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自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

金色のTraditional Storytelling~浅草木馬亭 木馬亭講談会 12月24日~

 自分は自分、相手は相手と線を引くことは健康な人間関係の基本

  

ど真ん中の人

誰にでも『ど真ん中の人』というのはいる。間違いなくいる。例えば、私にとってロックンロールの『ど真ん中の人』はチバユウスケさんだし、落語の『ど真ん中の人』は古今亭文菊師匠だし、レゲエならボブ・マーリー、短歌なら笹井宏之さん、ミステリーなら森博嗣先生、と、様々に『ど真ん中の人』がいる。

当然、読者にとっても『ど真ん中の人』はいるであろう。これはつまり、どんなジャンルにおいても、「この人が私の心を掴んで離さない!」という人であり、行きつけの名店みたいなものであり、家に帰れば必ず自分を認めてくれる絶対の存在である。

そうした『ど真ん中の人』を持つと、自然、他人とは相容れなくなる。これがちょっとややこしいのだが、自分にとっての『ど真ん中の人』がいると、ついつい『真ん中以外』との差を比べてしまいがちになる。さらには、否定までしかねない事態になってくる。

たとえば、「俺にとってのロックンロールはチバユウスケさんなんだ!ベンジーなんて認めねぇ!サンボマスターなんて認めねぇ!最近のロックンロールはロックンロールじゃねぇ!」みたいなことを言いだす輩が、出てきてもおかしくないのである。

むしろ、それは人間として当然のことである。かくいう私も、中学生の頃は『ロックンロール至上主義』を掲げ、当時の流行りだったエミネムを筆頭とする所為『ヒップホップ至上主義』の連中と、血で血を争う抗争を繰り広げていた(勝手に毛嫌いしていただけだが)

『ど真ん中の人』を持つことは、それ以外を認めないという病に陥りかねない。だが、今となっては『相田みつを状態』となり、『みんなちがって、みんないい』という気持ちであるが、やはり人間、なかなかそういう状態を保つというのは難しく、ふとした瞬間に「うるせぇ!ロックと言えばミッシェル・ガン・エレファントなんじゃい!ブランキーなんぞ認めるかーい!」となりがちである。私に関して言えば、ミッシェルもブランキーも大好きである。ま、世の中にはそういう人もいるというくらいの認識で良い。

さて、前置きが長くなったが、私にとって講談の『ど真ん中の人』は、一龍齋貞橘先生である。貞橘先生の語りこそが、私にとって『ど真ん中』の講談なのである。一声聞けばシュッと気持ちが引き締まるし、語りの心地よいリズムと、金色に輝く語りのトーンが絶品なのである。美味しいクロワッサンを食べている時と、ほぼ同じような感覚なのである。

聞き入る。という言葉にもあるように、貞橘先生の語りはまさに『聞き入る』語りなのである。体が聞き入ってしまう、と言えば正しいか。心と耳のベクトルがカチッとハマる心地よさがある。だから、定期的に聞きたくなってしまう。

さて、ここで貞橘先生の話を長々と語っては、他の演者にも申し訳ない。それでは、最高の一夜について、語ることとしよう。

 

田辺凌天 安宅郷右衛門 道場の賭け試合

途中からの入場で、しっかり聞き始めたのは凌天さんから。溌溂とした語りで、郷右衛門の人生を語る。策士なのか何なのか分からないが、郷右衛門の策略(?)が見事に成功した一席。才ある者は然るべき時に力を発揮するという教えであろうか。

 

 田辺一邑 高柳健次郎

一邑先生の着物を折りたたむような丁寧で、柔らかい語りが素晴らしい。一邑先生が語り始めたのは一人の工学者、名を高柳健次郎。日本のテレビの父である人物の人生である。

先日、一邑先生で長井長義先生のお話を聞いた。いずれも明治時代に活躍した人物のお話であり、日本での認知度がどれほどのものか分からないが、偉大なる日本人の姿を講談で語られている。

何事もそうだと思うが、語る者がいなければ語られない者がある。どれほど素晴らしい景色であっても、語る者がいなければ、それは単に『良い景色』止まりであって、決して『名勝』とか『景勝地』にはなりえない。語るということには、そうした『良い景色』を『景勝地』に変える力があると私は考える。私の友人に、私の知らないことを熱弁する男がいるが、そういう男の語ることと言うのは、不思議と魅力的で力がある。「そうか、ならば一度」という気持ちにさせるほどの魅力がある。

私にその力が有るか無いかは別として、一邑先生の語りによって描き出される高柳健次郎の姿は、日本の社会の豊かさのために奔走したひたむきな一人の男の姿がある。今は無い情熱だ、とは言い切れないが、今、高柳健次郎ほどの気概を持った人物がどれだけいるだろうか、と、今と比べてしまいがちになる危険性が講談にはあるように思うが、どうだろう。

どうにも、昔の偉人の話を聞くと、「じゃあ今はどうなんだ」という気持ちが沸き起こってきて仕方がない。それは本来、正しい心の作用なのだろうか。『昔は昔、今は今』と単純に割り切って良いものかどうか。

少なからず言えることは、『温故知新』の精神であろうか。昔のことをたずねて、そこから新しいことを知る。この令和の時代に、明治時代の偉人が魅せた活躍は、いかにして応用できるのか。そんなことをぼんやり考えてしまう素晴らしい一席だった。

 

一龍齋貞山 柳田格之進 堪忍袋

お初の貞山先生。表情がカッコイイ。年に一度しかやらないというお話が、まさかまさかの柳田格之進。落語では12月の風物詩で、12月に入って結構な割合で柳田格之進を聞いている私としては望外の喜び。

詳細は避けるが、冒頭、「そこから語り始めるのか!!」という驚き。個人的な感覚としては、落語の柳田は『柳田格之進に支点がある』感じで、貞山先生の一席で判断するのもどうかと思うが、講談の柳田は『万屋源兵衛と徳兵衛に支点がある』感じである。

絶妙な語りのカットインによって、謎が残されたままに格之進が登場する。源兵衛と徳兵衛の前に現れた時の柳田の不気味さを、冒頭の語りが絶妙に効果を発揮していて、「うおお、こんな語り方もあるのか!すげぇ」と驚いた。

柳田格之進という話には、幾つか好みが分かれるポイントがある。一つは『柳田がどうやって50両を拵えたか』という点と、『その後、柳田がどうなるか』という点、そして最終的に『源兵衛と徳兵衛はどうなるか』という三点にある。

あくまでも私の好みは、文菊師匠の『柳田格之進』である。物語の整合性であったり、随所の筋が、一番私の感覚に合う。これは好みの問題なので、他が悪いという話ではない。語り手によって内容が微妙に違うため、その違いを楽しむのも面白い一席である。

まだまだ初見では、芸の神髄を語るには及ばず。講談版の柳田格之進を聞けた喜びに満ち溢れた。

 

 宝井琴鶴 あんぱんを食べた次郎長

今年に真打昇進した琴鶴さん。黒紋付きに紅が差し色で入っているのがめちゃくちゃカッコイイ。

そんな琴鶴さんが語り始めたのは、題名もそのまま『あんぱんを食べた次郎長』のお話。次郎長親分があんぱんを食べるまでの様子から、食べた後の様子まで、虚実織り交ぜた姿が何とも微笑ましい。思わず人に語りたくなる。「昔ね、次郎長親分はあんぱんを食べてね」なんて語り始めたら、嘘から出た真となるか分からないが、本当にそんな光景があったのだと信じてしまう。不思議に力強いお話である。

思わずあんぱんが食べたくなる。素敵な一席だった。

 

 一龍齋貞橘 明智左馬之助 湖水乗っ切り

トリを務めたのは貞橘先生。最近、キリンのマクラを良く聞くので、相当気に入っている様子。可愛らしい語りから、一気に講談の語りになるギャップにドキッとする。いつも、その緩急に心乱されて、たまんないなぁ!もうっ!ってなる。

内容についてはこちらを参照されたい。

http://koudanfan.web.fc2.com/arasuji/01-19_aketikosui.htm

お恥ずかしながら、語りを聞いていても即座に想像できるほどの耳が私にはまだ無い。何となく明智という人が馬に乗って琵琶湖を渡り切るというところは分かるが、細かな言葉の言い回しであったりは、全く分からない。ただ語りの心地よさだけが耳に残って、むしろ言葉にするよりも、その語りのトーンを聴いて欲しいと思うくらいである。

貞橘先生の語りは、私の中では金色なのである。どうあっても金色に輝く旗が見える。それくらいに、煌びやかで静かな輝きを湛えている。錦と言えば良いか、そういったものを感じさせる語りを貞橘先生はしているのである。

ところどころで脱線するのだが、本筋の鉄壁の語りが見事に脱線を支えている。だから、その脱線と本筋の行ったり来たりが物凄く気持ち良いのである。

先日、森鴎外原作の護持院原の敵討を聞いた時にも感じたことだが、絶妙に脱線する。これは一度味わってしまうと気持ち良過ぎてハマる。一度、体験して欲しいと思う。

思えば、私にとっての貞橘先生初体験は、朝練講談会で松之丞さんと二人で出演された時であった。その時に見た『矢矧橋』の一席が今でも忘れられない。あそこから、私は貞橘先生にドハマりしていったのである。

まさに、金色の講談。どう私が語っても、聴いてしまえばそれまでなのだが、それほどに語りが美しいのである。幾重にも層となって積み上げられる建築物を見ているような、重厚さと、時折現れる遊び心。その自在な語りに魅了されたら、もう貞橘先生の虜である。

素晴らしい金色の語りでお開き。2000円で良いのかと思ってしまうほど、みっちりと、がっちりと、しゃっきりとした会だった。次回も機会があれば参加したい!

そして、貞橘先生の魅力にもっと色んな人に気づいてほしい!

そう思った一夜だった。