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碁の互の誤の語の悟の児の後~2019年12月7日 古今亭文菊毎月独演会~

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あなたに出会った人がみな、

最高の気分になれるように、

親切と慈しみを込めて人に接しなさい。

あなたの愛が表情や眼差し、微笑み、

言葉にあらわれるようにするのです。

マザー・テレサの言葉

つくしみふかき

 丁度、なかの芸能小劇場で行われていた、毎月朝の10:00という地獄のように眠気に襲われる文菊師匠の会(襲われたことは一度も無い)が、終了するということで、これは節目の兆候かも知れぬとちょうこっと長考した結果、私もはてなブログへの掲載を一応の節目とした。

 さて、長々と書くのは与三郎。他所見はご免よお富さん。

 というわけで、今日の節目の記録。

 

 柳家り助 桃太郎

 柳家海舟師匠門下のり助さん。海舟さんは57歳で真打昇進という遅咲きの噺家。海舟さんの師匠は柳家小里ん師匠とあって、柳家の系譜に連なる噺家さんである。

 なんと言っても、語尾の強烈な『な』の畳み掛けが面白い。菜っ葉売りなら秒で売り切れる。一度、『な』のイントネーションにハマってしまうと、まさに『な落の底』に突き落とされますな。たまりませんな。『な行の魔術師』ですな。でも本人の名前は『り助』ですな。『な』、関係ありませんな。

 まさに専売特許の語尾。『な』が埋め尽くされた語尾砂漠。ナナナ砂漠ですな。『な』だけサンプリングして曲を作ったら、Aviciiも吉幾三も越えるほど、素晴らしい語尾の発音。初めて見たときよりも口調もトーンも滑らかになっていてなんなんでしょうな。

 まさに将来有望『な』、噺家さんでしょうな。

 桃太郎も、随所にアレンジが利いていて、一体誰が教えたんだろうと気になってしまうくらい面白い一席。様々な師匠で『桃太郎』を聞いてきたけれど、り助さんのフラ全開で繰り広げられる『桃太郎』は最高に面白く、本来アウェイの筈の独演会で、会場を大いに盛り上げていた。どことなく抜けているように見えて、しっかりとトーンとリズムを守っているスタイルは、後の爆笑派を予感させる。

 『三人旅』や『子ほめ』くらいしか聞いたことが無かったけれど、これは寄席の開口一番でも重宝されるのではないだろうか。一体どうなるのでしょうかな!

 

 古今亭文菊 時そば

 り助さんのフラの残る高座に、満面の笑みで登場の文菊師匠。いつになく嬉しそうな表情なのは、り助さんの高座を見たからではないだろうか。紫のお羽織もとっても素敵で、高座の座布団と相まって美しい。紫っていいですよね、色気がある。藤の花のような艶やかさに包まれて、寒さを忘れてしまうほど。

 寒くなれば、温かさが恋しくなるように、離れている時間が長ければ長いほど、会いたいと思う気持ちは増すばかり。私だけでしょうか。いいえ、誰でも。文菊師匠の語りの中には、り助さんへの素直な思いが込められている。

 「いいなぁ。私もあんな風に褒められたいな・・・」

 そう思ってしまうのは欲張りだろうか。自分の大好きな人に褒められている人を見ると、思わず嫉妬してしまう男心。裏山しいたけ、ぽんぽんぽん。

 寒い季節にぴったりの『時そば』。こんこんと温かい客席。朝の十時が最後のためか、お客様も大勢。それまで文菊師匠が高座にかけられた演目リストも張り出され、この三年と少しの歳月が、いかに密度の濃いものだったかを知る。その数年に立ち会えただけでも、幸福なことであろうと思いながら笑う。

 たっぷりと、本当にたっぷりと、文菊師匠は蕎麦屋と客人の掛け合いを語り始める。いつまでも見ていたいと思ってしまうほど、寒さの中で湯気を立てる蕎麦と、人と人との心意気が温かい。湯気に紛れて掠められた一文すら、時の中で見えなくなって消えていく。湯気に隠れて情の一文。値打ち以上の粋な褒め言葉を与えられて、蕎麦屋はどんな気持ちで、勘定の合わない金を見つめるんだろう。野暮とは知りつつ、私は考えてしまう。口が達者で、威勢が良くて、嬉しいことばかり言ってくれるお客が渡した十五文を見つめる、蕎麦屋の亭主の表情を。

 ゆっくりと、本当にゆっくりと、なだらかな筆先の動きを見つめているかのように、確かな色と温度を持った文菊師匠の語りの中で、蕎麦は食される。かつおの効いた出汁。ぽきぽきと音の鳴る細い蕎麦、厚いちくわ。鼻をすする客人と、それを見つめる蕎麦屋の眼差し。たった一人しか高座にはいないのに、見えてくる蕎麦屋の風情が妙に心に染みる。『独生独死独去独来』という言葉もあるけれど、孤独な人生の中に、蕎麦から立つ湯気の揺らめきのような、人の心の温かさがある。思わず、じーんと来る。

 かつて魯山人は『食器は料理の着物である』と言った。最初の客人が持つ蕎麦の入った器は、白の下地に青で絵が描かれたもので想像する。どことなく白の甘さと、青の清らかさが混じっているように私には思えるのだ。美しい料理は、美しい食器に彩られてこそ、さらに輝きを増すのであろう。

 美味しい蕎麦を橋として、客人と蕎麦屋の心と心が通い合う。前半、たっぷりとフリの効いた温かな光景の後、ちょっとぼーっとした男が登場する。

 この男も、愛すべき男だ。なんというか、理想と現実を見せられている気がする。

 本当は、最初の客人のように、粋で、乙で、様子が良くて、温かい男になりたいという理想と、なかなか上手く行かないという現実のギャップ。その差異に心が動く。

 理想を目の当たりにして、男は憤慨したりしない。「なんでこうなっちゃったんだろうなぁ」という現実を受け止めて蕎麦を食う。蕎麦は不味い。確かに不味い。不味いように思えるけれど、それもまた人生なのだ。本当なら「こんな不味いの食わせやがって!金なんて払わねぇぞ!」と言ってもおかしくないのだ。でも、それを男は言わない。私はその心意気がとても好きなのだ。ついつい不満を言いたくなって、怒鳴り散らして、相手を傷つけて、自分だけが満足して去っていかないのは、男が「絶対に理想通りにいける!」と信じているからかも知れない。というか、私は、二人目の客人に、そんな思いを重ねて見てしまう。理想に近づきたいけど、上手く行かなくて、笑われてしまうような失敗ばかりするけれど、いつか理想に辿り着けるのだと、心の中で決めこんでいる感じ。上手く言えないけど、その心意気が見えて、私は二人目の男も大好きなのだ。

 蕎麦を巡る温かな人の心意気。素晴らしく、温かく、和やかな一席だった。考えてみたら、柳家お家芸とも言うべき一席。亭号の垣根無く、誰もが色んな演芸を披露できる。豊かな演芸界。

 仲入りにて、お声がけ頂いた姐さん。本当にありがとうございます。

 とても嬉しかったです。

 

 古今亭文菊 柳田格之進

 二席目は、柳田格之進。

 この演目は、12月12日の鈴本演芸場でもネタ出しがされている。

 今日、ここを書くべきか。正直、迷った。

 だから、敢えて、タイトルだけに留めて置こうと思ったのだが、

 毎記事が全力投球であるため、書くことにする。

 12月12日を楽しみにされている方は、以下の文章は読まない方が良いかも知れない。

 では、書く。

 

 私にとって、思い出深い一席である。

 2017年の暮れの12月。鈴本演芸場で聴いて以来の柳田格之進。

 初めて聴いた時は、その重たさを言葉にすることが出来なかった。

 鈴本演芸場という空間の格式の高さもあってか、素晴らしい名人芸だったと認識している。

 とてもアットホームな独演会ゆえか、ところどころで笑いが起こるのだが、私はぼーっと聞くことが出来ず、かなり真剣に聞いてしまった。

 端的に言えば、この話は『碁盤を挟んで対局する二人の男。互いの間に生まれた誤りを発端に、間に挟まった男の語りによって、運命が変わっていく男。悟りの後で、自らの児の運命と、その後を描く物語』である。タイトルではゴニョゴニョゴニョゴニョ言っているが、正に『碁の互の誤の語の悟の児の後』の物語が、ポツリポツリと、雫のように落とされていく、しみじみとして暗い、丁度、今朝の空模様のように、薄暗い雲に包まれたような一席である。

 なんと言っても、人を疑ってしまう人間の浅ましさ。そして、それを糾弾しない誇り高き格之進の姿。そして、武士の娘として覚悟を決める娘。

 どう書くべきか迷うほど、人々の見えない心や意志が交差していく。まるで、様々な色の糸を縫い合わせて、一つの作品を作り上げるかのように、淡々とした語りの中に精悍な顔つきで立つ格之進と、それを疑う使いの者の軽薄な表情。そして、格之進を疑ってしまったことを悔いる店主の顔。どれもが、どこか、私のこれまでの人生にも思い当たる節があって、笑うに笑うことができない。笑える人がちょっとうらやましいとさえ思ってしまうほど、出てくる登場人物に感情移入してしまう。

 本当はもっと、離れた位置から聞いた方が良いのであろうが、こと、柳田格之進という一席に関しては、しみじみと聞いてしまう。

 次に聞く機会があった時には、自分をもう一度見つめ直して、再度、記してみたいと思う。

 

 終演後、ぼんやりとラーメン屋に入って温かい麺を食した。色々と節目な気がしたので、近場のお寺にお参りに行ってきた。なぜか、西田あやめさんの個展に参加してから、参拝というのか、お寺巡りというのか、そういったものをしようという気が沸き起こっている。

 演者も客席も演目も、全ては一期一会。

 今ある全てを大切に生きよう。

 それが、私にできる術だ。

 それでは、あなたが素敵な演芸に出会えることを祈って。

 また、いずれどこかで会いましょう。