落語・講談・浪曲 日本演芸なんでもござれ

自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

呼吸と鼓動~2019年12月28日 カモの観察会2019~

どこで誰とどう出会うか。

誰にもわからないままに出会った。

出会ってしまったら、もう二度と

出会う前には戻れないことの幸福。

長い年月の果てに、死の淵に立って、

思い出すのは、楽しかった思い出であれ。

良き人との時間であれ。

良き体験であれ。

目から流れるのは、

良き涙であれ。

マグリット

某飲食店に入った。少し列になっていて、注文まで時間があった。ぼんやり並んでいると、私と似たような背格好の男性が働いており、同じく働いている年配の女性が男性に向かって激しく怒鳴っていた。

「あんただけが分かってても仕方が無いのよ!ちゃんと注文を繰り返しなさい!」

言われた男性は「すいません、すいません」と謝りながら、客から受けた注文を繰り返した。激しく怒鳴られたせいか、少し委縮していた。

あ、ちょっと嫌だな。とは思ったが、私にどうこう出来る話ではなく、私はさらに待った。待っている間、年配の女性は様々に男性を怒鳴りつけていた。

別に、背格好が私と似ているから男性に同情した訳では無い。だが、店に入って、誰かが叱られている様子を見るのは気持ちの良いものではない。

「ちょっと、〇〇君。あれは準備したの?次のこと考えなさいよ」

急いては事を仕損じるぞ。と思いながら、私の番がやってきた。男性は他の作業に忙しい様子。さっきまで怒鳴っていた年配の女性が私の注文を聞いた。

「次の方、ご注文は」

私はやるせない気持ちを抱きつつ、

「あ、えっと、〇〇の大で」

すっかりプライベートスイッチがONになってはいたが、なんとか声を振り絞って注文する。どうにも、声が上手く出ない。自分のタイミングですらちゃんと声が出せないのだから困りものである。

それで結局、私の前に差し出された料理は、『〇〇の並』だった。

あれ?並か。と思い、ちらっと年配の女性を見たが、素知らぬ顔で自分の成すべきことであろうことを成している。

ここで、私には怒鳴るという選択肢ができた。

「いや、これ違います。僕の頼んだのは大です。大にしてください!」

と怒鳴れば、私は自分の望み通りの料理が食せたし、先ほどまで怒鳴られていた、私と背格好の似た男性に、「一矢報いたぞ」と思えたかも知れない。常日頃、勧善懲悪の物語に親しんでいるのだから、ここぞとばかりに成敗してやろう!

と思うこともなく、「あ、ありがとうございます・・・」と言って、レジに向かった。別に並でもいいか、と思ったのである。

読者は、森野は何と情けなき男であるかと思われるかも知れない。思われても結構であるが、書き手である私は自分が情けないとは思わない。なぜなら、基本的に怒鳴りたくない性格であるし、別段、注意というほどのものでも無いと思ったからだ。

仮に私が怒鳴ったとして、私の気持ちは晴れるかも知れないが、言われた方は辛いだろうと思う。さっきまで威勢よく男性に怒鳴っていた年配の女性が、私の怒鳴りを受けてストレスを増し、男性にさらなる怒りをぶち撒けられても困る。

それは違うぞ、森野。間違ったことは間違っていると言わねばならぬではないか!と思われる方もいるかも知れない。もちろん、私が従業員だったら、間違いなく言っているだろうと思う。「あ、違いますよ。お客さんの注文は大ですよ」と。

でも結局、言えなかったし言わなかったのは私の責任である。何が正解かは私の判断である。私は並の料理を食した。並の人間である。波風は立たせぬ男である。

残念なことに、テーブルで食事をしているときも、やたらと従業員の叱責する言葉が飛び交っていた。殺伐とした職場だな、と思いつつ料理を口にする。まぁ、美味しくは無い。環境は店の味を変える。

 

ぼんやり窓の外を眺めながら、行き交う車を眺めていた。

 

まだ終わってはいないが、2019年、本当に色んな人に出会った。良い人にしか出会わなかった。ネットで、それまで顔も知らなかった人に出会うという体験も多かった。演者さんから言葉を頂くことも多々あった。あまり過去にはこだわらないタイプゆえ、そうしたものはキャッチ&リリースというか、書き記して、なるべく早めに忘れることにした。ブラックバスとかブルーギルみたいな扱いで恐縮である。

さて、多くの人は、無意識に掛けられた眼鏡で物を見ている。私には自分がどんな眼鏡で世界を見ているのか、とんと検討が付かない。物理的には度の強い眼鏡を掛けているが、そうではなくて、自分が社会と接するときに、社会を見る眼には、眼鏡が掛かっている。それは、長い年月によって形成された眼鏡で、全てはその眼鏡を通してしか見ることが出来ない。考えることも同じで、どうあがいても「通らざるを得ない」場所があって、そこを通ることでしか物事を考えられない。誰でも人はそうだ、と言い切れる。ただ、通る道が幾つあるかは人に寄るのである。

少し考えてみると、私の場合は幾つか通り道がある。今日はここを通ろうと思えば、そこを通って物事を考える。今日はこの眼鏡を掛けて、ここを通ろうと意識して進む時もあれば、気が付くと、眼鏡を掛けていて、通っていた道というものもある。意識するしないに関わらず、人は何かに相対するとき、必ず眼鏡を掛けており、必ず道を通っている。

前記した年配の女性も、きっと仕事をする上で何かしらの眼鏡を掛けている。そして、自分で見つけた道を通っている。だから、自分の眼に奇妙に思える物体が見えたり、自分の通った道とは違う道を行くものに、言葉を発する。

言葉にも通らざるを得ない場所がある。簡単に言えば『言い方』である。厳しい言葉もあれば、優しい言葉もある。それはどう使い分ければ良いのか。相手を傷つけたいという意志や、相手に強く訴えたいときは厳しい言葉も必要であろう。『アベヤメロ!』と言うのと、『アベ様、どうかお辞めになってくださいまし!」と言うのとでは、言っている内容は同じでも、後者ではどうにもふわふわして覇気がない。

上に立つ者の言葉は、いつも厳しいというのが体感である。立場的にそう言わざるを得ないというのがあるかも知れない。幸い、私の周りには高圧的な態度で、怒鳴る人はいない。それは誰もが人の痛みを自分と同じように感じられるからだと思っている。怒鳴られないからと言って良いわけではないが、詰まる所、本人が自覚しなければ何も変わらないのである。どんなに矢を放とうと、的がブレては当たらない。

話は再び、某料理店に戻る。私と背格好の似た男性は、先輩に注意されながらも、めげることなく一所懸命に働いていた。「あれは持ってる?」と尋ねられた男性は、即座にポケットから「はい!持ってます!」と言って微笑んだ。「じゃあ、それを空き時間に読みながら、覚えなさいね」と言われて、男性は「はい!」と力強く答えた。

私は、『頑張っているけれど上手くいかない人』を見ると、どうしても『人にやや遅れて歩む君の背の月光陽光決して霞まず』という、笹井宏之氏の短歌を思い出す。私とて、さほど怒られることは無いにしても、『至らないな俺は。人に遅れているな俺は』と思うことは、それこそ山のようにある。ひょっとすると宇宙ほどある。

大丈夫。亀もいつかはゴールに辿り着く。歩みの早いか遅いかなんて大した違いではないぞ。と心の中で、私は男性にエールを送りながら店を出た。

風の吹きすさぶ上石神井。これで『かみしゃくじい』と読む。なんだかすぐにキレる爺のように思える。ま、それは『癇癪爺』だが。

某古民家で開かれる。一人の男と一人の音楽家の会。

さて、私はどんな眼鏡を掛けて、どんな道を通ったのか。

前置きがかなり長くなったが、その記録。

 

古民家 太田光昴 即興演奏

受付で名を告げて入場。古民家なるものには初めて入る。とにかく雰囲気が良い。掛け軸の掛けられそうな場所に掛け軸は無く、置物が置けそうな場所に置物は無い。あるのは、隅に整えられた小さな高座と、畳の上に置かれた座布団だけである。会場はL字型になっていて、丁度、Lの曲がり角に高座がある。そして、L字の縦線部分より右隅に、太田光昴さんがGibsonのギターを弾いて座っていた。

太田さんの演奏が、めちゃくちゃ良いのである。良過ぎて、演奏している太田さんを凝視してしまい、完全に不審な奴だったかも知れない。

スピリチュアルなことを語るつもりは無いが、これからナツノカモさんが立つであろう高座に向けて、会場を座敷童とか、妖精がふわふわと飛んでいるようなメロディライン。どことなくボブ・ディランの『Forever Young』を思い出すようなメロディもあって、とにかく気持ちが良いのである。開放弦を弾いた段階で、「あれ、変則チューニングだな」と思いながら、気持ち良く弾かれる単音に耳を傾けていた。

なんとなく、私のイメージでは、ナツノカモさんは『OKコンピュータ期』のRadioheadかな、という雰囲気があって、『No Surprises』で浸水していくトム・ヨークの映像が見えていたのだけれど、それよりもさらに詳細というか、これぞナツノカモというような、不思議な音階に身を委ねながら、会場までの間、ずっと太田さんの演奏する様子を見ていた。

とにかく、これは古民家を見て頂きたいのだが、その空間にとても合うのである。どことなく民話のようであり、古くから言い伝えられてきた童話を聴いているような心地よさ。波のようにふわふわと流れるメロディに、「うわー、気持ちいいなー」と思いながら、時折目を閉じて景色を思い浮かべながら聞いた。

後にトークで、ライ・クーダーの話が出た時は、思わず膝を打ちたくなるほど、「うおお!分かるー!」と胸が高鳴った。私はライ・クーダーの『Into the Purple Valley』が大好きである。

素晴らしい演奏の後、ナツノカモさん登場。

 

ナツノカモ 不当易者(あたらず えきしゃ)

前座無しの完全独演会。ナツノカモさんはマクラを振ってから演目へ。

まだ聞いたことの無い人に楽しみを残すために詳細は語らないが、『易者』という、いわば占い師が登場する。この人物が非常に面白い。

なぜ古典落語に易者が登場しなかったのか不思議に思うほど、易者という職業の人物を中心に物語が様々に展開する。

冒頭、野良犬が出てくるのだが、野良犬に向かって登場人物が話しかける場面。私の座席が完全に野良犬に向かって話す方向だったので、物語を語っているのだとは思いつつ「うわ、これ俺、野良犬ポジションじゃん・・・」と内心、恥ずかしさを抱きつつ聞いた。こういう時、ナツノカモさんの顔を見れない(笑)

私の印象では、以下の数式のように感じられた演目である。実は質問タイムでそれっぽいことを言ったのだが、上手く舌が回らず、意味不明になっていたかも知れないので改めて。

 

A+B=C

A+B+C=D

A+B+C+D=E

(A+B+C+D)×(ー1)=ーE

 

上記の数式のように感じられたのである(あくまでも個人の感想です)

今までの作品、たとえば『明日の手術』であったり『娘さんをください』であったり、『婚活パーティにやって来ました』であったり、『月の裏側』であったり、その他の作品には、どことなく『数学的』な印象を抱く。

それは、言葉が記号として積み上げられていく部分であったり、イーコール(=)の関係ではあるけれど、どことなく崩壊しているように感じられる突拍子も無い言葉であったり。特に夢に纏わるお話も、それまでの数式に一気に()して夢で掛ける感じがあって、それは今年一年見てきて、私の中でぼんやり立ち上がってきた感覚である。

だから、これも後のトークで判明するのだが、詳細は語らないが、カモさんの解答はとても意外だった。マジか、意識せずにやっているんだ、という衝撃。これは以前、画家の西田あやめさんにも同じ感想を抱いたが、創作者というのは、案外、本人の意識無意識に関わらずに作品を作り上げる。見る者はあーでもない、こーでもない、と自由に述べることが出来る。その差異というか、見え方の違い、捉え方の違いが感じられて、とても面白かった。てっきり、数学科専攻なのかと思っていたほどである。

他にも、因果を感じさせるお話だと思った。自分ではどうすることも出来ない因果に振り回されながら、答えを求めて易者を訪ねる。だが、その易者も最終的には、『良く当たる』という言葉に収まって、全てをぼやかす。

確か、『松之丞カレンの反省だ』で、松之丞さんが占い師に見てもらう場面があるのだが、そこで老齢な占い師が『占いは大人の遊び』というようなことを言っていた。凄い含蓄がある言葉だなと思って記憶に留めた。

詰まる所、本当に全てが見える易者がいたら、さぞかしつまらない人生だろうな、と思う。人生が最後までどうなっていくか見えたら、生きる気力を失いそうで怖い。読者に問うが、『あなたは20歳で結婚して、37で働かなくても大金持ちになり、45で死にます』と、全てを見通す易者に言われたらどうだろう。私だったら生きる気力を無くす。「そっか、じゃあ、大して頑張る必要も無いな」と思って、多分、自堕落に生きるだろうと思う。私に限っての話。

分からないからこその良さというものがあって、私はどちらかと言えば、わからない方が好きである。易者の言葉も、助言であり、参考であるのかも知れないし、真実なのかも知れない。何が真実で、何が嘘かもわからない。正に『遊び』に生きている感じが、とても印象に残った。

どうでもいい情報だが、私は殆ど占いというものを信じていない。昔は良く、朝の番組で『今日の運勢』を見ていたが、良い情報しか受け入れなかった。悪い情報を見ると、一日ブルーな気持ちになるので嫌だった。さらに、私はうお座で、弟がてんびん座なのだが、うお座の運勢が悪い時は、てんびん座の運勢が良いので、それがとても腹立たしく、つい弟をいじめたくなり、逆にうお座の運勢が良い時は、てんびん座の運勢が悪いので、そういう時はここぞとばかりに、運勢の良さを主張し、たびたび弟と喧嘩になっていたので、中学生になる頃には占いが嫌いになっていた。

信じるか信じないかはすべて、あなた次第。と改めて思った一席。

 

 ナツノカモ 河爺

場所が『東京おかっぱちゃんハウス』だけに、『かっぱ』の話なのかな。と終わった後にぼんやり考えつつ、演目は河童に纏わる話。

トレンディなミルクボーイのネタっぽい印象があった。というのも、冒頭、河童について触れる場面があるのだが、それが「本当に河童なのか?」と疑う場面と、「どうやら河童だな」と思うような場面があって、完全にミルクボーイでは無いけれど、どことなく、そんなエッセンスがあって、時代なのかなと思ったりもしながら聞いた。

今回は三席披露され、どれも面白かったのだが、河爺は特に面白かった。冒頭の竹ちゃんと珍念の会話から、二人が辿り着く川。そして相対する存在と繰り広げられる会話。様々に語られる不安定な河童像から、実際に河童を目撃するまでの期待、そして裏切り。

なんというか、社会って割とドラマチックを求める傾向がある。貧乏からの大逆転とか、ブサイクからのモテモテ生活とか。そういうドラマ性を皮肉に揶揄するでもなく、淡々と進んでいく物語の心地よさ。

テレビではやたらとドラマチックで、劇的で、ダイナミックで、ド迫力な物語が溢れている気がする。(もう殆ど見ていないし、家にテレビは無いが)

それは現実がそれほどドラマチックでは無い反動からなのだろうか。分からないけれど、殆どの人は、それほどドラマチックな展開を経験することは無いだろうと思う。いきなり空から苺パンツを履いた美少女が降ってくるとか、異世界に連れて行かれるとか、男と偽って女性が男子校に潜入するとか。殆どありえないからこそ、想像して楽しむ。

この物語には、空想を疑いながらも期待を膨らませ、いざ現実に向き合った人間の憤慨が表現されている気がする。めっちゃ可愛いなと思っていたアイドルに実際会ってみたら、意外と皺とか染みが多くてガッカリする感覚に近いだろうか。いや、全然違うかも知れないけど、そんな印象を抱いた、とても面白い一席だった。

 

ナツノカモ 桜の男の子

Twitter上では、何人かの人が高座で掛けられていたお話。ようやく聞くことが出来て望外の喜び。

詳細について多くを語らないが、以前、カモさんの面影スケッチで見た『うちゅうのゆめ』に近い印象。どっちが先に出来たか不明だが、恐らく『桜の男の子』の方が先だろうと思う。

複雑な話かと思いきや、意外にすんなり聞けるし記憶に残るのは、物語の中で起こる出来事が印象的だからだろうか。

桜の男の子の話。笑って死ぬ男の話。消えた男の話。死骸の話。

どことなく、都市伝説が人の記憶に強く残ることと同じような、印象深いエピソードが随所に差し挟まったお話である気がする。

これもどことなく数式を感じさせる。

 

現実のお話+現実のお話=現実のお話

(現実のお話+現実のお話+現実のお話)×夢=夢

夢のお話=夢のお話

 

みたいな感じであろうか。たった一言でそれまでを全部変えてしまえるのが、落語の魅力かも知れない。漫画で言えば『ハイスクール!奇面組』が有名だが、『桜の男の子』の最後は、とても印象的である。『桜の男の子』を見ている客も演者も現実の存在であるという点も、なんだか不思議に思える。

では、一体我々は今、何を想像し何を見ていたのかという話になる。他にもいろいろと疑問が湧く。なぜ隠居に話を持ち掛けた人物は、最初に「隠居さん、今夢の中にいますよ」と言わないのか。時間とは何か。時間の伸縮とは何か。

と、様々に問いが浮かび上がってくるが、夢の中の時間と現実の時間は異なる。

余談だが、昔、赤マルジャンプなる雑誌で、『現実では1秒の体験だが、夢の中では1億年を過ごすスイッチがある。一回押せば1,000万貰えるが、夢の中の記憶は現実に戻った瞬間すべて消える』という不思議な物語があって、そのスイッチを押した主人公が、何も無い真っ暗な部屋で、一億年の間に様々なことを考える。自らの歯を全て抜いて、それをチョーク代わりに床に文字を書いていく。それは哲学的なものなのだが、目覚めると記憶の全てが消え、主人公は1,000万をもらって帰っていくというような内容だった。

後のトークで語られていたことだけど、『体験』って幅広いなと思う。夢であったり、最近ではVRであったり、本を読んだり、映画を見たり。一度きりの人生では到底味わえないことを、本や映画、夢やVRで体験する。それはまさしく体験ではあるのかも知れないが、『疑似体験』なんて言葉に収まるのだろうか。『疑似』というのは、本物では無いが、見かけが良く似ていて区別が付かないという意味である。故に、夢やVRも、『疑似体験』であると言えるのだろうか。『体験』と『疑似体験』の距離はどれほど離れているのか。

私の友人には、モンサンミッシェルが出てくるゲームをやって、「おれはモンサンミッシェルに行った」と豪語する人物がいる。彼にとってはゲームのモンサンミッシェルも、実際のモンサンミッシェルも同じである。他にも、ホラ吹きで有名な友人がいて、「俺はあの有名人に会った」と言って写真を見せてきて、「俺はこの有名人と友達なんだぜ」と自慢げに見せてきたりして、私は辟易しながら「ふーん、すごいねー」などと言って適当にあしらった。事実が確認できないから、「すごいね」としか言いようが無い。

『疑似体験』を『体験』とする人物は程度の差こそあれ少なからず存在する。自分の周りに「私ね、夢で二宮和也と結婚したの。彼とディズニーにも行ったわ。でも、私が結局ニノを駄目にしちゃうなって思って、お別れしたのよ。だから彼ね、バツ1よ」とか言い出す人がいたら、めちゃくちゃ怖いし、こっちがお別れしたいけど、どこまで信じるかっていうのは、その人次第かも知れないなと思う。

ちなみにこれもどうでもいい話だが、私は殆ど夢を見ない。たまに見る夢は大体がアルファベットのGの次であるし、物凄い鮮明かつ濃厚だから語らない。

夢が浮世か、浮世が夢か。体験と疑似体験は何がどう明確に違うのか。

語りの心地よさもさることながら、様々なことが『層』になって語られている気がする。なんというか、世界線を越える気持ち良さと言おうか、殻を破る気持ち良さと言おうか、見えない膜を突破する気持ち良さと言おうか。そういう幾重にも『何かのフェーズ』が変わっていく瞬間が随所にあって、それが不思議に心地よい一席。

 

 トーク

終演後は、カモさんと太田さんのトーク。あっという間の一時間。2019年を振り返りながらも、太田さんの魅力が炸裂するトークだった。ナッツの話はめちゃくちゃ面白かった。本筋とは離れたところで展開していく話題は、印象的で面白い。

私自身は、『ていおん!!』からの参加である。『ノットヒーローインタビュー』の衝撃が凄まじく、また、『夢風船』の不思議な浮遊感が癖になり、以降、最新作の『ていおん!!!!』まで見続けた。全てを追えたわけでは無いが、『ていおん』とも『面影スケッチコメディ』とも異なる、よりカモさんの思考に近い、というか、思考そのもの(?)な『カモの観察会』に立ち会うことができたように思う。

色々と名言もあったが、敢えて記さない。いつか、テレビ番組で披露される日を楽しみにしたいと思う。(スガシカオ Progressを聴きながら)

改めて思ったのは、カモさんの思考には『落語』があるんだな、ということ。そして、その『落語』がカモさんにとってどう捉えられていたかということが分かって、とても印象に残った。

改めて自分はどうなんだろうと考えたときに、私に関して言えば読んできた本が大きいかも知れないと思った。未だに『うわ、これ森博嗣先生っぽく考えてるな』とか、『これ、まんまヘルマン・ヘッセやん』と、自分の記事を読み返した時に思うことが多い。が、正直、自分が何を通って考えているのか、はっきりと明確に説明することはできない。ぼんやりし過ぎている。

自分が何に影響を受け、何を通して世界を見ているか。それに自覚的な人がどれほどいるのかは分からないが、少なくともカモさんは自覚していて、それで世界を見ている。それが、凄く印象的だった。

いわば、呼吸と鼓動なんだな、と思う。たった数人の前でも、今日のように高座に上がって語ってきたのは、カモさんにとって落語が酸素であり、血であるからなのかもしれないと思った。呼吸するために落語をする。心臓の鼓動のために落語をする。というか、落語を通った酸素を吸う、落語を通った血を体に流す、という感じだろうか。少なくとも、私にはそう思えた。

さて、2020年は一体どうなっていくのだろうか。私が言うのもおこがましいが、カモさんは凄い存在になる。以前にも書いたけど、岡潔のように、誰も考えもしなかった角度から、何かを変えてしまう。そんな気がする。

もちろん、私の周りにはそういう人がたくさんいる。画家の西田あやめさんだって、文菊師匠だって、伸べえさんだって、凄い切り口で何かをひっくり返してしまうような力がある。

同時に、それは読者にも私にもある力である。誰にでもある。だが、その力に気づいて、それを発揮できるかまでは、わからない。

私の想像は『良く当たる』のだ。

改めて、ナツノカモさん、太田さん。素敵な時間をありがとうございました。

そして、長々とお読みいただいた読者の皆様、本当にありがとうございます。

来年も、素敵な一年になりますように。

私はまだまだ演芸鑑賞をし続けますが(笑)

それでは、また。いずれどこかで会いましょう。

夢で逢いましょう夢・出逢い・魔性。You May Die In My Show。