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自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

人生の採点者~2019年11月24日 きょんスズ30 14時回~

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起きあがって、窓からからだをのりだしてごらんよ。

いま、ほんとうに自由で、生きている時間がはじまるのだから。

夏の最初の朝だ。

Ray Bradbury『Dandelion Wine』

  

Pretender

気取っている人と気取らない人の違いは眉毛に出るのだそうだ。気取っている人の眉毛はダイナミックに、回数も多く、まるで生きている毛虫のように動く。反対に、気取らない人の眉毛は殆ど動かない。微動だにせず毛虫はじっとしているのだそうだ。

眉毛の曲線も異なる。気取っている人は、自らを実際よりも大きく見せたいという気持ちが働き、太く、横へ広がる。逆に、気取らない人は自分で大体の長さが分かっているため、細く、相応の長さに落ち着く。

私は幼い頃から『気取り屋』で、小学生の頃の写真を見ると、顎を人差し指と親指で抑える形。いわゆる『ピストルポーズ』というやつをしており、左右のどちらか片方の口角を吊り上げている。他にも、『ターミネーター』でシュワちゃんが親指を立てる『グッドポーズ』とやらもやっていて、バリエーションは少ないが、おもいきり気取っていた。

今ではとっくに失ってしまったが、当時はどこから湧いてくるかも分からぬ、無根拠な『ニヒルでイケてるオレ』みたいなものを、意識していた。『ニヒル』なんて言葉をどこで覚えたのか。友人に言っても「何?アヒル?」と言われて失笑された。

大人になるにつれて、失うこととなった『ニヒルでイケてるオレ』という気持ち。周りにはたくさんカッコイイ人がいて、いつの間にか自分の面構えに自信が持てなくなったのだろう。今でも自信は無いし、誰か大切な人に出会う時は整えるが、それ以外は殆ど、無精である。

私の文章も、どちらかと言えば気取っている。同世代の人に比べれば覇気が無く、わんぱくさが無く、どこか冷めているというのが自己評価である。

気取らない人になりたい。そう思っていた矢先に、私は一人の落語家に出会った。

 

それが、柳家小満ん師匠だった。

 

本当のカッコ良さとは気取るものではなく、滲み出るものだ。小満ん師匠はそれを教えてくれた。小満ん師匠の放つ雰囲気や、一つ一つの言葉には、痺れるほどの『歴史』があるように思えた。

たった一つの言葉であっても、微妙な言い回しやトーン、リズム、選択で、これほどまでに含蓄のある言葉へと変貌するのかということが驚きだった。うっかりすれば聞き逃してしまいそうな、黄金の言葉に気づき始めたのは、寄席に通い始めて一年が過ぎた頃だった。

小満ん師匠の凄さに気づくまでは、失礼ながら「やたらボソボソ言う人だな」くらいにしか思っていなかった。それが、どういうわけか、ある日突然、「めっちゃカッコイイ」という思いに変わったのである。知らぬ間に小満ん師匠に飲み込まれていた私は、隣の大学生がポカンッとしながら聞いていた『あちたりこちたり』に全身を突き抜けていく電流を感じるほど痺れた。唸った。気が付けば、私は小満ん師匠の虜になっていたのだった。

きっと、それはビールや日本酒を美味しいと感じる心に似ている。最初は不味いと思っていたものが、ある日突然、めちゃくちゃ美味いという感覚に変わる。

気取り屋の私に、本物のカッコ良さを気づかせてくれた小満ん師匠。落語界の偉大なるダンディズムと、カッコ良さをプンプンに滲ませた高座は、見る度に痺れる。

これぞ、落語。落語家の誰もが小満ん師匠に痺れたり、カッコイイと思ったりするのも、とても良く分かる。

今日は、そんな小満ん師匠を迎えた喬太郎師匠の会。喬太郎師匠も、物凄く嬉しそうだった。

さて、ではそんな会の記録を綴っていくことにしよう。

 

 柳家小太郎 鈴ヶ森

開口一番は小太郎さん。風貌が泥棒みたいな感じだが、伝え聞く話では泥棒に盗まれてばかりらしい。元気溌剌の高座の、底抜けに明るい泥棒感が良い。泥棒に色んなものを盗まれているのに、それでも泥棒のネタをやり、泥棒に対する憎しみを感じさせないネタをやる。素晴らしい心意気。

 

柳家喬太郎 梅津忠兵衛

小満ん師匠との思い出を語る、語る、語る。

分かるなぁ、と思いながら聞いた。凄く分かる。こんな若造が言うのも何だけど、小満ん師匠の存在って、それだけで落ち着く。「ああ、この人がいるなら大丈夫だ」と安心感を抱く。満塁になると必ずホームランを打つ四番バッターではなく、確実にヒットを打って塁に出る感じ。かつ、そのヒットの打ち方も芸術的で無駄が無い。攻守共に万能で、一つ一つの動作で魅せて行く職人の野球選手に似ている。

これは私の野暮な想像だけど、『梅津忠兵衛』という演目を喬太郎師匠は小満ん師匠に敬意を表して選ばれたと思う。

この演目の内容は『怪力で有名な梅津忠兵衛が妖に出会う』お話である。

詳細は語らないが、この物語の主人公梅津忠兵衛こそ、柳家小満ん師匠ではないかと私は思う。

それは、落語の世界に飛び込んだ若い前座さんを、下から支えて持ち上げるような、心優しい『怪力』を、喬太郎師匠は小満ん師匠に抱いたのではないだろうか。

梅津忠兵衛が妖に化かされ、妖に向かって願いを言う場面がある。詳細はCDで聴いて頂ければと思うが、その時の梅津の言葉。これこそが、私は小満ん師匠、そして喬太郎師匠の志に重なっているように思った。

忠兵衛は心優しい怪力である。誰も敵わないほどの怪力を持つ忠兵衛が、それでも一つの事にこだわる場面。ここに、私は『落語』そのものに魅了された喬太郎師匠の思い。そして、その『落語』で一つの道を進み続けてきた小満ん師匠の思いを感じた。

喩えるならば、漫画『ドラゴンボール』で願いを叶える神龍が、野球選手のイチローの前に現れたとする。願いを問われたイチローが『野球が上手くなりたい』と答える。

私は、これに痺れる。あれほど野球の世界で前人未到の記録を打ち立ててきたイチローが、神龍に願いを問われて『野球が上手くなりたい』という気持ち。なんと言えば良いのだろう。その飽くなき精神、向上心、そして、野球以外の何も願っていないという覚悟。言葉は足りないかも知れないが、その思いに私は痺れるのである。

痺れませんか。どうですか、奥さん。

ともかく、喬太郎師匠は暗に、梅津忠兵衛と小満ん師匠を重ねている気がする。小満ん師匠は、どんな願いでも一つ叶えてやると言われたら、きっと「落語をやり続けたい」とか「落語が上手くなりたい」と言う。想像だけど、絶対に言うと思う。いや、どうだろう、わかんないけど。

未来ある前座さんを、自らの芸で、そのとてつもない芸の『怪力』で支え、後押ししてきた小満ん師匠。なんてカッコイイんだろう。と、なぜか喬太郎師匠の『梅津忠兵衛』を聞いて、小満ん師匠のカッコ良さを思った。

 

柳家小満ん 厩火事

でね、でね。この後に出た小満ん師匠がさ。

なんて言ったと思う!?

もうね、ここは心躍っちゃうんだけどさ。もうね、痺れちゃうんだけどさ。

怪力の梅津忠兵衛の話をやった後で出てきた小満ん師匠がね。

凄いのよ。一発目、こう言うの。

ああー、でもなー、これはカッコ良過ぎるから、敢えて書くのはやめるかー

言いたいなー、すげぇ言いたい。

そして、なぜ痺れたかも書きたい。

書きたいなー

でも、敢えて、ここは、敢えて!

書くのはやめておきましょう。

ふっふっふ。これは私と、あの会場にいた人だけの秘密。

ヒントはね。さらりとね、さらりと、小満ん師匠らしく、

すっとね。すっと、プレゼントを、

自分の大事な棚にしまうような、そういう一言だと、

私は思ったね。これを書いちゃうのは勿体ないでしょ。

野暮だし。

さて、そんなめちゃくちゃカッコイイ一言の後で、さらにカッコ良い言葉を次々と放っていく小満ん師匠。キーワードは『提灯』とか『都都逸』。もうね、痺れますよ。

心の中で「うおおお!」って叫びましたね。私が女性だったら抱かれにいきますよ(問題発言)

絶品の含蓄が光る『厩火事』。もうね、もうね、もうね。

 

 カッコイイのなんの!!!

 

このカッコ良さを表現する言葉が見つからない。それくらいにカッコイイ。

乙女ですよ。完全に乙女でした。

痺れっぱなしで、いざ記事にしても「何こいつ、興奮してるんだ」と読者を置き去りにしますけどね。それくらいにカッコ良かった。

もう抱かれてましたね。温かいハグされてました。一言一言の厚みが凄まじかった。

この演目は『働き者の女性が、働かない男と喧嘩して、仲人に相談する』というお話。男女の色恋の乙な語り口。男を思う女の気持ちと、女の我満に翻弄される仲人。勝手気ままな女の様子が実に、実に、実に見事。色気と大人の品格、落語のダンディズム。全てが凝縮されたような絶品の一席。

一度でいいから女性になって、お洒落なイタリアン・レストランで小満ん師匠と食事がしたい。或いは、小満ん師匠のような粋でダンディな大人になりたい。どんなに憧れても手の届かないカッコ良さ。『カサブランカ』や『太陽はひとりぼっち』のような、大人の雰囲気。

私の中では、デ・ニーロ、アル・パチーノ柳家小満ん師匠。それくらいに、カッコイイ人。

 

 柳家喬太郎 八月下旬

止まらない小満ん師匠愛から、趣味の話全開の喬太郎師匠。殆ど内容は分からなかったけれど、物凄く楽しそうに話されている喬太郎師匠を見ているだけで心地が良い。

周囲からの色んなプレッシャーとか、重圧とか、きっと目には見えないけれど、喬太郎師匠にはあるのかも知れない。それら全てを跳ねのけて、活き活きと語られる喬太郎師匠の姿が新鮮。それが『きょんスズ30』なのかも知れない。

大好きな場所で、大好きな人達と、大好きな落語を、何のしがらみもなく披露する。そんな喬太郎師匠は、まるで子供のように活き活きとしていた。

演目の内容は『少年のひと夏の思い出』と言えば良いだろうか。喬太郎師匠の演劇的なセンスの光る素晴らしい一席だ。

私はこの話を何の前情報も無く聞いた。音源も内容も一切調べなかった。何の先入観も無く、聴きたかったからだ。或いは、そう聞く運命にあったのかも知れない。

子供が出会う、荒れた大人の女性。傷ついた女性の面白さ。私の頭の中は最初の女性が桃井かおり、二人目の女性が大原麗子で再現された。ある果物が繰り返し出てくる場面もとても面白かった。

とても数奇な出会いに惑わされた少年。父親と一緒にとある人に会いに行く。その道中の会話。夏の終わりの空気と光。ノスタルジックな雰囲気に漂う寂しさ。

人生で何度味わえるか分からない、夏の終わりの一瞬を切り取って、少年は父親の一つの到達に立ち会う。到達地点で父親に投げかけられる言葉に、私は胸を打たれた。

人生に点数は無い。誰かに付けてもらうことはできない。テストの問題のように、誰かが作った問題を解き続けるような、そんな人生はどこにも存在しない。

自分の人生の点数や、良い悪い、全ては自分にしか決めることができない。

 

 自分の人生の

 採点者は

 自分だ

 

そんなことを、最後に、この一席は教えてくれたように思った。

もしもあの夏に戻れるなら、とか、もう一度あの夏を過ごせるなら、とか、大人になったら、一度は憧れてしまうような過去の一瞬に思いを馳せてしまう。どこで間違ったんだろうとか、あの時どうすればよかったんだろうとか、過ぎ去りし時は、誰にも変えることはできない。

変えられない時間を積み重ねて、今がある。荒れていると自分で自覚するような大人になったり、心が傷ついて旅に出たくなったり、ずっと止めたまま抱えていた時計の針を進めたり。八月の下旬。夏の終わりの日には、様々な運命が始まろうとしている。

喬太郎師匠もまた、小満ん師匠と一緒だった時間を終えて、その時間の永遠の輝きを思い出しながらも、今の自分の人生を止めることなく、磨き続けてきた人だ。死んでしまったら一生磨くことのできない今を、一所懸命に磨き続けている。そんな、長い長い喬太郎師匠の、ほんの30日間の、数日に立ち会えたことが、私は嬉しくてたまらない。

誰にでも、会おうと思えば会える。その人の時間に、その人の好きな場所に、その人の好きなものに。それは『運命』という言葉に集約されるのかも知れない。

きょんスズに参加できる人も、きょんスズに参加できない人もいる運命。

では、この記事はどんな人のためにあるか。

それは、参加できた人も、参加できなかった人も、ザ・スズナリという場所で、柳家喬太郎という人が、何を演じたか。そして、それを見たひとりの男が何を感じたか。

それを、知りたいという人のためにある。

これにて、私のきょんスズは終わりである。残念ながら30日のチケットは取れなかった。当日券にチャレンジするかは分からない。

一期一会を大切にしていこうと思う。

そんな素敵な一席だった。

 

最後に、喬太郎師匠のますますのご発展を願って、

そして、次は40周年、50周年、60周年を迎えられますように。

末永く、様々なことに挑戦する喬太郎師匠の

素晴らしい未来が訪れることを願って、

この記事を終わります。

それでは、またどこかでお会いしましょう。