を落とし、逃げた与三郎は自分に傷をつけた源左衛門と対面する。

一人では敵わないと思った与三郎は、仲間の助けを借りて赤間源左衛門を刺し殺す。その後、両国の横山町に戻ると叔父から両親が死んだことを知らされる与三郎。天涯孤独の身となりながら、叔父の助言を受けて品川で怯えながら生きる与三郎。

ある晩、与三郎は追っ手に怯えて飛び込んだ宿屋で島流しにあっていた時に親しくなった観音小僧の久次と再会する。久次は妻に挨拶をさせようと、与三郎に紹介をするのだが、久次の妻とはお富だった。

数奇な出会いに戸惑うお富と与三郎。空気を察したのか久次はお富に与三郎を手厚く労うように告げ、その場を去る。

再会に戸惑いながらも、与三郎はお富と酒を酌み交わす。いつしか酔っぱらった与三郎はお富の膝の上で眠りにつく。眠りについた与三郎を眺めていたお富は、与三郎の持っている脇差が、赤間源左衛門のものであることに気づき、与三郎が源左衛門を殺めたことを知る。

奉行の前に出たところで、罪からは逃れられないと悟ったお富は与三郎を刺し殺す。続いて自分も死のうとするのだが、そこに久次の使いがやってきて、与三郎と一緒に逃げるための金を渡す。与三郎を殺した返り血を浴びたお富を見て、ただならぬ雰囲気を感じた使いは去っていく。

お富は久次からもらった十両と与三郎の髷を持って、霊巌島で弔いをすることを決意する。

翌朝、一番舟で霊巌島へと漕ぎ出た舟だが、寸前のところで呼び止められる。お富は観音小僧久次の証言によって召し取られ、磔の刑にされ命を落とす。

唯一残された叔父の藍屋吉右衛門は、与三郎によって大勢の人々が命を落としたことを知り、弔いを行ったという。

やがてお富と与三郎の一件は芝居や歌舞伎などによって広まり、大勢の人々がこの二人の数奇な運命を知ることとなった。

 

「読み切り」という言葉を聞き終えたとき、私の胸に残った思いは様々であった。走馬燈のように、五日間の記憶がよみがえってきた。

もしも木更津の海で出会ったお富と与三郎が、源左衛門に見つかることなく愛し合う関係を続けていたとしたら、運命はどのように変化したのだろう。いつまでも源左衛門を騙しとおせるだけの心の切り分けが、お富には出来たのだろうか。

私が五日間を通して感じたことは、お富がわからないのである。

一席目の『木更津の見初め』の時は、間違いなく互いに死ぬ覚悟を持ち、死を選んでいた。ところが、『玄治店の再会』以降、お富は与三郎を裏切り続けるが、与三郎は生涯お富を追い続ける。続く『稲荷掘の殺し』では、与三郎はお富を愛するあまり人殺しに手を染めるのだが、その事実を知ったお富の胸中が計り知れない。一体どんな気持ちで目玉のトミを殺したのだろう。与三郎に対して繕っていたのだろうか。私の予想では、海へ飛び込んだが助かったところから、お富の心は大きく変わり始めていたのではないだろうか。それは、お富自身も無意識のうちに。

四日目の『佐渡の島抜け』でも、与三郎はお富を追い続けている。捕まれば死ぬという状況であっても、決して諦めることなく島抜けをする与三郎。なんと逞しい愛の力を持った男であろうか。

一方お富。無宿狩りに合い、佐渡へと与三郎が流されることになったとき、目玉のトミ殺害の一件が明るみに出なかったことによって、お富はどこか悪戯な運命を受け入れたのではないか。最初に与三郎と出会った頃のお富はいない。どんな胸中で無期懲役を受け入れ、お富が暮らしていたのか知りたい。

時が経ち、再び目の前に現れた与三郎を見たお富の胸中とはいかなるものなのか。考えても考えても及び知れぬところである。及び知れぬところであるからこそ、お富という人間の奥深さ、魅力が増していくのであろう。

お富と与三郎が最後の再会を果たし、酒を酌み交わす場面の、与三郎の人間らしい振る舞いに共感する。それほど人を好きになるという与三郎の気持ちと同じような思いが、私にもあると感じるからであろう。体に傷を受け、一目を憚って生きることになり、佐渡へと流され、命がけの脱走をし、日々あらゆる事柄に怯え暮らしながらも、最後、お富の膝元で「生きててよかったぁ」と言える与三郎の心。

これを、お富はどう見るのだろう。

誰か教えてくれないだろうか。こんな与三郎をどう女性は見るんだろうか。

もしも私が悪い女だったら、「馬鹿だなぁ」と思うだろう。心の底から与三郎に対して「馬鹿だなぁ」と思うだろう。たとえ与三郎で無くとも、自分の周りに自分を愛してくれる男が腐るほどいたと思われるお富である。そんなことを考えても不思議ではない。現に与三郎と離れてからは、色んな男の妾や妻となっている。最後には与三郎と仲の良かった観音小僧の久次である。信じられない豪胆な心である。

安直に悲恋の物語として語るには、あまりにもお富がわからない私である。お富にとって男とはどういう存在なのだろう。与三郎と他の男とでは、一体何が違うというのか。考えても考えてもわからず、あるのは結果だけである。

普通だったら、自分を愛してくれた男を殺せるだろうか。野暮だと承知だが、お富が与三郎を殺し、自分も死のうとするのだが結局死なず、最後まで生きようとする行為が、私にはズルく思えるのである。なんてズルい女だ、と思ってしまうのである。

「それは森野、お前が女を知らないからだ!」と言われればそれまでだが、どうにもお富という女が、悪い女にしか見えなくなってしまう。だが、そうせざるを得ない状況に、お富も陥っていたのではないかと考えると、お富の行動は理解できる。

自分を愛してくれた与三郎の愛に応えるためには、お富の行動はお富にとって精一杯の行動だったのではないだろうか。源左衛門に関係が発覚したときは、間違いなく死こそが互いの愛の保存方法として、最も適切な方法だったのだ。だが、お富も予想しなかった運命によって生き永らえたことにより、お富は自分でもどう生きて良いか分からなくなった。結局、生まれ持っての美しさを頼りに生きる他無かったのだ。

そして、与三郎と再会した時には、お富はその生き方以外に生きていくことが出来なくなっていた。かつては死を選ぶほどの思いを抱き、与三郎を愛していたお富は、その頃と同じように与三郎を愛せなくなっていたのだ。だから藤八と食事をしたり、誘惑されることも厭わなかった。与三郎は他の男と何の差も無い男に、お富にとってならざるを得なかったのだ。

何とか与三郎に対して前と同じように愛そうとしたお富。与三郎が殺し損ねた目玉のトミにトドメを刺して見るも、変わらない自分の心をお富は自覚できなかった。やがて無宿狩りで与三郎が島流しにあった時も、お富は死を選ばなかった。

男に愛されることに縋ったお富は、観音小僧の久次の妻になってもまだ、天が与えた美しさに甘え続けた。だから、与三郎と二度目の再会を果たしたときは、心底うんざりしたのかもしれない。また同じように愛し合う関係を取り繕って見せたが、お富にとっては限界だった。すべてに疲れ果てたお富は、事の発端となった源左衛門、すなわち最初に自分を愛し、妾とした男の刀で、死を決意するほどに愛し合った与三郎の胸を突き、自分も死ぬことで終わらせようとしたのだろう。

だが、お富は死ななかった。もう自分ではどうすることも出来ないほどに、お富自身も制御不可能の本能に従い、生きたのだ。最後に召し捕られたときには、内心、お富は安堵したのではないだろうか。

と、ここまで書いてきたが、結局のところはわからない。与三郎に対しても、私は自分の願望を押し付けているだけで、結局のところはわからない。最後の最後、お富と逃げようとしなかった与三郎は、お富と同じように、すべてに疲れ果ててしまったのかもしれない。だから、最後にお富に刺されるとき、にっこりと微笑むような表情を浮かべたのではないか。命がけでお富を愛した自分が、最後の最後に諦めてしまったことに対する、どうしようもない、言いようのない思いが与三郎の中に込み上げてきて、その底知れなさに、微笑むしかなかったのではないだろうか。

五日間。様々なことを考えさせられるほどに、毎度、ドラマチックな展開を見せたお富与三郎。隅田川馬石師匠の編集のセンス、そして、普段はあんなに不思議な天然っぽさを感じさせる高座なのに、初日から楽日まで一切気を抜かない圧倒的な集中力。骨の髄まで痺れるほどの迫真の語り。何よりも声と眼。全てが普段とは全く異なる、鬼神宿りし迫真の高座だった。奇人宿りし白痴の高座が早く見たい。

 

総括 お富与三郎 通し公演を終えて

改めて、隅田川馬石師匠で『お富与三郎』を通しで聴くことが出来て本当に良かった。私にとって『お富与三郎』は、どんな物語であったか。一言で言えば、『男女の心の合わせ鏡』であろうか。

数奇な運命によって、互いに向き合うこととなったお富と与三郎の鏡。無限の像を互いに映しながらも、徐々に、徐々に、鏡の傾きが変わってゆく。そして、互いに映し出していた無限の像は、傾きの変化によってさまざまに変化し、やがてどちらも落ちて割れてしまう。

その欠片を拾い集めて、私は語っただけに過ぎない。元は美しい一つの鏡であった筈のお富と与三郎の心を、自分なりに再構築して私は書いた。私には、隅田川馬石師匠が語る『お富与三郎』が、これまで書いた記事のように、思えたのである。

 

だが、これも私の鏡の変化によって変わっていくだろう。時間が経てば「なんであのとき、あんなことを思っていたんだろう」と思うときが来るかもしれない。その時のための記録でもある。

 

渋谷らくごの『心臓』である隅田川馬石師匠。その『心臓の鼓動』を私なりに書き記してきた最後の記事となる。この五日間、全身全霊で『お富与三郎』を聞いていたため、他の演者も非常に魅力的なのだが、短い文章になってしまったことをお詫び申し上げたい。

 

渋谷らくごにとって、また、初めて落語を聞く人にとって、新しい試みである五日間であったと思う。隅田川馬石師匠という人の、時代のニュートラルさ、初めて落語を聞く人に対して与える、境界線の無い雰囲気。いつでも気軽に飛び込めて、すんなりと想像出来てしまう、馬石師匠の語り、表情、声、間。

 

全てが極上の演芸体験であったことは間違いない。

 

お富与三郎の通し公演は、どの日を聞いても、冒頭から簡潔な説明があるためわかりやすいのだが、ボーっとして一つでも聞き逃したり、上手く想像をすることが出来ないと、なかなかすぐに本題の理解をすることは難しいということも、初めて連続物を聞くという人にはあるだろう。しっかりとした会では、パンフレットなどで一話一話に簡単なあらすじを記載している場合もある。とても要領よく物語を語られていた馬石師匠であったが、それでも聞き逃してしまう人のために、この記事が役に立っていたとしたら幸いである。それに、最終日は大入り満員であったと聞く。僅かでもこの記事で足を運んだという方がいたら、これ以上の喜びは無い。

また、より多くの人々に隅田川馬石師匠の語る『お富与三郎』が、どのようなものであったか。そして、一人の名も無き演芸好きがどのように感じたのか、伝われば幸いである。

そして最後に、隅田川馬石師匠。本当に素晴らしい通し公演をありがとうございました。

また、ここまで読んでくれた熱心な読者の皆様、あなたのおかげで私は記事を書き続けることができます。本当にいつもありがとうございます。

それでは、再び、素敵な演芸に出会えることを願って、

これにて、渋谷らくご 隅田川馬石 お富与三郎 五日間の通し公演、心臓の鼓動と題した五つの記事。

書き終わりでございます。